プレ・ハネムーン

新婚旅行という名前をつけているが、実際は夫婦が揃ってマイアミにいるというだけのことだった。

世界的なテニスプレーヤーである鳳凰はテニスの大会のために、私はその応援兼観光のためにアメリカへ渡った。ただし一緒にではない。準備やら調整やらがある彼は私よりも数週間早くマイアミへ到着していて、私は後からひとりでアメリカ行きの飛行機に乗った、というのが正しい。
成田空港からヒューストンまでの12時間と、ヒューストンからマイアミまでの3時間の空の旅。私はそれを二冊の文庫本と旧式のウォークマンと共に過ごした。
そうして辿り着いた常夏の街、マイアミ。

それがたまたま結婚して最初の国外旅行だったからジョークとして新婚旅行と呼んでいるだけで、その実態が一般的に新婚旅行とされるものとは大きく異なっていただろうことは想像に難くない。

なにせ私がマイアミに到着してから1週間が経ったが、夫とはメッセージアプリでしかやりとりをしていないのだから。

「……やりとり、というのもおかしいか」
大抵は私の方から特に用もなくメッセージを送り、それに彼が既読をつける。それだけのことを「やりとり」と呼んでよいのかについては判断は難しい。生存確認、という方がそれらしいのかもしれない。

けれどそれが私たちの普通だった。フラットで、何の気負いもない状態。彼の試合がある時は応援をしに行き、そうでなければ私は一人でマイアミというリゾートを満喫している。つまるところ、ほとんどが自由時間だった。

だからマイアミに着いて7日目の夜も、私はたった一人でマイアミのキューバ料理屋でアロス・ア・ラ・マリネーラを食べていた。

『今日の晩ごはん』というメッセージを、注文した時の想像よりずっと大きな鍋に入ったキューバ風のパエリヤの写真と共に彼に送る。
食事の写真を撮って送るのがここ一週間の私の朝昼晩のルーティンになっていた。返事は一度も返ってきたことはないが、昼に送った写真に既読がついている。それで十分に満足だった。

私が座る二人掛けのオーシャンビューテラス席からは夜なのに煌びやかで明るいビーチの様子がよく見える。
不意に、波打ち際で手を繋いで歩くカップルの姿が目に入った。当然だ。ここはハネムーンにも選ばれるリゾート地なのだから。

昼間よりずっと涼しくなった風が頬を撫でていく。羽織っている薄手のカーディガンでは少し肌寒いのだけれど、店内の席には行きたくなかった。店の中ではいくつもの観光客グループが大きなテーブルを囲んで皆楽しげに笑っている。私は一人が嫌いではなかったけれど、一人が寂しくないわけではなかったから。

陽気なBGMに、厨房から流れる独特な香り、観光地特有の賑やかさ。それを私は少し外側から楽しむ。
私は楽しい。今を楽しんでいる。何も楽しくないわけじゃない。
けれどそれは寂しいことと両立する。

紛らわすために必要なのは会いたい人かアルコールで、けれどどちらも私の元には無い。前者は私の意思ではどうしようもないとして、後者を選ぶのは素直に危険でしかなかった。明るく人通りの多い観光地とはいえ、夜に一人で酔うなんて自殺行為だ。

「それはそれとしてビール飲みたいな……」
「飲めばいいだろうが」
「うわっ」
急にやってきたその男はまるでそこが自分の指定席だとばかりに私の向かいの席に腰掛けた。

手入れも無しに伸ばしっぱなしの金髪と無精髭。そのくせ真っ直ぐ鋭い光のある瞳。観光地に不釣り合いな着古したトレーニングウェア。
私の手から勝手にスプーンを奪い取ってまだ半分近く残っているアロス・ア・ラ・マリネーラを無断で食べ始めたのは他でも無い、私の夫である鳳凰だった。

「ねぇ、それ私のなんだけど」
「フン」
「フンじゃなくて」
「どうせ食い切れねぇんだろうが」
「まあ、そうなんだけど」
正直、彼の言う通り想像より量の多かった料理にお腹はいっぱいになりつつあった。だからもう残りは全部彼にあげてしまおうと思って、私はウェイターを呼び止めてキューバのビール『ブカネロ』を頼んだ。

「言っておくが俺は飲まねぇぞ」
「当たり前でしょ、君は明日も試合なんだから。私が飲ませないよ」
海賊の絵が描かれた瓶ビールはふたつのグラスと共に運ばれてきたけれど、私はグラスをテーブルの隅に追いやって冷たい瓶に直接口をつけた。

私の向かいで黙々と料理を食べ進める夫と、スッキリとしたキレのあるラガービール。気がつけば求めていたものがどちらもやってきていた。
テーブルに品悪く肘を置いて頬付けをついて、口と鍋の間をスプーンで往復させている夫を眺める。誰とも知らない人々が遊ぶ海を眺めるより余程楽しかった。

テーブルについた肘をやや含みのある顔で見てくる夫の視線を無視して笑う。彼が食事をしているところをもっと見ていたかった。それは生きている証拠で、生きようとしている姿だから。

「……お肉でも食べる?」
「急になんだ」
「いや、それだけじゃ足りないかなって」
「人の世話ばかりするな」
「させてよ、久々に会ったんだから」

通りがかったウエイターを呼び止めて、プエルコアサードという豚の炭火焼きを頼む。「また勝手な真似をしやがって」と彼は言ったが、食べないとか要らないとは一言も言わなかった。冷たい瓶ビールを手の中で揺らして、それだけのことに嬉しくなる安い自分を笑う。
そんな私を見て、片眉を上げた鳳凰はじっとこちらを見つめながら口を開いた。

「貴様が、」
「貴様ァ?遠いところまで応援に来てくれてメッセージの返信さえしない夫に文句の一つも言わない世界一優しくて可愛い妻に対して、貴様って言った?」
間髪入れずに口を挟むと、ひるんだように口をつぐんだ鳳凰は一瞬バツの悪そうな顔で視線を逸らしてから、もう一度私を見つめて、私の名前を呼んだ。

「名前」
「うん、なにかな」
「……無視をしているわけではない」
メッセージアプリの話だろう。なんだか言い訳がましい様子が珍しくて可愛らしいので相槌で続きを促す。

「必要があれば返信をする」
「うん」
「が、毎回食事の写真を送られても返信のしようがねぇ」
「迷惑?」
「そうは言ってねぇだろうが」
「それならいいんだけど」
「…… 名前がこの街を楽しんでるのは見りゃわかる」
「まあね、なんだかんだで毎日楽しく過ごしてるよ」
「だがそれに腹が立つ」
「なんで?」
ムスッとした顔で見つめられて、困る。そういう顔も可愛いなと思うくらいには彼のことが好きだ。

「……察しろ」
「私が毎日一人でエンジョイハッピーに過ごしてるのが、まるで鳳凰がいなくても幸せにしてるみたいに見えて寂しくてムカつくってこと?」
「察するな」
「ンエー、理不尽。可愛いねぇ、ちゅーしていい?」
「ダメだ。寄るな酔っ払い」
立ち上がって向かいに座っている鳳凰の元まで歩き、彼を抱きしめてその米神に何度も唇を落とす。そんなことをしていると料理を運んできたウエイターに「You’re so lovey-dovey.」と笑って揶揄われた。ので「Exactly!」と返しておく。鳳凰だけがされるがまま嫌そうな顔をしていた。

「鳳凰」
「なんだ離れろ」
「君だけじゃないよ。私だってさみしいさ」
そう言って鳳凰の髪を撫でれば、黙り込んでいた彼が不意に私の手を取って彼自身の元へ引き寄せる。
その勢いのまま彼の膝の上に乗ってしまったけれど彼が気にする様子はなかった。そうしてお互い正面から見つめ合っていれば、眉間に皺を寄せた彼が口を開く。

「……あと3日もすれば決勝だ。そうすれば、」
「コラ」
わざと低い声で彼を叱って、その口を掌で押さえてやる。掌に彼の髭がチクチクしてくすぐったい。瞳の中に少し驚いたような色のある彼の目をじっと見て、伝える。

「君は決勝より先のことなんて考えなくていいの。これからの大事な試合のことだけ考えてなさい。それから先のことを考えるのは私の役目だよ」
近い距離から彼の瞳を見つめて語りかける。

「フリーになった君と行く場所はもう計画済みなんだ。3日後に優勝した君は、着の身着のまま私のところに来ればいい。それからのことはすべて、私に委ねて」

そう伝えれば彼は私の顔を見つめたまま、不意に抵抗をやめたみたいに体の力を抜いた。呆れたような、それでいて少し笑っているかのような溜息が私の鼓膜を揺らす。

「……貴様は、」
「貴様ァ?」
「……本当に、度し難い馬鹿だな」
「急にストレートな悪口言うじゃん」
「悪口ではない。事実だ」
「悪口だよ。それが悪口だよ」
「フン、いいだろう。3日後、優勝トロフィーを手に貴様の元に帰ってきてやろう」
「え、いいよ……トロフィーはハネムーンに邪魔だからホテル置いてきなよ……」
「…………」
「いた!いたたた!なんで!」

無言でアイアンクローをされた。
小顔になるかと思った。



(2022.03.16)