耽溺は踵に散る


苗字がひょんなことから真っ当な医師の道から外れ、反社会的組織である東京卍會お抱えの闇医師になったのは春先のことだ。

人生何があるか分からないとはよく言ったもので、自分が闇医者などになるとは苗字自身予想できないことであったし、闇医師になりながらもそれまでと変わらず、むしろこれまでの日々以上に充実した日々を送れるとは思いもしなかった。

抗争が起これば馬鹿みたいな症例の患者が運ばれてくる。
強請りに強請って用意させた設備は真っ当な病院を凌駕する。
給料は正規の医者だった頃の手取りがお小遣いに思える程度の額。

充実した環境。
しかしそんなものは苗字にとっては些事だ。

そんなことがどうでもよくなるくらいに、直属の上司が面白すぎた。興味深いと言い換えても良い。
それは研究者が自身の研究対象を見る様に似ているし、読書家が夢中になって活字を追う様にも類似している。

あっという間に稀咲という男は苗字にとっての好奇心の対象になった。

お前を見ていると楽しい。お前がいるだけで愉しい。
もっと面白い世界を見せてほしい。もっと新しい景色を見せてほしい。お前がいる方が世界は興味深いのだから。

故に苗字にとって日々は愉しく、人生は楽しいものだった。毎日の生活に不満は何一つとして無い。

…………とまで言うと流石に嘘になる。

人生は楽しい。そこに嘘はない。
それでも不満は一つだけあったのだ。











「半間、火ィ貸して」
「おー」
苗字が働くビルでは喫煙所が屋上だけにしか無い。
その上、その喫煙所には屋根が無い。雨の日には雨ざらし。風の日には灰が顔面に飛んでくる。

真っ当な室内喫煙所が無いこと。
それが唯一の不満だった。
逆に言えば、それがあればもう文句無しだったのだけれど。

ストレス社会で戦う苗字の相棒はメビウス。けれどそれを吸う場所がここには無いのだ。
なにせビルの所有者である稀咲が根っからの嫌煙家なもので、喫煙者共には紫煙を燻らす権利など与えられなかったのである。

皆、相手が相手だったので誰も文句を言えなかった。
……半間以外は。
半間は半間だったので屋上に勝手に灰皿を置いて我慢することなく吸い出した。苗字は現在、それにタダ乗りして毎日禁煙のビルで煙草を吸っているのだった。



「雨降ったら吸えないってのがな〜」
「傘差して吸っとけ」
「ダセェ〜」
ビルの屋上、半間が貸したジッポで火をつけながらボヤく苗字に半間は喉を鳴らしながら晴天とも曇天とも言い難い微妙な空模様を見上げた。

半間が勝手に喫煙所を作っていることを稀咲は知った上で見逃している。「オレって甘やかされてんな〜」と半間はニヤニヤ笑ったが、逆に言えばここでボヤ騒ぎでも起こせば折檻では済まないだろうことは容易に想像つく。

そうなったら苗字も共犯にしようと半間は考えたからこそ、煙草が吸えないと医務室で呻く苗字へこのプライベート喫煙所を教えてやったのだ。

半間は苗字がジャケットのポケットに仕舞おうとしていた煙草の箱を見て彼女の銘柄を知った。
『メビウス』
その名称に昔を思い出して笑えば、苗字に不審げな目を向けられる。

「何笑ってんだよ、気持ち悪いな」
「あー、ちょっとな。……なあ、苗字。お前、オレと稀咲の出会い聞きたくね?」
「は?なんだよ急に。古参マウントやめてください。今すぐ死ね」
「あれはオレが16ん時だった……」
「死ねっつってんだろ、早く死ね」
「……アレ?17だったかもしんねぇ。いや、16?高一って何歳?」
「お前は年齢を覚えられない呪いにかかってんの?」
空にまたひとつ雲を増やすように2人の唇から吐き出された煙は、けれど天に辿り着く前にビル風に晒されて消えた。

半間の吐き出した紫煙は風に流れて苗字のほうへ辿り着く。その煙の匂いを嗅いで苗字は少し揶揄うように右の口角を上げて半間を見た。

「つか半間、ピース吸ってんのか」
「イー匂いしてカワイーだろ?」
「お前が平和なんて柄か。セッタ吸え」
「あ?なんでだよ」
「『罪と罰』なんだからさあ」
苗字の返答にピンときていないらしい半間の表情。それを見て笑った苗字が、言葉同士を結びつける答えを言おうとした、その時。

「椎名林檎だろ」
2人の間に入るように別の声が他方から聞こえた。

「お、稀咲」
「稀咲じゃん。一本要るか?」
「ようこそ、プライベート・スモーキングルームへ」
「喫煙所なんざ許可した覚えはねぇがな」
秋口、外から戻ってきたまま此処にきたのか、スーツの上に薄いコートを羽織ったままの稀咲が、半間と苗字からかなりの距離を置いて声を掛けてきた。

副流煙さえ風に掻き消えるほど離れた距離に苗字は煙をふかしながら「なんか稀咲遠くね?」と小首を傾げる。その言葉に稀咲は露骨に嫌そうな顔をしながら吐き捨てた。
「クッセェんだよ、ヤニカス共が」
「んだと?こっち来いや、煙吹きかけてやる」
「今夜お前を抱く、絶対にだ」
「ぶっ殺すぞ」
銃があったら撃ち殺していたが無かったので稀咲は暴言を吐くに留めた。

稀咲の手駒2人は優秀だが、たまに稀咲の握る手綱の範囲内で無駄に馬鹿な真似をする。それがいつも稀咲の琴線に触れるギリギリ直前であるあたりが、稀咲にとっては酷く腹立たしいのだが。

「つかそんな話しにきたんじゃねぇだろ、どうした」
流れを断ち切ってそう問いかけた半間に、稀咲はうなづいて東京卍會総長代理としての冷徹な目を見せる。

「半間、例の件だ」
「ああ、何か判明しましたか?」
一瞬で仕事モードに切り替わった2人に、苗字は屋上のフェンスに背を押し付けたままぶんぶんと大きく手を振って自分の存在をアピールした。

「お二人とも、機密事項なら私は戻りましょうかー?」
「気にするな、お前が知ってようが知らなかろうが影響は無い」
「それはどうも。2本目吸ってますね」

苗字が差し出した指先をくいくいと曲げて「寄越せ」とジェスチャーをすると半間はすぐにライターを投げ渡した。それを危なげなく受け取って苗字は2本目のメビウスへ火をつける。

そうして興味は無いなりに稀咲と半間の会話に耳を傾けた。影響は無いと言いながらも苗字を離席させないということは「お前も聞いておけ」という意味に他ならないのだから。

「九井に調べさせた。お前の推察通り、ブルーシープの製造元は神奈川。それ自体は内部で完結してて、県外には出してねぇと言い張る」
「なら問題は東京側に入り込んでる元売ってことですね」
「ああ、川の向こうでなら何してようが今はまだ構わねぇが、こっちに渡られちゃあ話が変わる」

近頃、東京都内、つまりは東卍の管轄内で新しいドラッグが出回り始めた。
通称、ブルーシープ。
ヘロインやマリファナのような、いわゆるダウナー系のドラッグだ。高級品である代わりに質は上等らしく、金持ち連中を中心に出回っているのだが、どうにも「誰が売っているのか」がよくわからない。

先の稀咲の話を聞くにドラッグの大元は神奈川。そしてそれを東京に流している連中がいる。
東卍としては誰が何を売ろうが知ったことでは無いが、それを自分たちのところでされては話が変わる。

つまるところ、人の庭で勝手な商売してんじゃねぇということだ。
今は東京にドラッグを流している奴らの捜査中で、見つけ次第それなりのご挨拶を行うのだろう。

「ウチの手付の売人はどうです?」
「連中が言うにはそもそもブツが回ってこないと。経路になる人間を身内だけで固めて独占してんだろう」

苗字は煙草を咥えたまま深く息を吸う。肺に溜まる紫煙。それから、白く有害な煙が自分の肺を汚す様を想像した。煙草もドラッグも大した差はない。苗字にはこちらのほうがキくというだけの話だ。
ニコチンによって鋭利になった思考で、苗字は虚空を見上げながら息を吐く。


「誰が売っているのか」は、買った人間に聞けばいい。

ふと苗字はこれまでに自身がヤク抜きをした連中のことを思い出す。
ヤク抜きが必要なのは反社の人間より、表社会で生きている人間だ。
真っ当な職に就いているにも関わらず薬中になっている奴が健康診断などの前に反社の組織にヤク抜きの依頼をするというのが大半のパターンとなる。
そうして東京都内において、その一時的な救済の受け皿となるのが東卍であり、苗字だ。

苗字は興味のない人間のことは覚えられないが、一度担当した患者のことは忘れない。

これまでヤク抜きした患者の中でダウナー系を使っていた人間を思い起こす。

ダウナー系ドラッグの依存者が急にアッパー系を使うことは少なくとも、別のダウナー系に乗り換えたり試してみたりすることは考えられるだろう。

東卍にヤク抜きを頼れる人間となると表社会でそれなりの立場を持つ人間。そういう人間なら多少高級品でも手が出せる。そしてブルーシープが流行り出したのはここ半年。

以前ダウナー系ドラッグを使用していてヤク抜き依頼をした人間を調べれば、……いや、そもそもここ半年にダウナー系のドラッグのヤク抜きをした人間を調べれば、その中にブルーシープを使っていた人間がいる可能性がある。

「稀咲さん、半間さん」
苗字は短くなった煙草を灰皿に押し付けると、その先端の火が消えるのを見てから手を離した。

顔を上げれば2人の男が黙ってこちらを見つめている。言いたいことがあるのなら早く言えと言わんばかりの表情。不遜な表情ながらも面白いことに、彼らは苗字の話へ耳を傾けることを拒まなかった。

果たして、こんなふうに自分の考えや意見を上司にあたる人間に真っ当に聞いてもらえたことがあっただろうか。

大して持っていないはずの自尊心が擽られる感覚に苗字は口角を上げながら言葉を発した。

「ブルーシープの経路、こっちの方面からも調べられそうなんでちょっと診察室まで来てくれませんか?」









「そういや、なんで売人わかってないのに東京に入り込んでるってわかったんですか?」
ビルの上階はワンフロアすべてが医療施設となっている。その中の一室である診察室はデスクワークの際に苗字が過ごす執務用の部屋だった。

椅子に引っ掛けていた白衣を羽織りながら、浮かんだ疑問を尋ねると診察用の簡易ベッドに腰掛けた半間が答える。

「麻取にウチの人間を何人か潜り込ませてんだ。そっからの情報」
「使用者パクられてんならそこからルートわかりそうなものですけど」
「そいつらがサツじゃ手ェ出せねぇような連中なんだとよ。だからサツはブルーシープの存在そのものを認めてねぇ」
「……ああ、なるほど」
ブルーシープを使用してる人間はいないから、ブルーシープなどというドラッグは存在しない。
手が出せない以上、警察としてはそうするしかないのだろう。

だが、東卍はそうはいかない。
ブルーシープが実在していて、それが東京都内で勝手に売買されているのならば見逃すわけにはいかないのだ。
まったくもって警察も東卍も、組織というものは面倒極まりない。


「それで?」
口火を切ったのは稀咲だった。患者用の椅子に腰掛けたまま苗字へ視線を向けて、問いかける。ここまで連れてきた理由を問うているのだろう。苗字は屋上で至った思考をそのまま稀咲へ伝えた。

ドラッグを使用する金持ち連中ならすでにウチと繋がりがある、と。

苗字はパソコンを弄ってこれまでの患者を一覧化すると、ディスプレイに移したそれを2人へ見せた。

「これがこれまでに関わったダウナー系ドラッグの使用者です。ヤク抜きの時に採取した血液データが残ってますから、ブルーシープの成分がわかればそこから絞り込めると思いますよ。成分データがあるかは知りませんけど」
そこまで言って2人へ目を向ける。彼らの表情に変化は無い。
静かにディスプレイを見つめると、稀咲は掛けている眼鏡の位置を手で直してから半間へ目線を向けた。

「半間、乾と九井に連絡しろ。ルートの調査はあいつらの仕事だ。あの2人も無能じゃねぇ。流石にもうブツも手に入れてるだろ」
「了解です。苗字、そのリストと血液データをオレに送れ」
「ああ、わかりました」

パソコンを操作して言われた通りに半間へデータを送る。
それきり苗字が何を言う間もなく、2人は忙しげに誰かに連絡を送りながら診察室を去っていった。

慌しそうな2人が部屋を出ていくのを見送って、苗字は椅子に深く体重をかける。
後のことは彼らがどうにかするのだろう。ならばもう興味はない。
この後はまた臓器移植関連の仕事があるのだ。他人の仕事にまで構ってはいられない。

苗字は頭を切り替えると、執務机に上に置いていたカルテを手に取って自分の仕事に取り掛かり始めた。





その後、この件がどうなったのかを苗字は知らない。
そもそもこれは苗字には関わりのない「知ってようが知らなかろうが影響は無い」事なのだから当然と言えば当然なのだが。

とはいえ、二週間ほどしてから診察室を訪ねてきた九井がわざわざ「ウチの財源が増えた」と報告しにきたので、まあ、そういうことなのだろう。

財源が増えたならオペ室の設備をすべてドイツ製にしてくれと言ったが、揶揄うように舌を出されただけで終わった。苗字はその舌を引っこ抜いてやろうかと思った。





苗字のその後に大きな変化は無い。やってくる依頼をこなす毎日。
その中で変わったことが唯一あるとすれば。

「半間、火ィ貸して」
「おー」

薬品保管庫の奥にある空き部屋の火災報知器が撤去されたこと。

だから苗字は仕事の合間にその部屋の大窓を開けてメビウスを吸う。もう雨の屋上で傘をさして煙草を吸う必要はないし、炎天下の屋上で熱風に晒されることもない。
たまに半間がふらりとやってきて、苗字の隣に並んで紫煙を燻らせる。

火災報知器を取り外すように指示にしたのは稀咲で、故にここで2人が煙草を吸っていることは当然稀咲も知っている。
だからこそ稀咲は何も言わない。
ボヤ騒ぎでも起こそうものなら折檻では済まないだろうが、そのあたりは苗字も半間も理解している。

理解した上で、稀咲からのご褒美を存分に享受していた。

「半間、なにそれ」
「セッタ」
「ふは、素直だな」
「素直でカワイーだろ」
「カワイーカワイー」
香りの異なる白い煙が窓際で混ざり合って、外へ流れ出ていく。それが雲になることはない。肺を汚して、一時的な快楽だけを与えて、それだけの無意味な行為だ。

「稀咲が今夜奢ってくれるってよ。苗字が何食いたいか聞いとけってさ」
「そんなの稀咲一択だろ」
「だよなァ」
「良いホテル予約しといてくれ」
「おー」

半間も苗字も稀咲のことが好きだ。彼の思想思考嗜好感情認識行動判断その全てが興味深くて仕方がない。

世界はお前がいるだけで興味深い。
世界はお前がいるだけで色を持つ。
だから堪らなく愛おしい。

例えこの執着とも言えぬ愛情をお前が受け取らなくとも、お前の気紛れのような優しささえ勘違いであったとして構わない。
私たちはお前のあいした人には永久に届かない。
けれど、お前の愛が、お前の内包する聖域にしか向けられないとして、それに一体何の過ちがあるというのだろう。

私たちは、私たちを愛さないお前をこそ愛しているのだから。

煙草の先端を灰皿で潰してから半間は少し屈んで、苗字は少し背伸びをする。それから2人は苦くなった唇を口直しするように、顔を寄せて互いの唇を重ね合うと、熱を持つ舌を求め合うように絡ませた。


(2021.08.19)