01 Take me HIGHER GROUND

昨日まで続いていた生活がこれからもなお変わらず続いていくのだと信じて疑わなかったカリムがそうではないと気がついたのはウィンターホリデー、冷たい砂漠に吹き飛ばされた時だった。

それでもなお目を瞑り続けようとする彼の目を抉じ開けたのはオクタヴィネルの三悪党だったし、けれど決め手はやはりあの善良で何考えているかよくわからないけれどやはり善良な監督生の容赦ない一言だったと思う。

カリムは横っ面を一線されたような心持ちだった。
これまでの人生で誰かに殴られたことは一度もなかった。毒殺させられたり刺殺させられたりしたことはあっても案外頬を打たれたことはなかったのだ。けれどこの瞬間、思いっきりぶん殴られた。実際に監督生に殴られたわけではないので比喩だが、それくらいの衝撃。
それによってカリムはようやく目を開くことができた。

目を開いて世界を見た瞬間、ひどく恐ろしいと思った。
カリムひとりを置いて世界が、彼らが、彼が、当然だと思っていた日々の何もかもが変わっていく。なにかを無条件に信じ続けることは簡単だ。これまで通り楽しく笑っていればいいから。けれどもうそうではない。無邪気に笑っていられる日々はおしまい。友達だと思っていたけれどそうではなかった。親友だと思っていた彼との関係性はここから変化していく。この瞬間をもってもう永遠に断絶するのか、或いは新しい関係になっていけるのか。わからない。今のカリムにわかるのは、少なくとももうこれまで通りではいられないということ。なんて恐ろしいのだろう。変わっていくことが恐ろしい。今まで通りのまま、何も変わらずにいられたらどれだけよかっただろう。

「すべては変わっていくんですよ、先輩」
人魚姿のフロイドの背中にしがみついて、水に濡れた顔に痛いほど冷たい風が吹き付けてくる。監督生はカリムを後ろから抱き締めるように支えて、それからそんなことを言った。監督生は残酷なくらい本当のことしか言わなかった。
「……わかってる。けど、こわいんだ」
水飛沫に掻き消えてしまいそうなほど微かな声はしかしそれでも監督生に届いたらしい。彼は弱気さを見せるカリムを笑わなかった。
「そういうものだと思います。でもそれでいいんですよ、何の犠牲も伴わずに変わっていけるのならそれがよかったのかもしれないけど、もうそんな時期は過ぎてしまったみたいだから」
「……俺がジャミルの気持ちに気がつかなかったから……」
「そうです、カリム先輩が気がつかなかったから。そしてジャミル先輩が言わなかったから。ほら、2人とも変わっていける余地があるんですよ。だから良い方向に変わっていけるかもしれないじゃないですか」
「けど、そうならなかったら……?」
不安にぐずる子供のように声を震わせて、カリムを自身を後ろから支える監督生の腕に縋る。揺らいだ精神はすぐには戻らなくて、けれどやがて己の脚で大地を踏みしめる時が来る。

「そうならなかったら、うちのオンボロ寮にでも来ます?一緒に野球でもしましょっか」
監督生はそれまでより強く腕に力を入れる。カリムは先輩だったし魔法士だけれど、監督生はそれでも彼を「小さくて脆い存在」だと認識した。しっかりとこの腕の中に収めておかないと吹き飛ばされてしまいそうだと思ったのだ。
そんな監督生の思考もつゆ知らず、ヤキューって何だろうとカリムは思った。監督生に聞きたかったけれどそれは残念ながら叶わない。
「ラッコちゃん、小エビちゃん」
気怠げな声が2人を呼んだから。
「もうすぐ、着くよぉ」
「……ああ」

背中の温もりが変わらずカリムを支えてくれた。涙を拭うような優しさではなく、涙に寄り添うような優しさで。
……誰かがずっとそばにいてくれる安心をカリムはもう生まれた時から知っていた。知っていて、甘えていた。だけど、だからもう縋りつかない。目の前に聳え立つ「本当」に向き合って、もう変わっていくことを恐れない。

そうして監督生はカリムと一緒に、これまでの日々の終わりに付き合ってくれた。
それから、新しい日々の始まりにも。







「名前、キミってそんなにカリムと仲が良かったのかい?」
ウィンターホリデーから1週間が過ぎたとある日の昼、食堂で空いていた監督生の左隣に座ったリドルはその小さな頭をこてんと傾げてそんなことを問いかけた。

他者の人間関係に口出しするような下品な行為を嫌うリドルでさえもそう尋ねてしまうほど、ウィンターホリデー明けのカリムと監督生は距離が近かったのだ。はて、休暇前は顔見知り程度でしかなかった記憶があるのだが。
しかしリドルの指摘の通り、休暇後のカリムは授業が被ればぱたぱたと監督生の隣の席に駆け寄って座り、廊下ですれ違えばぱたぱた駆け寄ってその手を取って笑いかける。現に今もこうしてリドルとは反対側の監督生の隣に座って、湯気の立つパスタをくるくると巻いていた。

尋ねられた監督生は一瞬きょとんとしてから、いつも通りやけに光のない瞳にリドルを映すと「ああ」と合点がいったような声を出した。
「俺、ウィンターホリデー中は学園に残ってたんですよ」
「ああ、キミの故郷は魔法の鏡でも行けないほど遠いんだったね」

オンボロ寮の監督生である名前が異世界から来た可能性が高い、という話は学園の教師の中でもごく少数しかしないような機密事項だ。名前は別に隠さなくてもいいのではないかと思ったが、学園長が「可愛い生徒が異世界人のラベルを貼られてホルマリン漬けにされるのは見たくないんですよ。私優しいので!」と言うので素直に従うことにした。
顔見知りがホルマリン漬けにされたくないと思うのは優しいとか優しくないとか関係なく普通のことだと思ったが、監督生の衣食住は基本的にこの自称優しい学園長に握られているので言わないでおいた。
閑話休題。

魔法とて万能ではないことを知っているが故に「遠くて帰れない」という言葉をあっさり信じたリドルの言葉に監督生はうなづいた。
「だから休暇中、合宿をしていたスカラビア寮の人たちにちょっとお世話になったんです。その時にカリム先輩にもよくしてもらって」
「ああ、なるほど。それでカリムが懐いたんだね」
普通懐くのは世話になった方ではないだろうか、とリドルの前に座っていたトレイは思ったが口にはしなかった。彼は賢明な男だった。

「ああ、合宿中は名前のおかげで助かったぜ。……ほんとに、本当にありがとうな」
そう言って名前を見るカリムの唇にはボロネーゼが付いている。名前は静かに手元のナプキンで彼の口を拭った。
「それでだ!あの時の名前への礼として宴を開こうと思うんだがどうだ?」
カリムは満面の笑みでそう言った。
名前はカリムのそんな明るい笑顔が好きだ。
と、同時に先輩であるジャミルの胃痛に耐えるような顔は好ましくなかった。

名前はカリムの正面に座っているジャミルへそっと目線をやる。彼はその視線に気がつくとわかりやすく「勘弁してくれ」という苦々しい顔をした。スカラビアではつい先日に新年会と称して宴をしたのだと聞き及んでいる。宴は楽しかろうが、その一晩の楽しみのために数日の準備が必要となるらしい。その負担が誰に向かうかは明白である。

「カリム先輩、ありがとうございます」
「おう!それじゃあ早速明日にでも、」
「でも宴は結構です」
監督生がきっぱりと断ると、カリムはびっくりしたようにその大きな目をさらにまんまるにした。それから数秒、だんだんと捨てられた子犬のような瞳に変化していく。
「えっ……名前、宴、やなのか……?お前の好きなものなんでも用意するし、パレードもするぞ……?」
「いえ、大丈夫です」
重ねてぴしゃりとNOと言える名前に途端カリムは追い詰められたような顔をした。
ウィンターホリデーのあの日々、半ば巻き込まれただけの名前はそれでも事件解決のために力を貸してくれた。そんな彼へただ感謝を伝えたいだけだ。だから彼の言葉に、そんなわけではないとわかっていたけれど、まるでその気持ちを拒絶させられたような心持ちになってしまった。
普段のカリムならそんなの関係なく手を取っていたはずなのに、どうしてか名前のその言葉がひどく胸に刺さる。
「で、でも、名前……」
「カリム先輩の気持ちは嬉しいです」
名前は最後にひとつ残ったフレンチフライを口の中に放り込むと、カリムへ下手くそに笑いかけた。

「だから俺、カリム先輩とサシでメシが食いたいです」
「へ?」
カリムは再び目を丸くした。

宴ではなく、2人で、食事。それは大家族で育ち、兄弟、使用人、取引先等多くの人に囲まれてきたカリムにとってはほとんど経験のないことだった。
2人きりで食事……、2人きりで食事!それはまるでいつかケイトが言っていたドラマのワンシーンのようではないか!
「名前、それってもしかしてデートの誘い、なのか?」
「ん?ああ、まあデートっちゃあデートっすね」
トレイは固まり、リドルは思わず赤面した。
側で話を聞いていたジャミルもまた目を見開いて手にしていたスプーンを取り落とした。

「明日でいいですか?俺、明日なら放課後何もないんで。前にうまいメシ屋教えてもらったんすよ」
「ああ!あっ、でも、オレ、ジャミルのメシしか食わないようにしてるんだ」
「あ、そっか。じゃあうちのオンボロ寮で一緒にメシ作ります?自分で作ったやつなら心配ないんじゃないですか?」
カリムは思わずジャミルの顔を見たが、ジャミルはジャミルで(デート…?カリムが……?監督生と……?)とスペースコブラ顔をしていた為、主人からのSOSに対応ができなかった。あれこれと世話を焼いていたあの頼りない主人がいつのまにか他者とデートするほどまでに成長している現実に混乱していたのだ。
そんなジャミルを見て、カリムは逆に(オレのことはオレ自身でできるくらいしっかりしないと……!)と思った。成長である。

「わ、わかった!行く!名前と料理する!」
思わず力強く拳を握るカリムに名前はフラットにうなづいた。
「それじゃあ明日の夕方、ウチに来てください。用意はこっちでやっとくんで手ぶらで大丈夫っす」
「ああ!」
名前は空になった皿を持って立ち上がると「次、体力育成なんで先に行きますね」と周囲の先輩たちに頭を下げる。それから隣に座るカリムにこれだけ言い残した。

「オンボロ寮の俺の部屋から見える夕焼けが綺麗なんですよ。一緒に見ましょうね」
それじゃあ、と去っていく名前の背中を彼らは思わずマジマジと見てしまった。部屋に連れ込む気満々ではないか。

「まさかカリムと名前がそんな関係になっているとは知らなかったな……」
思わず呟いたトレイに宇宙から帰ってきたジャミルは一応伝えておいた。
「……あいつら、別に付き合ってはないですからね」
多分、お互い好意的には思っているのだろうが。



何はともあれオンボロ寮デートである。
翌日、その日の授業を全て終えたカリムは、手ぶらでいいとは言われたもののジャミルに持たされた手土産を持ってオンボロ寮へ向かった。
出かける前、ジャミルに「いいか、何かあったらすぐ……いや、オンボロ寮で何かあるわけもないか。うちの門限は21時だからな。あまり名前に迷惑かけるなよ」と釘を刺されたがカリムには釘を刺されたと言う自覚がない為「おう!わかった!」といつも通り元気いっぱいに答えた。ジャミルは当然不安を感じたが、これもまたいつものことだったので肩をすくめるにとどめた。

鏡の間からテッテコ歩けばすぐにオンボロ寮だ。普段から軽いカリムの足取りが今この瞬間はそのまま宙に浮かべてしまいそうなほど軽い。
辿り着いたオンボロ寮の扉の前に立ってノックを2回。「名前!」と大きな声で呼べば、そう待たずに扉が内側から開いた。

「来てくれたんですね、先輩」
向かい入れてくれた名前はすでにエプロンを纏っていた。纏っていた、というか、慌てて付けたのかとりあえず首から引っ掛けただけという具合ではあったが。
カリムがジャミルから預かった手土産を渡すと「気にしなくてよかったのに」と言いながらそれを喜んで受け取ってくれた。
「ジャミルの作ったマクルードだ。うまいぜ!」
「どんな食べ物か全然想像つかないですけど楽しみです。あとで茶淹れるんで一緒に食べましょう」
それから名前は軋む扉を押さえてカリムを中に迎え入れた。
「狭いところですけど中にどうぞ、先輩」
「ああ、お邪魔するな」
足を踏み入れたオンボロ寮はカリムにとって見慣れない景色ばかりだった。古びた部屋の群れ、ヒビの入った壁、どこからか漂うシンナーに似た香り、狭い廊下。何もかもが新鮮で、彼がここで生活をしているのを想像をするだけで楽しかった。
先導する名前の背を追って、辿り着いたのは寮のキッチン。ここもやはりスカラビアのところよりは狭かったが、2人きりならばあまり窮屈さも感じない。

「そういやグリムはどうしたんだ?」
「錬金術の補講。騒ぎ起こしてなきゃもうすぐ帰ってくると思いますよ」
このオンボロ寮のもうひとりの住人は今この寮内にはいないようだ。残念ながらここには無いが、あの小さな獣を見るとついつい青カビチーズのクラッカーをたくさん食わせてやりたくなる。あいつはもう少し大きく丸々と肥えてもいいんじゃないかと思う。
「食い意地は張ってるんですけどねぇ」
「その分運動してるからかなー。元気に走り回ってんのもよく見るしな!」
「バカやらかして怒られて逃げてる場合がほとんどですよ」

名前が用意してくれていたもう一つのエプロンをカリムは受け取って首にかける。
「ところでなんですけど、先輩。俺、実はエプロンの紐を後ろ手で結べないんですよ。やってもらっていいですか?」
玄関で迎え入れてくれた時から名前の首に引っ掛けただけのエプロンの理由はそれらしい。エプロンの紐は重力に従ってだらりと垂れたままだ。カリムは喜んで彼の背後に回るとその紐を蝶結びにしてやる。縦結びになったのはご愛嬌だ。
「お礼に先輩のは俺が結んであげます」
ちょうどカリムも頼もうと思っていたところだったからお願いする。しかし監督生はカリムより紐を結ぶのが苦手らしい。カリムがした時よりずっと時間がかかりながら、どうにか紐を結んだ監督生を見て、ふと故国の弟や妹たちを思い出した。彼のやけに物事に動じない落ち着いた様子から時折忘れかけてしまうが彼は後輩だ。
できましたよ、と満足げに息をつく少し背の高い彼の頭を、気がつくとカリムはそっと撫でていた。名前が嫌がるそぶりを見せなかったからそのまま髪を手櫛で梳くように撫で続ける。名前は目を細めた。
「犬になった気分だ」
「デカい犬だなぁ」
名前が犬だったら実家に連れ帰って大事にしてやったに違いない。その温かい毛並みを整えて、美味しい餌を与えて、たくさん遊んで、死ぬまで可愛がって大事にする。けれど、名前が犬だったらこうやってお喋りをしたり、一緒に料理をすることもないのだ。だから、これでいい。名前が犬じゃなくて、人間でよかった。

「それで、今日は何を作るんだ?」
「はい、餃子を作ります」
「ギョーザ?」
カリムにはあまり馴染みのない名称だったらしい。こてんと小首を傾げる彼になんと説明すべきか、名前もまた首を傾げて考えた。
「餃子っていうのは……、小麦粉で練った皮に、肉とか、あとキャベツとか入れて焼く料理、ですかね」
「へー?マントゥみたいなもんか?」
一応説明はしたもののあまりピンときてはいないらしい。頭にクエッションマークを浮かべているカリムに苦笑する。まあ、何はともあれ案ずるより産むが易し。

なんでも売ってるサムさんのところで餃子の皮は購入しておいたため、あとは中に入れるタネを作るだけだ。
カリムが頑張るというのでキャベツとニラのみじん切りは彼に任せることにした。
「包丁なんで怪我に気をつけてくださいね」
「ああ!任せてくれ、錬金術の授業で使ったことがあるから大丈夫だ!」
普通、包丁は家庭科の授業とかで使うものではないだろうかと思ったが、この世界の常識は監督生の常識とは大きくズレていることが多々あるので特に何も言わないでいた。

カリムが切ってくれている間にボウルの中に挽肉と塩胡椒、それからニンニクとショウガをすりおろして入れる。もしかしたら材料にも混ぜる順番があるのかもしれないが気にせず片っ端から入れて混ぜる。カリムが切ってくれたキャベツとニラは所々切れてなくて繋がっていたり、大きさがバラバラだったりしたがなにもかも腹に入ってしまえば同じことだと気にせずこれも肉と混ぜる。混ぜる混ぜる混ぜる混ぜる。

「こんなもんですかね」
「これをこの薄っぺらいのに入れるのか?」
カリムが餃子の皮を一枚手にとって揺らす。向こう側の色が淡く透けるほど薄い皮に少しばかり不安。すぐに破けちまいそうだと呟くカリムに名前はそこは匙加減ですよと返す。

その時、玄関扉が開く音が聞こえた。丁度よくオンボロ寮のもう1人の住人が帰ってきたようだ。とたとたと小動物らしい足音と共に黒い毛玉がキッチンまでやってくる。
「おお!グリム!元気かー?」
「げぇっ!カリム!なんでいるんだゾ!おれさまもうあのクラッカーはいらないんだゾ!」
「ああ、悪いなあ、今日は青カビチーズのクラッカーは持ってきてないんだよ。今度来るときはいっぱい持ってきてたっくさん食わせてやるからな!」
「だからいらないって言ってるんだゾ!」
仲良しだなぁと2人を見つめながら名前は2人に声をかける。

「それじゃ餃子を包みましょう。グリムもメシ食いたいなら手伝えよ」
「おお!楽しみだな!」
「ふなぁ……おれさまもう今日は疲れたんだゾ」
「働け働け。オンボロ寮のモットーは『働かざるもの食うべからず』だぞ」
作業台を3人で囲む。まず名前が見本として餃子の皮にタネを乗せ、ひだを付けて閉じていくやり方を見せると、2人の目が輝いた。
「えっ!そのヒラヒラどうやったんだ!」
「おい子分!今のもう一回やるんだゾ!」
皮にタネを乗せて軽く閉じて、片方の皮の端をつまんで押さえる、つまんで押さえる。2人によく見えるようにもう一度やってみせると、彼らは名前の真似をしながらえっちらおっちら餃子を包み出す。
2人とも初めてだからそう簡単に上手くいくはずもないけれど、失敗するごとに次こそはと皮を手に取っていく。普段は飽き性のグリムだが、同じく初心者のカリムには負けまいといつもより根気強く餃子のひだに挑戦しているようだった。なんとなく微笑ましい。
「どうだ!見てくれ、名前!これは上手くいったんじゃないか?」
「流石です、先輩。すごく綺麗にできてます」
「やい、子分!おれさまが一番上手いに決まってるんだゾ!」
「わーグリム上手ー、おれ負けちゃいそうダナー」
煽てると木に登るのがグリムなのである。嬉々としてその柔らかい肉球をふみふみして餃子を作り出すグリムに、カリムと監督生はそっと目配せをして含み笑いをした。

そのうちに自分流にひだを作ったり、2枚の皮で大量のタネを包んでどら焼きみたいな形にしたり、かと思えばタネを入れすぎて皮を破いたり。
けらけらと笑ってそんなことをしているうちにいつしか皮もタネもすっかり無くなってしまっていた。

ここで満を持して登場するのがホットプレートだ。
もちろんオンボロ寮にこんなハイカラなものが所有されているわけがない。こいつは以前エースとデュースと焼肉パーティをした時に彼らが持ってきてくれたものだ。パーティが盛り上がるうちにハーツラビュルの門限ギリギリの時間になってしまい、これを持って帰る事も忘れて慌てて彼らが帰ってしまったため、今もこのオンボロ寮に置きっぱなしになっている。
彼らの話によるとこのホットプレートはこの学園で代々受け継がれてきた由緒あるものらしく、ハーツラビュルの前はオクタヴィネル、その前はイグニハイドにあったらしい。いずれこの寮からも去って異なる寮へ流れていくのだろう。
が、未来のことはまあ、いい。
兎にも角にも今この瞬間の餃子だ。

「では、焼きます」
「おお!楽しみだな!」
「早くするんだゾ!」
たっぷりと油を注いだ上に様々な形の餃子を並べていく。ホットプレートいっぱいに並べきったら、水を注いで蓋を閉じて蒸し焼きにする。まだかまだかと蓋を開けたがる2人を何度か制して待つこと数分。

「それじゃあ先輩、開けちゃってください」
「ああ!任せろ!」
カリムがホットプレートの蓋を開けた瞬間、ぶわりと溢れ出す水蒸気と口の中に唾液が溢れるような香ばしい香り。やがて掻き消えた水蒸気の中からこんがりと焼けた餃子が姿を現した。思わず上がる歓声。名前が炊きたての白米をよそって、それぞれの前に置けばカリムもグリムも言葉より先に手に持ったフォークが餃子を貫いた。

「んまい!名前!これすげえうまいぞ!ほら!お前もどんどん食え食え!」
「ふなぁー!フォークが止まんないんだゾ!」
噛んだ瞬間に溢れる肉汁が口の中いっぱいに広がり、薬味の香りが喉奥から鼻まで抜けていく。火傷しそうなほど熱い、けど旨い!濃い味に白米が進む。カリムは一気に2、3個をフォークで刺すと、監督生の米の上にどんと乗っけた。
「ボケっとしてるとグリムに食われちまうぞ!名前、お前の作ったギョーザ、すげえ旨いんだから!」
「……何言ってんすか、先輩」
名前もまたホットプレートから複数個取ってくるとそれをカリムの皿の上に置いた。
「これは『俺ら』が作った餃子ですよ」
名前がそう言って笑いかければ、カリムは一瞬虚をつかれた顔をして、それから照れたように頬を赤らめて笑った。
「そっか……そうだったな!これは俺たちで作ったんだもんな!」
リスのように美味しいご飯を頬張って、幸せそうに笑う。それだけの、きっとどこにでもある幸せな景色。それが唐突に何にも代え難いほど輝いて見えて、名前はなにか、目に見えないものに心臓を撃ち抜かれたような心持ちになる。

その瞬間、いつか、元いた世界で言われた言葉が光の瞬きのように海馬から蘇る。

『おれが見たい景色と、お前が見たい景色は違うよ』

ああ、これはいつのことだったか。一体どんな流れで彼とこの話をしたのだったかもう碌に覚えちゃいない。記憶の中のあの人はぼやけていて、遠い。初めからひどく遠い人ではあったけれど、監督生自身の記憶が薄れているのもあるのだろう。何もかもが曖昧で霞のような記憶。猫背のまま、青い旗を背負っていた、あの人はいつものようにきゅっと唇を引き上げて笑って、言った。

『ま、お前にもいつかわかる日が、』

「なあ、名前」
過去に遡っていた意識が、彼の声でリモコンでぷちんと電源を消すみたいに途絶えて、現在に還る。
ぼうっとしていた名前の頬をつつくカリム。驚いて思わず肩を震わせると、カリムは悪戯が成功した子供みたいに笑って、それからそっと耳打ちをした。
「なあ、オレ、また今度ギョーザを作りたいんだ」
名前はカリムの目を見た。他の誰のものでもなくこの赤い瞳がいつもきらきらと輝いて見えるのは、どうしてなのだろう。
「ジャミルにも俺たちが作ったのを食わせてやりたい。あいつにもこの旨さを知ってほしいんだ」
それに、と彼は言葉を続ける。
「少しずつでも変わっていけるんだって、信じてほしいから」
まだまだだけどさ!
そう言って笑う。いつものように、けれど以前より大人びた顔で。もう冷たい濁流の中で変わっていくことを恐れる青年はどこにもいなかった。
「名前」
不意に手を握られる。柔らかい掌、温かくて傷のない肌。それだけで監督生の胸の内からなにかが零れるような感覚があった。けれどそれが一体何なのかわからないまま、カリムに微笑みかけられて思考は止まる。

「あの時、変わっていけるって言ってくれてありがとうな」
ぎゅうと握る手に力が込められる。なのに、全然痛くない、そんなことに小さく驚く。
「……力を貸してくれてありがとう。ジャミルを、オレたちを助けてくれてありがとう」
震える声、鼻をすする音。握られていた手を離されたかと思うと、今度はすぐにその腕でぎゅっと抱きしめられる。名前より細い腕に抱きしめられて、その温もりに言葉を無くす。

この人といると自分でも知らない大きな感情に肉体が潰されていくような心地になる。

名前は、胸の中で泣きだしたカリムになにをしてやればいいのか、自分になにができるのかわからなくて、思わずグリムを見たけれど、彼にも首を振られた。
グリムも名前と一緒でわからなかった。だって、自分が泣いている時に誰かが何かをしてくれたことなんてない。一人で泣いて一人で泣き止む。そのうち泣く意味も無くして、今に至るのに。

名前は行き場をなくした自分の掌を見た。骨は歪んでいて、肌は傷だらけ、カリムのような綺麗なものはなにも残ってなくて、こんな手で彼に触っていいのかさえわからない。
けれどグリムはテーブルの上を伝っておっかなびっくりカリムのそばまで近づくと、そのやわこい肉球をカリムの背中に押し当てた。撫でるみたいにそっと。だから、名前もそれを真似して自身の掌で彼の背中をそっと撫でた。
正解なんてなにもわからなかった。
それらしい張りぼての何かで繕って、彼の心の中の嵐が止むのを待ち続けた。


どれだけの時間が経っただろうか、いつしか嵐が止んだ頃、名前の胸の中には小さな寝息があった。
それに安堵するような気持ちに、名前は戸惑いながらも緊張していた体からゆっくりと力を抜いていく。
ふと見上げた壁掛け時計は20時40分を指していた。カリムの門限は確か21時だ。カリムが泊まっていっても名前は構わないけれどきっとジャミルが心配する。
「……先輩をスカラビアまで送ってくる」
「わ、わかったんだゾ」
グリムはなんとも言えない微妙な顔をしている。きっと自分も似たような顔をしているのだろうと名前は思った。この世界に来て慣れないことばかりしているが、今日のこの出来事こそが最たるものだ。誰かのための『壁』になるなんて、初めてのことだった。




昔からどこにいても息がし辛かった。
治安の悪い地区で生まれて、ガキの頃から取り柄といえば喧嘩だけ。ガラの悪い連中に絡まれては拳を振るって相手を沈める日々。当たり前のことだけれど、そんな奴がまともな生活を送れるわけもなくて、真っ当な人間からは遠巻きにされるばかり。けれど他に方法がわからなかった。どうしたらいいのかなんて誰も教えてくれなかった。だから息がしやすいところに行きたかった。俺が俺のままで生きていけるところに。

鬼邪高校。犯罪発生率が馬鹿みたいに高いSWORD地区のOを担う鬼邪高校に進学したのも、このどうしようもない不良校なら俺が俺のままで生きていけると思ったからだった。
事実ここは楽しかった。息がしやすかった。みんな俺と似た生き物。喧嘩しか取り柄がない社会の爪弾き者。嫌われ者どもの夢の果て。社会不適合者たちの三行半。くだらない事で笑って、他所から来たカラーギャングと抗争して、顔を知らない奴とグラフィティで陣取り合戦。デカイ喧嘩を何回もして、勝っても負けても悪い気分じゃなかった。
いいな、ここ。楽しくて、息がしやすくて、生きやすくて、笑って、楽しくて、楽しくて楽しく楽しくて楽しくて楽しくて楽しくて楽しくて楽しくて楽しく楽しくて楽しくて楽しくて楽しくて楽しくて楽しくて楽しく楽しくて楽しくて楽しくて楽しくて楽しくて、でも気がついたらずっと飢えていた。
やっぱ人間って生きてるだけじゃ満足できないんだな。
息がしやすくなって、欲が増えた。生きてるだけじゃ退屈だ。だからといって自分が本当に欲しいものがわかるわけでもない。ずっと空腹だ。何かが足りないのに、何が足りてないのかわからない。番長になったばっかの頃の村山さんが退屈してた理由もわかるよ。てっぺん取ったって、つまんないよな。座ってるだけじゃ意味ないよな。欲しかったのはこんなもんじゃないよな。でも村山さんに山王のコブラがいたし、轟も来た。俺には何もないし、何も来ない。待ってるだけじゃダメなのか?じゃあどこへ行けばいい?記憶の中の村山さんが俺にヘラリと笑いかける。『おれが見たい景色と、お前が見たい景色は違うよ』どこに行ったら俺の景色が見える?『ま、お前にもいつかわかる日が来るよ』いつかっていつ?死ぬまでにわかる日が来るのか?わかる日まではずっとこの飢えに耐え続けなきゃなんないのか?
コンテナ街の抗争。みんな変わっていく。
九龍との戦い。みんな変わっていく。
俺だって変わっていきたいのに変われないまま、ある日、唐突に転機が訪れた。交通事故みたいにどうしようもなく理不尽に知らない世界に吹っ飛ばされて、これまでの常識は全部無意味。純粋なくせにどこか捻くれた奴ばっかりで、でも気がつけば今までみたいに拳を振るうこともなく事件に巻き込まれたり巻き込んだり。楽しいとか息しやすいとか考える間も無く生きていた。

そして、気がつけば今は他人の体温を抱きしめている。

誰かを抱きしめたことなんてほとんどない。
アルゼンチンバックブリーカーがしたくて絡んできた奴の胴を抱えたことはあるけど、そういう暴力的なものじゃなくて、そうじゃなくて、……なんなんだろうな、これは。体験したことがなくてうまく言葉にできない。

カリム先輩は、多分年齢なら俺の方が年上かもしんないけど、この世界の住人って意味ならやっぱり先輩だから、先輩って呼ぶ。カリム先輩はどうしようもなく柔くて温かくて弱っちい。多分人なんてぶん殴ったことないんだろうな。傷ひとつ、歪みひとつない掌は俺にはもう一生手にできないものだ。綺麗だなと思う。綺麗だなって思って、見ていると無性に泣き出したくなる。理由はうまく言葉にできない。碌に勉強してこなかったからさ、馬鹿なんだよ、俺。だけど、これは、この人は大事にしないといけないものだってことくらいはわかる。

オンボロ寮を出て、鏡舎へ向かう。静かだ。眠ってしまったカリム先輩を抱き締めながら歩く。くったりとした体は俺に全てを預けていて、それが恐ろしいようなたまらないような、地面がふわふわとしているみたいな不思議な感覚。カリム先輩ごとそんな感情を抱えながら、鏡舎へ向かう道中いろんなことを考える。

『あの時、変わっていけるって言ってくれてありがとうな』
自分が深い意味もなく口にした言葉が、この人の心の柔らかいところに触れていた。そんなことに酷く驚く。人が人に与える影響というものをまざまざと認識させられて、恐怖を抱いた。けれどきっとそれが当たり前のことなんだろう。人と人が対峙する畏怖と責任。拳ではなく言葉による明確なコミュニケーション。底のない穴に落下していくように失いつつあったそれを取り戻すことができたのは、きっとこの人のおかげだ。本当に感謝の言葉を伝えなくてはならないのはきっと俺の方だった。

そうして今になって気がつく。
「変わっていける」というあの言葉は、本当は俺がずっと誰かに言って欲しかった言葉だった。
きっと俺は生きやすいところに流されるのではなく、自分の意思で選びたかった。選んで、変わっていきたかった。今になって気がつく。馬鹿みたいに遅い、と自嘲する。
それから思い出す。いつかの抗争。侵攻された校舎に書かれた宣戦布告の文字。

『change or die』
生まれ変わるか、ここで死ぬか。

敵ながら、良いこと言うよな。



「カリム・アルアジームだな」
鏡舎の手前、不意に草陰から現れた男は明らかに生徒ではなかった。制服でも式典服でもない、見慣れない黒ずくめの格好。巻いた布で顔を隠し、足音を隠して目の前に立ちふさがる。……新任の教師でもなさそうだ。
「……人違いだと思います」
「黙れ」
誤魔化しは鋭い声に容赦無く断たれた。
「ターゲット以外に用はない。無用な人殺しもする気は無い。その男を置いてすぐに去れ。今なら見逃す」
男は鋭くそう言うと、一歩、威圧するようにこちらに近づいた。
「……先輩になにをする気ですか」
男は答えなかった。けれど月明かりが反射して男の持つナイフが光る。それだけで答えとしては十分だった。
ふと空を見上げる。細い月。ああ、そういや、せっかく誘ったのに先輩と一緒に夕焼けを見るのをすっかり忘れていた。俺の部屋から見える景色は、本当に綺麗なのに。今日は空が澄み渡るほど晴れていたのに。

腕時計を見る。20時48分。先輩の門限まであと12分。
わからないことばかりの世界で明確にわかることがいくつかある。
ひとつ、エーデュースやグリムとバカやるのはマジで楽しい。
ひとつ、今まで碌にしてこなかったけど勉強すんのも案外悪くない。
ひとつ、カリム先輩が門限過ぎるとジャミル先輩が死ぬほど心配する。

ひとつ、ここでカリム先輩を見捨てられない程度には、俺はカリム先輩のことが好きだ。

舗装されたところではなく、草に生えたまだ柔らかそうな地面にカリム先輩を寝かせた。一定の呼吸が乱れないことに安堵。
それから立ち上がり振り返って、軽く2、3度ジャンプ。ぐるぐると肩を回して、ついでに手首もぐりぐり回す。

あの不審者もどうせ魔法士なのだろう。俺は魔法が使えないから圧倒的に不利。バンバン炎球撃ってこられたら普通に死ぬ。けど別に勝てなくていい。12分だけ足止めできれば。門限を過ぎれば不審に思ったジャミル先輩がオンボロ寮に向かってくるだろう、そうすればこの道を通る。ジャミル先輩が来てくれる。それまで耐え切れば俺らの勝ちだ。
カリム先輩を背に守るように立ち塞がって、ファイティングポーズ。男は一瞬黙り込んで、それから「死体がひとつ増える」と呟いた。
俺は笑う。笑う。嗤う。先輩と交わした約束が残ってる。夕焼けを見る。ジャミル先輩のために一緒に餃子をまた作る。死ねない理由ばかりが増えていく。だから唇を吊り上げて嗤う。握った拳でパンパンと軽く自分の頬を叩く。それから掌を空に向け指をチョイチョイと曲げて、挑発。それから口角を吊り上げて、嗤ってみせる。

「来いよ、タイマンだ」
「……ガキが、よほど死にたいらしいな」

死なねぇよ。俺はここで生まれ変わるんだから。





ジャミル・バイパーはスカラビア寮の入口で、時計を確認して眉間に眉を寄せた。
現在20時58分。
遅い。ハーツラビュルのように口うるさく規則の話をしたいわけではないが、門限が21時ということはその時間にはもう自室にいるべき、という意味だ。21時ギリギリに鏡を通り抜ければいいってものではない。
幸いなことにサバナクローと違って、スカラビアに問題児は少ない。そのため今日もカリムただ一人を除いて全員が寮に戻っている。あとはカリムだけだ。数少ない問題児が寮長であるあたりが寮としては大きな問題ではあるが。

ジャミルは深く溜息をつくと、少し気が早いが名前へ電話をかけることにした。なにを考えているのかわからないところはあるが、あの後輩は案外真面目だ。基本的に時間は守るタイプだし、きっとカリムが寝たか駄々をこねたかでオンボロ寮を出るのが遅れたのだろう。

確認のために電話をかけると、少し待って相手が出る。
「もしもし、名前か?」
『ふな?なんでジャミルがかけてくるんだゾ?』
「……ん、グリムか?」
名前ではなくグリムが出たことに驚く。
理由を尋ねると、名前は寝てしまったカリムを抱えてスカラビアまで向かったらしいが、うっかりスマホをオンボロ寮に忘れてしまったらしい。
「…… 名前、案外抜けたところもあるんだな……」
『つーかまだ着いてないのか?あいつら20分前には寮を出たんだゾ』
「……20分前?」
オンボロ寮から鏡舎まで歩けば5分程度だ。仮に寝ているカリムを抱きかかえていたとしても10分程度。20分は明らかに時間がかかりすぎている。
不意にジャミルの背中を嫌な予感が駆け巡った。素肌に虫が這ったかのように全身に鳥肌が立つ。長年の経験上、この嫌な予感は大概当たるのだ。

「グリム、今すぐ名前を追って鏡舎に向かってくれ。俺も向かう」
『急になんなんだゾ!?』
「カリムたちに何かがあった可能性がある。急いでくれ!」
「ふなっ!わ、わかったんだゾ!」
通話を切ることも忘れて駆けていく四つ足の足音がすぐに消えていく。通話を切って、ジャミルもまた駆け出した。




果たして、ジャミルがそこに辿り着いた時にはもう全てが終わり切っていた。
「カリム…… 名前……」
小さく呟いたジャミルの声に応えはなかった。

なぜならカリムはあいも変わらず地べたでぐうぐう寝ていたし、名前は意識を失った不審者の服を剥ぐのに忙しかったからだ。

「いやなにをしているんだ!?!?」
「うわっ、ジャミル先輩。あっ、すみません、門限間に合わなくて……」
「ああ、次からはもっと時間に余裕を持って行動してくれ。……じゃなくて!」
名前は不審者の下着を脱がすとそれを遠くの草陰へ放り投げた。それから不審者が顔に巻いていた布で手足を縛る。……が、彼は紐を結ぶのが苦手らしく四苦八苦しているようだ。
「代わろう。君はカリムを見ててくれ」
「あっはい、ありがとうございます」
近くで見た名前は頬に擦り傷を作っていたし、髪は少し焦げていた。けれどその程度だ。この全裸の不審者、というか恐らくカリムを狙った全裸の刺客、いや元は全裸ではなかったのだろうが、この刺客相手に名前はステゴロ肉弾戦をかまして勝利を収めたのだろう。白目を剥いた刺客の左頬はパンパンに腫れていた。
「君は案外……たくましいな。いや知っていたが……」
褒められたと思ったのか、カリムのそばに寄った名前は軽くジャミルに頭を下げた。それに合わせて、名前の右腕がまるで力が入っていないかのように不自然にぶらんと揺れたことに気がついた。よく見るとその腕は不自然に歪んでいる。それを見てジャミルの背中に冷や汗が流れた。
「名前、それ、右腕折れてないか……?いや折れてるぞ」
「えっ、そうなんすか?あんま痛くはないんですけど」
「アドレナリンが出てるだけだバカ!」
ジャミルは鋭く叫ぶとキツくキツく刺客の手足を縛った。それから駄目押しに固定魔術をかけると「当直の教師を呼んでくる!いいか、カリムとグリムのそばにいろ!絶対動くなよ!」と監督生に言いつけてまた駆け出していった。

名前は言われた通り素直に、スヤスヤ眠るカリムの隣に座ってジャミルを待つことにした。そろそろと寄ってきたグリムが名前の左脚に頭を擦り付ける。
「すげーゾ。よくやったんだゾ、子分」
「グリムが早く来てカリム先輩を守っててくれたからタイマンに集中できた。グリムのおかげだよ」
「あったりまえなんだゾ!」
グリムは胡座をかいて座り込んだ名前の脚の上に乗る。
名前は折れていない方の手でくすぐるようにグリムの額を撫でて、それからあいも変わらず穏やかに眠っているカリムを見た。
その褐色の頬を撫でる。もう涙の跡はない。そのことに深く安堵する。笑っているほうがいい。カリムがどうとかじゃなくて、泣かれると名前の心が嵐の海のように荒れて、困惑して、どうしたらいいのかわからなくなってしまうから。
穏やかな寝息。……思えばこの人、結構騒がしくしたと思ったのにタイマン中ずっと寝てたな。今になっておかしく思えて、笑いたくなる。
けれどよかった、この人の穏やかな眠りを守れてよかった。

この人を、この柔らかい体温を守れてよかった。

深い満足感が胸に広がる。生まれた時からこの瞬間を待っていたかのような強い、強い歓喜が名前の体に満ちていく。そうして、今になって理解する。あの時村山さんが言った言葉の意味を。

見上げた空には細い月。
脚の上にいる、共に戦った仲間。
隣にある守り切った穏やかな寝顔。
深く息を吸って、はく。まったく、ここに居ると息がしやすくて仕方ない。

「ん、んん、……」
溢れる吐息に目を向ける。すると目が覚めたらしいカリムが薄く目を開けて名前を見た。
「……名前?」
「はい、俺ですよ。先輩」
答えれば彼は微笑んだ。
それだけ、ただそれだけのことがたまらなく嬉しかった。

「きょうはありがとな」
ふわふわの夢現の中、その人はもう一度繰り返す。名前は穏やかに笑って「礼を言うのは俺の方です。先輩」と言葉を返した。

「先輩といると息がしやすいんです。それに、心臓のあたりがじわじわあったかくなって、どきどきする」
柔らかな夜風が彼らの間を吹き抜けていく。木々のざわめき、それも絶え、静かな夜が戻ってきた、その一瞬を彼の言葉が穿つ。

「ありがとう、先輩。俺、先輩のことが好きです」
その言葉にカリムは少し驚いたような顔をして、それからたまらなく嬉しそうに笑ってみせた。
「ああ、オレも名前のこと、好きだぜ」

……ああ、今ならわかる。
きっと俺が見たかった景色はこれだった。






学園に入り込んだ刺客がカリムと名前を襲った事件については学園とアジーム家が秘密裏に処理した。表向き、その夜はなんの事件もない穏やかな夜だった。
名前の骨折についても、彼がオンボロ寮の階段で転んで腕を折ったということになっている。

つまり、その他の生徒への被害や影響は一切ない。
……食堂以外では。

カリムと名前のオンボロ寮デートの翌日、食堂は異様な空気であった。

「ほら、名前。あーん」
「あーん」
「へへへ、どうだ、名前、うまいか?」
「ふまいれす」
「そうだろそうだろ!ジャミルの弁当はうまいだろ!」

なぜならカリムと名前が食堂できゃっきゃうふふバチクソにイチャつき申し上げているからである。

食堂にやってきた生徒は彼らを見てまず三度見し、顔見知りは微妙な顔をして避けていくか、好奇心満載で寄ってくるかの二択。
ラギーやリドルなどは前者で、オクタヴィネルは後者である。しかし後者も、数分も話すとカリムと名前の圧倒的イチャつきパワーに顔を引きつらせて去っていった。なんかやけにムカつく割に1マドルにもならないと気がついたのだろう。見ていたジャミルはガッツポーズをした。
また、余談ではあるが彼らの席から離れたところのイグニハイド生は異様な目つきで2人を見つめ、ぼそぼそと早口で何かを呟きながらスマホを高速で操作していた。何をしているのかについてはお察しである。

「ほら名前、つぎ、あーん」
「あーん」
さて、カリムが名前にあーんをしているのは別に2人が付き合い始めたとかではなく、カリムが名前の骨折に責任を感じたからだ。
利き腕が骨折したら飯食うのも大変だろ?オレが手伝ってやるよ!というカリムのいつもの圧倒的善意だった。

実を言うと、名前は基本右利きだが箸ではなくスプーンやフォークでなら左手でも食べることができた。が、名前は自分がカリムへ抱いている好意に昨晩気がついた為、ラッキーと思って何も言わずにあーんをされることにした。恥とか外聞とかもう一切なかった。役得、それに尽きる。
他人の目線とかマジでどうでもいい。むしろそんなもん気にする奴は馬鹿だ。一体どれだけの人類が好きな子にあーんされる人生を体験できずに死んでいくと思っているのか。

許されるなら食堂にいる一人一人にドヤ顔をして回りたかったが、この学園はマジで治安がSWORD地区、コンテナ街、リトルアジア。キレた若者に無事だった左腕まで折られる可能性があったのでそれはやめて、正面にいるジャミルにだけ渾身のドヤ顔をしてみた。ストレートにビンタされた。急なゴスマリやめろ。沸き立つな、食堂。

(2020.08.03)