どこまで行っても掌の上


「そういえば、結局どうなったの?」

私が座っているラウンジのテーブルにやってきて、私の許可なく当然のように正面に座った王子は開口一番そんなことを尋ねた。
どうなったも何も『結局』などと言っている時点である程度話は聞いているだろうに、わざわざそれを私本人に聞きに来るあたりにこの男の性根の悪さが滲み出ている。

携帯から顔を上げた私は意識的に眉間に皺を寄せてテーブルの向こう側に座る王子を睨んだ。けれどそんなもの意にも介さず王子はいつも通りの何を考えているのかよくわからない笑みを浮かべたままこちらを見つめ続ける。
そんな膠着状態を数十秒続けて、先に耐えられなくなって溜息をついたのは私だった。

「……一昨日、ついに別れた」
「へぇ、やっぱり。噂は本当だったんだね」
「まったくどいつもこいつも。人の不幸を話の種にしてんじゃないっての」
「3ヶ月くらいかな?続いたの」
「ギリギリ3ヶ月いかないくらいよ」
再び深い深い溜息をつく私に、王子は楽しそうな笑みをますます深めた。

同じ学年の男子から告白をされて軽い気持ちでOKを出したのが3ヶ月弱ほど前。
加古さんおすすめのデパコスが欲しくて任務のシフトを増やしたのが2ヶ月前で、テスト期間があったのが1ヶ月くらい前。ランク戦の準備に忙しくなり始めたのが2週間ほど前で、とうとうほったらかしにしていた彼氏に別れを告げられたのが2日前だった。

『俺よりボーダーのほうが優先なんだろ』
そう寂しそうな顔で言われては流石に罪悪感も生まれたが、そう言われようとも元彼の言葉を否定することは出来なかった。

「でも実際彼氏と遊ぶよりボーダー行ったほうが楽しいのよ……」
ボーダーの外にいる人達からしてみれば、ボーダー隊員というものはトリオン兵と命がけで戦う兵士なのだろうが、内実はそこまで切羽詰まったものでも献身的なものでも無い……と少なくとも私は感じている。
ベイルアウト機能のおかげで命が危ぶまれるようなことはほぼ無いし、隊やボーダーの仲間たちと切磋琢磨して強くなっていくのは楽しい。
部活感覚だと怒られてしまえばそれまでなのだけれど、やっぱり私たちは部活感覚でこの街を守っている。気持ちはどうであれ、街を守っている事実は変わらないのだから許して欲しい。まあ、誰に?って話なんだけど。

そんなことはさておき、ボーダーを優先しすぎて彼氏に振られた。
振られた割にショックはない。むしろこれまで微々たるものながら彼氏に割いていた時間を模擬戦の時間に使えると思って、若干の開放感さえ感じてしまったのだから救いようがない。

「元彼に『俺よりボーダーの方が優先なんだろ』って言われてさ、否定できなかった時点でダメよね……」
テーブルの上に肘を置いて本日何度目かわからない溜息をつく。手遊びしながら王子を見ると、彼は興味があるんだかないんだかわからないような顔で小首を傾げた。

「可哀想だね、その元彼くん」
にこりと笑ったその笑顔があんまりにも綺麗だったから、なんだか責められているような気持ちになって息が詰まる。
「……なによ、王子は私が悪いって言いたいの?」
100%私が悪いとわかっていたけれど、なんとなく反論するような言葉が口をつく。しかし王子はそれさえ気にせず言葉を紡いだ。

「まさか?自分の好きな人が楽しそうにしているのを見て喜べないところが可哀想だと思っただけだよ」
……それはつまり、私の幸せを喜べない元彼に問題があった、とでも言うのだろうか。
王子の言葉は正論じみているような気もするが、それにしてはあまりにも理想論すぎる。自分を放って他所に行くような恋人に好感を得る人間なんてそうそういないだろう。
そう思い至ってしまえば、思わず掌を返して元彼を擁護するような言葉が生まれた。

「いや、でも、ほら、普通に考えて私が悪いじゃない。そもそもボーダーと彼氏を天秤にかけた時にボーダーを取ることくらい付き合う前からわかってたのよ。それなのに告白を受けた私が悪いから……」
「へー」
「秒で飽きるな」
あっさりと興味を失った王子の碧い瞳はその辺に放っておいた私の携帯を捉えた。彼は勝手に私のスマートフォンを手に取ると「僕の誕生日かな〜」などと言いながら勝手にロックを開けようとし始める。言うまでもなく私のスマホのパスワードは王子の誕生日ではない。

「なんで僕の誕生日じゃないの?」
当然開かなかったスマホのロックに王子は不思議そうな顔をした。
「いや当然でしょ。ただの友達の誕生日をパスワードにしてたら怖いでしょうが。開いたら開いたでビビるわ」
「そうかな?僕なら嬉しいよ?」
「アンタの思考回路を基準に考えないでくれる?」
「でも世界は僕を中心に回ってるし……」
「すごいこと言い出したわね、コイツ」
自由人でマイペースな王子はいつだって周囲を振り回す。蔵内には責任持って、もっとちゃんと王子の手綱を握っておいてほしいものだ。
……などと不満じみたことを言っても、彼は一隊員として、そして隊を率いる隊長としては優秀なのだ。
自由に好き勝手する割に、そういうところを好まれてなんだかんだで人がついていくタイプ。

「……そういうところ、イコさんタイプなのよね」
「……君、イコさんがタイプなのかい?」
「イコさん?いや、あの人はなんていうか、観賞用っていうか、檻の中で楽しそうに遊んでるゴリラを眺めてるって感じよね」
「なるほどね、イコさんに伝えておくよ」
「やめなさいよ、私別にイコさんを泣かせたいわけじゃないんだから」
……って、私たちそもそも何の話をしていたんだっけ?

王子と話していると、びっくりするほど話が脱線し続ける。線路を脱線し、野を越え山を越え海を越え。脱線しすぎて自分が乗っていたのは汽車ではなく水陸両用車だったのではないかと思うほどだ。
それはつまり、脱線するほど話題の尽きない相手だということでもあるのだけれど。

その時、不意に王子は私の名前を呼んだ。
「僕は君を見ていると幸せだよ?」
それから続けてそんなことを言った。これまでの話題とどう接続しているのかわからない発言に困惑していると、王子はくすくすと楽しそうに笑うから、なんだ揶揄われただけか、と気が抜ける。

「アンタはどこにいたって誰といたって楽しいでしょ」
「それは、うん、そうかもね。どこにだって楽しいことや幸せなことはあるものだから」
「私、王子のそういうところ好きよ」
「ありがとう。僕も僕のそういうところ好きだよ」
「……その自己肯定力、たまに羨ましくなるわ」
「君はどう?」
「何が「どう」なの?」
「君は今僕を見て、何を思っているのかな?」
「他人の思考のトレースは王子の十八番でしょ」
「君には言葉にしてほしいんだ」
「まずは自分で考えなさい」
「うーん……。僕のことが大好き!」
「狂ってるわね、その自己肯定力」
「逆転の発想をしてみたんだ。僕が考えていることを君も考えていてくれたらいいなと思って」
王子はそう言って綺麗に、見惚れるほど綺麗に微笑んだ。見つめる先にあるものが愛おしくてたまらないというその表情に不意に心が怯む。その視線の先にいるのは他でもない私だったからだ。

「……王子ってもしかして私のこと好きなの?」
「君って戦闘中の聡さが日常生活では反映されないタイプなんだね。知らなかったよ」
「私も知らなかったわよ、アンタの考えてることなんて」
「君に声をかけた瞬間から僕はずっと君を口説いているつもりだったんだけど」
「わかりづらいわね……」
「ストレートなほうが好き?なら言うよ。君が好きだ、ずっと前からね。君に恋人が出来たと聞いた時は無性に腹が立ったし、君が破局したと聞いた時は踊りだしたくなった」
彼の穏やかな微笑みは少しも崩れないのに、私はいつしかその視線から逃げられなくなっていた。

「僕と恋人になってほしい。きっとすごく楽しいよ」
それはそうだろう。だって事実、私は彼といて楽しくなかったことなんて無いのだから。

「……ちょっ、ちょっと待って」
「今僕と付き合うと、なんと!クロワッサンがついてきます」
「せめて私が好きなもので釣りなさいよ」
空いた椅子に置いていた鞄からじゃーん!とクロワッサンを取り出した王子は目を輝かせると「しかも、」と続けた。
「ただのクロワッサンじゃないんだ」
「……どんなクロワッサン?」
「なんと、中にチョコレートが入ってるんだよ」
「……いや、うん、美味しいけどね、チョコクロワッサン」
はい、あげる、と言って渡されたチョコクロワッサンに戸惑った瞬間、きゅうとお腹が鳴る。実は今日は午後からのシフトでお昼ご飯がろくに取れず今ちょうどお腹が空いていたのだった。

「お腹空いてるんだろう?食べていいよ」
「……これ貰っていいの?」
「勿論。君にあげたものだからね」
「実は今日任務でお昼を食べれてなかったのよ。ありがとう。正直助かるわ」
「それはよかった」
有り難く頂戴したクロワッサンを頬張る。空腹に染み渡る美味しさに多幸感を得る。美味しいものは幸せだ。
そうやってもきゅもきゅと半分ほど食べ進めたあたりで不意に王子が「美味しい?」と聞いてきた。

「ん、美味しいよ。ありがと」
「うんうん、それはよかった。……食べたね?」
「うん。……うん?」
「僕とお付き合いするとクロワッサンが付いてくる。つまり、このクロワッサンを受け取った時点で僕とのお付き合いを了承した、と言えるね?」
「……うん?……ん?んん?」
なにか自分が取り返しのつかないことをした予感に冷や汗が流れる。

「は、嵌めたわね!王子!」
「嵌めたというか、ちょっと目の前に籠を用意しただけなのに、疑うことなく素直に入って来てくれて正直驚いてるよ」
「わ、私の過失……」
肩を落として机に突っ伏する私に王子は声をあげて笑った。笑ってからテーブルの上に放り出された私の掌に、彼自身の手を重ねると「……嫌かな?」と囁くような声で問いかけた。それがこれまで聞いたこともないような、どこか寂しげな声音だったものだから、私は弾かれるように顔を上げて王子の顔を見つめた。
視線を合わせた王子は少しだけ瞳を揺らがせたまま、小さく小首を傾げてその薄い唇を開く。

「君といると楽しいんだ。君が笑っているだけで嬉しいし、君が幸せな姿を見ることが僕の幸せだと感じてる。だから君の世界の中に僕がいることを許してほしい」
重ねた手を私の掌ごと握り込まれて、その体温の高さに少しだけ驚く。いつもの図々しさもマイペースさも無い、どこか控えめに伺うような視線が私を捉えていた。

「僕の恋人になって。……だめかな?」
そのどこか不安げで寂しそうに揺らぐ瞳は、普段の彼の姿からは想像もつかないほど儚げなものだったのだ。

……思えば。
思えば私のいう人間は「いつも笑顔な人が不意に見せた涙」だとか「勝ち気でプライドが高い人が見せたちょっとした甘え」だとか、そういうギャップじみたものに弱いのだった。

「べ、別にだめなんて言ってないじゃない……」
「じゃあいいってことかい?僕と付き合ってくれる?」
そもそも嫌ってなどいない……というかむしろ好意的に感じている相手から捨てられた子犬のような瞳に見つめられて突っぱねられるような人間ではなかった。それになにより突っぱねる理由も見当たらなかったものだから。

「……わ、わかった、わかったわよ。まあ、私も別に王子のこと嫌いなわけじゃないし」
「つまり、僕のことが大好きってこと?」
「ひ、否定はしないけど、ほんとどうなってるのよアンタの自己肯定力」

照れ隠しに強い口調で返したけれど、王子は気にすることもなくふにゃりと嬉しそうに笑うと「……よかった」なんて気が抜けたように呟くから。
私もなんとなく彼の手を握り返した。そうしたら彼が喜ぶような気がしたから。

そうやって寂しそうで不安そうな表情や声音で私の心を引っ掻き回した王子がこの時、内心で舌を出しながら私のことを「チョロいなあ」と思っていたことを私が知るのはこの日から幾年も経ってから、彼との結婚式の前日のことなのだった。

(2021.07.17)