その空に星は見えるか


苗字は困っていた。

人生で一番困っていたといっても過言ではない。こんなに困ったのは、風俗の仕事をしていた時に店で禁止されているのに面倒な客に本番を迫られた時くらいだろうか。あれは大変だったと苗字は遠い目をして思い返す。
果たしてあの時はどう切り抜けたのだったか。
思い出せないけれど多分過去の自分がどうにかしたのだろう。思い出すことを早々に諦めて、苗字は現実へ焦点を戻した。


「へ、へへ、こ、困っちゃったな……」
あんまりにも困ってしまったので、苗字は引き攣った半笑いのまま独り言みたいにそんなことを呟いてしまった。人間、本当に困ると笑うしか無くなる。そんな時もあるものだ。

「ああ、そうだな」
苗字は自分の独り言に返事が返ってきたことに少し驚いて、声の主である男がいるすぐ隣へ目を向けた。
壁を背に、苗字と並んで床に座り込む成人男性。望む望まないの選択肢を選ぶ間も無く、苗字と運命共同体となってしまった男。
言葉の割に男はさして困っている様子でもなかったので、苗字は困惑しながら「へ、へへ……」と乾いた笑い声を吐き出すしかなかった。


男の右手と苗字の左手は繋がっていた。
別に手を繋いでいるわけじゃない。
2人の手首の内側をぴたりとくっつけたまま、両方の腕をまとめるように第三者によってギッチリと太いロープと縛られているだけだ。
手首だけではない。男の右足首と苗字の左足首も二人三脚のように縄でしっかりと結ばれていた。
もちろんここは運動会場ではないし、2人はこれから息を合わせて二人三脚のレースを始めるわけでも無い。

苗字と男は人質になっていた。
遡ること数分ほど前。2人は唐突にこの広間に押し入って来た3人組の覆面集団に銃を突きつけられ、犯人の1人によって両手両脚を2人まとめて仲良く縛られたのだった。

「わ、私たちどうなっちゃうんでしょうね……へへ……」
今度は独り言ではなく、明確に苗字は男へ話しかけた。
男もそれを理解して、ちらりと隣に並んで座る苗字を見ると「さあなァ」と素っ気なく返した。

「あいつらがブツ見つけてさっさと解放されるか、それより先にキレてぶっ殺されるか、或いは──」
あいつらと言いながら顎で犯人たちを示した男が言葉を続けていたその途中で不意に犯人の1人が怒号をあげた。

「見つからねぇってどういうことだ!さっさとモノを出せ!」
その雷鳴のような怒鳴り声に苗字はびっくりした顔をした。怒鳴って解決できる事ではなさそうなのに、怒鳴り散らす人を見ると不可解な気持ちになって仕方がない。

怒りを露わにする犯人の1人が、この会場の女性スタッフの背中に銃を押し当てて喚いた。

「このオークションに商品が出るってことはわかってんだ!早くしろ!死にてぇのか!」

震えながら「い、今探していますので……」と犯人に返す女性スタッフと同じ制服を着た苗字は、壁際で縛られながら(あっちにならなくてよかった……)と少しだけ安堵していた。
銃を突きつけられて脅されるなんて困ってしまう。それだったらまだ縛られて壁際に放置される方がマシだ。
自分より不幸そうな人間を前に少しだけ気の緩んだ苗字は、隣の男が返事をしてくれるのを良いことに再び口を開いた。

「お互い、ふ、不幸な目に遭いましたね、え、えへ、へへ。あ、えと、お兄さんのこと、なんて呼んだら良いですか?」
苗字は一般的な女性よりも小柄なため、隣の男とは座っていても顔を上げないと目が合わない程度の身長差が生まれる。
困っただのなんだの言いながらも緊張感なく半笑いを浮かべ「あ、わ、私は苗字って言います」などとのたまう女に、男は呆れたような小馬鹿にしたような目を眼鏡のレンズ越しに向けた。

それでも仕方なく運命共同体の関係になってしまった相手へ少なからず思うところはあったのか、男は素っ気なくも苗字の問いかけに答えた。


「半間」











2人が人質に取られたこの場所は都内の某所のとあるオークション会場だった。
限られた人間しか参加することのできない非常に特別な、そして実のところ、警察にバレたらスタッフも客も全員しょっぴかれること確実の非合法的なオークションである。

苗字は仕事の都合で仕方なくこの会場でスタッフ側の制服を着て労働に励んでいた。
彼女だって、真っ当に生活できるだけの金銭があればこんな仕事などしていなかったが、親の借金を肩代わりさせられたばかりに社会道徳に反する悪いお仕事をせざるを得なくなっていたのだ。


さて、オークション開始の3時間前には会場の設営はほぼ完了していた。
厳重に搬送されて来た商品をステージ裏へ準備し切った頃、会場へ1人の男がやって来る。
それが先ほど苗字に「半間」と名乗った男だった。

苗字は知るよりもなかったが、半間はこのオークションの仕切りをしている九頭龍組という組織に出資をしている東京卍會の重役だった。ちなみに言うまでもなく、九頭龍組も東京卍會もどちらも反社会的組織だ。

多忙な彼としては、付き合いの延長線上の顔出し程度別に下っ端に行かせてもよかったのだが、様々な要因が絡んだ結果、彼が直々にこのオークション会場へ向かうことになったのだった。
オークションの仕切りをする九頭龍組の中でもそこそこの地位に属する男が畏まった様子で東京卍會から来た男を案内する様を、苗字は会場準備をしながら横目に見ていた。

設営の完了した会場には、現場責任者の男が1人と、その補助をする女性スタッフと苗字、そして客人である男とその男を案内する男。合計5人の人間がいた。
苗字は自身の仕事を終えて、今いる広間から退出しようとのんびり入り口側へ向かう。苗字が用があるのは現在の「オークションが始まる前の会場」であって、3時間後の「オークションが始まった後の会場」では無かったからだ。


しかしその時、苗字の予定に狂いが生まれる。
たった一つだけある出入り口から誰かが入って来たからだ。

黒い覆面を被った3人組。真っ黒な衣服に真っ黒な覆面、そしてその手には真っ黒な銃。
仮装のようなその格好がこの場とあまりにも不釣り合いだったものだから、少しだけ笑ってしまったことを苗字は覚えている。

不可思議な格好をした男に最初に気がついたのは出入り口へ向かいかけていた苗字で、苗字が気がついたことに気がついたのが客人の男だった。
そして不審げな客人の視線に気が付いたのが、彼を案内していた九頭龍組の男だ。
九頭龍組の男は「なんだテメェら!ここがどこだかわかってんのか!」と怒声を上げながら、不審な3人組のほうへ足を進める。


瞬間、銃声が広間に鳴り響いた。


花火の音みたいな、風船が破裂したみたいな、そんな音が4回、苗字の鼓膜を激しく揺らす。
3人組のうちの1人が近づいて来た男を躊躇いなく撃ち殺したのだった。胴体に3発、倒れたところで頭に1発。殺意は無かったなんて言い訳のしようもない、明確な殺人を目の前にして苗字は目を見開く。


人が人を殺す瞬間を見たのは初めてのことだった。


それを見た瞬間、苗字はその場に立ち止まったまま、ほとんど反射的に両手を上げていた。敵対の意思がないことを示す服従のポーズ。それでも向けられた銃口に死を覚悟した。

けれど、苗字が撃たれることはなかった。覆面の男は苗字へ銃口を向けたが引き金を引くことはなく、荒い口調で「手ェ上げたまま壁際に寄れ!」と叫んで、苗字と、そして苗字からやや離れた位置にいた客人の男へ命令した。

客人の男は抵抗する様子もなく、苗字同様に黙って覆面の命令に従う。そうして壁際に寄ったところで、さらに座るように命じられ、その通りにした後、すぐにロープで2人まとめて縛られた。


3人組のうち1人が苗字たちと入り口の監視をし、もう1人が抵抗しようとした現場責任者の両足を撃ち抜いて動けなくさせる。そして残った1人が女性スタッフへ銃を突きつけて、威圧的な物言いで言葉を吐き出す。

「ここにUSBがあるのはわかってんだ!とっとと寄越せ!」

縛られたまま壁を背に体育座りをした苗字は(大変なことになったなあ)と困った顔をした。こんなに困ることはない。苗字の仕事はもう終わっていて、あとはもう帰るだけだったのに。こんなことに巻き込まれるなんて。

「へ、へへ、こ、困ったなぁ」
「ああ、そうだな」
半笑いで呟いた独り言に返事が返って来たのが、運命共同体となってしまった2人の交流の始まりだった。













仕事にはスピード感が必要だ。
苗字はそれを経験則から知っている。自転車遅漕ぎレースじゃあるまいし、仕事は早く判断したほうがいいし、早く終わらせたほうがいい。これは他者からの評価だとか効率だとか、そういうチャチな話ではない。

それがひいては自分の身を守る、という話だ。


「あ……10分経っちゃった……」
腕時計を見た苗字はそう呟いてから顔を上げた。会場にはまだ覆面の男たちがいて、女性スタッフをせっつき、現場監督者を脅し、どうにか目的のUSBを強奪しようと喚いている。
けれど、もう10分が経った。
強盗、泥棒、簒奪者。そういった者たちにとって10分という時間はもう判断をしなくてはならない時間だ。

簒奪を続けるか、諦めて退散するか。
二つに一つ。そして大抵前者は碌なことにならない。

10分経ってまだ目的のものを盗めなかった泥棒は、その時点でもう盗みを失敗したと考えていい。

「早くブツを出せって言ってるのがわかんねぇのか!」
焦りを見せる覆面の男の怒号に女性スタッフは泣きながら首を何度も横に振った。

「な、な、無いんです……USBが……!ちがっ、だって、ここに保管しておいたのに……!ここにあるはずなのに!なんで無いのよぉ……!」

厳重に保管していたケースの中にそのUSBが無いことを知って一番絶望しているのはその女性スタッフだろう。
それさえ渡して仕舞えば、武装した男にもう怒鳴られることも銃口を向けられることもないのに、あるはずのUSBがそこに無い。
片っ端から様々なケースを開いてはUSBを必死に探す女性スタッフ。彼女のパニックは感染し、覆面の男たちはそれをわかりやすく苛立ちとして見せる。苛立った覆面の男の1人が、銃で足を撃ち抜かれて床に転がる現場責任者を顔面を蹴りつけた。鈍い悲鳴とうめき声。

「終わってんな」
苗字の隣に座る男がつまらなそうに呟いた。その言葉に顔を上げた苗字は彼の横顔を見る。
黒髪に細かくメッシュを入れた髪色は奇抜に見えてひどく彼に似合っているように見えた。苗字が彼の鋭利な横顔に惚けている間にも、男は冷たい眼光で覆面の男たちを射抜いていた。

「あ、え、へへへ……ですよね、こんなに時間かかってちゃ、もう失敗同然ですよね」
「ああ、せめてやり方変えるか撤退するか、その判断くらいはしなきゃなんねぇ段階だがそれさえ出来てねェんだ」
オレだったら首飛ばしてる、と吐き捨てた男は上等そうなスーツを身につけていて、苗字からはスマートな大人の男性に見えた。

きっと彼は人の上に立って指示をする側の人間なのだろう。苗字と同じく人質の身でありながらも堂々たるその様に、使いぱしられる側の苗字は「ふわぁ……」と感嘆ともあくびとも取れる声を上げた。

雰囲気が怖いから真っ当な職では無いだろうけど……とまで考えて、苗字はここが非合法のオークション会場であることを思い出した。ここにいる人間が真っ当な人間のはずがない。自分のことを棚に上げて苗字は思った。


「あ、あは、へへ、あ、あの、半間さん」
「ア?」
「半間さんって、ぇ、へへ、わ、悪い人ですか?」
「善良な人間だったら今ここで縛られちゃいねぇだろうな」
「あ、え、へへ、たしかにですねぇ」

頭の悪そうな苗字の問いかけにもさほど不快そうな顔をせずに彼は答えた。壁際に追いやられて座り込むだけの時間が彼としても退屈だったのかもしれない。銃を持った強盗に襲われていると思えない和やかさで2人は会話を続けた。

「半間さんも悪い人ならいいかな……って、えへ、へへ、あの、内緒話っていうか、つまりは懺悔みたいなやつを、しようかなって、へへへ」
半笑いで唐突にそんなことを言い出した苗字に男は片眉を上げる。話を続けても良いか、と尋ねるように見上げてくるものだから、好きにすればいいとばかりに彼は息をついた。それを見て苗字は嬉々として唇を開いた。

「あの、このオークションの1番の目玉商品って、何か知ってます?」
「あの覆面の連中が探してるモンだろ」
「あ、はい、正解です、へへへ。あのUSBの中にどんなデータが入ってるのかなんて私は知らないんですけど」

大枚をはたいてでもあのUSBの中のデータを手に入れたい連中はいくらでもいて、中には大金を払わずに手に入れたい奴らもいる。覆面の男たちは後者だった。

「あの覆面の人たち、頑張ってUSB探してるじゃないですか」
「ああ、そうだな」
「でも、どんなに頑張っても見つかんないですよ、USB。だって、もう盗まれちゃってるんですから」
「……は?」

苗字の言葉に、冷徹そうな男も思わず隣に座る女の顔をマジマジと見てしまう。視線を返された女は目が合った途端に頼りなく半笑いを浮かべた。

「盗まれた?」
「あ、は、はい。覆面の人たちが来る少し前に」
「……誰に?」
「あ、私です、あ、へへ」

苗字はへらへらと笑った。それを見て男は目を見開いて驚く。
彼は九頭龍組が出品する商品がそれは厳重なセキュリティによって守られていることを知っている。それを隣にいる頼りなさげにもほどがあるような女に盗めるとはとてもじゃないが思えなかった。

けれど苗字からしてみればUSBを盗むのが彼女に与えられた仕事だったからそれをこなした。ただそれだけのことに過ぎない。
どれだけ強固なセキュリティであれど、それは閉じ込めるために仕舞う訳ではない。
いずれそこから出すという前提があるのならば、開けられないはずもない。鍵があるなら開けられるし、パスワードがあるなら開けられる。
『盗む』という行為において、苗字は天才的な才能を持っていた。


「あ、へへ、あの、私、副業で泥棒をやってて、別にしたくてやってるわけじゃなくて依頼がたまに来るから、仕方なくそれをやんなきゃいけないだけなんですけど、へへ……。それで私はもうUSBを盗み終えたから、あとは帰って依頼してきた人に渡すだけだったんですけど、急に覆面の人たちが来ちゃったから帰れなくて、えーっと、困ってます、えへへ」
運命共同体となった女がそう言って半笑いを浮かべるのを見て、男は溜息をついた。

馬鹿げた話だ。だが、おそらく嘘ではない。
こんな状況でついて得のある嘘ではないし、それが事実ならば覆面の連中がいつまで経ってもUSBを見つけられないことにも納得がいく。

だが、しかし。

「なんでそれを今オレに言ったんだテメェは」
「あ、え、はは、へへ、なんか頑張ってUSB探してる人たちを見たら可哀想だなって思ったんですけど、流石にあの人たちには言えないから半間さんに懺悔しちゃった、みたいな感じですか、ね?」
「なんでテメェが疑問系なんだよ」
この女と話していると気が抜けて仕方ない。呆れて溜息をつく男に苗字はやはり「へへ、へ」と気の抜けた笑みを浮かべるばかりだった。

「あはは、へへ、半間さんも悪い人なんですよね」
「あー、そうだな、ここにいるからな」
男はだるそうに答えた。女は気にせず話を続ける。
2人がこんなふうに緊張感のない会話をしている間にも、現場責任者の男は殺害され、女性スタッフは腕を撃たれて泣き喚いていたが、2人にとってはそこまで興味のある事象では無かった。

「だから、ですかねぇ」
「なにがだよ」
「悪いことしてると悪いことが返ってくるみたいな」
「因果応報」
「そういうやつです、へ、へへ、私たちがもっと良い子だったら、ヒーローとかが来て助けてくれたりしたんでしょうかね、はは」

苗字が戯言だと自覚して言ったその言葉。
けれどそれを耳にした男は少しだけ開いた唇を震わせた。
苗字がまったく意識をせずに言葉にしたそれは、きっと確かにトリガーだったのだ。

「……なんだ、お前はヒーローを見たこともねぇのか」
「……え?……あ、あるんですか?半間さんは」
彼は苗字の言葉に肯否は答えずに、ぼんやりと呟くように言葉を続けた。苗字はそっと盗み見るように男の横顔を見る。


「ヒーローってのは誰かを助ける奴のことじゃねぇ」
彼女の目に映ったその人は、それは或いは、

「勝てないとわかっていても、拳を握り締めて目の前の強大な敵に立ち向かう者のことだ」

空の向こうで輝く、遠い遠い明星を見つめる子供のように見えた。



落星の如き、凄まじい破壊音!


苗字が男の横顔を見つめていたその時、凄まじい破壊音と共に会場にたったひとつだけある扉が外側から勢いよく破壊された。

重厚な扉が大きな衝撃を受けて会場側へ音を立てて倒れ落ちる。扉が倒れる轟音が鳴り響いた後の室内は、それまでの喧騒が嘘のようにシンと静まり返るばかり。

誰もがその音の鳴った方へ目を向けた。
誰もが目を開いて驚いていた。
花火よりも風船よりも銃声よりも近くて鮮明な変革の音。終わりを告げる終末の音は誰にとっての福音で、誰にとっての凶報なのか、その時は誰もわからなかった。

ただひとり、苗字の隣にいる男を除いて。


しゅぱん、と乾いた音が聞こえた。と、同時に入り口付近を監視していた覆面の男が倒れる。
それからすぐに1人の男が会場の中へゆったりと入ってきた。

背の高い男。目の前にその男が現れたら、きっと誰もがまずはその高身長に驚くだろう。事実、苗字は何が起こっているのかわからないまま、それでもその新参者を目にした瞬間に(すごく大きい人だ)と思った。

背の高い男は黒髪に細かく金のメッシュを入れた髪型で、上等なスーツを纏っているところから身なりのいい人間であることが窺えた。

それだけに彼が手に持つサイレンサー付きの銃と、その男の両手の甲に刻まれた「罪」と「罰」の刺青だけが異彩を放っている。

背の高い男はまるで街中を歩いているような軽やかさで歩みを進める。そして先程彼自身が射殺して倒した覆面の男の胸倉を拾い上げるように掴むと、そのままその死体を別の覆面の男へサイドスローで投げつけた。重たいはずの成人男性の肉体を、それはまるでボールか何かを投げたみたいに容易く。

仲間の死体を投げつけられて体勢を崩して怯んだ覆面の男は抵抗する間もなく仲間同様にすぐに射殺される。
乾いたサイレンサーの音。
的確なヘッドショット。

無駄のない殺人は流れるように続き、慌てたように震える手で銃を乱射する最後の覆面の男にも慌てることなく銃口を向けた。乱射する相手に対して1発。たった1発で背の高い男はこの騒乱を鎮めた。

本当にあっという間の出来事。そのスピード感のある仕事ぶりに、苗字は思わず「ふわあ……」とあくびのような感嘆の声を上げた。
それから自分の隣にいる男へ目を向けて、言葉を紡いだ。

「あ、え、あ、半間さん、あれがヒーローですか?」
苗字がそう尋ねると、苗字に「半間」と名乗った男は呆れの中にどこか柔らかい感情が混ざった声でこう言った。

「バカ言え。ああいうのは『死神』って呼ぶんだ」

アレは違うのか難しいな、と苗字は思って首を傾げていると、背の高い男がひらひらと手を振りながらこちらへやってきた。

「お疲れ様です、『稀咲』さん」
「来んのが遅ぇんだよ、『半間』」
「……ん、あ?え?え、あ、へへ、あれ?」

苗字に「半間」と名乗った運命共同体の男が「稀咲」と呼ばれ、苗字に「半間」と名乗った運命共同体の男を「稀咲」と呼んだ男が「半間」と呼ばれたことに気がついて、苗字は頭の中に大量の疑問符を生み出した。

「あ、あえ?半間さん?」
「はい?どこかでお会いしたことがありましたか?」
運命共同体の男の名を呼んだはずが、何故か手に刺青のある男が返事をしてくる。その声音がどこか揶揄うようなものであることに気がついて、「稀咲」は「半間」へシッシッと手を振った。

「半間、いいからテメェはテメェの仕事をしろ」
「了解です、稀咲さん」
機嫌の良さそうな声で返事をした背の高い男は苗字たちの前にしゃがみこんで2人を縛っていた縄を解いた。

そしてすぐに立ち上がり、2人へ背を向け、そのまままたフラフラと歩き出したかと思うと、何が起こっているのかまるで理解しきれていない顔で地べたに座り込む女性スタッフの元へ歩み寄った。

「オネーサン、手ぇ撃たれてんじゃん。だいじょーぶ?痛くねぇの?」
「あ、……は、はい、い、痛いです、けど、大丈夫、です……あの、えっと、私、助かった……んですか……?」
しゃがみこんだ女性スタッフは目に涙を浮かべながら半間を見上げる。半間が彼女へ柔らかい笑みを向けると、女性スタッフの表情に段々と安堵の色が戻ってくる。そうして彼女が震える腕で、震える脚でなんとか立ち上がろうとしたその時。

しゅぱん、と乾いた音が聞こえて、それからすぐにドサリと人が床に倒れ伏す音が聞こえた。

半間はさして手間取ることもなく女性スタッフを殺害すると、先ほどまで浮かべていたそれらしい造り物の笑みを消して稀咲の元へ戻った。

「終わりましたよ、稀咲さん」
「ああ、ご苦労」
「あ、え?え?なんであの人も殺した、んですか……?」
「……お前も見てただろ?あの女が犯人グループとの銃撃戦に運悪く巻き込まれたところを」
「えっ、あ、あはは、わー、あー……目撃者の証拠隠滅だぁ……私も隠滅されるのかなぁ……」
思わず苗字は2人の顔を交互に見る。
苗字とて、まさか生き残ったかと思われたあの女性スタッフまで殺されるとは思わなかった。
この場にいた人間が次々と殺されていくものだから、次は自分の番かと肩の力を抜く。殺すなら1発で即死させて欲しい。死ぬことよりも痛いことの方が怖い苗字は自由になった両手を合わせて祈った。


「おい、苗字」
立ち上がった稀咲はまだ腕に絡みついていたロープを煩わしそうに床に落とすと、そのまま視線を地べたに座り込んだままの女へ向けた。そして最早運命共同体などではない苗字の名前を呼ぶ。

「ひゃい……半間さ、……じゃなくてぇ、えっと、」
「稀咲だ。いい加減察しろ。お前には一時的に偽名を名乗っていただけだ」
「きさきさん……へへ、あ、はい、なんでしょうか、稀咲さん」
「出せ」
「あ、命を……?へへ……」
「USBだ、早くしろ」
「あ、あ、なるほど。えへへ、はい」

苗字は自由になった手でポケットをまさぐると、その中から掌に容易く収まるほど小さなUSBを取り出して、それを稀咲へ渡した。
それを受け取った稀咲はUSBをマジマジと見つめてから「本当に盗んでたのかよ……」と呆れたように呟いた。

溜息をつきながら受け取ったUSBをジャケットの内側に仕舞った稀咲は、面倒くさそうに、けれど説明するように女へ話しかける。


「この裏オークションを仕切ってる九頭龍組とウチとはビジネスパートナーでな、出資したりあっちの商品の輸送ルートに関わったりしてるわけだ」
「あ、へえ、はあ……」

訳がわからないまま稀咲の言葉に耳を傾ける苗字。稀咲のそばに立つ半間がまだ銃を仕舞わないものだから、この話が終わったら殺されるのかな、と思っている。

「九頭龍組に損害がありゃあ当然大なり小なりウチにも損害が来る。ここまでは理解できるな?」
「あっ、大丈夫です、はい、えへへ」
「だからオークションの商品を狙った馬鹿共が襲撃する情報を得たオレたち東京卍會は、先行して潜入させていたウチの人間にターゲットであろうUSBを事前に保護させていた。一手遅れて襲撃自体は発生したものの東卍側で鎮圧済み。結果犯人3名を殺害、犯人に1人が殺害され、銃撃戦に巻き込まれて1人死亡、といったところか」
「納得の作り話で九頭龍に恩が売れそうですね、稀咲さん」
「作り話?バカ言え、結果的にはそうなってるだろ」

稀咲の発言に楽しそうに拍手をして笑う半間に、稀咲は言葉を返す。
けれど2人の話がよく見えなくて、苗字は眉を下げて2人へ問いかけた。

「へ……?先行して潜入させていたウチの人間……って誰のことですか?」
途端に稀咲と半間の視線が地べたに座り込む苗字へ向けられる。立っている2人から見下ろされてなお小首を傾げる苗字。答えを教えてやるように、稀咲と半間は揃って指を指した。

「お前」「お前」
苗字へ向かって向けられた2本の人差し指に、彼女はやはり半笑いを浮かべて困惑するほか無かった。
それから後ろを振り返って誰もいないことを確認してから、2人の言葉を否定するようにやわやわと首を横に振る。
察しの悪い苗字を見て、稀咲が軽く手を振るとそれを見た半間が銃口を彼女へ向ける。

「お前がこの話を否定するならオレたちはお前をぶっ殺すだけだ。テメェが何処の誰に依頼されて盗んだのかを吐かせてから惨たらしくな」
「あ、あえ、へへ、あ、はい、わかりました……えっと、最初から仲間でしたってことにすれば、いいんです?よね?」

今度は素直にガクガクと首を縦に振って両手を上げる苗字に男2人は憐憫と侮蔑を混ぜ合わせたような目で彼女を見る。それは例えるのなら家に侵入してきた泥棒相手に腹を見せて懐く犬を見るような目だった。

「……まあいい。わかったらとっとと立て。着いてこい」
稀咲は肩を落とし、半間は銃を仕舞う。
苗字は壁に手をついてヨタヨタと立ち上がると、さっさと背を向けて歩き出す2人に置いていかれないようにフラフラとおぼつかない足取りで歩き出した。

飼い主についていく子犬のように、稀咲の背を追って会場を出て廊下を進んでいく。あたりに散らばっている死体が、覆面の男たちによるものなのか、半間によるものなのか苗字には判断つかなかった。

「あのぅ、質問してもいいですか……?」
おずおずと手をあげる苗字をチラリとも見ずに稀咲は返事をした。
「ダメだっつったらどうする」
「えっ、あ、静かにします、へへへ」
「……で?なんだ、質問ってのは」
「あ、え、あ、はい、あの、なんで偽名名乗ったんですか?あの、私に」
「ああ、それはオレも気になりますね。なんでわざわざ『半間』なんて名乗ったのか、聞かせてくれません?」

苗字側に乗った半間が面白いおもちゃを見つけたような顔をするものだから、稀咲は面倒くさそうな顔をした。溜息をついてさしてズレてもいない眼鏡の位置を直す。

「お前が銃を持った相手に冷静すぎたからだ。元々お前が九頭龍組の人間ではないことは分かっていた。だが、明らかにパンピじゃねぇし、ウチの人間でもねぇ。だからお前のことをここに潜入している警察だと思ったんだ」
「このちんちくりんが、ですが?」
「あ、へへ、ちんちくりんって言われた……初対面なのに……悪口……へへ……」
「ですが、稀咲さん、だったら顔割れてるサツ相手に偽名を名乗ったって無駄なんじゃないですか?」
「逆だ。稀咲鉄太だとわかっている男が明らかに偽名を使って名乗ってきたら、警察なら絶対になんらかの反応を示すだろ。言動に出さずとも、呼吸や脈拍からある程度はわかる」

稀咲は苗字へ目を向ける。その視線に気がついて苗字は稀咲の目を見つめ返す。
相手が虫を殺すように人を殺せる人間だとわかっているのかいないのか、まるで警戒心のない苗字の様子に飼い犬とはこういうものなのだろうか、と思った。


飼った経験は無いが、犬は嫌いじゃない。勿論飼い主を噛まないならば、という前提はあるが。

……犬。犬か、飼ってもいいかもしれない。少なくとも気まぐれな猫のような奴はもういらない。従順で、愚かで、頭の悪い、けれど持ってこいと命令したものをきちんと持ってくる優秀な犬。
それはさほど悪くない案に思えた。


稀咲は先程まで苗字の手首と共に縛られていた、右の手首を摩りながら口を開く。

「偽名を聞かされても、それどころか女が脅されても男が殺されてもUSBを盗んでいることを懺悔した時も、お前の脈拍は変わらなかった」
「え、あ、はは、へへ、すいません……」

叱られたのかと思って首をガクンと下に下げた女に稀咲は溜息をつき、半間は堪えるように笑った。

「謝んな。褒めたんだよ、今のは」
「あ、え、はい、へへ、ありがとうございます、へへ」
「馬鹿が」
「あ、へへ、ありがとうございます……?」
「今のは褒めてねぇよ」
「あ、はい、すいません?へへ……」
稀咲がそれきり口を噤んでさっさと先を歩いて行ってしまうので、小柄な分コンパスの小さい苗字はぱたぱたと小走りに着いていく。


苗字は難しいことを考えるのが苦手だったので、何故こうなったのかだとか、どうしてそうしなければならないのかだとか、これからどうなるのかだとか、そういった思考そのものを容易く放棄した。
多分、稀咲が自分の新しい主人になるのだろう、とそういうことだけは外さずに理解していたけれど。

抵抗することなく首輪を受け入れた苗字は餌をくれるまではその人を主人だと受け入れる。
あるいは、主人から不要だと断ぜられるまで。

まあ、苗字はあんまり考えることが苦手なので、未来のことはあんまり考えない。
いつかそうなるのなら、それはきっとそういう運命なのだ。

今日、稀咲という男と出会ったことがそうであるように。


(2021.08.29)