遙かなる西天 02

2006年2月22日。

天竺と東京卍會の抗争の最中に鳴り響いた銃声は青天の霹靂だった。

稀咲が鶴蝶の心臓を狙って躊躇いなく撃った銃弾は、彼の狙いを逸れて鶴蝶の左腕を貫くに終わる。

外したわけではない。
稀咲が体勢を保ったまま引き金を引いていたのならば、その凶弾は確かに鶴蝶の身体を貫いていた筈だった。

その場に乱入者さえ入らなければ、彼の望み通りに世界は変化していた。

稀咲が鶴蝶を狙って引き金を引いた瞬間に、名前が彼の身体を勢いよく引き倒しさえしなければ。

その状況を瞬間的にすべて把握できた人間はほとんどいなかった。


マイキーを殺そうとするイザナを止めた鶴蝶が撃たれたこと。
それを撃ったのが天竺の仲間である筈の稀咲だったこと。
その稀咲の行為を止めようと第三者が現れたこと。

現れた第三者が稀咲を地面に引き倒して馬乗りになり、奪い取った銃の先を稀咲の頭に押し当てたこと。


何が起こったのは彼女を除いて誰も把握出来なかった。だから必然、この場を支配するのは全てを把握している名前になる。

「誰も動いてはいけない」

決して大きくはない声がその場に響き渡る。
その声の主が何者なのか、わかっていたのはイザナと鶴蝶と、それから稀咲だった。

「動けばこの男を撃つ。動いた人間も撃つ。脅しでは無い。私は決して外しはしない」
地面に引き倒された稀咲は自分を邪魔する相手を睨みつける。
その視界に映った顔を知っていた。
天竺に、イザナの裡に入り込むために彼の周囲のことは調べ上げていたから。

苗字名前。
イザナと同郷の女。鶴蝶と同じくイザナの下僕であり、イザナの命令だけを聞く機械のような人間。けれど鶴蝶のように武闘派ではなく、そもそも天竺の一員でさえない。

故に利用価値のない路傍の石だと判断して利用さえしていなかった。
この女にとってイザナは価値のある人間だったか、イザナにとってこの女は価値のある人間ではない筈だったから。
イザナに呼ばれたわけでもないこの女が、この場に現れるわけがないと思っていたから。

そうだ、この女がイザナの命令もなく行動を起こすはずも無いのに。

「名前……?」
静まり返った現場で、鶴蝶が驚いたように彼女の名前を呼ぶ。撃たれた腕の痛みさえ忘れそうになるほどの衝撃。

どうして、あの子がここにいるのか。
例えあの頃の笑顔を失っても、彼女だけはこんな血に塗れた場所に来てはいけないはずなのに。

鶴蝶に名を呼ばれても名前は彼の方を見なかった。
ただ静かにイザナを見つめて口を開く。

「命じてください、イザナ。撃てというのならば私は確かにそのようにしましょう」

彼女から命令を求められたイザナもまたこの状況を理解し切れてはいなかった。
鶴蝶が撃たれたこと。
そのことに自身の感情が掻き乱されたこと。
命令もなく現れた名前がイザナに命令を求めること。
その全てが、理解できなかった。
はくはく、と声にならない声が喉から生まれる。
乾いた喉でイザナは無理やり言葉を吐き出す。

「……なに、してんだ、おまえ」
問いかける声に名前は首を傾げた。何故そのようなことを問うのか、まるでわからないような顔で。

「貴方の命令を遂行するためです、イザナ。この男は鶴蝶を殺害しようとした。それを受容することは貴方からの命令を反することと同意義になる」

命令。まるで覚えのない言葉にイザナは戸惑う。
「な、にを、言って」
「全て貴方が言ったんでしょう?」
その表情に答えるように名前は薄い唇を開く。

「私は貴方の命令を命に変えても遵守する。あの日貴方が言った命令は一度たりとも上書きされてなどいない。だから私は、例えこの世界を犯してでも、」

温度のない声。
光のない瞳。
揺れることのない手。

「必ずや鶴蝶と添い遂げてみせる」
「……は、?」
戸惑いの声はイザナから生まれた。

鶴蝶と添い遂げる。
熱烈なプロポーズにさえ思えるような言葉は今この状況とはかけ離れた言葉だった。

イザナも鶴蝶もその意味を、その価値を、その感情を理解できない。
銃口を押しつけられた稀咲もまたその言葉の価値は理解できなかった。その意味と感情、そして彼女がその胸の裡に内包する苛烈な熱だけは確かに理解できたけれど。

「……筋斗雲」
鶴蝶は呟いた。
……あの日のことだ。まだ3人とも幼く何も知らない子供だった頃の、あの、風が吹き込む図書室でのこと。

(「結婚しろよ」)
(「おまえら」)

(「えー!筋斗雲ン〜〜?」)
(「ピンチの時に駆けつけるヒーローみたいでカッコいいじゃん」)

名前は、あの子は忘れてなどいなかった。
ずっと覚えていて、あの日の約束を守ろうとしている。だから今ここにいる。ただそれだけだった。
鶴蝶はイザナに救われたあの日から、彼と共に生きると決めた。その果てに己がどんな末路を迎えようと構わない。彼のために生きて死ぬのだと信じてやまない。それこそがいつか語り合った夢に辿り着くための祈りだと信じているから。

きっと、名前も同じだった。

「命じてください、イザナ。貴方はただ一言告げるだけでいい」
光のない目で名前はイザナを見つめ続ける。

「「殺せ」とただ一言、私に言えばいい」

きっとイザナがそう言えば、名前はその通りにするだろう。
命じられるがまま、全ての躊躇いを踏破して稀咲の頭に銃弾を撃ち込む。

けれど、それだけはしてはならない。
鶴蝶は叫び出したかった。

例えどんな理由があっても、殺しだけはしてはならない。消失を経験したことのある鶴蝶には、人が死ぬことの意味がわかっていた。
殺してはいけない。それは最大の略奪で暴力で、罪だ。人は、人の命を背負えるほど強くなどない。

それになにより、鶴蝶は名前にだけには人を殺してほしくなかった。
わかっている。
それが勝手で理不尽な感情なのだとわかっている。

それでも鶴蝶は名前のことが好きだから。
……ひとりの女の子として大切だから、人殺しなどして欲しくなかった。

「ダメだ……名前、それだけはダメなんだ」
感覚が消えかけている腕を押さえながら、鶴蝶はイザナを見た。きっと自分では止められない。彼女は鶴蝶の言葉に耳を傾けない。もしも彼女を止めることができるとしたらそれはイザナを置いて他にいない。だから鶴蝶は縋るようにイザナの顔を見た。


この場で唯一選択を望まれたイザナの心はいつしか、不思議と凪いでいた。
鶴蝶が見つめたイザナの顔からゆっくりと困惑の色が消えていく。
傷と血に塗れた顔は次第に無表情に変化して、それから息を吐き出すみたいに笑った。

「名前」
イザナが彼女の名前を呼ぶ。

「殺すな。銃を捨てろ」
名前は一瞬動きを止めて、それから「はい」と呟いて手にしていた銃をイザナたちの方へ地面にスライドさせるように投げた。それでもまだ稀咲の上からは立ち去らない。左手で彼の首を押さえたまま、黙って見下ろす。

警戒を緩めない名前にイザナは少し笑う。
それが何のために、誰のためにしているのかがもうわかっていたから。

「……筋斗雲が戦うわけないだろうが。本当に馬鹿なんだよ、お前らは。……くだらない命令なんか忘れちまえばよかったのに」
できないとわかっていて、そう呟く。そうでなかったことを喜ぶ自分がいることを否定できないくせに、そう零した。

その時にはもう抗争などどうでもよかった。
今のイザナにはもう十分すぎるほどわかっていたから。
すっかり冷え切った頭で、幼い頃に彼らへ告げたたわいもない絵空事を想起する。あの風が吹き込む図書室でのことをイザナはもうすっかり思い出していた。

本当はずっと疑問に思っていた。
自分から鶴蝶や名前が離れていかないのはどうしてなのか。
恐怖や利害ではないことはもう知っていた。だからこそどうしてなのかわからなかったけれど、それさえ今はもういい。

イザナは、本当は真一郎ともマイキーともエマとも、血の繋がりは無い。
あると信じていたけれど、それはどうしようもない現実を前に裏切られた。一度その温もりを知ってしまったから、失うことが辛くて苦しくて、だから大切なものなんてもう欲しくなかった。

馬鹿なのはオレのほうだ。
オレにはお前たちしかいないと、知っていたくせに。
家族よりもずっと長くずっと近いところにいた2人を知っていたくせに。
怖くて目を逸らしていた。いつか失う日が来ると、来てもいない未来に怯え続けていた。

「もう、いい。終わったんだ」
もういいんだ。ふらつく脚で一歩前に進んだ。

「名前、もういい。もう、」
帰ろう、と、イザナが言った言葉は激しく噴かされるバイクのエンジン音に掻き消される。


それは一瞬のことだった。


稀咲に馬乗りになる名前のほうへハイスピードのバイクが突っ込んでいったかと思うと、その勢いのまま無防備になっていた名前の頭を蹴り飛ばした。

バイクの速度と脚力が相乗され、まだ未発達な女の体は容赦なく吹き飛ばされる。ゴムボールのように容易く蹴り飛ばされた名前はそのまま地面を転がり、落雷のような音と共に激しくコンテナに叩きつけられる。

「名前ッ……!」
鶴蝶の悲鳴のような叫びが、まるでどこか遠い世界のことのようにイザナの耳に届いた。

「稀咲の邪魔してんじゃねぇよ」
名前を蹴り飛ばした半間はバイクに跨ったままそう吐き捨てると、地面に横たわっていた稀咲を軽々と抱え上げてそのままバイクで逃走する。状況を素早く理解した花垣とドラケンがそれを追いかけていく。

静寂に満ちていた場に喧騒が戻る。煩い。煩い。誰かの呼吸が煩い。イザナは自分の荒い呼吸が頭の中で反響していることに気がついた。世界がグラつく。視界がブレる。現実を認識することを拒絶している自分に気がつく。

「名前!名前ッ……!」
倒れた彼女の元へ駆け寄った鶴蝶が名前の名前を必死に呼んでいる。
名前。名前……?

「イザナッ!どうしよう、名前が……!血が止まらねぇ!」

どうして。
どうして、名前が倒れているのだろう。
どうして、名前が血を流しているのだろう。


不意に自分が重ねた罪を思い出す。

……もしも報いがあるというのならば、どうしてそれはイザナ自身の元にやってこないのだろう。


フラフラとおぼつかない足取りで鶴蝶と名前の元へ向かう。銃弾に貫かれた腕でそれでも必死に名前を抱き抱える鶴蝶のそばまで辿り着き、カクンと崩れるようにその場に座り込んで名前の顔を見る。
彼女の頭から流れる血は止まらない。流れる赤が彼女の顔を汚す。それでも呼びかける鶴蝶の声に名前は薄く目を開いた。

「名前……!大丈夫だ。すぐに病院に、」
「……かくちょ、いざな……?」
その時の名前にはほとんど目が見えていなかった。朧げな視界の中、誰かが自分を抱き抱えてくれている。
きっと鶴蝶だろうと思った。
鶴蝶だったらいいな、と思った。

「いざな、ほんとは、しってたんでしょ?」
伸ばされた手をイザナは反射的に握った。それが酷く冷たくて、恐ろしかった。

「わたしが、かくちょうのこと、すきって、しってたから、ああいって、くれたんだよね」
「……うるせぇばか。知らねぇよ、そんなこと」
「うれしかったんだよ、かくちょうも、いいよって、いってくれて、うれしかったの」
名前はそう言って笑った。
彼女が笑うのを、2人は久しぶりに見た。
それは昔から変わらない。穏やかで明るい微笑み。それなのに彼女はすぐ眠たげに目を細める。それだけのことがゾッとするほど怖かった。

「なあ、名前。結婚するんだろ、オレと。イザナにそう言われたんだもんな。約束したから、守んねぇとイザナがすげえ怒るぞ。なあ、」
返事はない。腕の中で重く、冷えていく身体に鶴蝶の腕が震える。

「待ってくれよ、頼むよ……あと4年しねぇと結婚できねぇんだ」
縋りつくように彼女の体を抱きしめる。腕の痛みなんてどうでもよかった。もう腕が動かなくなってもいい。名前が生きていてくれるなら、なんだってしてやる。
それなのに、今の鶴蝶には祈ることしか出来なかった。

「ふ、ふふ」
名前はなんてことないみたいに笑って、イザナと鶴蝶を見た。

「ふたりとも、なんで、ないてるの?」

思い出す。
彼女は、名前は、あの子は、機械みたいに冷たくて無口な子なんかじゃないんだ。

本当はとても明るくて、いつも笑ってて、知りたがりで、寂しがりで、わがままで、イザナと鶴蝶以外の男の人が苦手な、ごく普通の、けれどイザナと鶴蝶にとっては唯一の大切な女の子なんだ。

降り出した雪が世界を白く染めていく。
いつか、今はもう遠い昔のように思えるあの日のことを思い出す。降り積もった雪の中を3人で駆けたあの幼い頃のこと。


本当は知っていたんだ。
『天竺』は造るものじゃなくて、祈りながら歩み目指す場所なんだって。
それでも作りたかった。

3人が笑って暮らせる場所を。
誰にも傷つけられないオレたちだけの国を。

だってこの世界には無いから。この世界はどうしようもなくオレたちを嫌っているから。うまく生きるにはこの世界は悲し過ぎたから。幸せになるにはこの世界は苦しすぎたから。


握り返されない手をずっと握っていた。

遠くから聞こえる救急車のサイレンをどこか他人事みたいに聞いていた。