遙かなる西天 03

2008年。
イザナは花束を手に冷たい墓石の前に立っていた。

思えば彼女が好きだった色も花も知らない。
だから仕方なく花屋で女の子が好きそうな花束を作ってくれと頼んだ。カラフルなそれは墓場には酷く場違いだったが、イザナは気にしなかった。

絶えることなく花が添えられた墓に自分が持ってきた花を足す。
花屋の店員があれこれと教えてくれたが、結局一つとして花の名前も覚えていない。

ただ黙ってそれを手向けて、墓石に向かって目を瞑る。


佐野エマの骨が納められた、墓に向かって。


甘言に乗って自分が殺した相手の墓へ訪れるのは、側からみればどれだけ愚かで見苦しいだろう。
彼女が殺された時も、死んだと聞かされた時も何も思わなかった自分を、今のイザナは冷静に見ることができた。

刑務所に入り、そして刑期を終えたイザナは社会的には罪を雪がれている。それを許されたとは思わない。
人を殺して、何も思わなかった自分が、今更何かを思うことも許されない。
だから墓の前で目を瞑ったまま、あらゆる感情を殺した。
何も思ってはいけない。
何も祈ってはいけない。
ただ抱える。
死ぬまで、己が死に絶える最期の瞬間まで、ずっと。
その意味と価値ならば、今の彼にも理解できるから。

時間にすればほんの数十秒。沈黙を終えてイザナは立ち上がる。静謐な石の群れを抜けて墓地を出た先で、鶴蝶と名前がイザナを待っていた。

「イザナ」
2人に名前を呼ばれて顔を上げる。
今にも雪が降り出しそうな、冬の日のことだった。









2006年2月22日。
天竺と東京卍會の抗争は凄惨な結果をもたらして終わった。

逮捕者は黒川イザナを含めた天竺の幹部6名。
重傷者は苗字名前を含めた多数。
死者は佐野エマと稀咲鉄太の2名。
佐野エマの殺害に関与した半間修二は逃亡を続けている。


抗争の後、東京卍會の面々と鶴蝶を逃して、イザナたちは抵抗することなく警察に連行された。

あの時はもう本当に名前は死んでしまったものだと思っていたから、本当は鶴蝶をこの火宅へ1人置いていくことだけが心残りだった。
けれど、それと同じくらいまだ中坊の鶴蝶を守ってやらなくてはならないと思っていたのだ。きっと他の幹部たちも。

そう思っていたのに、刑務所に入ってから名前が重傷を負ったものの無事で、回復に向かっていると聞かされた時は立っていることさえやっとになるほど動揺して、それから酷く安堵したのを覚えている。

半間に蹴られた名前はコンテナに頭を打ったことによって脳震盪を起こして奇絶しただけだった。その際に切った額に跡は微かに残るものの、医者からしてみればそこまで命に関わる怪我ではなかったらしい。
つまるところ、あの状況に動揺した鶴蝶とイザナが慌て過ぎただけ、というわけだ。

搬送先の病院で丸1日ほど眠ったあと、案外ケロリと目を覚ました名前に鶴蝶は看護師を困らせるくらい泣いたらしい。それは見たかったな、とイザナは思った。

とかくそれが2年前のこと。




そして今。
現在3人は借りているアパートの一室で一緒に暮らしている。

ボケの入った老婆が大家をしているアパートは3人の他には貧乏大学生数人くらいしか住んでいないくらい狭くてボロボロだ。

布団を3枚敷いたら足の踏み場も無い和室が一部屋。
足なんか伸ばせるわけもない狭っ苦しい風呂。
キッチンのコンロは一つしかないし、壁は薄いし、夏は暑いし冬は寒いし、住めば都なんて口が裂けても言えない。

それでもそんな狭っ苦しい家でイザナは鶴蝶や名前を踏んだり蹴ったりしながら暮らしていた。

鶴蝶と名前の2人は現在、施設からの支援を受けながら高校に通っている。
指定の制服を着て毎朝決まって学校へ行く2人を見送るのはイザナにとってなんだか不思議な感覚で未だに慣れない。

狭いワンルームじゃ朝の支度をする2人が煩くてとてもじゃないが寝てられないから、仕方なく起きて一緒に朝食を食べて「いってきます」と笑う2人に面倒臭そうに手を振る。
それからアパートの階段に腰掛けて気怠げにタバコを吸うのが習慣になった。

20歳を迎えたイザナは当然無職だ。朝2人を見送ってからはそうやって何もせずにぼんやり生活していたのだが、毎朝のルーチンを近所に住むジジイに見られていたらしく、ある日突然叱られた。

何だこいつと思ったイザナはぶん殴ってやろうかと思ったが、ジジイの話を聞いてその気も失せた。

「てめぇ、兄貴ならぶらぶらしてねぇで兄妹2人支えてやんねぇとダメだろうが」

どうやらそのジジイはイザナたち3人を貧乏暮らしの兄妹だと思っているらしい。
明らかに顔立ちが違う3人をよくそう思えたものだと思ったが、不思議と悪い気はしなかったあたりイザナはすっかり丸くなってしまった。

イザナは引っ張られるがまま、そのジジイが昔っからやってるタバコ屋で働かされることになった。
働くと言ってもたまにやってくる客から金を受け取って煙草を渡すだけ。昼間なんかは暇すぎて寝てしまうのだが、その度にジジイに殴られる。

バックれるのは容易かったが家はバレているし、薄給とはいえ金はくれるし、たまに家の余り物を寄越してくれるし、イザナが職についたと知った鶴蝶と名前がケーキなんか買ってきたもんだから、面倒くさくなって今も続けている。

イザナのタバコ屋と、鶴蝶の新聞配達と、名前のファミレスバイト、それから施設からの些細な援助。
そんなものでなんとか暮らしている。



思えば、子供の頃に想像していた未来とは随分違うところに辿り着いてしまった。
国はおろか、住んでいるオンボロの家さえ借り物。いつか夢見た天竺は随分と遠ざかってしまった。

想像通りなのは、変わらず3人が一緒にいることくらいだろうか。


イザナはタバコ屋の店番をしながら、夕日に染まる街をつまらなそうに眺めた。

下町の商店街の中を行く人々。買い物袋をもって帰路に着く大人もいれば、群れになって駆けていく子供もいる。絶えることのない雑踏。数多の生活。そんな景色もすっかり見慣れてきた。

「イザナ!」
「ただいまー!」
その中に見慣れ切った2人の姿を見る。夕日を背負ってこちらに手を振ってやってくる制服姿の下僕かぞくたち。
それを頬杖をついたままイザナは少し眩しげに迎えた。……西陽が、そう、西陽が眩しかっただけだ。

「ねぇー!イザナ聞いてよ、今日さあ、鶴蝶が上級生に告られてたんだけどー!」
「ア?オイ、浮気かよ鶴蝶、テメェそこ立ってろ。玉潰してやるから」
「待て待て待てって!イザナ!断ったに決まってんだろ!?オレには名前がいんだから!」
「…………」
「…………」
「……な、なんだよ、2人とも」
「ハァー、テメェは本当に恥ずかしい奴だな」
「やばい、今のかなりキュンってきたかも……」
「本当になんなんだ……?」
困惑する鶴蝶に舌打ちをしてから、イザナは名前へ顔を向けた。

「おい名前、今日バイトは?」
「無いよー。なんで?」
「ジジイが今日飯食ってけってよ」
「オレたちもいいのか?」
「知らねーよ。ジジイがいいっつってんだからいいんだろ」
話し声に気がついたのか、店の奥から出てきたジジイがイザナには碌に向けない笑顔で鶴蝶と名前を歓迎する。「おかえり」なんて、家族でもないくせに。
けれどそんなことが今は日常だった。
なんてことない日常、生活、暮らし、毎日。



イザナは本当は知っていた。
『天竺』は造るものではなく、祈りながら歩み目指す場所なのだと。それは或いは、遥かなる未来を望むことによく似ている。

何の因果か生き長らえている彼らにはリトライの機会が与えられた。

闇へ向かう壊れそうな道を笑いながら駆け抜けるのではなく、光へ向かう踏み固められた道をおっかなびっくり手を繋いで歩いていく日々。

上手に生きられる人間が当たり前に生きていく世界を、これから彼らは怯えに足を震わせながら生きていくのだ。

こんな今の自分を過去の自分が見たら何を思うのだろう。
どんな言葉で罵倒するだろう。
どれだけ冷たい目を向けることだろう。

イザナはそんなことを考えてから小さく笑った。
なんだって構わない。
どんな罵倒もどんな冷たさも届かないところへオレたちは向かっていく。

そういうふうに生きていくことにした。
あの頃から変わらない3人で、ずっと。


未来は遠い。西天は遥かなる空の向こうだ。
いつか3人で辿り着ける日が来るだろうか。

答えの無い問いを胸の内に留める。

答えは無くとも、そうであって欲しいという祈りは確かにここにあるから。


(2021.09.07)