永遠と偶像


※Y談おじさんの奥さんとノースディンの話



偶然近くを通りかかったんだ、とそんな嘘をついて彼女の住む屋敷を訪ねた。彼女はいつだってこの大きな屋敷にいるから。彼女はノースディンの嘘に気がつく素振りもなく旧友を喜んで迎え入れる。

「やあやあ、君は本当にタイミングがいいね。ちょうど先程ケーキが焼けたのさ、是非食べていくといいよ」
微かに鼻腔をくすぐる甘い匂いと向けられるその笑みにノースディンは不思議な安堵を覚えた。それは彼女を前にするといつも感じるものなのに、どうにも未だに慣れないのだ。

彼を屋敷に招いた彼女は月明かりが照らす中庭に案内すると、置かれた2人掛けのガーデンテーブルに彼を座らせた。それからせっかちな様子でケーキやらお茶やらを使い魔に運ばせて、それからテーブルを挟んだ向こう側に腰をかける。

「いやあ、久しぶりだね、ノースディン。前に会ったのはいつだったかな」
「さて、いつだったか、もう覚えていないな」
ノースディンは再び嘘をついた。いつどこで彼女と会ったかなんて、今までのことすべてを当然覚えているのだけれど、だからといってまさか「前回会ったのは君がこの屋敷であの忌々しい男のために誕生日ケーキを焼いていた最中だよ」なんて言えるはずも無い。

君はきっと知らないのだろう、君があの男と共にこれから先の人生を歩むと決めたことが私をどれだけ苦しませ、後悔させたのか、なんて。

「……今日はあの男はいないんだろうな」
「ははは、それがわかっているからここに来たんじゃないのかな、ノースディン」
眉間に皺を寄せる彼に、彼女は声をあげて笑った。
彼女はノースディンが彼女の夫のことを毛嫌いしていることをよく知っていたのだ。それから彼女は思い出す。自由気ままで奔放でお茶目でどうしようもない夫のことを。

「今日どころじゃないよ。彼は「ちょっと出かけてくるよ」なんて言ったきり、もう何年も帰ってきてないからね」
「離婚しろ離婚」
「はっはっは、彼の良いところじゃないか」
「私には欠点にしか見えんがな。いや、あの男に関しては欠点しか見えん」
ノースディンは憤慨したような顔を見せる。それからふと唐突に彼女を見つめてその怒らせた表情をそっと緩めた。テーブルの上に放られていた彼女の手に自身の手を重ねて、彼女の瞳を覗き込む。

「私なら決して貴女のような麗しの姫を独りにさせないというのに」
そう言って、彼女の白皙の手をそっと撫でる。

今度こそ、ノースディンは嘘をつかなかった。
こんな広く寂しい屋敷にどうしてこんなにも美しく愛おしい人を置いていけるだろう。私ならば、彼女の作るケーキも入れたお茶も手塩にかけて育てた庭の花々も、彼女本人のように心から愛せるのに。

真っ直ぐに見つめるノースディンに、彼女は驚いたように目を丸くした。ほんの一瞬の沈黙。それから、弾けるような彼女の笑い声が静かな庭に響いた。

「あっはっは!いけないヒトだなあ、ノースディン!君の能力は素晴らしいものだけれど、そういうことはもっと大切な者にのみ言うべきことだよ」
「……まったく、ノリの悪い」

耐性のない人間ならば容易くノースディンのチャームの術中に落ちるだろうに、彼女は彼の言葉にときめくこともその美しい瞳を熱に浮かすこともない。それが今は少し、恨めしい。

こうなるなんて、わかりきったことではないか。
ノースディンは落胆する自分に言い聞かせるように頭の中で呟く。彼女が自分を見ることなどありはしないのだ、と。

理解しているからこそ哀しかった。彼女に振り向いてほしいわけではない。愛する者がいながら、こちらの手を握るような人を好きになったわけではない。
彼女が自分のものだったことなど一度として無い。それでも、彼女を失ってしまったような感覚ばかりが胸の中にあるのだ。

彼女が結婚した、あの日からずっと。

どうして彼女が共にいることを選んだのがあの男だったのだろう。或いはどうしてあの男が目をつけたのが彼女だったのだろう。
嗚呼、もしもあの男よりも早くに私が彼女の手を取っていたのなら……。

「けれどね、待つばかりというのも悪くはないものだよ」
不意に彼女はそう言って、思考の海に落ちかけたノースディンをそっと掬い上げると、その穏やかな笑みを彼へ向けた。けれど誰かを想ってこぼれたその笑みは、本当はノースディンに向けられたものではないのだ。

わかっている。本当はわかっている。
焼いていたケーキも、上等なブラッドティーも、咲き乱れる花々も、その全てはやってくる客人のために準備されたものではない。
いつか帰ってくるだろうたった一人の夫のためだけに用意されたものなのだ、と。

彼女が愛したのは、彼女の元へ足繁く通い、愛を語り、彼女のその全てを褒め称えるような男ではない。

自由に奔放に好き勝手に生き、突然連絡も無く彼女の元へ戻っては己が仕出かしたトラブルを笑いながら語ってみせた後、思い出したように彼女へ髪飾りのひとつでも贈るような、そんな気障ったらしく抜け目の無い男なのだ。

「彼、たまに手紙をくれるんだ。消印はいつも違うところでね、彼は行く国々の言葉をすぐに覚えて、その言葉で手紙を書くものだから、手紙を読もうとして私も必死に異国語を覚えたよ」
彼女はティーカップに口をつけてから、微笑む。
大好きな人の、大好きな微笑みだった。

「我が一族は引きこもりがちな性格の者ばかりだったから私もあまり外に出たことはないのだけれど、彼を見ていると私もいろんなところへ旅に出てみようかな、なんて思えるんだ」

私が訪ねるといつも屋敷にいて、笑って迎え入れてくれる君が好きだ。当然のようにお茶会を開いてもてなしてくれる君が好きだ。君がいてくれるから、私はここを訪ねる。ここを訪ねた時に、君がいないことを私は想像したことさえ無いんだ。
君がずっとこの屋敷にいてくれたら良いのに。そうしたら私はいつだって君に逢いに行ける。その瞳が世界ではなく、私だけを映してくれればいいのに。
そう思ってから自己嫌悪に陥る。陥ってなお、その我儘な思考を変えられなかった。

……どうか許してほしい。
君の世界が拓くことに祝福さえできない、愚かな私を許してほしい。


ノースディンはその夜、彼女とたわいもない話をしながらお茶をして、朝が来る前にお暇した。また来てくれ、と言う彼女に、また来るとも、とノースディンは返した。この言葉だけはいつだって、嘘にはしたくなかった。




それから数年後、ノースディンは約束を嘘にしまいと再び彼女の屋敷を訪ねる。
けれどノックをしてから、いくら待ってもあの笑顔がやってくることはなかった。
不意にノースディンの胸中に生まれた痛みによく似た予感を真実にするように、現れた彼女の使い魔が置き手紙を一通差し出した。

『やあ、ノースディン。ご足労いただいてすまないが、留守にしているよ。私は今、吸血鬼生初の独り旅に出ているのさ!君にもお土産を買って帰るから楽しみにしていてくれ。それでは』

手紙を読んだ彼はその場に立ち尽くして、それから今ここにいない彼女のことを想って、ゆっくりと瞼を閉じる。
永遠に変わらないものなんてないと知っていたけれど、今だけは少し泣きたくなった。


(2021.12.24)