遙かなる西天 01


「結婚しろよ」
そう言ったのはイザナだった。

鶴蝶が床に広げていた絵本を彼の隣で眺めていた名前はその言葉に顔を上げる。
続いて鶴蝶もイザナの方へ目を向けた。

床に座り込んで絵本を読む名前と鶴蝶を、イザナは本棚の上に座り込んで高いところから眺めている。
彼はいつだって自信満々で物怖じしなくて、鶴蝶と名前からはそんな彼が王様みたいに見えた。古びた本棚さえ玉座に見えそうなくらい立派な王様に。

施設にある図書室の窓から吹き込んだ風がイザナの柔らかい白銀の髪をふわふわと揺らした。
戸惑いの混じった沈黙の後、名前はイザナの言葉に小首を傾げて問いかける。

「結婚?わたしがイザナと?」
するとイザナはわかりやすく不機嫌な顔をして「はぁ?」と声を上げた。
「なんでオレが名前と結婚しなきゃなんないんだよ」
「えー?じゃあ誰と誰が?」
疑問を重ねれば重ねるほど、察しの悪い名前にイザナの機嫌が悪くなる。そんな2人の様子を鶴蝶は少し不安げにどきどきしながら見つめていた。

イザナはぎゅっと唇を結ぶと、人差し指でまず鶴蝶を指さした。それからその指が横にすっと移動して名前の顔を示して止まる。そうしてから口を開いた。

「お前ら」
唐突にそんなことを言われて鶴蝶はびっくりしたし、名前はやはりキョトンとよくわかっていないような顔をした。

「なんで?なんでわたしと鶴蝶が結婚するの?」
「下僕同士お似合いだからに決まってんだろ」
「えー?なんでなんで?」
何度も疑問を繰り返す名前に面倒くさくなったのだろう、イザナは「うるせぇなあ」と素っ気ない声を上げた。
「王様のオレが決めたんだから黙ってそうしろよ」
その答えにやはり「なんで?」と言いかけた名前の袖を鶴蝶は慌てて掴んで止めた。多分それ以上「なんで?」と言ったらイザナが怒りそうだったから。

鶴蝶に止められた名前は頭の上に何個も疑問符を浮かべたような顔をしていたけれど、もう「なんで?」とは聞かなかった。

「えー、わたしはいいけど、鶴蝶は?」
隣に並んで座り込む鶴蝶の方を見て、今度は彼へ問いかける。
その問いかけに鶴蝶は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。まさかこちらに振られるとは思わなかったのだろう。鶴蝶は伺うようにイザナを見てから、視線を移して名前の顔を見た。

結婚ということは母さんと父さんみたいに夫婦になって一緒に暮らすということなんだろう。
それを知識として知っていたけれど、その関係性をを自分と名前に当て嵌めるのはまだ幼い鶴蝶には酷く難しいことだった。

「……イザナがそう言うなら、オレは別に、いいけど……」
なんだかドギマギしてしまって俯きながら段々と小さくなる語尾でそう答えた鶴蝶に対して、名前は「ふーん」と特に気にする様子もなく相槌を打った。

「わかったー。じゃあ大人になったら鶴蝶と結婚するね」
「絶対そうしろよ。忘れたら死刑だからな」
釘を刺すイザナに鶴蝶は顔を赤くして「うん……」と呟くように言って、名前は元気よく手を上げて「はーい」と笑った。

結局最後まで口にしなかったけれど、それは当時のイザナなりの下僕たちへの優しさだった。

真一郎という家族がいる自分と違って、事故で親を失った鶴蝶と虐待を受けて親から引き離された名前にはもう家族も帰る家もない。
だから、ひとりぼっちの2人が結婚して家族になればもう寂しくないだろうと思ったのだ。


再び絵本へ目を落とした名前は、ページの中で戦う孫悟空とそのそばにいる三蔵法師を指差して、「ねぇ〜!」と2人に聞こえるように声を上げた。

「前にさあー、イザナが言ってたじゃん。鶴蝶が悟空で、イザナがさんぞーほーしって」
イザナと鶴蝶は急に声を上げた名前のほうへ目を向ける。
名前は鶴蝶と同い年だったけれど、鶴蝶より自由奔放で天真爛漫で好き勝手なところがあって、それゆえに2人からは一番手のかかる末っ子のように思われていた。

床に広げられた西遊記の絵本を見ていて、以前の雪の降った日のことを思い出したのだろう。
2人とも付き合いが長い分、名前の唐突さには慣れたものだった。前後の脈絡も無く勝手気ままに話題を切り替える名前に今更驚くこともない。

「じゃあ、わたしは?」
「じゃあって、なにがだよ」
「わたしは何?ちょはっかい?さごじょー?」
自分も登場人物に当て嵌めて欲しいのだろう。ワクワクと期待に満ちた目を向ける名前にイザナは少し考えるように視線を天井の方へ向けた。
つられて鶴蝶も視線を上に向けて考えてみる。

猪八戒や沙悟浄……は、うまく言えないけれどなんだか名前らしくない気がする。
じゃあ何なら彼女らしいのか、と問われると難しいのだけれど。

そうやって鶴蝶が頭を悩ませていると、それより先に適役が思い浮かんだのだろう、イザナが名前の名前を呼んだ。

「名前、お前は、」
「うん!」
「筋斗雲」
「わー!筋斗雲!……えー!筋斗雲ン〜〜?」
「なんだよ、文句あんのか」
「え〜〜!だって!え〜〜!なんで〜〜?」
名前は大声で喚いてから、鶴蝶の腕を取ってぐっと顔を寄せると同意を求めるように「違うよねぇ〜!?」と唇を尖らせた。

「筋斗雲ってさあ、なんか違うよぉ!人じゃないし!」
「名前、西遊記は三蔵法師以外は人じゃねぇよ?」
鶴蝶がフォローするようにそう教えたけれど彼女は納得してないらしい。不満げにうーうーと唸るばかり。けれどイザナは何も言わずに窓の外を眺めてばかりいるから、きっとそれ以上は言わないだろう。
鶴蝶は少し困って、でもやはり彼女の不満を無視して黙り込むことは出来なくて口を開いた。

「筋斗雲は、ほら、悟空が困った時にすぐ来てくれるだろ?だから、ピンチの時に駆けつけるヒーローみたいでカッコいいじゃん」
名前の顔を見つめて宥めるようにそう言ってやれば、彼女は唸るのをやめて少し考え込むような顔をした。

「……ほんとにカッコいいって思う?」
「思う」
「……んー、……じゃあいいよ」
それで溜飲を下げたらしい。彼女は床に広げた絵本の中、孫悟空が乗る金色の雲の絵を撫でてちょっと笑った。

鶴蝶はそれを見て少し安心した。
名前が猪八戒とか沙悟浄じゃなくてよかったな、と思う。名前はオレたちと違って、敵と戦うのが似合う子じゃないから。

多分、これは想像だけど、イザナもそう思ったから筋斗雲なんて言ったんだろう。
本棚の上に座るイザナが絵本の中の筋斗雲を撫でる名前を見て、少し嬉しそうに頬を緩めたのを鶴蝶だけが知っている。




鶴蝶は今でもたまに思い出す。

結婚だとか筋斗雲だとか、そんな話をしたのは幼い3人がまだ施設にいた頃のその一度だけ。

きっとイザナも名前もこんな話をしたことなんて忘れてしまっただろう。
流れた月日は3人をすっかり変えてしまった。

イザナは深い絶望を知って冷徹な男になってしまったし、名前はもう昔のように笑わなくなってイザナの命令を黙って聞くだけの機械のようになってしまった。

それでも鶴蝶は彼らから離れることを選ばない。

いつか。そう、いつかきっと、子供の時に笑って語り合った理想の国に至れたのなら、きっと昔のように笑うことができるはずだと信じている。

信じていたいと願っているから。