言うまでもない

「ねぇ」と、彼女が言ったその一言に、すでに怒気が混じっていた。

それに気がつかないほど付き合いは浅くなかったが、それに気がついたからと言って特別気をつかうほど付き合いも浅くなかった。

苗字に付き合って入った喫茶店の奥の席で、平等院と彼女は向き合っている。昼下がり。二人の前に置かれた氷の溶けかけたアイスコーヒー。会話を妨げない程度に流れるBGM。明度を落とした店内の照明。静かな店内に客が少ないのはいつものことだ。レジの向こうでオーナーが寝こけている。

「なんだ」
だから平等院は特別何かするわけでもなく、声をかけてきた彼女の目をいつも通り真っ直ぐ見つめて答えた。
そうすれば苗字はいつもより目を細め、眉を寄せながら彼を見上げる。表情からしてみてもやはり怒っているらしい。心当たりはない。つまるところ、彼が気がついていないだけで無数にあるということだ。
まるでわかっていない顔の平等院に彼女はぐぐっと、少しオーバー気味に眉間に皺を寄せてから口を開いた。

「……ナンパをしたって本当ですか?」
「あ?」
「ナンパをしたそうですね、オーストラリアで」
「なんだその敬語」
「心の距離の表れだよ! です!」

私は今怒っています、という表情で彼女は平等院の目をムッと睨む。威嚇のつもりなのかわからないが、平等院にとっては子うさぎのじゃれつきにしか見えなかった。

「……その話、誰から聞いた」
「鬼ヶ島くんに聞きました」
「……どっちだ、それ」
「なにが?」
そうやって話そらすの無しだよ、と彼女は言ったが、平等院には本当にどっちを指しているのかわからなかった。誰だよ、鬼ヶ島。

さて、そもそもの話として、平等院に恋人がいるということが選抜合宿に参加している高校生たちに広まったことがことの発端とも言える。
それ以降、平等院の恋人である彼女は平等院の恋人であるが故に、選抜合宿に参加している高校生たちから多大な好奇心を寄せられていた。

つまるところ、お頭についていける恋人ってどんなやつだよ! という好奇心だ。余計なお世話すぎる。
平等院が無言を貫くものだから、彼らの好奇心は余計に肥大化した。

本名は?年齢は?恋人はいるの?調べてみました!
やかましい。ネットのクソ記事か。

そうは思っていたものの、三津谷によって爆速で調べ上げられたのはちょっと怖かった。データマンってどいつもこいつもこんな感じなのか?ミリ単位の身長なぞ恋人である平等院も知らなかった。個人情報ってわかるか?

それだけならまだしも、ある日彼女が平等院の試合の応援にこっそり来た時、彼がちょっと目を離した隙にG10のほとんどが彼女と連絡先を交換していた。嫌すぎる。
「さして興味はない」と言いつつ越知がメルアド交換していた時は流石に手が出た。肩パン。先に手を出したのは平等院の方なので平等院だけが彼女に怒られた。不満げな顔をしていたら余計に怒られた。

閑話休題。

そんなわけで彼女はG10と交流がある。その中でも鬼と種ヶ島はどちらもコミュニケーション能力が高いほうだ。そのどっちからもナンパの話は漏れそうだったから余計に告げ口ルートがわからない。仕方ないのでどちらもしばき回す他なさそうだ。

「私の話を聞いていますか、鳳凰くん」
そんなことを考えていた平等院を、苗字はまるで教師か何かみたいな口調で詰めようとしてくる。その姿にあまり威厳は感じないが、そもそも平等院は教師や目上の人間に威厳を感じたことはなかった。彼は基本的に傍若無人で唯我独尊だった。

「聞いている」
「……で、ナンパをしたんですか」
「した」
「私に何か言うことは?」
「メンタルトレーニングの一環だ」
「……私に何か言うことは?」
「メンタルトレーニングの一環だ」
「それで言い逃れができるとでも思ってるの?」
「逃げてねぇだろうが」
ちっとも納得できていない胡乱げな瞳が平等院を貫くが、それに怯む理由もなかった。なにがあろうと、苗字がなんらかの疑いや不安を抱くことなど何もないのだから。

「苗字」
「……なに」
名前を呼べば、途端に彼女はそれまでの強気さを小さくして眉を下げた。これから平等院が何を言うのかに、不要に怯えているらしい。きっと頭の中で別れを切り出される可能性を想像でもしているのだろう。彼女が何を考えているのか、わからないほど付き合いは浅くない。

むしろ何故貴様がわからんのだ。
その手を、身体を、心を、決して壊さぬように、と俺が気を遣うのは貴様くらいだというのに。

「貴様が不安に感じるようなことなどにもない」
そう口にすれば彼女はふにゃりと眦を下げて「でも可愛い子をナンパしたんでしょ」としょぼくれる。
可愛いもクソもない。そもそもあの時の女の顔などとうに忘れている。苗字に話を出されるまでナンパのこと自体記憶になかったくらいだ。

「俺には貴様だけだ」
そうわざわざ口に出して言ってやれば、苗字は唇を噛んでこちらを見つめる。それから肩を落として呟くように言った。

「……もう一声」
「あ?」
「なんかもうちょっと欲しい」
「なにがだ」
「好きとか愛してるとか世には二人きりだねとかそういう直接的な感じのことを他でもない君に言われたいんですけど」
「なんだその敬語」
「照れを隠すためのおふざけだよ! です!」

なんか言え!と彼女が喚くのを、平等院は椅子の背もたれに体重をかけながら眺める。こんなふうに荒れている時に何かを言って彼女が落ち着いた試しがなかったからだ。だからといって、黙っていれば落ち着いたということもないのだが。

「あー、わかった、わかった、もうわかりました。じゃあナンパ相手にしたことを私にもしてください。同じように私を口説いてみてよ。そしたらそれで満足しますから」

ねぇ、と言ったその声にまだ怒気が混じっているのがわかって、平等院は溜息をついた。溜息をついたことに苗字が眉を吊り上げる。
だから仕方なく、平等院はテーブルの上に投げ出されていた彼女のその細い手首を掴んだ。

「…………」
「…………いや急になに?」
「貴様がやれと言ったんだろう」
「へ? なに? 主語がわかんないんだけど」
「主語は貴様だ」
「なんで私腕掴まれてるの? 折られるの?」
「……以前やったことをしろと言ったのは貴様だろうが」
そう返した途端に、ドン引いた目で見つめられた。

「何だその顔は」
「……は? 初対面の女の子の腕を急に掴んだの? 最ッッ悪じゃん……」
「女を連れてくればいいと言われたからその通りにしたまでだ」
「マジで言ってるならグーで叩いていい?」
「ハッ、負ける気がしねぇ」
「迎え撃とうとするんじゃない」
苗字は溜息をついて、それから呆れたように笑った。

「ハアー、浮気とか心配した私が馬鹿だった」
「だからそう言っているだろう」
「もうさ、君ってほんとそういうところあるよね」
「意味がわからん」
平等院が首を傾げると、なぜか視線を逸らした苗字はむやみに指先でストローの紙を弄りながらそれまでとはやや異なる声音で言った。

「……わ、私も大概だけど、もうさ、君に付き合えるような子なんてのは、やっぱり私くらいなんじゃないかな」
やけにわたわたと髪をいじったり、紙をいじったりしている苗字に、やはり平等院は首を傾げる。

コイツは一体何を今更そんなことを言っているのだろう。

平等院がそう思いながら無言でゆっくりと腕を組むと、間髪入れずに彼女は「なんか言え!」と噛みついてきた。
そういう反応をするだろうと思って取った行動に想定通りの反応が返ってきて、内心満足する。

さて、これから彼女が言ったように、好きだの愛しているだの口にしてやれば一体どんな反応をするだろうか。

なんて、想像がつかないわけほど、浅い関係じゃない。


(2022.04.27)