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「こわいの」
ベンチの上、種ヶ島の隣に座った苗字は身を小さくしてそう呟いた。猫背になって俯いた彼女の表情は種ヶ島からはよく見えない。見えないけれど、その声音だけで彼女がどれくらい弱っているのかが伺えた。

「平等院の顔が?」
それ故にあえて茶化すようにそう言ってみれば、顔を上げた彼女は種ヶ島の顔を見てキョトンとした表情をした。

「……? 怖くないよ、かっこいいよ」
「お〜惚気られてもうた」
「聞いてきたのは種ヶ島くんじゃん……」
そうじゃなくて、と彼女は小さな声で言って目を伏せた。緩やかな瞼のカーブ。涙袋に影を落とす睫毛。騒音の中で容易く掻き消されてしまいそうな小さな声。
ふとした時にアンニュイさを見せるところは、少しだけあの男に似ている。根底にある繊細さに近しいものがあるのだろう。

「完璧な人と付き合うのってしんどいじゃん……」
「ごめん、誰の話やったっけ」
「平等院くん……」
「ごめん、それ誰やったっけ?」
「なに?友達でしょ君ら……えっ?こわ……」
自分と平等院は彼女からしてみれば友人に見えるらしい。肯定も否定もしづらい問いかけに種ヶ島は「ちゃーい★」と笑って誤魔化せば、苗字は「なにその鳴き声……」と訝しげな目を向けた。

「とにかくさ、平等院くんって、なんていうか、隙が無いでしょう」
「無いな。毎朝いつも起きた瞬間からすでに今日もう百人くらいベコベコにシバいてきましたってくらい隙無しやったで」
「ヒッ、共同生活してたマウントやめてください泣いてしまいます」
「心弱すぎん?」
「ウッウッ……私も寝起きベコベコの平等院くん見たい……」
「そう言えばええやん」
「そんな……種ヶ島くんじゃあるまいし、そこまで煩悩丸出しのことなんて言えないよ……」
「煩悩丸出しとちゃうで。俺のは素直っちゅーねん」
というより、合宿があったから結果的にそうなっただけで別に見たくて毎朝平等院の寝起きを見ていたわけではない。
と、言ってもよかったが、そう言えばまた「仲良し距離感マウント……」と泣かれるのだろう。容易く想像がつく。めそめそした彼女の横顔を、種ヶ島はぼんやりと眺めた。


平等院の恋人だというこのやけに声の小さい苗字と、平等院のチームメイトである種ヶ島。二人は平等院の紹介で知り合った。
……なんてことがあるはずもない。

テニスへの姿勢はともかく人間性については軽薄であると思われている種ヶ島へ平等院が恋人を紹介するはずもない。苗字とは本当に偶然と呼ぶ他ない出来事をきっかけにうっかり出会ってしまっただけなのだ。むしろまさかあの平等院の連れだとは、種ヶ島自身出会った当初は思いもしなかったくらいだ。

そんなこんなで知り合った二人なのだが、当然平等院は恋人と種ヶ島の交流に渋い顔をした。が、当の彼女が「私友達少ないから新しい友達できて嬉しい……」と控えめに笑ってそう言うものだから、あの男は何か言いたげな顔をしながらも結局口をつぐんだままだった。
それを見た時に種ヶ島は(コイツほんまにこん子のこと好きやんけ)と思ったことを覚えている。


「平等院くんは、」
と、不意に苗字は呟くような声で言った。自然とその横顔へ種ヶ島の視線が向かう。
誰かが誰かを想う顔は嫌いじゃなかった。それが少なからず情のある相手たちだから、なおさら。

「死ぬ気で頑張ると決めたら、本当に命懸けで頑張ってしまう人だから、」
繋ぎ止められるのならば、繋ぎ止めたい。

そう言った彼女に種ヶ島は小さくうなづいて、その言葉を肯定する。あの男はそういう生き物だった。無骨で真っ直ぐな刀の如く、己の機能をそれと定めてしまった。命懸けで生きている人。命懸けで生きていく人。比喩でもなんでもなく、そうすると独りで決めてしまった人。

けれど種ヶ島たちはもはや彼の在り方を否定できない。他でもなく彼らこそが、平等院のその姿を肯定して、共に征くと決めてしまったから。
故に、彼と共に戦う船員にはなれど、彼の帰る港にはなれない。彼の船を前へ進ませる帆にはなれど、繋ぎ止める碇にはなれない。

もしもそれらに成れるとしたら、それはきっと今種ヶ島の隣に座る小柄な彼女だけなのだろう。
また見ぬ世界へ過酷な旅路を征く船にだって、帰る港はあるべきなのだから。

「だから私は平等院くんがちゃんと帰りたいと思えるくらい、彼にとって大切な人になりたいの」
ぽつりとこぼす様にそう口にしてから、苗字は顔を青くして「私程度の羽虫が烏滸がましいことを言ってすみませんでした」と虚空に謝罪する。おもしれー女……と種ヶ島は素直に思った。

「とにかく、平等院くんに隙を見せてもらえるくらい、仲良くなりたいというお気持ちの表明でした……」
身を小さくして蚊の鳴く様な声でそう言う彼女に種ヶ島は思わず笑ってしまった。

平等院が容易く他人に隙を見せるわけもない。
ましてあの男、惚れた女にはエエ格好しいなタイプに決まっているのだから。

ま、それはそれとして間接的に平等院を揶揄いたい。
そんな欲求を抑えられなかったというか、抑える気のなかった種ヶ島は「ええ方法があんで★」と顔のそばでギャルピをしながら彼女に笑いかけた。

「ほんと?」
「ほんまほんま。結局男なんて好きな子に迫られたらイチコロやし」
「つまりまず平等院くんに好かれる必要がある……ってコト?」
「自分ら付き合うとったよな?」
「付き合ってはいるけど……」
「けど?」
「彼をイチコロにできるほど好かれているという自信があったら、私は声量はとっくに800dB超えてるよ……」

20dB程度の囁き声で喋ってばかりの彼女が米粒ボイスで反論してきた。ちょっと強風が吹いたら掻き消される程度の声量は彼女の自信の無さの現れらしい。

果たして苗字が平等院に好かれているか否かについて、種ヶ島は答えを持たない。が、恋愛などという厄介事を好むはずの無いあの男が、惚れてもいない相手を恋人としてそばに置くはずもない。
つまるところ、苗字が平等院から好かれていないということは在り得ないのだ。なんならむしろ滅茶苦茶に好かれていると考えていいだろう。
もしもその好意が彼女へ伝わっていないとしたら、それはただ単にあの男の過失だ。そこまで世話を焼く義理はない。

「ま、それはそこらにおいといて★」
「かなり重要な問題をそこらに置かれてしまった……」
「顎クイしてじっと目ェ見て迫ればアイツは一発やろ」
「……アリ、クイ?」
「マジか、顎クイわからん高三って日本で平等院だけや思っとったわ」
「ちくちく言葉だよそれ……私に対しても平等院くんに対してもちくちくしてる……」
本当にわかっていない顔でこちらへ小首を傾げる彼女に種ヶ島は笑う。揶揄い甲斐があるのは平等院のほうだけではないのかもしれない。

「しゃーない。教えたるわ」
「あざます、師匠と呼びます」
「顎クイちゅーんは、こうやって顎を、」
さて、どう揶揄ってやろうかなと思いながら、種ヶ島が隣に座る彼女の顎下へその褐色の指先で触れようとした、その時。

種ヶ島の鼻先を亜光速のテニスボールが通り過ぎて行った。

瞬間、奥の壁にぶつかって凄まじい破壊音を鳴らすテニスボール。見なくても壁にテニスボールが埋まり、現代美術の様相を示していることは想像に難くない。
彼女に触れる一センチ手前で手を止めた種ヶ島は、テニスボールの射出元へ視線を向ける。

「種ヶ島ァ……!」
想像通り、過保護な男が般若の様な顔で仁王立ちしていた。

「……俺が今わざと外してやったことは理解できるな?」
「ちゃーい★」
身を引いてホールドアップする。
ここで本気で怒らせてやりあうつもりは流石にない。揶揄うという目的ならもう十分に達成済み。冗談で許されるうちに退散するのが吉だ。

そんな男二人をよそに、彼女はよくわかっていない顔で突然割れた壁と種ヶ島の顔を交互に見ていた。テニスプレイヤーではない彼女には種ヶ島の眼前を通り過ぎた黄球は目に捉えられなかったらしく、風が吹いた途端突然壁が壊れたとしか思えなかったらしい。思わず吹き出す。

「彼ピ来とるし俺帰るわ★」
「えっ、あ、アリクイは……?」
「哺乳綱有毛目アリクイ亜目の動物のことやで」
「ウィキペディア?」
ギャルピかましてさっさと退散する種ヶ島を彼女は困惑した目で見送った。去っていく彼の代わりにやってきた平等院が苗字の隣に腰を下ろす。彼のその何か言いたげに眉を寄せた顔を見上げて彼女は(わ、かっこいいな……)とぼんやりと思っていた。

「苗字」
「え、あ、うん」
「……種ヶ島とは何の話をしていた」
「え、あ、その、別に、大したことじゃ……」
わかりやすく視線を彷徨わせる彼女に平等院はムッとしたまま言葉を紡ぐ。意図せず拗ねた声になったことに平等院は気が付かなかった。

「あいつには言えて、俺には言えねぇことか」
「うっ……言ったら困らせちゃいそうだから」
「そういうことは困らせてから考えろ」
「う、うう……あの、びょ、平等院くんの……」
「ああ」
「寝起きが見たいな、って……」
「……………」
「ああああ困らせちゃったよねほんとうにごめん今すぐ腹を切ってお詫び申し上げます本当にすみませんでした……」
「困ってねぇ」
「き、気をつかせてしまった……」
「つかってねぇ」
あわあわと顔を赤くしたり青くしたりして震える彼女をせめて宥めようと平等院は不意に彼女の頬に掌を寄せる。強張ることもなく受け入れられた掌をそのままに、彼はじっと彼女の瞳を見た。

「苗字、貴様は自分が何を言っているのかわかっているのか」
「だ、大丈夫だよ、そこまで子供じゃないよ」
「……覚悟あっての発言だろうな」
キスさえ碌にしていない恋人から「寝起きが見たい」と言われたことを遠回しなお誘いと捉えてしまうのは早計ながらも仕方ないとして、しかし苗字は本当にただ単に寝起きが見たいだけであり、ここで両者間に微妙な擦れ違いが発生していたのだった。

覚悟を問われた彼女は(寝起き機嫌悪い系なのかな……それはそれで見たい……)と思って、小声ながら「うん……!」と強めにうなづく。それを見て、平等院は小さく息を吐いた。

「……フン、ならばいい」
「あ、あ、でももし平等院くんが嫌だったら全然、」
「嫌とは言ってねぇ」
食い気味に否定した平等院に彼女はちょっとだけ目を丸くして、それからふにゃりと微笑んだ。

「それなら、よかった」
そう笑う声はいつもより少し大きい声だった。

(2022.03.27)