エバークリア

アズール・アーシェングロットがオクタヴィネル寮はモストロ・ラウンジの支配人であるということはこの学園中に周知されている事実であり、それを知らぬ者は最早モグリである。

支配人、オーナー、経営者。
つまるところ、彼は接客を行う立場にはいない。
アズールその人がホールにあるテーブルという島々の間を泳ぐようにして注文を取ることはまずあり得ないし、戦場のようなキッチンの中で怒声を上げながら調理をすることもない。
彼がこの愛しきモストロ・ラウンジのために行う業務は経営の一言に尽きる。この店が存続していけるよう、あらゆる嵐を乗り越えるための戦略を立て、時に実行していくことこそが彼の役割であった。

ただし前述の文章には以下のような枕詞をつけなければならない。

主に。
大抵の場合は。
概して。
総じて。
例外もあるが。

改めて上記の文章を書き直すのならば下記のようになる。

例外もあるが、この店が存続していけるよう、あらゆる嵐を乗り越えるための戦略を立て、時に実行していくことこそが彼の役割であった、と。

そう、例外もある。例外もあるのだ。
数少ない、むしろ唯一の例外こそが毎週土曜の閉店間際。正確には20時30分頃から閉店の21時までのごく短い30分間のみ、アズールは執務室から離れ、ごく当然のようにカウンターの内側に立つ。そうして客足の減った店内を見回して「それ」が来店するのを一従業員として待つのだ。

「それ」とアズールの交流の観測者であるジェイドがこれまで見てきた限り、「それ」は大抵20時30分を3、4分ほど過ぎたあたりでやってくる。
「それ」は年中変わらず草臥れたカーキ色のコートを着ていて、適当に伸ばされているのであろう髪はもさもさ、長い前髪が少し目元にかかっていていつ見ても邪魔そうだ。生やした無精髭を見るたびに我らがラウンジのキッチンには決して招待できないと確信する。それに、いくら結界で副流煙が他人に行かないようにしているとはいえ、まずは口に咥えた煙草の火を消してから来店してほしいとジェイド以下モストロ・ラウンジの従業員は常々思っている。

だから「それ」を迎えたアズール・アーシェングロットの最初の仕事は「それ」の口元でちかちかと瞬く赤い光を消すことだった。

「失礼、お客様。当店は禁煙とさせていただいております」
マジカルペンを取り出すまでもなく、にっこりと微笑んだアズールが指を振るっただけで「それ」が咥えていた煙草の先端が水に濡れ、たちまち煙が掻き消える。
そうされたことに対して「それ」は不快そうな顔をするわけでも、別段バツの悪い顔をすることもなく ―なにせそれはいつものことであったから― 火の消えた煙草を簡易灰皿へ突っ込むと当然のようにアズールが中で立つカウンター席に腰をかけた。
「それ」が席に座ったことを確認するとアズールは既に貼り付けていた笑みを満足げなものへ変化させ、普段の慇懃無礼さの、慇懃ぶりを3割増やし、ついでに無礼さを2割増やすと、―つまりいつもの慇懃無礼さに磨きをかけると― 天使のような、あるいは深海へ引き摺り込もうとする魔女のような微笑みでアズールは客人を歓迎した。

「御多忙の中ようこそいらっしゃいました。ミスタ・苗字」


「それ」はこの学園において主に2つの呼称をされる。
ひとつは先程アズールが口にしたような、敬称にファミリーネームをつけた「ミスタ・苗字」。

そしてもうひとつが、もしもここがオクタヴィネルの自治下のモストロ・ラウンジではなく学園内であったのならば大抵の生徒がそう呼ぶであろう呼称、すなわち「苗字先生」という呼び方である。

ニコチン中毒者のきらいがあり、草臥れたコートとボサボサの髪と髭、身なりを気にしなさすぎる「それ」、もとい彼の名は「名前・苗字」。
彼はこの名門校の儀式魔法とそれに連なる科目を担当する『非常に 優秀 クレイジー』な教師である。

この学園の教師はどうにも「癖が強いがやけに優秀」といった性質の者が多く、御多分に洩れず彼もそういった類の輩であった。
彼の講義を選択していない生徒でさえも彼が教壇で煙草を吸いながら気怠げに講義をしているということは知っていたし、それを理由に優等生であるリドル・ローズハートと揉めに揉めたという話は ―そしてすったもんだの果てに結果的にはあのリドルを引き下がらせたことも― 少なくとも彼と同じ学年の間では有名な話である。

そんな彼は毎週土曜の閉店間際にのみ、このモストロ・ラウンジを訪ね、一杯だけ引っ掛けて帰っていく。つまりは客単価こそ低いものの常連客だ。そしてアズールは彼が来店するごく短い時間のためだけにわざわざ執務室から出てくる。
大抵の従業員はアズールがそうするのは苗字が教師という、いわば上客といえる立場だからだと思っているようだが、そういう理由ではないことをジェイドは数少ない例外として知っていた。それについて話したことはないが、きっとフロイドも何かしらを察しているに違いない。


「ミスタ・苗字。ご注文は如何なさいますか」
「エバークリア」
アズールの問いかけに苗字はいつものようにそう答える。
勿論、そんな危険物がミスタ・サムの店ならともかくカレッジ生が運営するこのラウンジにあるはずがない。モストロ・ラウンジには調理に使用するワインやブランデー程度しか酒類は存在しないし、それらは客人に出せるような代物ではなかった。
勿論苗字はそれをわかった上で毎回そんな無茶な注文をするし、故にアズールもそれを理解して「承知いたしました」と柔らかく微笑む。
そう言ってアズールは先週はノンアルコールのハイライフ、先々週はベルベット・ハンマーを、その前はバレンシアを作って彼に差し出した。つまるところ、「エバークリア」は「お任せで」という意味の2人の合言葉のようなものなのだ。

土曜、ジェイドは大抵ホール担当になる。ホールの場合、閉店間際は大抵カウンター席がよく見えるレジ近くに立つため、アズールと苗字のやりとりはよく見えたし、よく見ていた。勿論彼らにそれが気付かれないわけがないため、敵意を抱かれない程度にではあるが。

今日とてアズールは客人の注文に応える為に美しく磨かれたグラスをひとつ手に取り、作業を始める。
それを待つ間、苗字は携帯を弄る事も新たな煙草に火をつけることもなく、ぼんやりとそばの水槽を眺めていた。華々しい熱帯魚たちが彼の視線を感じて踊り子のように尾びれや背びれを軽やかに動かしてその視線を自分だけのものにしようと躍起になる。可愛らしくサービスの良い色彩たちに苗字は当然悪い気はせず、少しばかり口角を緩めて彼らを眺めた。誘うような泳ぎにつられて、彼が水槽越しに熱帯魚たちへ触れようと厚いガラスへ手を伸ばそうとした時。

「お待たせいたしました。ミスタ・苗字」

それはまるで静電気を受けた時のような感覚。
こちらにかけられたその声に微かに不機嫌の色が乗っていたような気がして、苗字はカウンターへ目を向けた。そこには声の主であるアズールがいて、しかしその表情は先ほどまでと変わりない笑顔だ。
「どうぞ」
微笑んでグラスを差し出したアズールの顔を見て、苗字は微かに小首を傾げながらグラスに目を向けた。
「ああ、ありがとう。……アーシェングロット」
「如何なさいましたか?」
「……『これ』は?」

苗字の眼前には聳え立つ尖塔の如きパフェ……いや、クリームソーダの亜種だろうか、透明度の高い氷がたっぷりと入ったグラスの中にはブルーシロップに染め抜かれた美しいカクテルが注がれていた。
そこまではいい。
問題はそこから上だ。

氷の上に積み上げられた3段アイス、そしてそのアイスの周囲を生クリームが螺旋状に纏わりつき、さながらソフトクリームのような姿になっていた。そこに仕上げとばかりにアラザンやチョコレート、フルーツが散りばめられている。

暴力。圧倒的カロリーの暴力だった。
ポムフィオーレ生がこれを見たら甲高い悲鳴をあげて卒倒するに違いない。少なくともそれを目の前にした中年男性の手が、ニコチン不足以外の理由で震える程度には暴力だった。

絢爛なりしは氷上のスイーツ。
客から見ればそれがサービスに見えるかもしれないが、内部の人間であるジェイドにはそれが期限の近い材料の消費であるとわかった。

ジェイドは内心首をかしげる。はて、アズールは何を思ってこのような暴挙に手を染めたのか。

これまでアズールは苗字からの注文をある程度の良識を持って対応してきた。つまりはごく一般的なノンアルコールカクテル程度しか作ってはこなかった、ということだ。
時たまニコラシカのような変わり種を出すことはあっても、ラウンジのオリジナルカクテルにアイスを三段積み生クリームでコーティングするなどと言ったラウンジの裏メニューにすら存在しないものを作り出すような暴挙はしたことがなかった。一体どのような感情が彼をこのような暴挙に駆り立てたのか、少なくとも苗字には理解できそうにもなかった。

鋭塔の如き、クリームソーダ。
それは美味しそうだとか甘そうだとか、それ以前にカロリーへの恐怖を抱く代物が苗字の目前に鎮座していた。というか以前甘いものは得意ではないと伝えた記憶があるのだが。伝えて以降も甘いカクテルを出されたことは時折あったが、ここまでスイーツ全開のものを出されたのは初めてだった。
やや困惑の色を浮かべた苗字は再度アズールへ問いかける。

「アーシェングロット、『これ』はなんだ?」
「エバークリアです」
そんなわけがあるか。

そう言いたかったがアズールの笑顔に「なにか文句でも?」と圧を感じて口を噤んだ。
苗字は決して気の弱い人間ではなかったが、他人のテリトリー下で、しかもそのオーナーの前でお任せ注文に対して文句を言うような性格でもなかった。彼が面倒嫌いで流されやすく、長いものに巻かれることを決して悪しとはしない人間だったことも理由の一つである。

差し出されたそれを自分の元へ引き寄せると、苗字は敢えて上部に鎮座するアイス部分には手をつけず、ストローに口をつけてカクテルを口に含む。甘い、と思った。
「アーシェングロット」
「はい。ミスタ・苗字」
「俺は下戸ではないが限界まで酒を飲むとゲロを吐く癖があってな」
「へえ、それはいいことを伺いました」
天使の如く微笑むアズールに、これは皮肉だろうかとミスタ・苗字は思ったが、レジ近くで聞いていたジェイドは本心だろうと思った。
「……これは飲んだら吐きそうだな」
「酒を飲んだら吐くということは吐くということは酒を飲んだということになりますね」
「……そうか。……そうか?」
「こちらはエバークリアですから」
非道い理論だと思いながらとりあえずうなづく。味は悪くないのが困る。ただ然程甘味が得意ではない苗字にとってこれが限界を超えて甘いだけだ。
草臥れた男が苦々しい顔をしながら最早カクテルではなくただのスイーツをちまちま食べるのをアズールは少し紅潮した頬で嬉しそうに見つめていた。

それを見て、ジェイドは幼馴染であるアズールが愉しそうで何よりだと心から ―誰がどう疑おうが― 心の底から喜ばしく思った。

アズール・アーシェングロットはミスタ・苗字に恋をしている。

そんなことを口にしたら大抵の連中は一笑に付すだろうが、きっとフロイドだけは否定しないだろう。だからジェイドは、ジェイドの頭の中に定住しているイマジナリーフロイドにそっと尋ねてみる。
「ねぇ、フロイド。アズールが、あの苗字先生に恋をしているって知っていましたか」と。
すると、脳内のフロイドはジェイドの部屋のベッドでゴロゴロと転がりながらニィッと笑った。
「やっぱりぃ?アズールは先生のことがだぁいすきだもんねぇ」
それから脳内のフロイドは「俺も好きだけどね」と付け足した。
「居眠りしてても怒らないからでしょう?」
「そー!」
イマジナリー片割れはケラケラと笑った。苗字先生は授業態度より実技とテスト結果を重要視するタイプの教師だった。


「ミスタ・苗字」
アズールがそう呼びかければ、アイスをようやく一段だけ腹に収めた彼が胃もたれに苦しむような顔つきで声の主を見上げた。
「苦しそうですねえ、ミスタ。よろしければコーヒーでも?」
「君がその原因なんだけどな。……まあ、そうだな、エスプレッソを頼む」
「ええ、喜んで」
その言葉通り、喜ばしい顔をするアズールに苗字は額を抑える。
この学園の生徒は誰も彼も一癖二癖あるが、アーシェングロットはその中でもとびきりだ。
アズールはミスタ・苗字の講義を取れるものは全て取っているし、その上成績は優秀。わからないところはきっちり質問をしてくるあたり、授業態度より実技等を重視する苗字としても悪い印象は無い。週末このようにラウンジへ訪れるたびに責任者であるアズールが直々に相手をしてくれるということは、そう悪い客とは思われていないのだろうが、甘味は苦手と伝えておきながら時折悪戯みたいに甘いカクテルを出してくる。しかしこんなふうに思いっきりスイーツを出されたのは初めてであったが。

……まったく、アーシェングロットには好かれているのか嫌われているのかさっぱりわからない。

ミスタ・苗字は深く溜息をついた。この溜息は胃もたれが要因の8割を占める。

「『溜息をつくと幸せが逃げる』、と陸では言うそうですね」
エスプレッソを提供しながら、アズールは少しばかり揶揄うような声音でそう言った。
「よろしいんですか?幸せが逃げていってしまったようですよ」
「気にしなくて結構。生憎逃げられて困るほど多くの幸せは抱えていないんでね」
「おや、ではミスタ・苗字はご自身を不幸だと?」
「そうでもないさ。人生ってのは幸不幸に二択じゃないだろう」
普段の癖のせいか、無意識に懐から取り出した煙草の箱をカウンターに置く。が、それはすぐにアズールに回収された。
「アーシェングロット」
「お帰りの際に返却しますよ」
「未成年に煙草を持たせるというのが不健全だ」
「ここで吸われるほうが不健全、いえ、不健康です」
「吸わない」
「では何故煙草を出したんです?」
「…………つい、癖で」
「ええ。『つい』、『癖で』、吸われては大変困りますから」
アズールは右掌に持っていた小箱を隠すように左掌で覆う。そうして覆っていた左手を離すと、小箱は手品のようにすっかりアズールの手から消えてしまっていた。
無理矢理取り返すことも苗字には出来たが、しなかった。なんとなく「負けた」と思ってしまったからだ。

「話を戻しますが、不幸でも幸福でもないミスタ。そうおっしゃるからには何かお悩みでも?」
「……あったとしても君には言わないさ」
「おや、焦らし上手なお方ですねぇ。秘密を暴いてほしいのならそう言っていただければいいのに」
「……口達者な坊ちゃん。君はもう少し言葉通りに物事を受け取る素直さを思い出すべきだな」
坊ちゃんと評されたことに別段不快な感情を抱くこともなくアズールは彼の言葉を受け入れた。事実、彼はアズールよりふた回り程度は年上なのだから。
それに好ましく思っている大人に子供扱いされるのは悪い気分じゃなかった。それに尽きる。

「善処いたしましょう。ところで、ミスタ・苗字」
溶けてきたアイスがグラスの外へ溢れる前になんとか腹の中に収めようと躍起になっている彼にアズールは秘密の話をするように声を潜めて囁いた。

「つい先日、我がモストロ・ラウンジでもポイントカードを導入してみたんです」
いかがですか?と人差し指と中指の間に挟んだ新品のカードを見せながら、アズールはそっと口角を上げた。まだひとつもポイントの付いていない新しいカードをカウンターに滑らせて彼の方へ押しやる。当然苗字の視線は一枚のカードへ向かった。
「常連の貴方ならばすぐにポイントが貯まるかと思いますよ」
へぇ、と苗字は呟いてカードを手に取り裏表を翻してまじまじと眺めた。
「ポイントが貯まるとどうなるんだ。ここの割引でもしてくれるのか」
「……いいえ」
アズールはそっと腰を落とすとカウンターの上に両肘をついて客人の方へ顔を寄せた。絡ませた指先の上に顎を置いて上目遣いで微笑む。
もう彼以外の客がいない、静かなラウンジ。会話の邪魔をしない程度のジャズクラシックが店内を満たす。
その瞬間、蜜が溶けるような甘い声でアズールは囁いた。

「ポイントがすべて貯まったのなら、僕が貴方の願いをなんでも叶えて差し上げます。……ええ、なぁんでも、ですよ?」

人心の掌握のため、この辺りは勉強済みだ。
どんな声音で声量で表情で、どのようにしたら人を誘惑できるのかなんてとっくに知り尽くしていた。

さあ、うなづいて。悩みがあるのだろう?
力になれる。僕ならば貴方のためにあらゆる行為を実行できる。貴方の心を曇らす万物を塵に還すことができる。

嗚呼、僕ならば!貴方のためになんでもできるのに!

「……アーシェングロット」
「ええ、ミスタ・苗字。いかがです?」
苗字もまたカウンターに片肘をつくと頬杖をむいて、キュッと口角を上げてみせた。
「それはまた随分と魅力的だな」
そうだろう、そうだろうとアズールは勝利を確信して微笑む。さあ、その笑顔のままうなづいて。欲しいと一言そう言って。そうすれば、それだけで僕は満たされるのだから。

「お気遣い感謝するよ。だが遠慮しておくさ」
「………………え?」
「煙草、預かってくれてありがとうな。お代は君の右のポケットの中だ」
「……は?」
ハッとして彼の煙草を預かっていた右のポケットに手を入れる。一体いつからか、そこには小箱の感触はなく、代わりにドリンク2杯のお代にしては多過ぎる札の感触があった。

慌てて顔を上げると草臥れたコートの背中がカウンター席から離れていくところだった。背を向けたまま手を振る彼の右手には見慣れた銘柄の煙草の箱が握られている。

「なっ……!」
……に、逃げられた!
これっぽっちも損したわけではないのにアズールは詐欺にあったような、そんな気分だった。けれどここはカウンターの中、カウンターをまたいで追いかけることなどできるわけもなく立ちつくす。

ぐぬぬ……と唇を噛むアズールの顔はジェイドにとってはそれはもう見ものと呼ぶほかなかったが、客人であり片思い相手の手前、指を指し腹を抱えて笑ってやるのはやめておいた。

「アズール。お客様を鏡までお送りいたしますね」
「……っ、ええ、よろしくお願いします、ジェイド」
内心の悔しさを必死に隠しながら笑みを形作る彼に、ジェイドは閉店後のアズールの荒れ模様を想像して楽しいことになりそうだと今から楽しみだった。



モストロ・ラウンジを出て、ジェイドは少し先を先導するように鏡に向かって歩いた。ラウンジから鏡まではそう遠くはないのだが、ジェイドはとにかく苗字に話しかけたかったのだ。

「ミスタ・苗字。失礼ですが、何故ポイントカードを作らないのですか?貴方のように定期的に来店される方ならばなにかと得かと思いますが」
「冗談言うなよ、生徒に強請るために教師がポイント集めてるなんて知られたら学園長に呼び出される。社会不適合者って自覚はあるからな、ここを解雇されたら行くあてがないんだよ」
ああ、なるほど。アズールに魅力がない以前の話だったらしい。さて、この事実をアズールに伝えるべきか否か、どちらがより愉しいかジェイドは頭の中の天秤にかける。
ジェイドは愉快そうに口元を手を当てて笑うと「けれどお悩みはあるのでしょう?」と問いかけた。
「内緒にしますよ?」
「知られて困るもんでもないから構わないが、生徒に言うのもな……」
「今の僕はNRCの生徒ではなく、モストロ・ラウンジの従業員ですから」
「君といいアーシェングロットといい、弁が立つと言うか捻くれていると言うか……。まあ、この学園の奴らはみんなそうか……」
そう言うと苗字は煙草を吸っているときにも見せなかったバツの悪そうな顔をして、やや躊躇いがちに口を開いた。

「……俺やっぱりアーシェングロットに嫌われてるんじゃないか?」
「ブフッ」
「……これって吹き出すようなことか?」
「うっ、くくくく、すみません、……ふふっ、いえ、思わず……ふふふっ」
「笑うなとは言ってないから怒れないな……」
体を震わせるジェイドに言うんじゃなかったという顔で苗字は肩を落とす。「アーシェングロットには言わないでくれ」と言うことは忘れずに。
「ええもちろん。僕と貴方だけの内緒にしますとも」

「ただ、僕から言えることはひとつだけ」
ずっと立てた人差し指を口元に当ててジェイドは苗字に向けて微笑んでみせた。

「どうぞまた来週、いらっしゃってくださいね。アズールは何よりもそれを喜びます」
「……売り上げが上がるからかな」
「否定はしません。ただそれだけではないとも伝えておきます」
「……そうかい」
微妙な顔の彼をジェイドは見送って、それから顔を歪めて嗤った。




「何故だ……!」
客のいなくなったラウンジでアズールはカウンターに突っ伏して呻いた。完璧だったはずだ、話の流れもトークも誘い方も。詳細までは把握できなかったが彼がなんらかの悩みを抱えていることもアズールは知っていたのに、なのに!

「逃げられた……!」
ポイントカードを作ってくれれば彼はきっとこれまで以上にここに通ってくれるはずだし、ポイントが溜まればVIPルームに招いて彼と、彼と僕だけの、ふ、ふふ、ふたりっきりで話をすることもできたはず。それに彼の悩みを解決することで生徒としてだけではなく彼から僕個人への評価も上がるはずだったのに!

ぐぬぬぬぬと呻き声をあげるアズールに、近くの水槽の熱帯魚たちがガラス越しに次々と声をかけてきた。

『ああ、我らがオーナーったらなんておいたわしいのかしら』
『可哀想に、今日も作戦失敗なのね』
『あの方、とっても鈍感でいらしてよ』
『それにしたってオーナー、先程はあんなに山盛りの甘味を作るだなんて、どうしてあんな意地悪をなさったの?』
『あのお方、甘いものは苦手だとおっしゃってたじゃない』
『でも全部完食していかれたわ。優しくて素敵な人ね』
そのうち話が逸れに逸れ、週に一度だけやってくる彼の隠れた良さについてアズールそっちのけで話し始めた熱帯魚のダンサーたち。アズールはそれを耳に入れながら、机に突っ伏して乱れた前髪の隙間からジロリとそんな姦しいダンサーたちを睨んだ。
きゃっきゃと楽しそうに会話を続ける彼女たちの言葉を遮るようにアズールは口を開いた。

「ええ、同意しますよ、ミズ。彼は優秀で思慮深く知的で素敵な方だ。外見に頓着は無いようですが、しっかりと整えて街を歩けばきっと誰もが振り返る。まあ、ニコチン中毒の気があるのは否定できませんが、人には欠点の一つや二つ無いと恐ろしいでしょう?……ああ、本当に、彼の魅力は僕がよくよくわかっているんだ。だからそのやかましい口をさっさと閉じろ!いい加減にしろよ、何度も言わせるな。 2度と、いいか、2度と彼に色目を使うなと、僕はそう言ったはずだ。僕が彼のためにカクテルを作ってるほんの少しの間にお前たちは彼になんてモノを見せたんだ!次にあんな風にいやらしく尾びれを揺らして彼を下品に誘ってみろ。その水槽をひっくり返してお前たちを残飯と一緒にゴミに捨ててやるからな!」

怒りのまま水槽の彼女たちに向かって乱雑に言葉を吐きつけるアズールに、ダンサーたちはみな体を縮こまらせて岩陰に隠れてしまった………なんてことは一切なかった。
たくましい彼女たちはガラスのそばまで寄ってくると、次々に雇い主に向かって怒りの声をあげる。

『まあ!なんて酷いことを言うのかしら!』
『彼がアタシたちに見惚れたのをアタシたちのせいにしないで頂戴!』
『オーナー!いいえ、アズール!貴方が悪いのよ!大事なお客様を放っておくから!』
「なっ……!放っておいてなんかいません!あの時僕は彼のためにカクテルを作るのに集中する必要があっただけで……」
『言い訳よ!言い訳だわ!』
『そうよ!カクテル作りながらでも彼とお話ししてればよかったのよ!「素敵なミスタ、ご機嫌はいかが?僕は貴方と会えただけで今が人生最良の時間になりましたよ」ってね!』
『嫉妬ね!彼に見つめられる私たちに嫉妬したから彼に構って欲しくてあんな意地悪をなさったのね!』
『幼稚よ!子供だわ!』
口達者な熱帯魚たちに頻りに非難されてアズールは思わずたじろいだ。彼女たちの批判が『全くもって正当』なものだったからだ。

唇を震わせて反論しようとするアズールとそれを受けて立とうとする熱帯魚たちの戦いを、そこで止めたのはジェイドだった。

「はい、両陣営ともそこまでですよ」
ガラスの水槽もカウンターの間に掌を差し入れて、ストップをかける。
お互い頭に血が上っているままでの口喧嘩なんて最終的にロクなことにならないに決まってる。それこそアズールが彼女たちをゴミ箱に捨ててしまうまで泥沼化してしまうかもしれないのだから。
「レディたち、あまりアズールをいじめないでくださいね。初恋なんですから。ほら、アズールももう閉店作業の時間ですよ」
口喧嘩に水を差してやれば、一瞬微かにもやつく空気こそあれどそれさえすぐに霧散していく。アズールも体の中にこもっていた熱を吐き出すように息をつく。
「すみません、僕としたことが冷静さを欠いていました」
その言葉に応えるような熱帯魚たちからの謝罪をも微笑んで受け止めるアズールはいつしか普段の彼に戻っていた。
とはいえ、目的にを達成できなかった不完全燃焼感を拭うことはできないようだが。
散らばっていく熱帯魚たちを横目に、アズールはジェイドの手前、少しばかり感情を露見させた。

「うう、なぜうまくいかないんだ……」
「そうですね、レディたちではありませんが、アピールが遠回しすぎるのでは?」
ジロリとこちらを見る目に笑って返す。

ハイライフ 僕は貴方にふさわしい ベルベット・ハンマー 今宵も貴方を想う バレンシア お気に入り 。素敵な口説き文句ですが、カクテル言葉なんて上等なものがあの唐変木……失礼、ミスタ・苗字に伝わっているとは思えません」
「……ぐ」
薄々そのことには気がついていたのだろう、アズールは認めたく無いが認めざるを得ないという顔でジェイドを見つめる。
「イデアさんがゴーストの花嫁に拐われた時のように、そのよく回る口を働かせてみては?」
揶揄うようにそう言ってやれば、アズールは「そんなことわかっている!」と強気に返してくる。頭ではわかっているのだろう、何をしたらいいのか、どう振る舞えばいいのか。けれどそれができないから苦労をしている。理論の話では無いのだ。

「ままならないものだな」とジェイドは嘆息し、他人事のように思った。事実他人事ではあった。それから彼はこうも思った。
「恋愛というのはそれに溺れる他人を眺めるのは楽しいが、自分が溺れるものでは無いな」と。

少なくとも恋というものは日常的にするものではなさそうだ。
アズールはああ見えてスイッチの切り替えがうまい。彼が頭を逆上せて恋にうつつを抜かすのは週に一度のこの短い間だけ。それ以外の時間は完璧な優等生であったり、寮長だったり、オーナーとして振舞うことができている。だからなんとかなっているのだ。
もしもアズールが恋を日常的なものとして、四六時中想い人への感情を募らせて骨抜きになっていたら、ジェイドやフロイドはおろか、ラウンジの従業員たちでさえも彼を見捨てていただろう。

それくらい、恋は人をバカにする。
方向性を間違えたアプローチを何週にも渡って延々とかまし続けたり、口喧しいだけの熱帯魚相手にガチギレするくらいにはバカになる。

「ああ、アズールがこんなになるなんて、困りましたねぇ」とジェイドはちっとも困ってない顔と気持ちで、頭の中のイマジナリーフロイドに話しかける。ちなみに本当のフロイドは取り立て中だ。
声をかけられたイマジナリーフロイドはケラケラと笑って、「でもアズールっていっつも頭良いから、たまには思いっきりバカになった方がいいんじゃねぇの?」と言った。
……それもそうかもしれない。
なるほど、素晴らしい発想。流石は心に決めた相棒だ。

そんなわけでジェイドはそれが彼にとってつまらないものになるまで、恋愛初心者アズールと鈍感苗字先生の、最弱過ぎる矛と盾の戦いを揶揄いつつ眺めることに決めたのだった。

(2020.9.2)