02 わるいこだれだ

小エビちゃんことオンボロ寮の監督生が痴情のもつれで腹を刺されたと聞いた時、フロイドは腹を抱えて笑ってしまったし、笑いすぎて酸欠で死ぬかと思った。

人魚が酸欠で死ぬなど恥ずかしすぎて末代までお笑い種にされるし、何よりフロイドの葬式の喪主を務めるであろうジェイドが笑いを堪えながら式辞を述べるのを想像して死ぬほどムカついた。このムカつきはすべて小エビちゃんのせいだ。小エビちゃんが腹なんか刺されるから悪いんじゃん。よっしゃ、締めにいこ。

思い立ったが吉日、フロイドはあと3分で始まる授業をほっぽり出して保健室へ向かった。登校中に刺されたらしい小エビちゃんは朝から保健室で安静にさせられているらしい。腹に穴が空いてりゃあ逃げられもしないだろう。思う存分にぎゅーってできるじゃん!ラッキー!
そう思ってフロイドはにこにこ廊下を歩いていった。
歩くたび廊下がモーゼの如く人波が割れていくのは、笑っていても笑っていなくてもいつものことだ。


「小ーエービちゃーん!あっそびーましょー!」
これは人魚語で「これからお前を使って満足するまで遊びます(生死は問わない)」という意味だ。
保健室のベッドで寝ていた小エビちゃんこと名前はフロイドの声にびくりと肩を震わせた。彼は小エビちゃんと呼ばれるだけあって人魚語は少し理解できる。この学園に来てからリーチ兄弟の人魚語だけはわかるようになった。人魚語で「遊ぶ」とは「殺す」を意味し、「締める」は「殺す」を意味するのだ。ここ、試験に出ます。
名前はそれを理解できたのでこの後の自分の運命もわかってしまった。メイドインヘヴン。自分の運命がわかれば自ずと覚悟もできる。何もわからずに死ぬより、これから俺は死ぬと覚悟できていた方がよっぽどいい。哀れな小エビは最近付き合い始めた恋人の世界一可愛い笑顔を思い出して、いややっぱ死にたくねぇなと思った。

「あっ、小エビちゃんいたぁ!」
各ベッドを仕切るカーテンががらりと開かれた。現在保険医は不在だ。NRC生は無駄に元気いっぱいで健康的な奴ばかりなので今保健室にいるのは哀れな小エビとウツボだけ。助ける者はいない。現実は無情である。まあ、フロイド相手なら大抵の奴は助けてくれない。ここNRCだし。
「うわっ、小エビちゃん何泣いてんの?汚っ」
小エビはウツボに怯える前から刺された腹が痛くて普通に泣いていた。生理的な涙である。痛み止め全然効いてなくない?なんで?痛みは生きてる証というが、生きてるという証はありすぎても困ることがわかった。素直に辛い。

「ねーねー、小エビちゃん痴情のもつれで腹刺されたってマジ?」
「うわぁ、それどこまで広まってるんすか?」
「は?質問に質問で返してんじゃねぇよ、締めるぞ」
「えっ、何、沸点不明過ぎて怖………」
ガラガラとその辺から椅子を引いてきて、ベッドに横たわる名前の真横に座ったフロイドに名前は(死……)と思った。
名前は元の世界でヤンキー、というかカラーギャングの一員だった。殴ったり蹴ったり投げたり折ったりとかはよくあることだったし、一時期マジもんのヤクザと全面抗争したこともあった。その時の一番ヤバかった時に似た感覚に今陥っている。学年が一個上の先輩が隣に座っているだけなのに。
フロイドは寝ている名前を見おろすと、さっきまでの低すぎる沸点はなんだったのかと思うような、ふにゃっと柔らかい笑顔を見せた。

「痴情のもつれってことはさあ小エビちゃん、ウミヘビくんにでも刺されたの?」
「え?なんでジャミル先輩が出て……、じゃない。いや、違います。ジャミル先輩には刺されてないです。なんでそう思ったんすか」
「だって小エビちゃん、ラッコちゃんと番なんでしょ?」
番、というのが恋人関係を表すというのならばイエスである。

名前はウィンターホリデーと、その後の些細な事件を経て、カリムと一般的にいう恋人関係になった。関係性の進捗はABCでいうとRくらいだ。具体的に言うと、スカラビア寮の砂漠の砂とオアシスメイカーで泥を作ってどっちがよりつるつるの泥団子を作れるか競争する感じ。そして泥だらけで帰ってきた2人を見てジャミルが発狂する感じでもある。
つまりプラトンもにっこりするほどプラトニックな関係性であった。肉体の結びつきよりも、そこに『在る』ことがすでに愛なのである。ようしらんけど。

「ラッコちゃんと小エビちゃんがイチャついてるのにムカついてウミヘビくんが刺したんじゃないの?」
「いや、ジャミル先輩はフロイド先輩と違ってそこまで野蛮な人ではないので……」
「は?」
「あっ、違います。今のは褒め言葉です」
「そうなの?じゃあいいや」
「いいんだ……」

カリムと名前が付き合うと聞いた時、ジャミルは名前の腕を掴むと真っ直ぐに目を見て「カリムと恋人になるということがどういうことなのか本当にわかっているのか?」とひどく真剣な瞳で言ったものだ。一瞬怒っているのかなと思ったが、そうではなく彼は真剣に名前の行く末を考えてくれていた。

「カリム先輩と恋人になるってことは、」
「ああ」
「卒業したらカリム先輩のハレムに入っておっきいわんちゃん枠で一生カリム先輩に可愛がられるってことですよね」
「ちが………いや、違くないがその認識はおかしい」
「マジカルパワーはないんですけどマッスルパワーはあるのでカリム先輩を守ります。とこしえに」
「つよそう」
「カリム先輩に害をなす存在をすべて土に還し、カリム先輩が子や孫に囲まれて笑顔のまま老衰で死んだ後に俺も後を追って死にます」
「人生設計レベルで覚悟完了してる……」
なんとも言えない顔のジャミルに「いいのか、故郷には家族がいるんじゃないのか」と問われ、名前は「こきょう……?かぞく……?」と起動したてのロボットみたいにジャミルの言葉を反芻した。名前は自主自立自由自在な家庭に育ったので、自分の親兄弟が今どこでなにをしているのか全然わからなかった。この空の続く場所にいるのかもわからない。
ジャミルはその反応と、名前の性格や暴力慣れした性質などからなんとなく事情を察して「いや、なんでもない。忘れてくれ」と言うに留める。人には人の乳酸菌と家庭事情があるのだとジャミルは身をもって知っていた。

そんなこんなでカリムと名前はジャミル公認の関係なのである。
刺したり刺されたりするようなことはない。今のところは。

「ふーん、じゃあ誰に刺されたの?」
「なんか、知らない人……」
そう、名前は知らない人に急に刺された。

それは昨日、オンボロ寮に遊びに来たカリムがそのままお泊まりしていった翌朝のこと。
ちなみにお泊まりしたが一切R18的展開にはならなかった。監督生はともかく、カリムはまだ17歳なのだ。そうでなくても恋愛初心者2人なのでそういう展開にはならない。今後の成長に乞うご期待である。
それはさておき、お泊まり明けの2人がオンボロ寮から一緒に登校していたところ、突然走ってきたNRC生に突進する形で刺されたのであった。

最初名前はそれをカリムを狙った刺客だと思い、反射的にカリムを突き飛ばして距離を取らせたが、そもそも初めから狙いが名前だった為、そいつはカリムには目をくれずそのまま真っ直ぐ名前だけが刺された。カリムは突き飛ばされ損である。ちょっと腕のところ擦りむいた。名前はその後、ストレッチャーで保健室に運び込まれながらめちゃくちゃカリムに謝った。腹に穴が開いていなかったら土下座をしていたところだ。

公衆の面前で名前を刺したNRC生は「監督生は誰のものにもならないんだ」「聖域のままでいられないなら死んでくれ」と喚いた。監督生過激派だったらしい。名前は取り押さえられた犯人の顔を腹にナイフが刺さったまま確認したが、どう頑張って記憶を蘇らせてもやはり知らない人だった。

ストレッチャーで保健室まで運ばれた名前は保険医に「あと3センチずれてたら死んでたよ」と笑って言われた。勘弁してほしい。もう少しでカリム先輩に犬のように可愛がってもらうという人生設計が狂うところだった。

カリムは名前が刺されてから運び込まれるまでずっと彼に付き添ってくれたが、永遠に真顔なのが素直に怖かった。可愛い子が真顔になるとめちゃくちゃ怖い現象に名前つけておいてほしい。
怖かったので「カリム先輩、俺の手を握っていっぱいヨシヨシしてもらっていいですか」とお願いしたら途端にニコー!と光り輝くような笑顔で「急にあんなことされて怖かったよなー!もう大丈夫だぞ!よしよし!泣かなかった名前はいい子だなー!あとは全部オレに任せてくれよな!」と首とれるんじゃないかというくらいヨシヨシされた。角砂糖投げられていたら口でキャッチしていたと思う。あと、先輩が「任せてくれ」って言ってたけど一体何の話だろう。名前わかんない。

名前をいっぱいヨシヨシした後、カリムはもう一度「あとはぜーんぶ任せてくれ。名前はなんにも心配しなくていいからな」と言って、保健室を去っていった。先輩はまた後でお見舞いに来てくれるらしい。名前はうれしーなー!と思った。名前はあんまり頭が良くないので、先輩がどこに行ったのかとか「任せろ」とはどういう意味なのかとか、そういう深いことは考えないことにした。

カリムと入れ違いでやってきたエースとデュース、ジャック、それからグリムは名前の容体を一切尋ねず、ただただ「やばいやばい」とやばいしか言わなくなってて語彙力がやばかった。
「やばいぞ名前」
「マジでやばいことになった」
「やべえぞこれは」
「やばいんだゾ」
「なにが?俺の腹が?穴あいてるんだけど見る?」
「見ねえよ」
「お前の腹よりやばいんだゾ」
「そんなことある?なにがやばいの」
「リドル寮長がお前の寮長面してブチ切れてる。うちの寮生に手を出すとは度胸がおありだね、って」
「なんで?ぼくちゃんオンボロ寮生だよ」
「レオナさんもだ。ラギー先輩連れてさっき学園長室に向かっていってたぞ」
「どうちて?」
「さっきすれ違ったアズールの奴もすげえ顔してたんだゾ」
「どゆこと?」
「お前を刺した犯人、明日の朝日を拝めないだろうな」
「なんでみんな怒ってるの?俺がラブリィでプリティで世界一可愛いから?」
「お前がいろんな寮に行って寮生面してるからだぞ」
「してない……」
「してるぞ」
「してるんだゾ」
「してるな」
「ジャックまで……」
俺いろんな人に愛されてるんだなーと思って嬉しくなった。なんで寮長たちが怖い顔してるのかとか何をするつもりなのかとか、そういう難しいことは考えないことにした。


「と、いうのが事の顛末です」
「あ、終わった?ラッコちゃんが腕擦りむいたとこしか聞いてなかったわ」
「そこがサビなんで問題ないです」
聞いていたんだかいないんだかよくわからないフロイドは「あー、だからアズールが電動ドライバー出してきてたんだー」とヘラっと笑った。名前は何と何がどう繋がってアズール先輩が電動ドライバーを出すことになるのか全然わからなかったが、「そうなんですね」と全て理解した顔でうなづいた。

「つか、小エビちゃんまだ腹に穴開いてんの?」
「開いてます。一応内蔵とかに影響ないかちゃんと検査してから治癒魔法で塞ぐらしくて」
「ふーん。ねぇ、小エビちゃん」
「なんですか?」
「腹に指入れていい?」
「えっ、ダメですけど」
「ちゃんと服脱がしたげるから。ほらばんざーいってして」
「嫌ですけど」
「なんで?ちょっと指入れるだけだよ?」
「初めてはカリム先輩がいいので……」
「えーじゃあラッコちゃん呼んでくる?」
「お願いします」
「だる。やめた。オラ、早く服脱げよ」
「きゃー!だれかー!俺の穴に指突っ込まれる!」
「うるせぇな、泣いて喚いても誰もこねぇよ」
「AVみたいなこと言いだしたこの人」

「そこまでだ、フロイド。名前から離れろ」

いつのまに保健室に来ていたのか、マジカルペンを構えて名前とフロイドの間に割って入ったのはジャミルだった。ヒーローかな?好きになっちゃう。嘘、ずっと前から好きでした。友達になってください!カリム先輩と。

「えーなにー?ウミヘビくんも小エビちゃんの穴に指入れてぇの?」
「違う、俺にそんな特殊性癖はない」
「先輩の性癖はもっとやばそうですもんね」
「は?今すぐ君とフロイドを2人きりにしてもいいんだぞ」
「あっ、違います。今のは褒め言葉です」
「そうか。ならいい」
「いいんだ……」

シッシッとフロイドを名前から離すと、ジャミルは「君はすぐトラブルに巻き込まれるな」と名前の額を軽く弾いた。
「痛」
「痛い?痛み止めを打ってないのか?」
「打ってもらったんですけどあんま効いてないっぽいです。素直につらい」
「かわいそー。オレがどうにかしてあげよっか?」
「どうにかってなにをする気ですか?」
「意識なくなるまで殴る」
「合理的だな、任せた」
「任せないでください、ジャミル先輩。死ぬならカリム先輩の手で死にたい」
「ラッコちゃん呼ぶ?」
「お願いします」
「授業中だ。呼ばなくていい」
「なんで先輩方は授業中なのにここにいるんですか?」
「小エビちゃんで遊ぶほうが楽しそうだったから」
フロイドはそう答えた。が、なぜかジャミルからは返事が返ってこなかった。代わりに逆に質問をされる。

「ところで名前」
「はい」
「深い意味はないんだが、その、君は鳥葬と水葬だったらどっちが好みだ?主に観賞用として」
「好み?えっ、好み?観賞用?なに?埋葬方法に好みって概念あるんですか?」
「あるだろう、普通」
「ねーよ」
「フロイド先輩がないって言ってるから多分ありますね」
「は?」
「フロイドはどうでもいい。で、君はどっちだ?」
「……えーと、あのぉ、あんまり深いこと考えないようにしてましたけど、」
うーん、これってやっぱり俺を刺した犯人をどう痛めつけるか、という話だよなあ。

名前はもぞもぞと半身を起き上がると、しかしまだ腹部が痛むのか一瞬眉間に皺を寄せて、それからジャミルを見て口を開いた。
「そもそも俺がラブリィでプリティで可愛いのが悪いんですけど、」
「悪いって何が?頭が?」
「否定できない」
頭は悪い。それはそれとして言葉を続ける。

「先輩方の気持ちはすごく有難いんですけど、俺は私刑を望んではいないです。ましてや殺したりするなんて以ての外ですよ」
多勢で1人をリンチにするとロクなことにならないと名前は前の世界での経験で知っていた、主にリンチをした側が。名前がそう言うとジャミルより先にフロイドが口を開いた。
「小エビちゃんそれマジで言ってんの?腹ぶっ刺されて殺されかけたって自覚ある?アズールに頼めば相手の存在ごと全部無かったことにできるし、賠償金もがっぽがぽだよ?」
「えっ、マジで?アズール先輩怖、怒らせんとこ……じゃなくてですね」

すっと、名前が居住まいを正した。校庭の方では体力育成でも行われているのか、遠く、賑やかな喧騒が微かにこの部屋にも届く。開いた窓から風が吹き込み、膨らんだレースカーテンがやがて萎んでいく。静寂が満ちた、その瞬間。

「俺の問題に他人が手を出すな」

名前の暗い瞳から、声から感情が消えた。その言葉にフロイドもジャミルも不意を打たれたように声を失う。
なにを考えているのかわからないところもあるが善良で穏やかな名前、そう思っていた。その認識に間違いはない。ただ、それが全てではなかったとも知る。
痛みのためかあるいは苛立ちのためか、ゆらりと体を揺らすと彼は言葉を続けた。

「てめぇのケジメはてめぇでつける。当たり前の話だろうが。それに他人がしゃしゃり出るんじゃねぇよ」
名前は声を荒げたわけではない。耳を塞ぎたくなるほど乱雑な言葉を使ったわけでもない。けれど、そこには圧があった。これ以上無用に構うのならば、それ相応の覚悟を決めろ、と彼の飲まれそうに暗い瞳は言う。

静まり返る部屋、重みのある静寂の果てに監督生は小首を傾げると口角を吊り上げて「わかった?」と2人に問いかける。それはまるで物分かりの悪い子供に大人が言い聞かせるような声音。その少しおどけたような声音に、ジャミルは無意識に強張わせていた肩からゆっくりと意識的に力を抜いていく。
「……それが、君の望みなんだな」
「はい、受け入れてもらえたら嬉しいです」
「わかった。少し席を外すよ、電話をしてくる」
ジャミルは懐からスマホを取り出しながら、黙って保健室を出ていく。一瞬、彼が誰かと話すような声音が聞こえたが、部屋から離れたのかそれもすぐに聞こえなくなる。

それを名前とフロイドは黙って見送って、それから顔を見合わせた。
「ふーん、小エビちゃんってそういうタイプなんだ」
「タイプとは」
「クリオネ系?まーでもやっぱ小エビちゃんは小エビちゃんだけどね。まあいいや、痛くて辛いんでしょ?寝かしつけてあげる」
「物理的に寝かしつけるって意味ですよね?勘弁してください」
「小エビちゃんわがままー。オレ締めんのすっげぇ上手だよ?ジェイドもアズールも褒めてくれたし」
「締めるってどこですか?首を?」
「寝かすっつってんのに他にどこを締めんの?」
「確かに……」
「でしょ?小エビちゃん、首出して」
「もしかして頸動脈狙ってます?」
「大丈夫。すこぉし圧迫すればすぐに楽になるよ」
「楽になるってなに?人魚語で「殺す」って意味?」
「あははぁ、なに逃げてんだよ、オラ」
2人の攻防戦は第三者が保健室に入ってくるまで続いた。


「名前〜!!」
フロイドと監督生の取っ組み合いが監督生の敗北で終わりそうになった頃、保健室に救世主が飛び込んできた。
名前はその姿に天使を見た。よく見たら本当に 天使 カリム だった。
カリムは走ってきたその勢いのまま、名前をぎゅっと抱きしめる。
その衝撃を受け止めた結果「ミ゛」名前の喉から蛙が潰れる声と電線が切れる音と前歯が折れる音をリミックスしたような音が一音だけ生まれたが、あいにくそれを聞いていたのはフロイドだけだった。忘れないでほしい、今名前の腹には今朝刺されたばかりの新鮮な穴が開いていることを。

「名前、体は大丈夫か?いっぱいよしよしするか?」
「是非ともよろしくお願いします」
「げぇ、バカップルだ。オレ帰ろ」
熱く抱きしめ合う2人を見てフロイドは舌を出して嫌な顔をした。フロイドは小エビちゃんもラッコちゃんも有象無象の雑魚よりは好ましく思っていたがバカップルのイチャつきにまで巻き込まれる気はない。正しい判断である。フロイドはさっさとと帰ることにした。
「ラッコちゃんも小エビちゃんもばいばーい」
「おう!またなー!」
「お疲れ様です」
手を振って別れた。

2人きりになった保健室でカリムはベッドのそばに立ったまま名前の頭をぎゅうと抱きしめる。名前はカリムの胸元に顔を押し付ける形になって、少しだけ照れた。カリムは男子高生なのにおひさまみたいないい香りがする。元の世界でも実質男子高にいた名前だが、こんないい香りを嗅いだことなんてない。鉄の錆びた匂いとか、シンナー臭とか、汗とかそんなんばっか。欲望に素直になった名前は進んでカリムの背に腕を回した。
「名前、まだ痛いか?」
「ああ、はい。なんか、痛み止めがあんまり効いてないみたいで」
「そうか……」
カリムは自分のことのように痛ましげに名前を見て、それから彼の少し癖のある髪を柔らかく撫でた。
名前はこれまで誰かに撫でられたことよりも殴られたことの方が何百倍もある人生だったから、こうやってなにもなく好きな人にただただ撫でてもらうことが堪らなく心地よかった。
生まれ変わったら大富豪アジーム家でめちゃくちゃ可愛がられてる犬になりたい。ツイステッドワンダーランドに住む大抵の人類が一度は考えることを名前もまたごく普遍的に考えた。

「さっき実家の方に連絡して、腕のいい医者に来てもらえることになったんだ。昼には来れるってさ。大丈夫だぞ、名前。すぐに良くなるし、傷も残らないぜ!」
「カリム先輩……」
名前は嬉しかった。治るとかそういうことより、自分のためにカリムが動いてくれたことが嬉しかったのだ。もうカリムの一挙一動が嬉しい。生きてるだけでファンサービス。
名前はふと、以前元の世界のクソ可愛くないクソ生意気なクソ後輩に「アンタって流されやす過ぎじゃない?いつかヤバイ宗教にハマりそう。どうでもいいけど」と言われたことを思い出した。
いや、カリム先輩は宗教じゃなくてアイドルだから。違った、名前の可愛い恋人だ。

嬉しい、と花を飛ばす名前にカリムは笑って言った。
「言っただろ?オレに任せろって」
その一切影のない満面の笑みを見て名前は自分が抱いていた誤解に気がついた。
あっ、任せろとか心配するなって医者を呼ぶ話のことだったのか。鳥葬とか水葬とかはカリム先輩と一切関係ない感じのフィクションというわけだ。あーなるほどね、監督生すべてを理解した。

……では何故ジャミル先輩はあんなことをわざわざ聞きにきたんだろうか。独断?あの人が独断でそんなことをするだろうか?それに保健室を出た時のジャミル先輩の電話の相手は一体誰だったのだろう?
…………おれ、あたまわるいからわかんない。
名前は考えることをやめた。

あと普通に刺された腹がものすごく痛くて真っ当な思考することが難しかった。


ただでさえ効いていなかった痛み止めがいよいよ切れてきたのか、名前の顔に苦痛が浮かぶ。
その額に滲む脂汗をカリムはその柔らかい掌で拭って、起き上がっていた彼をゆっくりとベッドに横たわらせた。それからそっと名前の額に自身のものをこつんと当てて優しく両の頬を撫でる。

「ヤッラ トゥナーム。愛しい子」
カリムは囁くように、遠いいつか、子供の頃に誰かが自分のために唄ってくれた子守唄を唄う。あれを自分に歌ってくれたのは誰だったろうか。顔さえ朧げな母?それとも幾人も変わっていった乳母のうちの誰か?そのどちらでもない誰か?
あらゆる時は流れ去って、記憶さえ不確かなものとなるけれど、今この瞬間、愛しい人のために唄えたのならば、これまでのどんな悪辣な過去にさえ黄金以上の価値があると思えた。

そうだ、これまでの人生における地獄の如き苦痛も、信じたくはなかった事実も、交わした約束も、絶えることなき愛も、忘れられない思い出も、やがて忘却の果てに塵に還る記憶でさえも、自身の人生に内包されるあらゆる事象、事実、現実、記憶、感情、夢想、それらをカリムは決して否定などしない。してたまるか。すべてを引き連れて、生きてみせる。
嘆きも祈りも、それらにすべてにきっと意味があるとするのならば、今この瞬間こそがカリム・アルアジームの人生の最果て、我が人生の価値だと謳おう。

そして繰り返されていくであろうその瞬間瞬間に、名前、お前がそばにいてくれたのならば、それはどれだけ幸福なことだろうか。

痛みに喘ぐ名前をとろりと欲に溶けた瞳でカリムは見つめた。はくはくと酸素を求めるように開かれる名前の唇に自分のものを一瞬だけ重ねた後、ほんの少し魔力を込めて彼のためだけに歌を唄う。

逝いた私の時たちが私の心を金にした。
傷つかぬよう傷は早く愎るようにと。

浅かった呼吸が少しずつその間隔を広げていき、開かれていた瞼の重みがゆっくりと増していく。
「…… 名前、少し疲れたんじゃないか。うんうん、朝から大変だったもんなあ」
日向のような優しい声が名前に降り注ぐ。虚ろにぼやけていくその視界の中で穏やかなその声だけが確かだった。
「痛みも恐怖も忘れて、ここでゆっくり休んじまおうな」
「……せん、ぱい」
「大丈夫、お前が寝ている間もオレがちゃんとそばにいてやるから」
「……せんぱい、あたまを、なでて、くれませんか」
間を置かず、ゆったりと髪を梳き始めてくれた指先の感覚に安堵した。

この人はどうしてこんなにも優しくしてくれるのだろう。
この人はどうしてこんなにも俺を救ってくれるのだろう。
この人といると、たまらなく幸せな気持ちになる。
これまでの俺の人生の無為な日々の群れでさえ、この人と出会うための助走だったのではないか、なんて、肯定的に思えるほど…………。

緩やかに落下していく意識。
名前が覚えていたのは、そこまでだった。





「カリム、お医者様が学園に着いたそうだ」
「そうか。ありがとうな、ジャミル」
ジャミルが再び保健室に戻った時、フロイドはいなくなっていて代わりに彼の主人がそこにいた。カリムはようやく眠ったらしい後輩の頭をやわやわと撫でている。

「名前の様子はどうだ」
「ああ、ちょうど今寝かしつけたところだぜ」
眠る名前の体を包むように魔力の痕跡が残る。ジャミルはすぐにそれがカリムによるものだと理解した。痛み止めよりも子供を寝かしつける程度の催眠魔法の方が効くというのもおかしな話だと思いながら、ようやく穏やかになった名前の表情を見る。
「痛みに耐性がありすぎるというのも問題だな」
「我慢強くていい子なんだけどなあ」
……結局ちっとも弱音を吐きやしなかった。
そう呟いてカリムは名前の頬に残る涙の跡をなぞる。

「あーあ、もっと名前に頼られたいんだけどなあ」
「頼られたいなら頼られるだけの信頼と実力をつけるんだな」
「ちぇー。オレもまだまだってことかぁ」
……さて、それはどうだろうか。
むうと唇を尖らせるカリムを見て、そう思いながらもジャミルはそれを口にはしなかった。
少なくとも名前はカリムにはあの苛烈な性質を見せないだろうし、催眠魔法があってもカリムでなければこんなふうに名前を眠らせることもなかっただろう。そも、名前が頑なに眠らなかったのは周囲への強い警戒心によるものだった。
故にカリムでなければ解けない魔法があった。
知らぬは当人ばかり、か。


「それと、話は変わるが、カリム」
「ん?なんだ?」
「例の件についてだが、名前が「ケジメは自分でつけるから無用な手出しをするな」と」
ジャミルがそう言った瞬間、カリムは一瞬表情を失って、それから再びいつも通りの穏やかな笑みをその顔に浮かべた。
「……ああ、そうか」
カリムは眠りの中にいる名前へ目線を向けると、彼の少し熱を持って汗ばんだ髪の中に指を差し入れた。

「……そうか」
そうして指先を髪の中へ潜らせるように動かすと、喉を鳴らすように笑った。

「いい子、いい子」

(2020.08.06)