when I’m bad, I’m better

「修二先輩、大事な話があるんですが」

そう言った瞬間、先輩は指鉄砲で撃たれたかのようにその場で仰向けになって倒れた。放課後、私の所属する2年A組の教室でのことだ。

夕暮れ。私たち以外に人のいない教室で、掃除しているとはいえ人の歩く教室の床に寝転んだ先輩を私は窓際の一番後ろの席に座りながら見ていた。日誌を書いていた手が止まる。

「……先輩、一体何を?」
「見ての通りやで」
「陸に打ち上げられたアザラシの物真似ですか?」
適当にそう返すと先輩は「ピギー!」と鳴き声を上げた。アザラシの真似だろうか?私はアザラシの鳴き声を知らなかったが、恐らく本当のアザラシはそんな声で鳴かないのだろうな、と思った。

「いやアザラシとちゃうねん」
「では何を?」
「駄々をこねる準備や」
「……何故?」
「そら、名前ちゃんの言う大事な話が別れ話だった時用の駄々しかないやん。俺絶対別れたないし」

常識だと言わんばかりに床に転がりながらこちらを見上げてウインクをしてくる彼に、私は人によって常識や当たり前が異なるのだという当然のことを思い出した。先輩は時々そういう大切なことを私に教えてくれる。

「高校三年生の本気の駄々ってモンを見せたるからな」
先輩はキメ顔でそう言った。
あまりにも清々しいその表情に、なんだかそこまでいうのなら先輩の全力駄々を見てみたいなあという気持ちになってしまい、予定を変更して別れ話をしようかと思ってしまった。が、私の中にある常識や良識がそれをとどめた。

「別れ話ではないので起きてください、先輩。背中汚れちゃいますよ」
「ちゃーい」
「制服もちゃんと着てください。左腕も袖を通して」
「ちゃいちゃーい」
「ちゃいは一回です」
「ちゃい」
何事もなかったかのように立ち上がった先輩は私の前の席の椅子に、背もたれを抱きかかえるような体勢で座った。先輩の銀色の髪が、窓から差し込む西日に照らされてきらきらと輝く。綺麗だな、と素直に思う。

「ちゃんと書いとって名前はええ子やな」
さすが優等生、と先輩は私が書いている日誌の文字を指でなぞりながら笑った。
日誌はもうほとんど書き終えていて、残りは自由記述欄だけだ。ここは書いても書かなくてもいいところだから、みんな書かないのだけれど私はまだもう少しこの教室に先輩といたかったから、今日あったことをゆっくりと書いていく。

「それで、大事な話ってなんなん?」
「実は映画のチケットを2枚、」
「貰ったん?」
「いえ、買いました。自分で」
「ほお?」
先輩は小首を傾げて私を見た。理由を問われているのだろうと思って言葉を続ける。

「いつも休日のお誘いは先輩からばかりなのでたまには私からも誘おうかと思ったのですが」
「おん」
「キッカケが無かったのでキッカケを作ろうと思って」
「自分で買うたん?」
「はい」
私がうなづいた途端、先輩は机に突っ伏した。顔は見えなくなったが、肩が揺れている。笑っているらしい。ひとしきり笑ったらしい先輩は笑った表情のまま顔を上げると「普通に誘えばええやん。映画行こって」と言って笑った。

「そんな遠回りなことせんでも修二先輩はいつでも遊んだるからな〜」
先輩はそう言って私の頭を無遠慮にわっしゃわっしゃと撫で回す。そうやってぐらんぐらんとシェイクされる視界の中で、私は仏頂面のまま(でも春休みは一度も遊んでくれなかったわ)と心の中で不満を口にした。

……わかっている。仕方ないのだ。
先輩はテニスのすごい選手だから日本代表にも選ばれるし、日本国内だけじゃなくて海外にも行くし、たくさん練習しないといけないし、でもテニスだけじゃなくてもう高校三年生だから進路のことも考えないといけないし、……あれ?先輩って本当はすごく忙しい人なんじゃないかしら?

……よく考えたら先輩は私とのんびり映画に行ってる暇なんてないんじゃないだろうか。本当はいつも私と遊んでる暇なんてなくて、忙しい中、無理して私と時間を作ってくれているんじゃないか?私は先輩に無理をさせているんじゃないだろうか。私の存在が先輩に負担をかけているんじゃないだろうか。

だって先輩はすごい人で、忙しい人で、でも優しい人で、だから言わないけど、先輩は、本当は、先輩は、だから、私は、先輩のために、先輩を思うなら……私は………。

「……先輩」
「どーしたん?眉間皺ぎゅーなってんで?」
「今、すごく考えたんですけど」
「おん、どないー?」
「……私たち、別れましょう」

私がそう言った瞬間の先輩の行動は早かった。

射出された弾丸のように素早く床に寝っ転がったかと思うと、間髪入れずに彼の本気で全力の駄々を見せてくれた。

なんというか、すごかった。
高校三年生の本気の駄々はすごかった。

すごかったが、見ていてとても恥ずかしかったので「先輩ごめんなさい。私が軽率でした。撤回しますからやめましょう。先輩が駄々をやめてくれないと先輩の駄々をやめさせるために私が駄々をこねることになります」と慌てて先輩を起き上がらせた。

彼の長い腕を引っ張ってようやく起き上がらせた先輩はもうほとんど覆いかぶさるような勢いで私に引っ付くと「なんで急にそないなこと言うん〜」とべそべそした。

「すみません。私の存在が先輩の負担になっているんじゃないかと思ってしまって……」
「んなわけないやん。ってか、さっきの一瞬でそんなこと考えとったん?思考速度早過ぎやろ、スピード違反で逮捕すんで」
「あと、先輩の全力駄々が急に見たくなって……」
「おお?なんや悪い子やなぁ」
先輩はそう言って嬉しそうに笑った。

学校では真面目な生徒だと評価されている私のことを悪い子だと言うのはきっと修二先輩だけだ。
ぎゅうと抱きついてくる先輩に顔を寄せられて、さらりと唇を奪われる。触れるだけ。それから鼻先が触れる距離で先輩は「ちょっと遠回りして帰ろか」と目を細めた。日誌なんてとうに書き終わっている。色を深めた西日が窓から差し込み、先輩の銀色の髪をきらきらと輝かせた。綺麗だ、と目を奪われる。

きっと私、あなたの前ではいい子でいられないのね。

些細な躊躇いを踏破して、今度は私の方からキスをした。目を閉じて、触れるだけ。唇を離して目を開いた時、先輩は一体どんな顔をしているのだろう。

楽しみだ、と思ってしまう私はきっと悪い子だ。

(2022.03.17)