苗字が身に覚えのない医薬品横領の罪で勤務していた病院を追われることになったのは春先のことだった。
初めは若い女性でありながら着々と外科医としてのキャリアを立てていく苗字への妬みが原因かと考えた。
しかし、横領事件について聞き取りを行う上層部の人間が明らかに何かに対して怯えて、さっさと終わらせたがっている様子に、彼女はどうやら違うらしいことに気がつく。
上層部の人間が怯えるような相手など、それ以上に権力がある人間に他ならないだろう。
病院に圧力をかけてまで苗字をここから追い出したい誰かがいる。そしてその誰かは上層部にさえ容易く圧をかけられるほどの権力者だ。
しかし、誰が、何故、何のために?
一介の医者である苗字がそうされる理由や要因について考えたが、彼女にはまるで心当たりがなかった。
元より治安の悪い地域故に明らかに半グレの人間が血塗れになって運び込まれてくることは多々あったが、それは近隣の病院ならば皆そうだったろう。
全てが全てではないが、医療法人の中には裏社会と繋がっている病院も存在する。けれど少なくとも苗字が観測する範囲内では勤務していた病院にその影は無かったはずだ。故に反社の人間に目をつけられる謂れもない。
苗字がこの冤罪事件へ何らかの答えを導き出すよりも先に、碌な証拠も無いまま彼女は医薬品横領事件の犯人として病院を追い出された。
けれど、不思議なことにその事件は世間に明るみにはならなかったし、苗字の医師免許も剥奪される事はなかった。
まるで誰かが揉み消したみたいに。
それでも事件の犯人にさせられたことで苗字は全国の病院のブラックリストには乗ってしまっている。
それはつまり、彼女がこの先、日本国内で真っ当な医者として働く事は現実問題不可能になったことを示していた。
春の夜、追い出されるようにして退職した苗字は帰路に着きながら、(つまらないことになったな)と思った。誰かの手によって犯罪者にさせられたことやこれまで少なからず貢献してきた病院から無情に追い出されたことは別に大したことでは無い。そんな事はどうでもいい。
問題は苗字がもう二度と外科医としてオペ室に立つ事が出来なくなったことだ。
苗字は物心がつく頃にはもう自分が周囲の人間より優秀な分類の人間であることを自覚していた。
知識の吸収率、判断の正確さ、それを実現するだけの技術力。自分が所有する能力を彼女は何よりも自分のために生かすべきだと判断して、真っ当な手段を経て医者となった。
故に医者として、外科医として生きていく事だけが苗字にとっての人生の目的であり、生き甲斐だったのだ。人生は楽しいものだった。オペ室に立つ自分をこそ何よりも愛せた。結婚願望も出産願望もない彼女にとっては外科医としてのキャリアを積み上げていくことだけがこれからの人生の楽しみだったのだ。
けれど、それを突然奪われた。
おそらく自分1人では太刀打ちのできない強大な権力によって。
これまでの人生の多くを医療に捧げてきた。けれどその全てが水の泡と化す。覆すことのできない現実に、彼女の胸の内に深い闇のような虚無感が生まれる。
「……死のっかな」
この日初めて苗字の人生の選択の一つに「自殺」が生まれた。
苗字はひと気の少ない帰り道で、薄いジャケットのポケットから煙草を取り出して火をつける。そうして普段ならしない歩き煙草をしながら暗い夜道を気怠い足取りで進んだ。可能な限り苦痛の少ない自殺方法を頭の中にいく通りか浮かべながら。
その時だった。
「こんな時間に女が一人歩きなんて感心しねぇなァ」
不意に知らぬ声に呼びかけられて足が止まる。
「よお、オネーサン。一緒に飯行かねぇ?」
夜道を照らす街灯を背に逆光となった背の高い影が目の前に現れる。
逆光故にその人物の顔はわからない。わからないが声や体格からして成人男性であることは確かだった。海馬を巡らせるが苗字には目の前に立つ人間と知り合いである記憶はない。知らない人間が立ちはだかる事実に、警戒心が高まった。
「ア?テメェ誰だよ」
そう言って苗字は咥えていた煙草を地面に吐き捨てる。
治安の悪い地域で生まれ育った苗字にとって「夜にタメ口で話しかけてくる知らない人間」は先手で死なない程度に殺していい対象だった。
なにせ女にとってはそういった人物の存在は容易く死に直結する。
殺される前に逃げるか、殺される前に殺すか、そのどちらかだ。
しかし今日に限っては前者は選べない。
(ヒールなんか履くもんじゃないな)
苗字は走って逃げるには心許ない高い踵に内心舌打ちしながら、仕事用の鞄の取り出しやすい場所に入れていたペン型のスタンガンをさりげなく手に取ると腕に沿うように逆手で隠し持った。
背の高い男はふらふらと重心のわからない足取りでこちらに近づいてくる。苗字よりもずっと大柄なその身体が近づくたびに緊張が高まり、彼女の背中を伝う汗が冷たくなっていく。
そうして、あと一歩踏み込んできたらスタンガンを押しつけられるというそのギリギリのラインの直前で男はぴたりと足を止めて、苗字を見た。
「さみし〜なァ?オレのこと忘れちまったのかよ」
距離が詰められたことでようやく男の顔が認識できるようになる。
黒と金で染めたウェーブのかかった髪を撫で付けた、何処か紳士的な風貌の男。丸縁の眼鏡の奥にはどこかアンニュイさのある瞳が見える。
彼はシンプルながら高級感のあるスーツを身に纏っていたが、その姿に警戒心が緩むどころか(ヤクザの構成員か)と気がつき、むしろ体が強張る。
そんな緊張した面持ちの苗字の様子に男は気分を害することもなく、それどころか愉快そうに口の端を吊り上げて笑った。
そうして、いつまでも自分の正体に気がつくことのない女へ、答え合わせをするようにだらりと下げていた腕を持ち上げる。
「ばぁ♡」
子供を驚かせるように開いた両手の甲を彼女へ見せつける。手の甲に刻まれた「罪」と「罰」の刺青。
それを瞳に写した瞬間に苗字の脳裏に古い記憶が蘇る。
「……ラスコーリニコフ」
「ばはっ、その名前よく覚えてられんなぁ」
「お前、半間か。なんだ、まだ生きてたんだ」
苗字の古馴染みである男。
彼が半間であると認識した上でよく見れば、服装や髪型に変化はあれど、目の前の男には確かにかつての古馴染みの面影が残っているような気がする。警戒故に碌に顔を見ていなかったせいで気が付かなかったが、苗字に声をかけてきた男は半間修二に他ならなかった。
「……で、急に何の用」
やや警戒を緩めた苗字が肩を落とすと、半間はこれ幸いと彼女の肩に腕を回してあっさりと距離をゼロに縮めた。苗字は露骨に嫌そうな顔をしたが、軽く押しても引かない図体に溜息をつくに留める。
「冷てぇな。オレら友達だろ〜?久しぶりに飯にでも行こうぜ」
「なんでよ、誰がよ、行くわけないでしょ」
「ヒマだろ?」
「ヒマなわけないでしょうが」
「ダリぃな。働いてた病院追い出されて無職になったってのにか?」
半間の発言にぴくりと苗字の眉が動く。
……彼女が病院を依頼退職したのは今日のことだ。
身内も友人もいない苗字はこのことを誰にも伝えてはいないし、冤罪事件のことはそもそも公にされていない。
この件は病院の中でも上層部の人間しか知らないことで、一般職員には苗字は「一身上の都合で退職する」としか伝わっていない。
病院を追い出されたなんて、十数年ぶりに会った昔馴染みが知っているはずもないのに。
苗字にかけられた冤罪。医薬品の横領。怯えた様子の上層部。まともに行われなかった聴き取り。この日になってやって来たヤクザ者。こちらの事情を知っている半間。
フラッシュバックのように脳裏を駆け巡る数多のピース。
その瞬間、苗字は腕に沿うように持っていたスタンガンをくるりと反転させると、その先端を自分に密着してくる半間の喉に押し当てた。
「……お前か」
苗字は理解する。
この男こそが自分を医師の道から追いやった犯人なのだ、と。
苗字のそれは問いかけではなかった。確信に満ちた声音。
向けられた明確な敵意に、しかし半間は驚く様子もなく楽しそうに喉を鳴らす。首の薄い皮膚の向こう側で喉仏が揺れる感触が、硬いスタンガン越しに苗字へ伝わった。
「目的はなに。どうして私を嵌めた?」
答えなければスイッチを押す。先ほどまでより強くスタンガンを押し付けて言外にそう語る苗字を前に、半間は楽しげな笑みを浮かべたまま囁いた。
「オレの上司がお前に会いたいつっててなァ」
それは或いは、死神の御告げのように。
・
・
・
「これ終わったらメシ行こうぜ。なに食う?中華?ラーメン?」
車内で無駄にベラベラと話しかけてくる半間を無視して車窓を眺めて数十分。黒塗りの高級車に押し込まれて連れてこられたのは新宿のオフィス街の、その中でも一等高いオフィスビルだった。
半間に先導されるがまま地下駐車場からビルのエレベーターに乗り、更にエレベーターを乗り継いで上階を目指していく。窓から見える夜景の高度が段々と上がっていく様に苗字はげんなりとした。
退職のためにあらゆる引き継ぎや業務を終えて疲労困憊のまま帰宅していた最中に、ヤクザに拉致されてその親玉と面会させられるのだ。確かに苗字は死にたいとは言ったが、それは人生の選択肢の一つとして視野に入れるというだけで、今すぐ死にたいわけではないし、他人に殺されたいわけでもなかった。
肉体的精神的疲労、そして生命の危機。テンションは下がる一方だ。反面、隣にいる半間のテンションは好調をキープしているようだが。
迷宮のようなビルの中を歩き続けた先、ようやく半間は一つの扉の前で立ち止まった。
「稀咲さん、客人を連れてきましたよ」
彼が軽く握った拳でドアをノックすれば、そう間を置くこともなく「入ってくれ」と声が返ってくる。
そうして半間の手で開けられた扉の中に促されるまま入る。
中は広々とした執務室だった。退職前に何度か入った病院の院長室を数倍に膨らませたくらいの広さだ。
部屋の中心には一つのローテーブルを挟むように置かれた対のソファ。部屋の奥の方には執務用の机が置かれている。壁に飾られた絵や、棚そのものや棚に置かれた置物なども高級なのだろうが、かといって過度に華美なものでもなく、不思議と居心地の悪さや居座りの悪さを感じる事はなかった。
とはいえ、ここが己の死地になるかもしれないと思うと緊張の糸を緩ませる気にもならないが。
その男は執務用の机のそばに立って、入ってきた苗字へうわべだけの笑みを向けていた。
半間と比べればやや小柄であるが、レンズの向こう側の瞳に裏社会で生き抜いてきた人間の冷酷さが隠しきれていない。むしろ、隠そうともしてはいないのだろう。値踏みするような視線を露わにするその男に苗字はむしろ安堵する。下手に懐柔するようなことをされる方が神経を逆撫でされるのはわかっているのだろう。
「はじめまして、苗字名前さん」
当然のように名を呼んで笑みを浮かべる男に、苗字は無表情のまま近づく。
「お前が半間の上司?」
「ええ、稀咲鉄太と申します」
ソファに座るように差し向けられた掌に従って、苗字は躊躇いなく敵地の真ん中に腰をかけた。あえて不機嫌と不遜を示すように足を組んで座る。死にたいとは思わないし、殺されたいとも思ってはいない。けれど、舐められたまま身を小さくしてこの場に呑まれる程度の人間が、第一執刀医としての重圧に耐えられる筈もない。
苗字が座ってから同じようにローテーブルを挟んだ向かい側に腰を掛けた稀咲と目を合わせたまま彼女は視線を逸らさずに問いかける。
「イカれてるな、たかが一介の医者風情にこんな手間をかけるなんて」
「一介の医者?まさか。我々の労力に見合うだけの価値が貴女にはあると判断したからこその行いだよ」
「……それで、何が目的?何故私を嵌めた?」
「我々には貴女の力が必要だからだ」
稀咲は視線を逸らすことなく答えた。
苗字の問いかけに答えた稀咲に、苗字は息を吐くように笑った。微かな嘲りと侮蔑の混じったその吐息に、けれど稀咲は反応しなかった。しないまま、静かに言葉を続ける。
「オレならばお前の欲望を叶えられる」
向き合う2人を見つめたまま、稀咲が座るソファの後ろに立った半間は苗字の表情を見て嗤う。半間は忘れてなどいない。かつてこの女に自分が何をされたのか、あの夜のことを忘れたことなど一度もない。
お前がそっち側にいるべき人間じゃないことくらい、もう何年も前から知っているのだから。
半間の内心も知らず、苗字は稀咲を睨みつけるように見つめて吐き捨てるように言った。
「私の欲なら叶っていたよ。お前たちが私に関わりさえしなければね」
「あんなちっぽけな病院で?」
「キャリアは実績で積み重ねていくものだ。箱は関係ない」
「あんなちっぽけな病院でお前は満足できないし、お前の価値は発揮されない。それにあそこじゃ持て余されるだけだ。女で碌な後ろ盾のないお前自身、あそこで理不尽な扱いを受けていた自覚はあるんだろう。自分より腕のない男の同期が自分より上に行くのを何度見た?自分なら絶対にしないミスで患者が死ぬのを見て何を思った?」
「……だったらなに。お前たちが私に何をできるっていうの」
苛立たしげに問いかける苗字に稀咲は両膝に腕を立てて告げた。
「すべてを与えられる」
他人の嘘を見抜けるほど苗字は超人的な人間ではなかったし、稀咲は単純で容易いな人間でもない。
それでもその言葉を信用させるだけの強さを稀咲は持っていたし、苗字は疑い以上のものを稀咲に見出し始めていた。
「そもそもの話をしよう」
静かな部屋に稀咲の声が響く。けして大きな声ではないが、その声には苗字に耳を傾けさせるだけのものがあった。
「人命救助などと言った道徳的倫理的な思想がお前を医者として突き動かしている訳ではない」
苗字は否定も肯定もせずに黙って目の前の男の言葉を待つ。
「では何故お前が外科医としてのキャリアに拘るのか。単純な話だ。腕が良ければより難易度の高いオペに参加できる。難易度の高いオペに参加すれば自分の能力を確かめられる。自分の才能を最高の場で発揮できる。……無駄な遠回りだな、キャリアを積む必要もなくお前にはそれだけの腕があるというのに」
「煽てりゃニコニコうなづくとでも?遠回りなのはお前の話のほうだよ。下らない話はそこまでだ。私が聞きたいのは私が失った以上のものを貴方たちが私に与えられるか否かだけ」
「お前の望みは患者の生存でも医療の発展でもない。よりレベルの高い現場で自分の能力を最大限に発揮したいだけ。承認欲求なんてチャチなもんじゃねぇだろ。自己実現欲求。自分の才能を使い切りたいなんて欲求はまっとうな生き方じゃ叶わねぇ」
鋭い眼差しが苗字を貫いた。
男は苗字が何故医師を志したのかを明確に把握していた。
誰のためでも無い。己の能力を最大限発揮できる場所にいたいだけという、傲慢で我儘でそれでいてどこまでも純粋な欲望。
その瞬間、目の前で閃光が瞬いたように無意識に息を呑む。ただの言葉で、その視線で怯んだ自分がいることに気がついて苗字は表情に表さないまま驚く。
だって、人生のうちで自分の性根をこんなにも理解されたことなど無かったから。
……驚いた。本当に驚いた。
何故この男は私が望むものを知っているのか。
何故私が欲しい言葉をこうも当然のように与えるのか。
「『選ばれた者には凡人社会の法を無視する権利がある』」
稀咲が呟いたのはドストエフスキーの「罪と罰」の一文。主人公であるラスコーリニコフの犯罪肯定的思想。
「ここは現代の戦地だ。あらゆる外傷はここに集まり、生存の為に金を惜しまない者もオレたちを頼る」
……考える。ラスコーリニコフは罪の意識に耐えられずに苦しみ、最後には自首をした。
けれどもしも、己の行いに何の苦しみも抱かない人間が彼と同じ思想を抱いたのならば、
「苗字名前」
その結末は何処に至る?
「オレの下で働け。オレならお前に、お前の望む全てを与えてやれる」
見たいと思った。面白いと思った。背筋が震える感覚に口角が上がる。見たい、見てみたい。この男の末路まで、この男の物語の最期の1ページまで。悪人だ。この男は悪党だ。それくらいはバカでもわかる。だが構わない。善悪など些事だ。そんなものどうだっていい。
それでもこの男は生きるに値する。
生きてもらわなければ困る。だってこの男は私に全てを与えると言ったのだ。ならば全てを与えてみせろ。そうでなければ道理じゃない。
私は私の才能の全てを使い切りたい。
私はお前という人間の物語が見たい。
どちらの望みも叶えてもらわなければ約束が違う。
感電のような痺れる感覚に苗字はとっさに自分の腕で自分の体を抱き締めた。
興味深い人間を前に楽しくて仕方なかった。自分を理解してくれる相手を前に嬉しくて仕方なかった。
嗚呼、いいなぁ。半間の奴は私よりもっとずっと前からこんなに愉しい感覚を味わっていたのか。
「……お前、名前は?」
「は?」
苗字は込み上げる感情を内心で押さえつけたまま、静かにそう稀咲に問いかけた。自己紹介なら初めにしたはずだと不愉快げに眉を寄せる稀咲に苗字は言葉を続ける。
「覚える気がなかったから聞いてなかったんだよ。もう一度お前の名前を教えてくれ」
「……チッ。稀咲だ。稀咲鉄太」
「きさき、キサキ、きさき、稀咲、稀咲鉄太。稀咲鉄太。稀咲、稀咲稀咲稀咲稀咲稀咲稀咲、稀咲」
ぶつぶつと呟くように何度も名前を繰り返す目前の女に稀咲は眉を歪めた。隠すこともなく「気持ち悪りィな」と口にするが、苗字は気にすることもなくヘラリと笑う。ようやく見せたその笑みがイカれてる時の半間の表情に似ていて稀咲は余計に気分が悪くなった。
「稀咲、ああ、うん、なぁ稀咲」
「何回も呼ぶんじゃねぇ。……なんだ」
「お前、死にそうになったら絶対に私のところに来い。私が生かしてやる。死んでも私のところに来い。私が全部処理する。貴方の生存も死亡も、何ひとつとして無駄にはしない」
女は笑う。熱に浮かされたように頬を染め、甘く蕩けるような恍惚の瞳。その瞳を見た時、稀咲は自分がまた碌でもない狂犬を跪かせてしまったのかもしれないと、ほんの少しだけ自分の判断に疑いを持ってしまった。
「うん……うん、いいよ、稀咲。お前の地獄へ付き合おう。お前が私をお前の地獄に引き摺り込んだんだ。お前が死ぬまで、お前が死ぬ最期の瞬間まで、私はお前の隣で同じ地獄を歩いてやる」
数時間前まで自殺を人生の視野に入れていたことなど忘れて、苗字は酩酊の最中のような満足感に口角を上げた。
◇
「稀咲に会う前だからオレが中坊ん時か?脚刺されたから苗字んち行ったらこいつ何したと思うよ、稀咲ィ」
「知らねぇ、興味ねぇ」
「その辺にあったテキトーな針と糸で刺されたところ縫いやがったんだよ。麻酔も無しにだぜ?」
「針はちゃんと煮沸消毒してやっただろ」
「そういう問題じゃなくね?」
「それよりも稀咲、私がわざわざ傷縫ってやったのに半間の野郎が何しでかしたと思う?」
「知らねぇ、興味ねぇ」
「人が縫合してる間に発情してパンツ脱いでマス掻きやがったんだよ。挙句私の顔面にぶっかけやがった。尿道縫合してやりゃあよかった」
「思えばアレが人生初のお医者さんプレイだったなァ。あん時から思ってたぜ、苗字はイカれてるってな」
「イカれてんのはお前の方だよ」
「苗字の方だよな、稀咲ィ」
「どう考えても半間だよな、稀咲」
「…………オイ、テメェら」
「どうした、稀咲ィ」
「なんだよ、稀咲」
「飯食ってる時に汚ねェ話すんじゃねぇ、殺すぞ」
都合の良いときに都合よく動かせる医者が欲しかった。
腕が良いことは前提として、何処の傘下にも派閥にも入っておらず、なんなら唐突に消息を絶っても誰にも気が付かれないような人間がいい。
半間へ指示をしてそういった都合の良い人間をリスト化させた後、リストを渡してきた半間が「オススメですよ♡」と言って指をさしたのがこの女── 苗字名前だった。
天涯孤独、独身、所属派閥無し。その上、女。
稀咲の方でもいくらか調査を進めて、どうやらこの人物が半間の言う通りかなり都合の良い人材だと知った。
これにしよう。もしも仮に思っていたより使えなかったとしても、始末は後からいくらでも出来るのだから。
そう思って、苗字が勤める医院へ圧をかけ、退職へ追いやり、今こうして自分の手駒のひとつに加えた。
「久々にお医者さんプレイすっか、苗字」
「プレイじゃねぇっつの、こちとらマジの医師免許持ってんだよ。私の学歴の前に平伏してろ、Fラン」
そのことを稀咲は若干後悔しつつある。
そうして思い出した。まだ半間と出会ったばかりの頃、彼の行きつけの小料理店でアイツが「オススメ♡」と言った飯がクソ不味かったことを。そしてそれを半間が旨そうに食っていたことを。
「稀咲ィ、これ旨いぜ、オススメ♡」
嫌々ながら半間に差し出された箸の先にあるものを見る。脳花だった。稀咲は(死ね)と思いながら白酒を煽る。
「半間の奴、豚の脳味噌なんか頼んでんじゃねぇよ、なあ、稀咲。あ、稀咲もこれ食べるか?旨いよ、ほらあーん」
塩椒牛蛙だった。(死ね)と思ったし、気がついたらほとんど無意識に「死ね」と言っていた。
さて、何故こうして稀咲と半間と苗字の3人が中華珍味を前にしているかと言うと、単純な話、中華珍味を出す店に来ているからだ。
眠らない街、歌舞伎町。
苗字をこちらに引き込んだ後、腹が減ったと喚く半間に引き連れられてやってきたのが半間の管轄内であるこの店だった。
唐突に現れた半間の姿に何を言うこともなく、店のオーナーは当然のように上階の奥の個室へ3人を案内をする。やけに料理の出が早いのもこちらが何者なのかを分かってのことだろう。対応に文句はない。
文句があるのはやけに稀咲を気に入ってああだこうだのと構ってくる半間と苗字だ。
半間はいい。いや、良くはないが、この男が稀咲をやけに気に入って何かと構ってくるのはもう何年も前からのことだ。
疑問なのはこの女の方だ。先程顔を合わせたばかりの、ましてや初対面時はこちらへの嫌悪感を隠さなかった苗字がいつしか稀咲をすっかり気に入って何かと構ってくるのが意味不明で仕方がない。
「……オイ、苗字」
「はい、あーん」
「うるせえ、蛙こっちに寄越すんじゃねぇよ」
嫌がる稀咲を見て楽しそうに笑う女に自然と眉間が寄る。苗字は気にすることなく、受け取られなかった蛙の唐揚げを自身の口へ運んで笑った。それから何かを言いたげな稀咲に先んじて口を開く。
「心配する必要はないよ、稀咲。お前が私に何をさせたいのかは知らないけど、望む結果はくれてやる。こう見えて好きな相手には尽くすタイプなんだよ」
「知ったこっちゃねぇよ、そんなことは。というより、テメェは何をさせられるのか碌にわかってねぇでこっちに来たのかよ」
「察しはつくよ。東卍って言えば反社の親玉だろう。構成員の手術にヤク抜き、違法臓器売買、その他諸々。お抱えの闇医者がいた方が都合が良いってわけだ」
「……フン、ただのイカれじゃなかったようだな。ウチじゃ臓器は抜いて売るだけじゃねぇ。テメェには移植の方面から金を稼いでもらう」
「いいね、臓器移植は好きだよ。うん、楽しみだ」
「トチったらテメェのモツが無くなると思え」
脅すようにそう言っても、苗字は酔っているかのようにケラケラと声を上げて笑うだけだった。
酒は飲むより飲ませる方が楽しいと、苗字は半間にガンガン酒を飲ませた。挙句稀咲にまで酒を強要するが、稀咲はそれを適当に躱しながら自分のペースで酒を煽る。
泥酔したことはない。立場もあるし、それになにより自身の肉体が自分のコントロール下から離れるなんてこと以上に不愉快なこともないからだ。己の限界は把握している。だからペースは守っていた。
ペースは守っていたのだ。
けれど、気がついた時には稀咲は意識を失いかけていた。
「稀咲ィ、起きってか〜?」
「……、っ、……ぁ、?……ぅあ……?」
「あーあ、こりゃオチてんなァ」
「いい眺めだな。……なあ、半間、稀咲って今いくつ?」
「あー、オレの二個下だから26だな。……ん?27?いや28か?」
「なんで自分の年齢も曖昧なんだよ」
半間は意識がほとんどオチている稀咲を抱き上げると、苗字へ顔を向けて口角を吊り上げた。
「オレとお前は共犯者だなぁ♡」
◇
柔らかい微睡の中でふと稀咲は曖昧に意識を覚醒させた。夢か現か境界線のわからない感覚の中でぼんやりと自身の輪郭を思い出す。
眼鏡をかけていない視界は水中のようにぼやけていて、自分が何処にいるのかがわからない。
夜。明度の低い薄暗い部屋。
自分の現状さえわからないことへの危機感さえ失くしたまま、ぼんやりと自分がどうやらベッドの上にいるらしいことを知る。
不意に視界に影がかかる。誰かが自分の上に覆い被さっているらしい。筆舌に難い浮遊感のまま、ぼんやりとそれを見つめた。
「稀咲」
名前を呼ばれる。女の声。知っている声のようにも思えたし、知らない声のようにも思えた。麻痺した思考のまま、稀咲は反射的に目を細める。甘い匂い。柔らかい感触。生温かい掌に頬を撫でられる感覚がやけに心地良い。
その瞬間に稀咲はふと、かつて自分自身の手で殺した初恋を思い出した。
恋と呼ぶには幼すぎたことを内心で理解しながらそれを求めることをやめられなかった。その果てに何を得るのかさえ知らぬまま、それを目的とした日々だった。
その日々さえ自分の手で殺したのに。
心地よい愛撫の果てに、そっと女の唇が稀咲へ寄せられる。ゆっくりと近づいたそれは稀咲の唇へは触れずに、肉の薄い頬へ優しく感触を落とした。
「稀咲」
名を呼ばれる。聞き慣れぬ女の声だったようにも、聞き慣れた男の声だったようにも聞こえた。正誤はわからない。ただ溶かした蜜のように甘い声音が鼓膜を揺らし、稀咲の頭の中を浸透させるように犯していく。
抱きしめられる。曖昧に手を伸ばす。答えるように手を握られる。触れられる。触れる。肉体と肉体の境界を溶かすように密着させられる。淡く、甘く、優しく、互いの体を溶かし合うような身体同士のふれあい。
体温が混じる。触れる掌の温度に目を細める。心地いい微睡。甘い腰の痺れ。
それから、ふとぼんやり思う。
果たして自分は己の初恋と、そういうことがしたかったのだろうか?
答えは己の中にはあるのに、それを認めることは酷く難しいことだった気がする。それでもただ今は、己の唇に落とされなかった口付けに(守られた)のだ、とそんなことを思った。
「唇はダメなんだろう?」
確信じみた声は微かに揺れていて、女が笑っていることを知る。遠くシャワーの音が鼓膜を揺らしている。
自分が何処にいて、目の前にいるのは誰なのか。
何もわからない。理解しようとする頭さえ鈍り、気怠い感覚だけが自分を包み込む。
「いいよ、寝ていればいい。私とアイツでお前に天国を見せてあげる」
……天国。天国とは何を指すのだろう。
それが、己の思考を放棄し、ただただその状況に流されるだけのことを指すのならば。
生まれ落ち、自我を得てからずっと思考の放棄をやめられなかった稀咲にとって、それは確かに天国だと呼べたのかもしれない。
心地よい微睡。
与えられるだけの快楽。
思考のいらない時間。
落とされる唇はふたつ。伸ばされる腕は四つ。
それらが自分を傷つけうることなど決して無いと識っていた。だから目を瞑る。目を瞑って、今ここにいる自分が持つ思考のすべてを放棄する。
微睡。微睡。微睡。
……きっと、自分は夢を見ているのだろう。
◇
──夢を、見ていたような気がする。
覚醒する意識の中で、心地よい感覚だけが頭の中に残っていた。
目を覚ます。自分の意識が世界と接続されて、自分の輪郭を取り戻す。夢を見ていたような気がした。
目を覚ましてすぐに起きあがろうとした稀咲は自分の両腕がやけに重たいことを気がついて、眉間に皺を寄せた。
何かが両腕にまとわりついている。その重みのせいで自分が起き上がれないらしい。
纏わりつく重くて温くて柔らかい何か。それはまるで、人の体のような……。
「…………は?」
稀咲が自身の意識を覚醒させた時、彼の右腕には半間が、左腕には苗字がぎゅうと抱きついたまま微かな寝息を立てて眠っていた。
全裸だった。半間も苗字もどちらも、何一つとして身に纏っていない。それどころか、稀咲さえ生まれたままの姿だった。
「は?」
寝起きの気怠さなど吹き飛んで、稀咲は目を見開く。乱れた髪が目にかかり視界を邪魔する。
何が起こっているのかわからない。自分は今何処にいる?いつの間にここに来た?自身へ問いかけようとも昨夜の記憶がない。いや、半間に連れられてきた店で食事をしていたことは覚えている。だが自分は一体いつ意識を落とした?
酒のペースは守っていた。意識を無くすほど泥酔するわけがない。しかし事実、稀咲は酒を飲んだ記憶を最後に意識を飛ばしている。
疑問符ばかりが頭の中を占領する。パニックになりかける頭のまま、起き上がれないながらも顔を動かしてあたりを見渡す。眼鏡をかけていないために視界はぼやけているが、どうやら半間のセーフハウスの一つに良く似ていることに気がついた。
隣でだらしのない寝顔を晒しているのが半間である時点の稀咲の推察は正しいだろう。
頭の中で整理をする。
どうやら自分は昨夜、酔って意識を無くしたらしい。疑惑はいくつかあるが、おそらくこれは正しい。
そうしてそんな自分を半間が自身のセーフハウスまで運んだ。
ここまでは合っているだろう。
わからないのはその後。
何故この3人が全裸で、バカみたいにでかいベッドに並んで寝ていたのか、だ。
「……半間ァ」
頭の奥の鈍痛に稀咲は不愉快な顔をしながら、低い声で狸寝入りをする懐刀を威圧した。
「テメェ起きてんだろうが……」
「………っ、ククッ、ひゃは、バレちまったか」
「どういうことだ、これは」
「ハーレム♡」
「殺すぞ」
稀咲の右腕を解放した半間はベッドの上に肘をついて、斜め上の角度から稀咲を見つめる。にやにやと唇の端を吊り上げる男の顔に寝起きながら鮮明な怒りを覚えたが、怒鳴ったり殴ったりと感情を露わにするほうが半間を喜ばせてしまうのだと長い付き合いで稀咲は知っていた。
努めて感情を内心に留めた稀咲はようやく解放された右腕を支えにベッドの上で起き上がった。
途端に、自分の体一面に鬱血痕や噛み跡が残されていることに気がついて稀咲の顔から血の気が引く。全裸で寝ていた時点で昨夜同じベッドで眠るどちらか、或いは両方と性行為に興じてしまったのだろうとは思っていたが、こうもまざまざと証拠を残されては今度こそ本当に逃げ場を無くしてしまう。
人生の大半を淡く幼げな初恋に捧げてきた稀咲の内心にはどこかプラトニックなものを求める部分があった。女を抱いたことが無いとは言わないが、やや性的なものを遠ざけるきらいがある。少なくとも盛りのついた猿のように性行為に耽るようなことは無かった。
体に残る身に覚えのない行為の跡。
これは稀咲が望んだ結果の朝ではないのだ。
起き上がった稀咲は左腕に擦りついて眠る女を振り払って足蹴に容赦なくベッドから突き落とした。
肉や骨が硬い床にぶつかる音に混ざって「ぎゃん!」と女が悲鳴をあげる声が耳に届いたが、稀咲は気にすることなくベッドの縁に腰掛けて、床に転がった女を見下ろした。
「痛ッ、なに?寝相?」
顔を歪めながら起き上がって床に座り込む全裸の女の額に足裏を押し付けて、そのまま勢いよく床に押し付けた。女の後頭部が強く床に叩きつけられ、苗字は苦痛に顔を歪める。だが、それをしたのが稀咲だと気がついた途端、仰向けになったまま加害者を見上げて楽しそうに口元を歪めた。
「おはよう、稀咲。朝からいい眺めだな」
「海と山、どっちがいい」
「そう怒るなよ。昨日はお前も善かったろ?」
「……オレに薬を盛ったのはどっちだ」
「オレェ♡」
「まあ薬を用意したのは私だけど」
「レイプしたのはどっちだ」
「どっちだと問われると両方だと答えるしかないな。3Pだったし」
「オイオイ、稀咲ィ、人聞き悪いこと言うなよ。同意の上だったろ?」
「薬盛って意識落とした相手とのセックスの何処に同意を取る時間があった?」
「それ、人を冤罪で無職に追いやった男の台詞?」
「つか苗字テメェ、オレに盛った薬は何処から入手しやがった?」
「ああ、眠剤?働いてた病院から退職の際にパクってきた」
「横領してんじゃねーか。冤罪じゃねぇじゃん。冤罪を自分で冤罪じゃなくしてんじゃねーかよ」
半間と苗字の頭の悪い返答に稀咲はベッドの淵に腰掛けたまま米神に手を当てた。バカ共の会話のせいで頭が痛い。
そんな稀咲の様子を気に留めることもなく、半間が稀咲の背を覆うように背後から抱き付いてはその首筋に鼻先を寄せる。絡みつく無駄に長い手脚にイラつく。
苗字は自身を踏みつける稀咲の脚へ手を伸ばし、その脹脛の裏で指先を滑るように伝わせた。無意味に性的な接触を想起させるその手つきにぞわりと鳥肌が立つ。
首筋と脹脛。肌をくすぐるようなその感触が気持ち悪く感じられて、稀咲は背後の半間に裏拳をかますと、間髪入れずに床に転がる苗字の横っ面を足で一線した。
そうやって暴力を振われても楽しげな笑い声を絶えさせない2人に、稀咲は思わず頭を抱えて呻くように問いかける。
「テメェら、何が目的だ……」
そしてそれは奇しくも昨夜、苗字が稀咲へ問いかけた言葉だった。
さて、そんなことを問われた半間と苗字はベッドの上と下から互いの顔を見合わせて、キョトンとした顔をした。まるで何を問われているかわからないような顔で。
「……目的」
「目的ねぇ……」
半間と苗字は何かを考えているような、或いは何も考えてなどいないような顔で互いの顔を数秒見つめ合うと、それから同じタイミングで稀咲の顔へ視線を向けた。
「有るっちゃあ有るが、無いっちゃあ無いっつー感じだなァ?」
「は?」
「ハーレム系の主人公は鈍感なのが常だしな」
「は?」
察しが悪い者を見るような目を向けられるが、そんな目をされる謂れはない。半間が何を考えているのかなど昔から稀咲にも理解しかねたし、苗字に至っては昨晩出会ったばかりで思考はともかく嗜好など理解するもクソもなかった。
「半間がお前を気に入る理由が私にも理解出来た。……ただそれだけのことだよ」
起き上がった苗字は上目遣いに稀咲を見ると、頬を蹴られたことを気にする様子もなくヘラヘラと笑った。
「……本当に気持ち悪りぃな、テメェらは」
路地裏の吐瀉物を見るような視線にさえ、彼らは頬を染めて悦ぶのだから救いようもない。
半間だけでなく、今度は碌でもない女まで手駒に入れてしまった。
……とはいえ、まあいい。頭はおかしいが、腕が良いことは稀咲だって確認済みだ。もしも万が一この女が想定より使えなければ殺せばいいだけなのだから。
「なあ、稀咲、足の指しゃぶっていいか?ところで手術歴はあるか?持病やアレルギーは?あとちなみになんだが前立腺開発に興味は?」
というか、使えない駒であって欲しい。
さっさと殺せるから。
稀咲の爪先へ舌を這わせる苗字を思いっきり足蹴にしながら、稀咲はげんなりと思った。
(2021.08.11)