ダーリンホールドアップ


渋谷の中心街の中にある小洒落たカフェだった。
白と淡い桃色をベースとしたファンシーな店内。ショーケースの中で輝くたくさんのケーキ。会話を妨げない程度の流れる軽やかなBGM。大半を占める女性客。

……居心地が悪い。

武藤はターゲットを若い女性に絞った所謂映えそうなカフェの窓際の席に座りながら、この場における自分のあまりの場違いに今すぐここから離れたくなった。というか、本当は入店する前から帰りたかった。今も帰りたい。帰らせて欲しい。頭を下げて帰してもらえるのならば外観も男としてのプライドさえも投げ捨てて土下座でもなんでもしていただろうが、そんなことをしたところで帰してくれるような女ではないのだ。

洒落たテーブルを挟んだ向こう側のソファに座っている苗字名前という女は。

「ふふ、泰宏さんったらそんなに可愛い顔してどうしたんですか?」
あまりの状況にいつもの無表情の上、さらに死んだ目をした武藤を見て、彼女は生意気そうな笑みを浮かべた。

笑うと自然と上がる口角の角度のせいか、または意図的にそういう表情をしているのか──恐らく今は後者だろう──、名前は笑うとどうしてかどこか生意気そうな雰囲気を醸し出す。それが誰に対してもなのか、武藤に対してのみなのかはわからない。武藤にわかるのは、少なくとも自分に対してはそういう顔ばかりをするということだけだ。

それはつまるところ、年下の女にクソほど舐められている、というわけなのだが。

「なぁ、苗字」
「はい、どうしましたか?」
「……帰らせてくんねぇか」
「……ふぅん、泰宏さんは先週のデートを喧嘩のためにすっぽかした上に「オレが悪かった。詫びになんでもする」と言っておきながら、私のお願いも果たさずに帰るんですか。へー?ふーん?はぁー?」
「…………」
そうだった。今回は情状酌量の余地もないほどに武藤が10割悪いのだった。強いて弁明するのなら先週の約束は別にデートのつもりではなかったのだが、それを言ったら恐らく火に油を注ぐだけだろう。流石の武藤もそれくらいはわかる。




さて、ことの始まりは武藤のもとにちょっとした小金が入ったこと。所詮泡銭だと、軽い気持ちで名前を食事に誘ったのだ。

「泰宏さんからのデートのお誘い!ディナー!……つまりこれはプロポーズ待ったなしってことですね!」
「デートじゃねぇし、プロポーズの予定もねぇよ。飯奢るだけだ」
「ふふ、照れなくてもいいんですよ?おめかしして、貴方を惚れ直させてあげます!」
「惚れ直すも何もねぇけどな……」
本当のことを言うと、隊員たち何人もに奢ってやれるほどの額ではなかったから名前に声をかけた、というある意味では消去法ゆえの誘いだったのだが、電話の向こう側で酷く嬉しそうな声を上げる彼女に悪い気はしなかったことは確かだ。

じゃあ明日の夜に、と待ち合わせの時間を決めた翌日の夕方。東卍のほうで揉め事があったらしく武藤をはじめとした伍番隊が呼び出され、少しばかりデカくて派手な喧嘩をした。前々から敵対していたチームとの抗争。血が騒ぐ抗争の時間は悪くなかった。

そうしてやがて日が暮れ夜が更け、抗争が終結しかけた頃のことだ。
武藤が名前との飯の約束を思い出したのは。

……その時にはもう約束の時間から3時間経っていた、といえばどれだけヤバいことか伝わるだろうか?

夜の繁華街に女を1人放置している。
そのことに気がついて、流石の武藤も内心冷や汗をかく。後始末を他の隊長格に任せると、待ち合わせ場所まで急いでバイクを走らせた。

「……遅かったですね、泰宏さん」
大慌てで向かった待ち合わせ場所で、名前は誰に絡まれることもなく3時間、武藤のことを待ち続けていた。
彼女が無事であることに一瞬安堵したけれど、普段ならばこちらを揶揄うような笑みを浮かべている名前の顔から表情がごっそりと抜け落ちていることに気がついて、武藤は自身が危機を脱していないことを知る。

名前は無表情だった。いつもなら喜怒哀楽をコロコロと変化させる彼女がまったくの無表情。初めて見た顔だ。お前そんな顔出来たのか、と思うほど真顔だった。その無表情は彼女が端正な顔立ちなことも極まって、般若の如く恐ろしい。
しかし彼女が無表情なのは本気で怒っているからであることが分からないほど、武藤もそこまで唐変木では無かった。

「私に、何か言いたいこととかあります?」
「オレが悪かった」
「はい?当たり前のことを言われても困るんですけど」
「……そうだな、……あー、ほら、あれだ。今日の詫びにお前の言うことをなんでも聞いてやるから」
彼女の機嫌を取るために必死に頭を回した武藤がなんとか言葉を捻り出す。それでようやく名前は凍りついた表情を溶かすように優しく微笑んだ。

「泰宏さん、今、なんでもって言いましたよね?」

その悪魔のような微笑みに(ミスった……)と武藤は素直に後悔した。
約束を忘れたことも失言をしたことも後悔。頭の中で逃げ場を探すみたいにああすればよかったこうすればよかったと過去を振り返る。
……けれど、不思議とそもそも彼女を食事に誘わなければよかったなどとは少しも思わなかったのだ。




とかく、そんな経緯で武藤は埋め合わせとして名前にこの可愛らしいカフェに連れてこられたのだった。
彼女は明らかに楽しんでいる。溺れるネズミを眺めるが如く、抵抗できない武藤がこの場違いな空間に戸惑っているのを見てそれはもう楽しくて楽しくて仕方ないのだ。

「お待たせいたしました」
店員が運んできた煌びやかなケーキが武藤と彼女の前に置かれて思わずげんなりとする。そもそも武藤が甘いものはそんなに好かないことを知ってなお彼女はここに連れてきたのだ。
死んだ目をしている武藤を見て、店員は「彼女に無理やり連れてこられた彼氏」とでも思ったのか、やや苦笑じみた同情の目を向ける。場違いな厳つい男の存在に胡乱な目を向けられるよりはマシだが、どうであれ武藤がここから逃げられないことに変わりない。

「泰宏さん、あーん」
ケーキのてっぺんに置かれたイチゴをフォークで刺して、名前はそれを武藤の方へ差し出す。側から見れば可愛らしい笑顔かもしれないが、武藤にとっては悪魔の笑みにしか見えない。
差し出されたたっぷりと生クリームのついたイチゴに対して、唇を閉じて無言の抵抗をするが、
「……なんでもするって言ったのに」
「……っ、ぐっ……」
そう言われると抵抗できなくなる。
仕方なく武藤は眉間に凄まじく深い皺を刻みながら渋々差し出されたイチゴを口に含んだ。微かな酸味の後、口に広がる人工的な甘さに顔を顰める。
とはいえ、大人しく従ってやったのだ。これで彼女も武藤をオモチャにするのに満足しただろう。

「あ、じゃあ次は泰宏さんから私にあーんしてください」
なんでだよ。今ので満足しとけよ。
ほら早く、と小鳥のように開いた唇をこちらに向けて微笑む彼女に武藤はとうとう長くて深い溜息を吐いた。

「どうしたんですか、溜息なんかついて。幸せが逃げちゃいますよ?」
「誰のせいでそうなってると思ってんだ……」
「さあ?私との約束をすっぽかした誰かさんのせいじゃないですか?」
「……口の減らねぇ女だな」
「でも泰宏さんはそんな私のことが大好きですよね?っていうか、こんなに可愛い女の子にあーんができるのに何が不満なんですか?」
「どっから来んだよ、お前のその自信は」

そう言いながらも、武藤が「大好き」も「可愛い」も否定しなかったことに名前は気がついていた。そういうところが女を調子付かせるのだと、武藤だけが理解していない。

米神を押さえて疲れたような溜息をつく武藤に名前はますます機嫌を良くした。こんな幸せな時間を過ごせるのなら、先週3時間放置されたことなどまるで些事だ。

そもそも名前は武藤が思っているほど怒ってなどいないのだから。

「ねぇ、泰宏さん。あーんしてください。してくれたら、許してあげます。先週のことは全部水に流して、揶揄うのはこれっきりにしてあげますから」

男の失態を本当は全て許しきっていながら彼女は、愛しい人が渋々といった様子でフォークを手に取るのを見て心の底から微笑んだ。



(2021.10.14)