殉死 / オフィーリア

※夢主の氏名固定




「ご兄弟はいるんですか?」

どういう話の流れだったか、デスクワークの最中に結城優希はそんなことを三途へ問いかけた。

「私、兄がいるんですよ、一人。なんとなくだけど、三途さんは私と同じで下の兄弟って感じがする。お兄さんかお姉さん、いませんでした?」

結城優希。ゆうき、ゆうき。
同じ音が2回並ぶ、冗談みたいな名前の女だった。幼少期の親の離婚とその後の再婚で苗字が変わり、そんな名前に様変わりしたらしい。

覚えやすくていいでしょう?といつか結城は笑っていたけれど三途は未だに彼女の名前の漢字を覚えていない。彼女を呼ぶときはいつも頭の中で「ユウキ」とカタカナに変換して呼んでいる。そんなわけだから三途は自分が彼女のことを名前で呼んでいるのか、苗字で呼んでいるのか、自身でも判別がつかなかった。

「ね、三途さん、弟だったでしょう?」
「一人っ子だわ」

つく必要のない嘘だったな、と思いながら三途は嘘をついた。
ふと、いつかもこんな嘘をついたような気がする、とも思った。さて、いつのことだったか。そんな三途の嘘に気がつく様子もなく、ユウキは「あら、外れちゃった」と目尻を下げて笑った。

「私、勘はよく当たるのにな」
まったくその通りだと思いながら三途は鼻を鳴らして、この話題をここで終わらせる。そんな態度を察してか、ユウキはそれ以上話を広げなかった。

そういった引き際がわかる程度にはユウキは有能な人材だった。越えてはいけないラインを越えない、というのは裏社会で生きるに当たっての必須のスキルだ。まして大量の地雷が埋め込まれた果てに組織が形作られた『梵天』においては、特に。

「ああ、そうそう、先日の内通者の件、望月さんの方で処理したそうですよ。詳細、メールで送りましたから確認してくださいね」
仕事人としてもユウキは確かに優秀だった。
わざわざこんな反社会的組織に来る理由など無さそうなほどどこででもやっていけそうだったし、そんな優秀な彼女を竜胆が手放して三途の下に行かせたのも理解できないことだった。

知らないことばかり、わからないことばかり。
けれど、そもそも『梵天』に来る人間なんてそんな奴らばかりだ。誰にだって秘密の一つや二つある。ここにいる奴らはそれが人より多いだけ。ユウキが何者であろうと三途は構わなかった。

以前三途の下にいた部下が裏切り者として粛清され、その後釜としてやってきたユウキ。彼女が異動してきて半年が経った。彼女は三途の右腕としてよく働いている。
三途はユウキへの警戒を解き始めていて、そして少しずつ彼女を信用し始めていた。







「三途さん、ご飯行きましょう」
ユウキがそう言ったのは外での仕事を終えたとある日のことだった。
夜はすっかり更け、気がつけば日を跨ぐほどの時間になっている。いつも通り、ニコニコと機嫌の良さそうな顔でこちらを見つめるユウキに三途は眉間に皺を寄せて吐き捨てた。

「は?行くわけねぇだろうが。なんでお前と行かなきゃなんねぇんだよ」
「いいえ、そうはいきません」
「アア?」
「三途さん、お昼も食べてないでしょう?良くないですよ。若い頃ならまだしも、20代も後半になればそういった不摂生がすぐ体に出ますから。ご飯はちゃんと食べましょうね」

まるで聞かん坊な子供に言い聞かせる母親みたいに彼女は微笑む。それから、三途の抵抗が薄いのをいいことに彼の背中を押して車の助手席に乗せ、自分は当然のように運転席へ乗り込んだ。

「一仕事終えた後ですし、今夜はパーッと美味しいものでも食べましょう。私こう見えて食にはうるさいんです。いいお店いっぱい知ってますよ。三途さんは肉か魚だったらどっちが好きですか?」

当然のようにこの後の予定を決めてこちらに笑いかける女の顔面を殴ることは三途には容易かった。
暴力ほどわかりやすいものはなく、まして目の前にいるのは細身の女だったから武闘派ではない三途でさえ彼女を虫の息にするのは容易なことだ。
だからそうしたってよかったのに、どうしてかそんなことをする気にはなれなかった。理由は三途本人にもよくわからない。どこにでもあるような笑顔を前に、訳もなく毒気を抜かれてしまったから、三途は仕方なくシートに背中を預けて「魚は嫌いなんだよ」と呟いた。

三途がそう返せば、ユウキはここまで引き下がっておきながら断られるとでも思っていたらしい。一瞬不意をつかれたような顔をして、しかしそれからすぐにパァッとわかりやすく嬉しそうな表情を見せた。

「ええ!ええ!万事この私にお任せあれ!お肉のすっごい良いお店知ってますよ!もうすっごいですから!」
「語彙力ゼロかよ。……ハア、寝る。着いたら起こせや」
「はい!了解しました!不肖私安全運転で参ります!それでは三途さんもご唱和ください!レッツ・ラ・ゴー!」
「寝るっつってんのが聞こえてねぇのかよ……」

ユウキは宣言通りに安全運転で店まで運転してみせた。車の性能のおかげだといえばその通りなのだが、それにしても彼女の運転は急ブレーキや急発進はもちろん、大きな振動さえほとんど無かった。単純に運転が上手いのだろう。
寝るとは口にしたが、その実目を瞑るだけにしておくつもりだった三途は、うっかり数分ほど本気で寝入ってしまっていた。


彼女に連れてこられたのはユウキが管轄している地区にある店だった。見るからに和食といった雰囲気の店構えで、中に入れば着物を着た店員が「お待ちしておりました」と深々と頭を下げる。こちらが何者なのかよくよく理解しているらしい腰の低い店員に二人は丁重に個室へ案内された。

通された座敷の部屋でユウキは変わらない穏やかな表情で三途に声をかける。

「三途さん、お酒は飲まれますか?」
「ハ?バカか、ここで飲む訳ねぇだろ」

気を緩められる場所や信頼している人間の前以外で酔うのは愚者でしかない。
言外に「まだお前を信用していない」のだと顰めっ面で返す三途の内心を理解しているのかそうでないのか、ユウキは「ならご飯モノもいけますねぇ!ここの牛しぐれの炊き込みご飯は絶品なんですよ」と嬉しそうな声を上げた。アホくさくなって三途は溜息をつく。

三途が何も言わないでいれば、料理はすべてユウキが選んで注文してしまった。不味かったらその辺に飾ってある無駄にデカい壺でもコイツに投げつけようと三途は思う。そんなふうに考えていることが伝わっていたのだろうか。

「そんなに警戒しなくてもいいのに」
ユウキは無闇に精神をひりつかせる三途を面白そうに眺めながらそう言った。

「野良猫みたいで可愛いですね」
「てめぇ、馬鹿にしてんだろ」
「してませんよ、可愛いって言っているでしょう?」
「馬鹿にしてんじゃねぇか」
「褒めてるのに」

テーブルに肘をついて頬杖をつくユウキは相変わらず余裕のある表情だ。三途は彼女が慌てたり困ったりする姿や表情を見たことはなかった。いつだってフラットで平坦で感情の揺らぎが少なく、つまるところいついかなる時も機嫌のいい女だった。

ユウキは笑いながら少しだけ眉を下げて「三途さんはその気性の荒さで損をしてますね」と唇を尖らせた。笑いながら困った顔をする、複雑な表情だった。

「は?」
「若くして組織のナンバー2、仕事においても優秀。こう言われると嫌かもしれないですけど、綺麗な顔立ちをされてます。けど、三途さん、モテないでしょう?気性が荒いんですもん。何が琴線に触れるかわからないから、近寄り難いって部下の皆さん言ってましたよ?」
「アァ?アイツら人のいねえところで陰口叩きやがって……」
「目の前で言っても怒るでしょう?」
「ぶっ殺すに決まってんだろうが」
「ほら」
ユウキはケラケラと笑った。

その時、料理が運ばれてきた。途端に黙り込む三途に対して、ユウキはウエイターに「これなんですか?」「こっちは?」と気さくに話しかける。ユウキはコースを頼んだのだろう、前菜が三途の目の前に置かれる。
会話を終えてウエイターが部屋を去ると、彼女はさっそく「美味しいですよ!」と手を広げて勧めた。

「テメェは店の人間かよ」
「私の管轄の店ではありますからね」
「不味かったら殺す」
「……まあ、味覚や嗜好って人によって異なりますよね」
「日和ってんじゃねぇよ」
三途はハネシタの前菜盛り合わせを雑に口に放り込み、「で?」と威圧じみた声音でユウキを睨みつけた。

「で?……とは?」
「用があるから俺を此処に連れてきたんだろうが。まどろっこしいことは嫌いなんだよ。言いたいことがあんならさっさと吐けや」
ユウキは首を傾げるとキョトンとした顔で三途を見つめた。まるでなんのことかわかっていないような顔に三途は苛つく。

「用、と言われましても、ねぇ?」
「用がねぇんなら殺すぞ」
「理不尽すぎません?いや、ですから別に用があって三途さんとご飯食べているわけでは無いのですか……」
「わかった。スクラップになりてぇんだな」
「あー、あー、待ってください。えーと、アレです、私、三途さんと仲良くなりたかったんですよ」
「スクラップ」
「なんでですかあ!?」
流石に慌てたような顔をしたユウキに三途は鼻を鳴らした。本心の読めない奴を相手にするのは好きじゃない。

「ユウキ」
三途は吐き捨てるように彼女の名前を呼ぶ。そうすれば返される視線を当然のように受け止めながら、苛立たしげにテーブルを爪の先で叩く。

「俺は嘘つかれんのが嫌いなんだよ。俺は俺に嘘をついた奴と裏切った奴は例外なくブチ殺してきた」
「存じてます。でも私はこれまで三途さんに嘘をついたことなんて無いですよ」
「ダウト」
懐から取り出した銃をテーブルを挟んだ向こう側に座る女の額へ向ける。セーフティはとうに外していた。後は指一本で目の前の女を殺すことができる。

「三途さん、まだ前菜ですよ」
「知ったことかよ」
「死ぬならせめてデザートまで食べてから死にたいんですけど……」
「最後までガッツリ食う気でいるんじゃねぇよ」
もし本気でこの女を殺すのならば会話をする間も無く殺した方がいいな、と三途は思った。どうにもこの女と話すと気が抜けて仕方ない。

「デザートまで食いたきゃ答えろよ。俺を此処に連れてきた目的は?」
答えないのなら本当に殺そうと思った。どれだけ優秀であろうとこちらに従順で在れないのならば『梵天』には不要だ。

それになにより、……うまく言葉にできないのだが、三途はユウキを見ているとやけに苛立つのだ。
不要な感情が呼び起こされるような、精神がささくれ立つような、そんな感覚が生まれて仕方ない。

きっと三途の勘がこの女の正体を明らかにしろと告げるのだろう。
こいつが裏切り者なのか、無辜の羊なのか、を。

「んー」
ユウキは頬に手を当てて考えるような仕草をした。

「デザートも食べたいですし、私としても嘘はつきたく無いので言うんですけど、」
「おー、言え言え」
銃口を向けられているとは思えないほど落ち着いた様子で彼女は言葉を続けた。

「強いていうのなら、生存のため、でしょうか」
「スクラップ希望っつーことか」
「まあまあ、聞いてくださいよ」
ユウキは皿に乗った肉を綺麗な箸使いで掴んで食べる。他人に命を握られているとは思えないほど、腹立たしいくらいに丁寧な所作だった。

「何事も信用だと思うんです」
ユウキは口を開いた。

「一般社会だろうが裏社会だろうが人は一人では生きていけませんよね。みんな誰かを頼らずにはいられません。それは当然私も同じです」
箸を置いたユウキは握った両手をテーブルの上に置いて、こてんと首を傾げて微笑んだ。

「この世界は死にやすいです。命の価値は等しく軽く、一歩道を誤ればすぐにおしまい。でも私は死にたくありません。死ぬために『梵天』に入ったわけではないのですから。だから見つけたいんです、咄嗟の時に相手が何を考えているのかわかるくらいには信用できる人を」
だから三途さんに目をつけました、とユウキは微笑む。

「私は三途さんが信用できる人なのかどうか、こうした交流を経て判断したいと思っていたんです。ええ、例えば、貴方が新しくやってきた部下の怪しい誘いに丸腰で乗ってくるような人なのかどうか、とか。ふふ、強いていえばこれが理由ですよ」
そう言ってから、終わりだとばかりにニコッと笑ってみせる女を三途は鋭利な表情のまま見つめた。

……嘘はついていないだろう。
この状況でつくほど馬鹿な奴ではないらしい。ただし全てを口にしたわけではないようだ。
オブラートに包んだような発言ばかり、明確な動機はそれらしい言葉に隠されて本心には辿り着けない。ユウキはわかりやすく三途に隠し事をしている。
だが今はそれさえ含めて信じることができる。今の関係性で「嘘無くすべてを話しました」という顔をされる方が怪しいのだから。

三途は溜息を吐いて銃を下ろすとそれを仕舞い、すっかり冷めてしまった残りの肉に手をつける。そんな三途を見てユウキは分かりやすく嬉しそうな顔をした。それはそれでムカつく。

「てめぇが無駄に怪しい奴だってことは理解したわ」
「まあ酷い。私はこんなにも正直者だというのに……ヨヨヨ……」
「そういうとこだろ。チッ、人を試すような真似しやがって」
「すみません。いやでも私理解できましたよ。三途さんは信用できる人です。ええ、いやもう本当に。実は三途さんとお会いする前から貴方は信用できる人だろうと確信はしていたんです。ほんとですよ?今日はちょっと試しに確かめてみただけで」
「お前もう喋んな」

会う前から、ということは竜胆だろう。ユウキの前の上司である竜胆から、三途について何を聞かされていたのかは知らないが、どうせ碌でもないことを吹き込まれてきたに違いない。
……とはいえ、こちらとしてもユウキのことを多少は信用していいだろうと三途は判断した。

ユウキの前任者、つまり半年前まで三途の下にいた人間は裏切りによって粛清されている。裏切り者を殺すのは『梵天』のため、ひいてはマイキーのために当然のことだから別にいい。
問題はそれなりに育ててきた部下がいなくなることだ。部下がいなくなればその代わりが必要となる。だが次の部下を見つけるのも育てるのも時間がかかって仕方ない。そういう無駄な時間が本当に面倒なのだ。

ならば当然のことながら、裏切らない奴を見つけて育てるのが一番効率がいい。
一般社会の会社がすぐに辞めなさそう新人を採用するのと意味合いとしては同じことだ。

ユウキは育ててもいいだろう、と三途は判断した。

「ねぇ、三途さん」
「ア?」
「私は貴方のお眼鏡にかないました?」
ユウキはそう言ってニコッと笑った。こちらを見通したようなその顔がムカつくな、と三途が思ったその時、次の料理が運ばれてくる。運ばれてきた皿の中、サーロインの上に雲丹が乗っているのを見て、ユウキがわかりやすく興奮し始めた。

「わあ!見てください!雲丹ですよ!雲丹!」
「うるせえ見りゃわかる黙ってろスクラップにすんぞ」
「ああ、輝いて見える……子供の頃は自分が将来こんな贅沢なもの食べれるようになるなんて思わなかったなぁ……」
感慨深げにそう言う彼女から三途は黙って目を逸らした。

……そういやお前ってなんで『梵天』に来たんだ?
そう問うには、まだ三途からユウキへの、そしてユウキから三途への信用は足りていなかった。
それになにより、他人の過去など別に聞いてまで知りたいことでもない。

ただそれでもやはり、一般社会でも普通に生きていけそうなこの女が『梵天』にいるのに微かな違和感があるのは事実だった。




結局二人はその夜デザートまでしっかり食べた。
三途は行きと同様にユウキが運転する車で家まで送り届けられる。三途が住むマンションの地下駐車場。そこで三途が車を降りている時、運転席に座ったユウキはそんな彼の背中へ悪戯げに声をかけた。

「三途さん、ご飯美味しかったでしょう?」
問いかけというよりも確信を持って断ずるような言葉。それから三途の発言を待たずに彼女は変わらぬ微笑みのまま口を開く。

「私たち、きっと気が合うんですよ」

では、おやすみなさい。良い夢を。
そう言ってから助手席のドアを閉めて去っていく車に向かって、三途は「うるせぇバーカ死ね!」と子供みたいな悪口を叫んだ。
彼女に聞こえていたかどうかは定かではない。聞こえていたとしてもきっと楽しそうにくすくすと肩を揺らして笑うだけだろう。容易く想像できてしまって、三途はゲンナリした。










三途の下にユウキが来て一年ほどが経った。

何事も一度例外を許した時点で例外は例外ではなくなるものだ。
初めて食事を共にして以降、三途はすっかりユウキと度々食事をする仲になってしまった。

立て込んでいた仕事がようやく終わった時だとか、仕事が散々長引いた時など、いつもより疲れている時に「せっかくだし食べてから帰りませんか?このあたりでいいお店知ってるんですよ」と言われれば、元の疲労もあって抵抗する気もなくなるものだ。

帰ってから家で作ったり途中で買ったりするのもめんどくさい。或いは何処かで食べて帰るにしても自分で店を選ぶのさえめんどくさい。
ならば何も考えずにユウキが選んだ店に行くのが楽だ。実際ユウキが選ぶ店は三途の舌によく合う店ばかりなのだから。

そういうふうに断る理由がなければ三途が食事を共にしてくれることをわかっているのか、ユウキは上手いタイミングで彼を誘ったし、事実彼女の誘いを彼が断ることはほとんど無かった。

『気が合う』と言った彼女の言葉は、認めたくは無いが、そう間違ったものでもなかったらしい。





「ユウキ、テメェ今すぐ虎屋の羊羹持って客先に来い」
『えー、手土産くらい持ってっといてくださいよ』
「うるせぇ、早くしろ、10分以内にこねぇと殺す」
『パワハラ〜』
舐めた口を利くユウキに舌打ちをしてから三途は電話を切った。それから隣に立つ望月に向けて、「担当のやつ呼んだわ」と告げる。

「担当ってお前の部下か?」
「おー、ワンコロの相手はアイツだからな」
都内某所にある『梵天』管轄下の倉庫内に三途と望月はいた。60平米ほどの広さの倉庫には二人の他に、望月の部下が3名ほどいる。

壁際に立つ二人の視線の先には縛られたまま椅子に座らされた男が一人、殴られ続けて赤黒くなった顔のまま呻いている。若く精悍な顔立ちだった男だが、今は輪郭さえ歪まされ、見る影もない。
そんな男の周囲を囲むように立つ望月の部下に、望月が「お前ら、片しの準備に入れ」と声をかければ彼らは男から離れて指示通りに別作業に入る。
変わり始めた倉庫内の雰囲気に、殴られていた男は苦痛に俯いたまま自分の命の終わりが近づいていることを悟る。

ユウキがその倉庫の中に入ってきたのは三途の電話からきっかり9分後のことだった。
パンツスーツに身を纏い、肩掛けのビジネスバックと虎屋の紙袋を持った姿はどこからどう見ても客先に出向く会社員の姿だった。倉庫前で見張をしていた望月の部下も彼女の顔を知っていなければパンピの会社員が迷い込んでいたと思っただろう。

「お疲れ様です」
そう微笑んでやってきた彼女は中に望月がいることに気がついて驚いた顔をした。
「わっ、もう 死体処理班 望月さんたちもいらっしゃってるんですね。すみません、さっさと終わらせますから」
「アンタが担当か。いい、気にすんな。次の仕事まで暇潰してるようなもんだからな。ゆっくりやってくれ」
「そう言ってもらえますと助かります」
頭を下げつつそう口にするユウキの姿に、望月は(三途の下にもまともな奴がついてんだな)と思い、それからふと妙な既視感を覚えた。

「いいからとっとと仕事しろやカス」
「痛、パワハラ〜」
せっつく三途に足を蹴られて不満げな声を上げるユウキは、だからといってさして気にすることもなく壁際に置かれていた机の上に荷物を置くとさっさと仕事の準備にかかった。
そばに来た望月の部下からスマートフォンを渡された彼女は「ありがとうございます」とにこやかに微笑んでから取り出したパソコンに受け取ったスマートフォンを接続する。そうやって何やらを準備を進める彼女の背中を見つめながら、望月は顎に手を当てた。

「……お前の部下、どっかで見たことある気がすんな」
「あー?あー、アイツ前は灰谷弟の下にいたからそれじゃねぇの」
「あー、じゃあそれか。……それかぁ?」
「知らねーよ、おっさんの記憶力なんざ」
「うるせぇな。お前もそのうちこうなるんだよ」
「ぜってぇならねぇ」

小競り合いをする男二人を背に、ユウキは引っ張ってきた椅子を縛られた男の正面に置くとそこにゆっくりと腰を下ろした。
そんな彼女の姿だけを切り取ればまるで一般企業の転職面接のようにさえ見えたが、ユウキの目の前には彼女が来るまでに数時間、死なない程度に散々袋叩きにされた人間が拘束されている。側から見れば酷くアンバランスな風景だった。

「こんにちは、大変な目に遭いましたねぇ」
ユウキは普段通りの笑顔を貼り付けたまま、男に話しかける。上半身裸のまま縛られ、殴られて顔が膨れ上がった男は腫れた瞼を必死に開いて目の前の女を睨みつける。

「……ああ!?このクソアマが!ざけんな!俺は何もしてねぇんだよ!こんなとこまで連れてきてテメェら散々ぶん殴りやがって!ブチ殺すぞ!!」
潰れた喉のまま怒鳴り声を上げて喚き立てる男に、さして怖がる様子もないユウキは「まあ、怖い」と言って笑った。

「何もしてない訳がないことはご自身が一番わかってらっしゃいますよね、ワンちゃん?」
「……は?」
「わんわん。ふふ、すごいですね。公僕の犬畜生がここまで入り込むなんて」
「な、てめぇ、何の話をして、」
潜入捜査官 アンダーカバー。我々『梵天』が貴方程度に気が付かないとでも?ねぇ、久保龍斗さん。ああ、本名は小林剛さんでしたね?」
縛られた男は真実を当てられた動揺を隠すように大声で否定し、怒鳴り散らし、罵声を浴びせる。けれどユウキは変わらず微笑んだまま相槌を打つようにうなづくばかりだった。

「喉、お辛いでしょう?無理して大きな声を出さなくても大丈夫。貴方をお家からここに連れてくる時に、警察への連絡用のスマホはこちらでお借りしています。今、パソコンのほうで中身を解析してますから貴方は何も言わなくてもいいんですよ」
その場に不釣り合いなほど穏やかな声で彼女は男に語りかける。

「貴方が何を誰に密告したのか、どのような手段を使用したのか、私たちは貴方の動向の全て容易く把握することができます。貴方がいくらメールを消そうが履歴を消そうが、復元して辿ることくらい簡単なんですよ」
ユウキはニコニコと笑いながらそっと男へ顔を寄せる。

「私だって本当は酷いことなんてしたくないんです。でも貴方みたいな人がやってきて『梵天』の邪魔をするんですもん。警察の皆さんにはもう二度とこんなことをしないでね、と伝えないといけませんよね。そのためには少し怖いものを見せてあげないといけませんよね。そうしないと貴方たちはわかってくれませんもんね」

机の方から鳴った電子音にユウキは立ち上がると開いていたパソコンのそばに寄り、その画面を覗き込む。それからわざとらしく「あーあ」と残念がるような声を出した。

「次の取引についても密告しちゃってるんですね、酷い人。そんなことされたら私たちは取引場所を変えたり、先方に変更の連絡したり、貴方の密告通りに現場にやってきた警察の方をぶち殺さないといけなくなるじゃないですか。最悪ですよ。ねぇ、小林さん、わかってます?貴方のせいですよ。貴方がこんなことするからまた人が死んじゃうんです。大人しくしていたら誰も死ななかったのに。あーあ」
「ふ、ふざけんな!警察!?何意味わかんねぇこと言ってんだ!てめぇら俺にこんなことしてタダで済むと思ってんか!!」
「ふふ、私たちの心配をしてくれるんですね。ありがとうございます。ああ、でも気にしないで。他人の心配より、貴方自身と貴方のご家族の心配をされた方がいいですよ」
家族、とユウキが口にした途端に男の表情が歪む。保てなくなった平静に、男は拘束を外そうと必死に体を揺らして叫んだ。

「……何考えて、てめぇ!オイ!やめろ!」
「ご両親は越谷に住んでらっしゃるんですよね。ここからだったら1時間しないくらいで着くかな。ああ、大学生の妹さんはもっと近くて今は都内に住んでるんですもんね。先程、部下に教えてもらったんですけど、妹さん、今日はご友人と新宿で遊んでおられるようですよ」
「何で知って……!嫌だ!オイ!やめろ!やめろっつってんだろオイ!家族は関係ないだろ……!」
「ええ!ええ!家族を失うのは辛いですよね。私も痛いくらいにわかります。貴方は悪くないんですよ、悪いのは大切なものがたくさんある貴方にこんな仕事をさせた警察の方ですものね」
「おい待てよ!わかった!わかったから!全部話す!なんでもするから……!家族には手を出さないでくれ!」
「私としてもそうしたいのは山々なのですが、でも仕方ないですよね。『梵天』にちょっかいをかけたら酷い目に遭うって警察の皆さんに教えて差し上げないといけませんから。だから貴方のご家族は残酷に冷酷に、出来るだけ苦痛を感じるように殺します。苦しんで苦しんで殺されたことがよくわかるように手酷く殺してあげます。そうしたら警察の皆さんももう『梵天』に手出しはしなくなりますよね。だから安心してください。貴方たちは犠牲になるけどそうすることでこの先同じような犠牲者はきっと生まれなくなります」
最も無能な警察に学習能力があるのなら、ですが。

男の目に絶望が浮かび、引き攣った声で「いやだ……やめてくれ……」と繰り返す。その表情を眺めながら、ユウキはニッコリと微笑んだ。

「とはいえ、それじゃああんまりですよね」
パソコンの置かれた机の側からゆっくりと男の方へ歩みを進め、男の顔を覗き込む。

「貴方は警察から命令されてこんなことをさせられただけ。言ってしまえば貴方も被害者なんです。なのに貴方と貴方の家族だけが怖い目に遭うのは、あまりにも理不尽ですよね?」
囁くような声が男の鼓膜を優しく揺らす。女は笑って言葉を紡ぐ。

「……ね、小林さん、もう一人いる潜入捜査官の名前を教えてくれませんか?」
「……え?」
「貴方だけではないでしょう?同じようにここに潜入している方のことを教えてください。そうしてくれたら貴方と貴方のご家族にするはずだったことは全てその人に肩代わりしてもらいます」
蜜が溶けるような、甘言だった。惹かれるように男は顔を上げて女を見つめる。その瞳には確かに希望の光が見えていた。

「貴方が苦しむことは無いんです。そうでしょう?他にも『梵天』に仇なす方がいるのに貴方だけが罪人になるのはおかしいですもんね。ええ、そうです、貴方は悪くない。貴方がしたことは大したことじゃない。だって『梵天』の不利益になるようなことをしている人は他にもいるんですから、ねぇ?」

人間を肉体的精神的に追い詰めた後に蜘蛛の糸を垂らして見せる。そうして、その糸を掴む罪悪感を「貴方以外にも悪い人がいる」「その人が罰を受けないのに貴方だけが罰を受けるのはおかしい」と甘く優しく薄めていく。

「教えてくれたら、私は貴方を殺しませんし、もちろん貴方のご家族にも手は出しません。代わりに警察を裏切っていただくことにはなりますが、それは許してくださいね。それさえ守ってくれたらこちらも約束は守ります。だからどうか、私を信じてください」

ユウキは男の頬を掌で優しく撫でる。これまで冷たい空気と鋭い痛みに晒されていた男の肌が、人肌の体温と優しい手つきにふれられる。たったそれだけのことで安堵する感覚を男は覚えた。
冷静になればそんな口約束が守られるはずとないとわかっていたのに、けれど男は既に限界だった。

だから救いを求めるように、或いは免罪符のように、共に過酷な任務にあたっているはずの仲間を売ってしまった。手に入らない銀貨13枚のために。




堰を切ったようにベラベラと喋り出し仲間を売る男と、そんな男の話をまるで理解者のように聞く女を横目に、三途はユウキが持ってきた虎屋の紙袋の中を漁った。取り出した杉箱を開けば中には自動式拳銃が一丁入っている。

これは「虎屋の杉箱入りの羊羹の重さと拳銃一丁の重さがほぼ一緒」というジョークであり、故にいつしか「虎屋の羊羹」というのは拳銃を示す特有のスラングのようなものになっていた。少なくとも三途とユウキの間ではそれで通じる、身内特有の言語だ。

容易く内通者を吐いた男へ「教えて下さってありがとうございます」と優しく背中を撫でて微笑むユウキは、「虎屋の羊羹」を取り出した三途が男の背後に回ったのを確認してからそっと立ち上がり、さりげなくその射線からズレる。それからもう一度、男に微笑みかけた。

「本当にありがとうございます。私は・・絶対に貴方たちを殺したりしませんからね」
ユウキがそう言い終えたのと、三途が男の頭を撃ち抜いたのは同時だった。

サプレッサーで制限された発砲音がひとつ。
後ろから頭を弾かれた男は自分が殺されたことに気がつくよりも先に死んだ。撃たれた勢いのまま、椅子に座っていた男が縛られたまま前方に倒れ込む。椅子ごと歪にころがったまま、じわりと男の頭から血液が床に広がっていった。

「お疲れ様でした、三途さん」
つまらなそうな顔で銃を仕舞う三途へ、ユウキはいつも通りの笑顔でそう言った。三途はそれを無視して床に転がった男を脚で蹴り転がして顔が見えるようにした。ユウキはその死に顔を証拠として撮影する。
それを終えてから彼女は深く溜息を吐いた。そこに珍しく微かな悪意を感じて三途は思わず面白がるような声音で口を開く。

「おーおー、清々したってツラじゃねぇか」
「……ええ。私、警察嫌いなんですよね。無能なので」
「好き好む奴の方が少ねぇだろ。もう一匹の溝鼠の方もコイツが死んだのがバレる前に片付けるぞ」
「了解です」

それから三途は望月へ「手筈通りにコイツの家族もバラせ。コイツも挽肉にでもしてサツに送れ」と指示する。
軽く手を上げて応える望月に、三途の隣に立っていたユウキも頭を下げた。

「望月さん、お手数をおかけしますけどよろしくお願いしますね」
「おう、こっちの仕事だからな。任せろ」
「ありがとうございます。……あっ、そうだ!」
ユウキは思い出したように机のそばに行くと、虎屋の紙袋を持って望月の元へ戻る。それから彼女よりずっと背の高い彼を見上げて微笑んだ。

「これには中に本物の虎屋の羊羹が入ってるので、よかったら皆さんでお召し上がりください」
先ほどまでの現場を見ている以上、ブラックジョークにもほどがあるが、どうやら純然たる厚意からのものであることはなんとなく伝わったので望月は特にツッコむこともなく受け取った。

それから望月は改めて彼女の顔を見つめた。
年は自分達より何個か下くらいだろうか、パンツスーツを身に纏い、染めていない長い黒髪を一つに結んだ女性。やや瞼の広い目元からは凪いだ海のような穏やかさと同時にアンニュイさによく似た色気がある。

……やはりどこかで見たことがある。そう確信した。
それが彼女が竜胆の部下だった頃なのか、もっと前のことなのかはわからないが、不思議と悪い印象は少しも感じなかった。

……とりあえず、今後は可愛がろう。
望月はなんとなくそう思った。

「オイ!ブス!誰彼構わず媚び売ってんじゃねぇ!早くしろや、テメェもスクラップにすんぞ!」
ユウキは上司からかけられた罵声に眉を下げて苦笑すると、望月へ「では失礼しますね」と会釈をして、小走りで机のほうへ戻りさっさと荷物をまとめて三途の元へ戻っていく。

「すみません、三途さん」
「早くしろカス。で、溝鼠は誰の管轄だよ」
「九井さんですね。こちらから連絡済みです。日を跨ぐまでにはあちら側で準備を済ませておくそうなので、そうしたら私だけでも顔を出そうかと」
「あー?じゃあ俺も行く」
「あら、珍しいですね」
「裏切り者のクソ野郎の顔を拝んでやりてぇ気分なんだよ」
「わあ、悪趣味」
戯れ合いながら並んで歩いていく二人の背中を望月は見つめる。
姉弟みたいだ、と不意に思ってしまった。
……そんなはずないのだけれど。




もう一匹の溝鼠の始末が終わったのは、翌朝4時半頃のことだった。

日を跨ぐ頃に九井と合流して、かかっても精々深夜2時頃には終わるだろうと予測していたのだが、その予測はあっさりと外れた。先に殺した溝鼠が持っていた情報とこれから殺す溝鼠の持つ情報を照らし合わせて精査するのに想定以上の時間がかかったのだ。ああでもないこうでもないテメェほんとマジでふざけんなよぶっ殺すぞと和気藹々といった雰囲気で深夜の作業を進めていったが、どんなに頑張っても時間はかかるし、そうなれば段々と苛立ちも募っていく。
妙にピリピリとした空気の中、裏切り者をとっとと殺したがる三途を九井と共に宥めつつユウキは仕事をし、諸々が終わらせて望月の部下に死体処理を任せる頃にはすっかり日が明けていた。



「ラーメンですよ、ラーメン」

ユウキは埠頭から見える水平線、眼球を貫くような朝の光に普段から重たそうな瞼をさらに重くしながらそう言った。三途は彼女の隣に並んで同じように水平線を眺める。けれど眩しい光に耐えかねて目を瞑った。瞼の裏に光が焼きついて、離れなくなる。目を閉じても眩しい。

「こんな朝はラーメンを食べるしかありません」
「そういうもんか……?」
「そういうもんです」
「そういうもんか……」
並んで朝日を眺めながら疲労困憊の顔でそんなことをのたまう二人を、同じく疲労困憊の顔の九井は見ていた。だがツッコミはしまい。無駄に関わって体力を削る気もない。

ユウキはジャケットの内ポケットから車のキーを取り出すと指先にチェーンを引っ掛けてクルクルと回す。それからプリウスのロックを外すと助手席の扉を開いて、疲れの滲む笑顔を三途に見せた。

「乗ってください、三途さん。世界一美味しいラーメン屋に連れてってあげますよ」
「……どうせ竹虎だろ」
「あらゆる人が生まれては死ぬように、あるいはすべての道がローマに続いているように、全てのラーメン愛好家は最終的に竹虎に行き着きます。自然の摂理です」
「お前と竹虎行くのもう7回目なんだけど」
「まだ7回しか行ってませんでしたっけ?」
「頭イカれてても構わねーけど事故んなよテメェマジで」
文句じみたことを言いつつも助手席に乗り込む三途とニコニコ笑いながら運転席側に回るユウキ。

……コイツら仲良いな、と九井は思った。が、口には出さなかった。無駄に関わってただでさえ削れている体力をさらに削る気はさらさらないのだ。

じゃあ直帰しますね、と疲れた笑顔を浮かべたユウキが運転する車が埠頭を走り去るのを九井もまた疲れ切った目で見つめた。……俺もラーメン食って帰ろ。




「ゆっくり向かいますから、三途さん、寝てていいですよ」
ハンドルを握りながらそう微笑むユウキに三途は「ああ」とも「おお」ともつかない曖昧な返事をした。体制を崩してシートに深く腰をかける。少ない振動、過ぎ去っていくガラス越しの景色。朝、まだ車通りの少ない道を黒い車体は進んでいく。

三途は運転席に座るユウキを横目で見た。
すっと通った鼻筋にやや厚めの唇、一つにまとめた柔らかく長い黒髪。緩く上がったままの口角は見ていて不思議に安堵を覚える。それが彼女のいつも通りの表情だからだろうか。

結城が三途の元にきて一年以上が経っていた。彼女は来た頃から変わらずアンニュイさを纏いながらもいつも笑っている。
それが仮面であると知っていた。無表情とさして変わらない笑顔。嘘つきの顔。三途は嘘が嫌いだ。でも、嘘つきまで嫌うわけじゃない。だから、本当は、別にユウキを嫌っているわけではないのだ。

「どうかしましたか?」
視線に気がついてか、ユウキが視線を前に向けたまま三途に問いかける。柔い微笑み。少し眠たい感覚が三途の脳にはあって、けれど眠りたくは無かった。だから眠らないために口を開く。

「ユウキ」
「はい」
「……テメェはなんで『梵天』に入ったんだよ」

裏社会で生きる人間に過去など問うものでない。
わかっていて三途は問いかけてしまった。刺されても文句は言えないような、他人の聖域に土足で踏み入るような行為。自分がされたのならば相手を殺していただろう。それなのにそんな馬鹿げたことをしてしまった理由は他でもない彼自身がよくわかっていた。

彼女のことが知りたい。
彼女の核に触れてみたい。

……ああ、なんてくだらない。
根源にあるのは子供じみた恋慕によく似た感情だった。

それでも許されるのならば本当の言葉が聞きたかった。
もしも彼女が三途に本当を答えてくれたのならば、とそんなことを思ってしまった。願ってしまった。
……信用して欲しかった。
結局のところ、その時の三途の中にあった感情はそんなところだ。

三途が口を閉じた途端、沈黙が横たわる。赤信号のためにゆっくりと減速した車はつんのめるような衝撃を起こすことなく停止する。微かなエンジン音だけが車内にはあった。

沈黙は実際の秒数よりも長く三途の精神を張り詰めさせた。ピンと張った糸のような緊張した感覚。それが和らいだのは、ユウキが小さく息を吸った時だった。

「……10年くらい前かな」
ぽつりと溢れた言葉が波紋のように三途の鼓膜を揺らした。彼女の横顔を見たいと反射的に思って、けれど睨みつけるように真正面、フロントガラスの向こうを頑なに見つめ続ける。視線も空気の揺らぎも、何ひとつ彼女の言葉の邪魔をしたくなかった。途絶える声を聞きたくはなかった。

「私の兄が死にました。殺されたんです。喧嘩か何かが原因で揉めたのかなあ、刃物できられて、そのまま」
相槌を待たずにユウキは続けた。元より相槌なんてものがあるとは思っていなかったのだろう。独り言のように言葉がぽつりぽつりと静かな車内に溢れていく。

「犯人、まだ見つかってないんですよね。私、それが許せなくて」
ささやかで、穏やかで、ありったけの本心が滴る。
彼女は息を吸って、それから青信号に変わった道を往くためにゆっくりとアクセルを踏む。

「兄は当時ヤンキー、っていうか、まあ、そういう感じで、一般的に見て素行はよろしくなかったし、父とも良い関係じゃなかったんですよ。そんなだから、誰も知ろうとしなかったし誰も教えてくれなくて、私、時々警察に行って捜査がどうなってるのかとか何か進展はあったかとか、聞きに行ってたんですけど、」
ユウキは思い出し笑いのように口角を歪める。グッと眉間に寄った皺は苦痛に耐えるかのようだった。

「ヤンキーのガキが一人くたばった程度の事件のことを未成年の小娘が詮索しにいくとね、碌な扱い受けないんだなってその時知りました。あー、全員死ねって思ったし、今でも仕事で公僕殺す時はそう思ってます。私って意外と執念深いのかも」
流れるようにカーブを曲がる。海は段々と遠ざかっていく。車に乗り込む前に見たはずの、水平線の先にあった朝日の色はもうすっかり記憶になかった。瞼の裏に焼き付いたはずの痛みによく似た光はもう、どこにもない。

「私は犯人を見つけたい。でも無能な警察は嫌い。だから『梵天』に入ることにしたんです。蛇の道は蛇って言うでしょう?警察じゃ得られない情報も裏社会なら手には入ると思ったし、目的のためなら法を守る気もなかったから」
復讐したくて反社に入った、なんてよくある話でしょう?

そう言ってユウキはいつも通りの笑顔を浮かべた。
その嘘みたいなその笑顔が何よりも、これまでの彼女の発言が全て事実であることを証明する。その事実に三途は微かに怯む。

内心を曝け出して、少しも楽しくなどないのに笑顔を浮かべて、けれど誰にも己の矜持には立ち寄らせない。
彼女はそのあり方を示すことを選んだ。或いは三途が彼女にそうさせてしまった。三途は腿の上に置いていた自身の掌を握る。握り込んだ指先が酷く冷たい。

嘘をついたってよかったのに。
嘘つきのくせに、どうして今嘘をつかなかったのだろう。

彼女にだけは嘘をつかれたくないと思いながら、三途はそうも思ってしまった。だって、騙すのでも裏切るのでもなく、自分の心を守るためにつく嘘になら三途だって覚えがある。

いつか、ユウキに「兄弟はいるのか」と問われて、咄嗟についたあの時の嘘はそれだった。
だって、言えるはずもない。兄妹がいるだなんて、口が裂けても言えるわけがなかった。壊れた心の砦の残骸を、どうして他人に見せられようか。

だからユウキだって三途に嘘をついてよかった。

兄などいない。
兄を憎んでいる。
兄は今も生きている。

そうやって嘘をつけばよかったのに。
他人の身体に刃物を突き立て腹を開いて、その中にある核に不躾に触ったような心持ちだった。触りたいと自ら望んでおきながらそれを叶えた途端に悔いるなんて馬鹿げているとわかっているから三途は黙り込む。

……わかっている。わかっている。
もしもこれが他人なら、相手がユウキでなかったのならば、三途だってこんなふうに心を揺らさなかったのに。

そうやって助手席で俯いたまま言葉を発さない三途に、ユウキは困ったように眉を下げた。
別に気を遣わせたかったわけではない。この程度の境遇など、探せばいくらでもあるだろう。故に三途ならばこの程度の話、一笑に伏して終わりだと思っていたのにそんな顔をされては立つ瀬がない。
だからユウキはせめて貼り付けたような笑みを剥がそうと思ったのだけれど、いつしかこの表情の剥がし方がわからなくなっていた。仕方なくいつもと同じ笑顔のまま、少し戯けたような声音で言葉を紡ぐ。

「とまあ、私の話はこんなところで、次は三途さんの話を聞かせてくださいよ」
「は?なんでだよ」
「私だけが秘密を話すなんて狡いです。三途さんもご自身の秘密の一つや二つ、教えてくださいよ」
「そうはならねぇだろ、フツー。んな詐欺みてぇな後出しの等価交換があるかよ」
「反社ならよくあるじゃないですか」
「…………あるな」
「もう着いちゃうので話の続きはラーメンを食べながらゆっくりとしましょうか」
「なんでラーメン屋でんな話しなきゃなんねぇんだよ……」
「竹虎が個室でよかったですねぇ」

ここ一年で行きつけとなっているラーメン屋は平日の朝ということもあって客は仕事終わりの夜職くらいだった。待つことなく中に通される。ラーメン屋には珍しく個室中心のこの店は周囲の目を気にせず雑談をするにはちょうどよかった。

メニューを決めるのが億劫で、三途はユウキが頼んだものと同じものを注文する。醤油豚骨ベースらしい。味にさして興味はないが、ユウキが頼むのなら多分三途にとっても美味いのだろう。彼女曰く、三途はユウキと「気が合う」らしいから。



「ウッッッッッマ」
「でしょう!?やはり全ての道は竹虎に続いてるんですよ!」
「それは何言ってんのか意味わかんねぇわアホ」

徹夜明けに食うラーメンは馬鹿みたいに美味かった。
空腹なんてそれまで大して感じていなかったのに、一口食べた瞬間に自分が昨晩から何も口にしていないことを思い出して、空っぽの腹を満たそうと無闇に手が動いた。

無言ながらも美味しいと感じていることを滲ませながら食べ進める三途を、ユウキは嬉しそうに見る。それから見ていたことが知られないように、視線を落として自分もラーメンを食べ進める。
心地のいい沈黙が個室の中にあって、それを心地よいと感じてしまった瞬間に三途は我に帰ったように箸を止めた。それからバツの悪いような感覚を隠すようにぶっきらぼうに口を開いた。

「オイ、さっきの話はどうなったんだよ」
「へ?」
「してたろうがよ、此処で話するとかしないとか」
キョトンとしていた顔のユウキは続く三途の言葉に「……ああ!」と合点がいったらしい。それに鼻を鳴らして三途はわざと不機嫌そうな素振りをして、低い声で呟く。

「……ひとつだけ」
「はい」
「ひとつだけならなんでも答えてやる」
子供じみたぶっきらぼうな声音だった。ユウキはそんな彼の声音を敢えて指摘することもなく自身の頬に手を当て、考え込むような仕草をした。

「そうですねぇ」
呟く声のその先を三途はじっと待った。
三途は誠実さというものを知らない。それでも今だけは、お前にだけはそういうものでありたいと思った。例え、それがそれらしい紛い物だとしても。

ユウキは頬から手を離すと、テーブルの向こう側に座る三途を真っ直ぐに見つめて問いかけた。

「貴方が初めて殺した人はどんな人でしたか?」

好奇心に満ちた声で三途の元へ届く。三途がユウキの顔へ焦点を合わせれば彼女はいつもみたいにニコリと笑った。何故そんなことを?と視線で問えば、彼女は「好奇心です」と答えた。

「前に竜胆さんにも似たことを聞いたことがあったんですよ。そうしたらあの人「当時敵対してたチームの奴。兄貴と一緒だったからすげー楽しかった」って言うの。私の初めての時の全然感想が違うから、不思議だなぁって思って」
初めての殺人って破瓜みたいなものでしょう?
ユウキは悪戯っ子みたいに笑った。
なら、こんなところじゃないと話せないじゃないですか。

品の無い表現ながら、それもそうかと思って三途は器の中に残っていたメンマを口にする。咀嚼し、嚥下。それから再び口を弾く。

「裏切り者」
「え?」
「俺が初めて殺した奴だよ」

スープの上に浮かんでいる半熟卵の黄身を箸で崩しながら三途はいつかの遠い過去を想起した。あの時のことはよく覚えている。今、冷静になっては当時の自分を俯瞰すれば、自分自身でも驚くほど苛烈な感情の発露だったように思える。

「……裏切られたからその人を殺したんですか?」
「あー、まあ、そうなるな」
「ってことは、嫌いな人だったんですか?」

答えに窮する。あの男に、……あの人に向けていた感情は好きだとか嫌いだとか、そう単純なものではなかったような気もする。黙り込む三途に何かを察したユウキはさりげなく言葉を変えた。

「その人を殺した時、何を感じましたか?」
「……満足したし、ようやく終わったと思った。いいザマだと思ったし、」

……どうしてこの人は俺の大事なものをこんなにも簡単に裏切れるんだろう。

そう思った。本当はずっとそう思っていた。だから許せなかった。
けれど、口にはしない。こんな感情、目の前の彼女にはきっとわからないだろう。だからそれらしい言葉を続けた。

「ザマーミロって思ったわ」
「へぇ、人によって違うもんですねぇ」
ユウキはニコニコと笑った。それから「あ、最後にもう一個だけ聞いてもいいですか?」と小首を傾げる。

「テメェ何個聞くんだよ、ひとつだけっつったろうが」
「いいじゃないですか。サービスしてくださいよ。あ、ほらここのお代奢りますから」
「千円しねぇラーメン程度で粘んな」
「ということで聞きたいんですが、三途さん」
「答えるなんて言ってねぇからな」
「三途さんって殺人処女は何歳に捨てました?」

品の無い言い方をしてユウキは笑う。その態度と物言いに免じて三途は溜息一つ吐いて、答えてやった。

「15」
「……ッ、フ、アハッ、あはは!」

そう答えた瞬間、ユウキは吹き出すように笑いだした。予想だにしない反応に目を剥けば、ユウキは箸をテーブルに転がして腹を抱えてソファ席に蹲る。
どうやら見ての通り、腹が捩れるほど笑っているらしい。ガタンと体のどこかが壁か何かにぶつかる音。テーブルの影で見えないところから引き攣ったような笑い声が聞こえて来る。

「おいコラテメェ、そりゃあどういう反応だよ!スクラップにすんぞ!」
「だっ、だって、あは、ははは!おかしくないですか、15で人殺しって、そんなことあります?ふふっ、ふはっ!」
「灰谷なんかアイツら13で人殺してんぞ」
「あの人たちはそれでも二人がかりで、ふふっ、事故みたいな殺し方でしょ、あははは!15歳で人を殺す気で殺しに行って殺し切るなんて、流石三途さんですねぇ!」
「……褒められてる気がしねぇんだよな」

ゲンナリした顔でテーブルの下に崩れ落ちた背中を眺める。ここからは顔が見えないがさぞかし楽しい顔をしているのだろう。耐えきれなくてか、時折伸びてきた手がバシバシと壁を叩く。「うるせぇよ」と舌を打てば、ようやく段々と彼女も落ち着きを取り戻していった。

「あーー、笑った……」
顔を上げた彼女は笑いすぎて溢れた涙を拭いながら三途の前に再び顔を見せる。崩れた顔、上がった口角を隠すような掌、揺れる声音。ユウキは笑っていた。無表情じゃなくて、笑顔じゃなくて、本当に笑っていた。それを気がついて、固まる。

「……ユウキ、お前」
「えっ?なんです?ふふっ」
「いや……」

多分、それが初めてだった。
ユウキが本心から笑っているのを三途が見たのは、その時だった。

……いや、こんな話で?
今までどんな状況でもどんな会話でも笑顔という無表情を貫いてきていたユウキがこんな話題であっさりと本当の笑みを見せたことに見惚れたし、驚いた。
驚いたが、すぐにそれ以上につまらない気分になる。

せっかくならこんな化石のような昔話なんかじゃなくて、もっと違うタイミングで笑った顔が見たかった。

……などと思ってしまった自分の思考に気がついた時、三途はようやくこれまでの自身の感情に腑が落ちた。

ああ、つまるところ、俺は、これは、そういうことだったらしい。
ぼおっとユウキの顔を見つめるばかりの三途に、彼女は反応を確かめるように彼の目の前でパタパタと手を振った。

「……三途さん?どうかしました?」
「優希」
「ああ、はい?」
「……テメェのチャーシュー、俺がもらう」
「なんでぇ!?ああ!私のチャーシュー!好きなものは最後まで残す派なのに!!」

『全世界を飛び回り神々や冥府でさえも恐れる蝮のような悪人』

かつて人はそれを『恋』と呼んだ。
つまるところ、そういうことである。





朝食を終えた二人は再び乗ってきた車へ戻る。最早所定の位置となった助手席に三途が座り、優希は運転席に座る。

「今日はどちらの家に帰られますか?」
エンジンを掛けながら彼女は三途に尋ねた。反社会的組織のナンバー2ともなれば、セーフハウスの一つや二つや三つ程度持っているものだ。三途がそれらをルーチンや気分や、或いは外的な要因で使い分けているということを優希は知っていた。今日の様子なら此処から一番近いところにあるマンションだろうと検討をつけながら問いかける。

……のだが、返事がない。
まさかこの一瞬で眠ってしまったのか、と思って助手席の方へ視線を向ければ、三途は起きたまま不機嫌そうにじっとフロントガラスを睨んでいた。

「……三途さん?」
恐る恐る声をかけてみれば、彼は少しばかり唇を尖らせたまま唸るように言った。

「……帰りたくねぇ」
「……おお?」
終電間近の学生みたいなことを言い出したなこの人、と優希は反射的に思った。
それから考える。彼の発言の意図だとか、対応策だとかそんなものを。三途が突拍子もないことを言い出すのはこれまでにだってよくあることだ。

「三途さん」
「……んだよ」
「もし私が徹夜じゃなければこのまま三途さんを乗せたまま首都高でも何処でもいくらでも流しに行ってたんですが、今は流石に睡眠不足で限界です。絶対事故ります」

そう答えた瞬間に三途がちょっとばかり残念がるような、気落ちしたような横顔を見せたものだから、優希は思わず喉奥で笑ってしまった。

「ええと、つまり三途さんはご自宅へ帰りたくないんですよね」
三途は無言で肯定する。その返答に彼女はわかっていたように微笑んで、言葉を続けた。

「なら、私の家に来ますか?」

その言葉に三途は思わず優希を見た。三途を見ていた優希と、優希へ目を向けた三途の視線がぶつかる。
早朝の時より高いところに上がった陽から降り注ぐ日光が車内にまで届く。明るい場所に二人は近い距離に並んで座りながら在た。

静かに見つめ合う。
その時になってようやく三途は、優希の瞳が人より青みがかっていることに気がついた。徹夜明けで空腹が満たされて、なんだか眠い。
霞みがかった思考の中、三途は彼女の瞳をきれいだと思った。




車が発進してから自宅マンションについた優希が玄関扉を開くまで、二人は一言も言葉を交わさなかった。その代わりに過敏になった感覚がそばにはあって、互いの視線や距離を何にも代えがたく感じ続けていた。

「……ようこそ、というのもなんだか変ですが」

そう言って、はにかみながら自宅の扉を開いた優希は何の躊躇いもなく三途を中へ招いた。その手招きに素直に従って前へ進む。思えば他人の家に招かれたのは随分久しぶりのことだ。

他人の家、他人の空間、他人の生活。
異空間へ踏み入ることへの躊躇いを踏破するために、わざと乱雑に靴を脱ぎ散らかして、強く足音を立てて中に入る。途端に「三途さん、靴」と注意するような優希の声が玄関に響いた。玄関の扉が閉まる。密室になる。玄関から各部屋へと続く廊下の感温式ライトが頭上から二人を照らす。

「優希」
「はい?」
「ダメだ、クソねみぃ」
「ああ、そこが寝室なのでよかったら、って、え?」

優希の手首を掴んで、三途は指し示された部屋へずかずかと踏み入った。「なんなんですか、も〜」と口では不満げな声を上げながらも抵抗なく優希は手を引かれるまま三途についていく。
彼女の家の寝室は広いベッドとデスクがある程度のシンプルな部屋で、その生活感のなさから彼女がさしてこの部屋を利用していないことが見えた。遮光カーテンの隙間から入り込む朝日さえ避けるように部屋の奥へ進み、三途は倒れ込むようにベッドへ寝転がった。

「うわっ」
そうなれば当然、手首を掴まれたままの優希もまた引っ張られるようにしてベッドへ転がることになる。
繋がりあったまま二人は横並びになるようにベッドにダイブした二人。互いになんとなくベッドの中心へ目を向ければ自然と目が合う。
思っていたよりも近い距離に互いの顔があって、けれど逸らす理由も見つからなくて、互いの瞳を見つめ続けた。

「……三途さん」
名前を呼んで伸ばされた手を、頬に触れる体温を、三途は自分が思っていたよりもずっと穏やかな心で受け止めた。優しく撫でられる手が心地よかった。三途は頬に触れる手を捕まえて、その掌に頬を擦り寄せる。途端に優希のほうから喉を揺らすような笑い声が聞こえる。

触れること、触れられること。
そのどちらにも違和感がなかった。むしろ、どうしてこれまでそれが無かったのか、不思議に思うくらいに。

ベッドの上、三途は他人の家の匂いに違和感を感じながらも、その香りを不思議と嫌だとは思わなかった。
むしろ昔にどこかで嗅いだことがあるような、安堵する感覚の方が強い。徹夜と満腹感のためにただでさえ重い瞼が、安堵を知って更に重くなる。「眠いんですか?」そう笑う声に目を瞑りながらうなづく。

「三途さん、ベストとベルトくらいは取りましょう?」
「むりだ、ねる」
「寝るにしたってそれじゃ寝苦しいでしょう」
「……ん、んん……」
「もー、私が勝手に脱がせますけど、後で文句は言わないでくださいね」

ベストを脱がせようと体に触れる彼女の手つきは優しく、世話を焼くようなものだった。嫌いじゃない。それどころか、本当は嬉しかったのだと思う。
放っておいたって構いやしないのに、彼女が自分のために自分を見て自分にふれて自分に優しくしてくれることが嬉しかった。だから本当は起きて服を脱ぐくらいの体力はあったのに、しなかった。寝たふりをしてその優しさに感けた。こぼれるように降り注ぐ小さな笑い声。締め付けを解く手つき。……なんらかの意図を持って梳くように触れられた髪の毛の感触。
知らないふりをしながら、目を瞑って受け止めていた。





寝たふりが本当の眠りになるのは一瞬のことで、知らぬ間に意識は落ちていたらしい。覚醒することでようやくその空白に気がつく頃には、眠りはすでに過去のものとなっていた。

目が覚めたとき、遮光カーテンの隙間から差し込む光には橙が混じっていた。三途はベッドの上で半身を起き上がらせる。途端に彼の体にかかっていたタオルケットが腰のあたりまで落ちた。自分では羽織った覚えのないそれがどこから来たものなのか、考えるまでもない。

自分一人だけ。他には誰もいない静かな部屋。耳鳴りが鮮明に聞こえる。

三途は段々と覚醒した頭で部屋を見渡した。けれど白い壁のどこにも時計は無い。その代わりに壁にかけられた自身のベストやデスクの上にまとめられたベルトが目につく。脱がされたそれらも掛けられたタオルケットも全て丁寧に扱われた痕跡だった。

微かな香りが鼻腔をくすぐる。三途はベッドから立ち上がると暗い部屋を出る。明かりのついているリビングのほうへ足を進めれば、果たして彼女はそこにいた。

「あら、おはようございます」
リビングに入ってすぐにあるアイランドキッチンに立った優希は中に入ってきた三途をいつも通りの笑みで迎えた。

「いやー、徹夜明けでしたからね、三途さんベッドに入ってすぐに寝ちゃったんですよ。やっぱり疲れてたんですねぇ。あ、ちなみに今はもう、」
夕方ですよ、と言いかけた優希の言葉は吐き出されなかった。無表情のままキッチンに入ってきた三途が無言のまま優希に近づき、そのまま細身の彼女を両腕で抱き締めたからだ。

「わ、……わあ……?」
思わず両手を小さく上げて無抵抗を示す優希を気にすることなく、三途は自分よりいくらか背の低い彼女の側頭部に頬を寄せて息を吐いた。何処か安堵の滲む吐息に優希はおずおずと手を下ろすと三途の腕に掴まった。

「あの、三途さん、私今火を使ってて、」
「……ビビったわ」
「……それはどちらかというと私の台詞かと」
「起きたらテメェがいねぇから、」
「あ、ああ、はい」
「死んだかと思った」
「ここ私の自宅なのでその可能性は低いかと思いますが……」
そう言いながらも「それはその、ご心配をおかけしました……?」と首を傾げる優希に三途はもう一度溜息を吐いて彼女から半歩離れた。その距離感で会話を続ける。

「何してんだ」
「夕方ですから。ご飯作ってるんですよ」
「ンなこた見りゃわかんだよ」
「あはー、まあ簡単なもので恐縮ですが、親子丼です」

一人暮らしの学生みたいなメニューだな、と三途は思った。
いや、一人暮らしの学生が何食ってんのかなど三途の知ったことでは無いので完全にイメージなのだが、少なくとも客が来ている時に作るものというイメージでは無い。勿論、優希を世間一般のイメージに当てはめる方が間違っているのだが。

「もしお腹空いてたら、三途さんも食べますか?」
不意にそう問われる。起きたばかりで食欲は然程なかったが、三途は反射的に「食う」と答えていた。優希はその回答に口元を緩ませる。

「……得意料理なんです、親子丼」
「あっそ。つかそもそもお前料理すんだな」
「外で食べるほうが楽だし美味しいので滅多にしませんけどね。親子丼は子供の頃に兄から教わって以降、私が作れる唯一にして最高の料理なのですよ」
「唯一なのかよ。料理できねぇんじゃねーか」
「ゼロかイチかだったらイチなので料理はできます」
「どんな理論だよ、俺の方がマシじゃねぇかよ」
「お、では三途さんは料理できるんですか」
「少なくともお前よりはレパートリーあるっつうの」
「おお、それは三途さんの料理を食べるのが楽しみですねぇ」
「なんで食う気でいんだよ。作るなんて一言も言ってねぇだろうが」
軽く小突くとわざとらしく痛がるフリをする彼女は、それでも得意料理というのは事実なのだろう、慣れた手つきでフライパンの中に溶き卵を流し入れる。

「もうすぐできますからテーブルの方で待っててください」
リビングの中へ改めて目を向ければ、アイランドキッチンの正面に四人掛けの大きなダイニングテーブルがあり、さらにその奥にはテレビとソファ、それからその二つの間にローテーブルが一つが置かれていた。リビングは広いわりに物が少なく、飾り気もない。おそらく優希にとってもこの家はセーフハウスのひとつでしかないのだろう。そんな生活感の無い部屋に、調理音という生活感の塊のような音が響いているのは不思議な感覚だった。

優希の言葉に抵抗する理由もなく三途はリビングにおかれたダイニングテーブルの椅子に腰掛けて、頬杖をつきながらアイランドキッチンで作業をする優希を眺め続けた。そんな行為、三途自身、すぐに飽きるだろうと思っていたのだが、結局調理を終えた彼女が親子丼を運んできてくれるまでずっと優希のことを見つめ続けてしまっていた。

やがて親子丼を作り終えてダイニングテーブルへ運んできた優希は同様に箸やお茶を持ってきて、それから三途の向かい側に腰掛ける。

「人に食べさせたことが無いので味の保証はしませんからね」
「おー、不味かったらボロクソ言ってやる」
「ふふ、お手柔らかに」
それから何の衒いもなく彼へ微笑みかけた。

「どうぞ、召し上がれ」
そんな些細な言葉に許されて、正しくない持ち方しか知らない箸を握って彼女の料理に手をつけた。
匂い、色、形。美味いとか不味いとか、本当は食べる前からわかっていた。だから箸を握ってからは何も言わなかった。無言が何よりも雄弁で、そうであることを彼女がわからないはずもない。

「お腹空いてたんですねぇ」
沈黙のまま早いペースで減っていくばかりの器の中身。優希の言葉に三途は何も言わなかった。嘘をつきたくなかったけれど本当のことは言い難い。三途の無言を気にしない彼女は笑って、それから自分の分の親子丼を食べ始める。優希の持つ箸も不恰好で、余った薬指が不自然に目についた。それを不幸や不遇の証だとは思わない。誰にも何も言わせたくない。

食事中、三途は結局は何も言わなかった。
やがて空になった器を見て、優希は少し揶揄うような瞳で三途を見つめながら笑う。優希の視線に気がつくと、冷たいお茶を流し込んでから「俺が作った方がぜってぇ美味ぇ」とだけ言った。その言葉に優希は嬉しそうな顔をする。

「食後のコーヒーでも淹れますよ」
立ち上がり空になった器等をキッチンへ持っていくその背中を無意識に追う。シンクに置かれた皿が擦れる音だとか、水道から流れる水の音だとか、お湯を沸かす音だとか、そんな普通みたいな音ばかりが聞こえて、まるで自分たちがフツウみたいだった。

「三途さん、コーヒーに何か入れますか?」
「いらねぇ」
「はい、ブラックですね」
ドリッパーにフィルターをセットし、挽いた豆をそこに入れる。ドリップポットの湯を少しずつそこへ流し入れれば自然と香りが部屋に広がる。テーブルに座ったまま、キッチンを見つめる三途に優希は少し眉を下げながら声をかけた。

「三途さん、お客様にこんなことを頼むのも申し訳ないのですが、エアコンをつけてくれませんか?」
「は?」
「ちょっと肌寒いものでして……。リモコン、多分ソファ近くのテーブルあたりにあると思うんですが」
こてん、と小首を傾げてねだるような仕草をして見せれば、三途は半目で優希をじとりと睨んだ。その表情と圧に屈する理由も無い優希は変わらずねだるような目線を彼に向ける。そうすれば舌打ち一つで折れるのは三途の方だった。

「ったく、俺にリモコン探せとか言えんのマイキー以外だったらテメェだけだわクソが」
「いやー、光栄ですねぇ」
キッチンの方へ背を向けてソファ近くのローテーブルへ向かう三途。優希はその背へちらりと視線を向けてから、キッチンの戸棚にあった小瓶を取り出して中の粉を数杯、スプーンでコーヒーの中へ入れた。粉を溶かすようにスプーンで黒々としたコーヒーをかき混ぜる。それから何でもない顔をしながら小瓶を元の戸棚へ返す。

「オイ、ねぇぞ、リモコンなんざ」
「ローテーブルなんですけど、下に一段あるんですよ。雑誌とか入れるようなところが。そのあたりとかにないですか」
「ああ!?クソ、わかりづれぇとこに置きやがって!」
「あはー、ごめんなさい」
「笑ってんじゃねぇか殺すぞ!」
優希はそれから同じように戸棚からフレッシュのポーションを取り出してもう片方のコーヒーへそれを入れる。それから別のスプーンで同じようにフレッシュを入れたコーヒーを混ぜた。

「ありましたかー?」
「あったわクソが!冷房にすんぞオラ!」
「あー、やめてください死んでしまいます」
「死ね!」
ケラケラ笑う優希に三途は暖房をつけたリモコンを柔らかいソファの上に叩きつけた。当然、リモコンにはさしてダメージは無い。
優希はマグカップを両手に持つとソファのそばへ向かった。座る彼の前にあるローテーブルに黒いコーヒーを、自分のフレッシュを入れたコーヒーを手に彼の横に座った。

「あ、なんか尻で踏んだ」
「リモコンだろ」
「もー、なんでこんなとこ置くんですか、変なボタン押しちゃった」
「デブ」
「パワハラ〜」
「おいテメェ、それ何入れてんだ」
「え?コーヒーですか?フレッシュです」
「ゲェ、お前それが何で出来てんのか知ってんのかよ」
「えーなんでしたっけ?石油?」
「それ石油だって思って飲んでんなら大丈夫だよお前は」
「健康に気を遣う反社ってウケません?」
「ウケる」
無意味にマグカップで乾杯をして二人はそれぞれのコーヒーに口をつけた。

「つかお前いつもブラックで飲んでたじゃねぇか、なに石油入れてんだ」
「仕事の時は目を覚ますためにブラックですけど、今はプライベートなんで」
「あっそ。…………いや、コーヒーに何入れようがカフェイン量は変わんねぇだろ」
「気分ですよ、気分」
「……意味わかんねぇよ」
「愛は時に不合理ということです」
「……どういう、ことだよ」
「秘密は女を美しくします」
「……お前が、馬鹿な、だけ、だろ」
「あは、あはは」
優希は可笑しそうに笑って、カフェオレじみた外見の茶色い液体を喉に流し込んだ。それから隣に座る三途の顔を覗き込む。

「ね、三途さん」
「………んだよ」
「なんだか眠そうですね」
「……なわけ、ねぇだろ、昼、あんだけ、寝てて」
「大丈夫ですよ。夜泊まっていっても」
三途の手からするりと中身の残るマグカップを抜き取ると優希はそれをテーブルへ置く。「なに勝手なことしてんだ」と三途は口にしたかったのだけれど、不思議なことに口から言葉は生まれず、四肢は泥になったかのように動かない。あまりにも不自然な眠気。気がついた時にはもう遅かった。三途は声にならない声で彼女の名前を呼んだ。彼女は笑う。

「大丈夫ですよ、三途さん。後でゆっくりお話をしましょう」
無表情みたいな笑みで彼女は笑っていた。
それが、堕ちる直前の景色。












暗転。













覚醒は痛みと共にあった。脳の奥が軋むような痛覚に三途は叩き起こされる。生理的に零れた涙が視界を歪ませる。その涙を拭おうと思って、……ただそれだけのことが出来なかった。

「あ……?」
三途は見知らぬ場所に横たわっていた。歪む視界に見えるのはどこか見覚えのある白い壁。涙を拭うために腕を動かそうとして、その腕が体の前へ回らないことに気がつく。
それは飲まされた薬のせいではなく、三途の両腕が後ろ手で硬く縛られていたせいだった。
背中側に回された両腕はロープで縛られていて、同じように脚も曲げた状態で拘束されている。やけに体が重たいのは残った薬のせいだけではなく、ロープと共になんらかの重りをつけられているためのようだ。

三途は眉間に皺を寄せながら体を動かしてあたりを見渡す。狭い場所に寝転がされている。体を無理やり動かすたびに四肢の何処かが壁に当たり、ゴン、ゴンと音を出す。その聞き慣れた反響、それから転がったまま上を向いた瞬間に見えた視界で理解する。

自分は縛られたまま、空の浴槽に入れられているのだ、と。

「ああ、起きたんですね」
聞き慣れた声が浴室に響いて、横向きに転がったままの三途は反射的に顔を上げる。
そこに彼女はいた。浴室のライトは眩しく、逆光。優希はいつもみたいに笑って、浴槽の外に立って三途を見下ろしていた。

「貴方って結構お寝坊さんなんですね。あと数時間で起きなかったらもう殺そうと思ってました」

四肢を拘束されて、明らかに溺死させるために浴槽に放られた状態になっている以上、流石に優希に殺意があることはわかっていたが、三途は自分でも驚くほど彼女の言葉にショックを受けていた。

「……っ、優希、おまえ……」
「シーッ、静かに。まずはお話をしましょう」
優希は唇に指を当ててそう言ったかと思うと、違和感を感じたかのように首を傾げてから言い直した。

「……ああ、いや、違うか。……いいから黙って私の話を聞きなさい」
そう言って彼女は浴室にある椅子に座ると、浴槽の淵に頬杖をついてそう言った。

「まずは、そうですね、一番最初から話をしてあげましょう」
彼女は楽しそうな声音で笑う。

「私が小学三年生の時に両親が離婚をし、私は母に、兄は父に引き取られました。こうして私は母の旧姓である井伏優希になり、その後母の再婚に伴って今の結城優希というバカみたいな最悪の名前になりました」

「私、自分の名前大っ嫌いなんですよね」と彼女は笑って言った。まるで「大好きなんですよね」と言ったみたいな声音だった。

「……それが俺に何の関係があんだよ」
乾いた喉で三途は吐き捨てるように呟く。その言葉に優希は米神をピクリと動かす。それから立ち上がり、外側から浴槽を思いっきり蹴り付けた。

「……ッ!」
スチールのロッカーを外側から殴るのと同じ理論だ。狭く反響しやすい箱を外側から叩けば内側にいる人間にはそれがより巨大な音として内部で響く。鼓膜を破ろうとするかのような大きな音に反射的に三途が怯めば、優希は「誰が喋っていいと言った?」と高圧的に吐き捨てる。

「私だって酷いことはしたくないんですよ。苦しんで死にたくなかったら精々私の機嫌を取って下さい」
彼女は浴槽の中へ手を入れると三途の長い髪を掴んで上を向かせる。それから三途のほうへ顔を寄せると微笑んだ。

「ねぇ、三途さん。私の顔に見覚えはありませんか?」
「…………」
「ああ、ほら、怖がらないで。喋っていいですよ?ねぇ、わかりますよね?」
「……テメェ、ずっと俺のことを欺いてたんだな」
「人聞きの悪いこと言うなよ。貴方に嘘なんて一つもついてません。ただ本当のことを言わなかっただけです」
「別に責めちゃいねぇよ。ただ、……ハッ」

三途は鼻で笑った。厚い唇、面積の広い瞼、黒い髪、青みがかった瞳。それから彼女が断片的に口にした過去。
わかって仕舞えば、もうそれ以外に考えられなかった。今まで気がつかなかった自分と、それまでの自分の過去と、今の目の前にある現実を嘲けて笑う。

「……っはは。……お前、隊長に全然似てねぇなあ」

瞬間、彼女の顔から表情が抜けていく。それからすぐにその無表情に顔に怒りが浮かんだ。
掴んでいた三途の髪を引っ張り、彼の顔を浴槽に叩きつける。骨が堅い底にぶつかる激しい音が響いた。

痛みに乾いた笑い声を上げながら、三途は浴槽の底から天を仰いだ。ようやく気がつく。
彼女の、結城優希の旧姓は、生まれた時の名前は、

「武藤優希」

かつて殺したはずの過去が、今になって三途の前に現れた。

「あは、ようやく気がつきましたか」
「あー、あほ臭え。そういうことかよ、マジで気がつかなかった」
「それはそれでムカつくんですけどね」
「チッ、随分と演技上手なこって」
「……なんか、意外ですね。三途さんって殺されそうになったらもっと泣いて喚くかと思ったんですけど」
「泣いて喚いて助かんならいくらでもするわ。でもこれはもう、ダメだろ」
その言葉の通りだった。
今、この時になるまで三途は優希の正体に気がつけなかった。何もかもが遅く、気がついた時にはすでに王手だった。彼女を懐に入れた時点で彼は詰んでいたのだ。

「つまんない男。殺して正解だな」
溜息を吐く優希は、流し目で三途を見た。

「……っていうか貴方、自分は殺してないとか冤罪だとか言わないんですね」
「言っても殺すだろ、今のお前は」
「当然でしょう。ほら、疑わしきは罰すって言葉もありますし」
「じゃあ意味ねぇだろ、このブラコンが」
「私の唯一の家族ですから」
「親は」
「嫌なこと思い出させないで」
優希は不機嫌をわかりやすく見せると、浴室の壁にある操作盤のスイッチを押した。音声の後、三途の足元にある循環口から冷たい水が流れ出てくる。
死までのカウントダウンはそうやって始まった。
ボタンを押した優希は三途に笑顔を向けると口を開いた。

「水がいっぱいになるまで、話でもしましょうか」
「いっぱいも何も、水が3センチあったら人間すぐ死ぬけどな」
「じゃあ早く死ねよ」
笑顔でそう言う優希に三途は溜息を吐いた。水で濡れた衣服が気持ち悪い。

「……俺以外にも容疑者いただろ」
「そういう連中殺し切って最後が貴方なんですよ」
「灰谷とか望月とかもいんじゃねーか」
「あの人たち、兄より鑑別所出るの遅かったんですよ」
「ウッザ、なんでだよ。早く出てろよ」
「あの人たち、その前に殺人とか公務執行妨害とかで捕まってるから兄より観察期間伸びたんでしょ」
「クソじゃねぇかよ」
横を向いてると上がっていく水位に顔が濡れるため、三途は浴槽の中で仰向けになった。背中側にまとめられた腕や脚が圧迫されて痺れるが、動かないのだから今更構わない。

流れ込む冷たい水に三途の長い髪が水面に浮かぶ。
優希はそれを眺めて、綺麗だなと素直に思った。浴槽の淵に肘をつき、水槽を眺める子供のように中を見続ける。

沈黙。水が流れる音だけが響く。

「なんか言ってよ」
優希はそう口にすれば、三途は彼女の顔を見上げたまま口を開く。

「お前に俺の作った飯食わせたかったわ。お前の作る飯より100倍美味ぇから」
「……貴方ってもしかして結城優希のことが好きだったんですか?」
「嫌いだったらとっくに殺してんだよ」
「へぇ、でも残念でしたね。私は結城優希じゃなくて、ずっと前から武藤優希なんです」

つまらなそうに彼女は言う。
水位はいつしか三途の体のほとんどを水の中に沈めていた。手足を拘束するロープに重しがついていなければ浮力で体は浮き上がったのかもしれないが、それも仮定の話に過ぎない。彼の死はゆっくりと、けれど確かに迫っていた。

「貴方が好きになった私はどこにもいないの。貴方と出会うよりもずっと前に、他でもない貴方の手で殺されているの」
「…………そうかよ」

長く自分を欺いていた優希を裏切り者と呼ぶことは三途には出来なかった。
それはかつて三途が彼女の兄にした行為であり、自分が他人にしたことを他人にはするな、などと言えるはずもない。
将棋と変わらないのだ。結局は王手に迫られていたことに気がつかなかった方が悪い。
罪に罰があるのならば、きっとこれはようやく三途の元に訪れた贖いなのだろう。

「でも、」
優希は不意に口を開いた。

「……もしも結城優希がいたのなら、きっと貴方のことを好きになったと思いますよ」
「……仮定の話に興味はねぇよ」
「そう、ですね」

優希は目を瞑った。

兄を殺した犯人を殺すこと。ずっとそのためだけに生きてきた。
ずっと思ってたの。どうして世界は私の大切なものをこんなにも容易く奪えるんだろうって。世界はいつも残酷で、兄だけが優しかった。兄だけがいつも私を助けてくれた。そんな兄を奪った奴が許せなかった。そのためにならなんだってしたんだ。『梵天』なんかに入って、男ばかりの組織で成り上がって、そのためなら自分の性だって使った。罪も無い人たちを殺して、騙して、苦しめて、悪いことばかりした。いつか組織への、そして三途への裏切りがバレて無惨に殺されることに怯えながら生きていた。笑いながら本当はずっと怖がっていた。笑いながら本当はずっと震えていた。きっともう誰も許してくれない。ごめんなさい、兄さん。生きる理由に貴方を利用してしまった。死ぬ理由に貴方を利用してしまった。貴方に縋らなければ生きていくことさえできなかった。それでも貴方を愛しているの。だからこれでよかった。殺さなきゃいけないから殺した。この殺人は何も間違ってない。私は何も間違えていない。そうでしょう?

これでようやく心から笑えるの。

「あは、あはは、ははははは」

それなのにもう笑い方がわからなくなっていた。
真似事みたいにそれらしい声を上げる。浴室の中で本当みたいな笑い声が響いた。

不意に操作盤から電子音が鳴る。それと共に浴槽へ流れ込む水が止まった。桃色に染まった水。水面は揺れることもなくどこまでも静かだった。
笑うのを止めて、深く息を吐く。

「……何か言ってよ」
恨み言でも告白でも罵倒でも嘘でもなんでもいいから。


返事はなかった。












こういう絵画を見たことがあるな、と蘭は思った。
名前はなんだったか、数秒考えて思い出せなかったから蘭は思い出すことをやめた。それからリビングの方にいる弟を呼んだ。

「竜胆ー」
「なんだよ、兄貴」
「見つかったぜ」
「……マジかよ」

蘭は浴室、水がたっぷりと張られた浴槽の中で溺死している三途を眺めた。
開いたままの瞼と唇。揺れのない水中で、三途の長い桃色の髪がふわふわと浮かんでいる。
ホルマリン漬けみてぇだな、とぼんやりと思った。

バタバタと足音を立てて浴室のほうへやってきた竜胆に、蘭は小首を傾げる。それから水中の三途を指差して、口を開いた。

「これ結局さぁ、どういうこと?」




この家の持ち主である結城優希は、以前は竜胆の部下だった。それゆえに竜胆は彼女についていくつかのことを知っている。

ひとつ、彼女は武藤泰宏の妹であること。
ふたつ、彼女は武藤泰宏を殺した犯人を探していること。

上に兄がいる者同士のよしみとして、竜胆は結城に力を貸したのだ。
かつて東京卍會に所属していた武藤の部下だった三途。少なくとも竜胆たちよりは武藤の事件に詳しいだろう彼の下に彼女がつけるように根回ししたのはそれが理由だった。
なんてことはない。ただの気紛れと同情だ。

それでも元上司として彼女の始末くらいはつけてやらなければならない。
その夜、結城から自宅住所と「お手数おかけしますが後処理をよろしくお願いします」と書かれたメールが届いた時、ああ、彼女の復讐が終わったんだな、と理解した。


「結城って奴、ムーチョの妹だったんだろ。つーことは何?ムーチョを殺したのって三途だったってこと?」
「さあ?そこまでは知んねーよ」
「冤罪で殺されたかもしんねーってこと?」
「かもな。三途はムーチョを殺してはなかったかもしんねぇけど、まあ、それでも結城に殺されても文句は言えねぇだろ」
「は?なんで?」

連れてきていた部下に三途の遺体を引き上げさせて、二人はリビングの方へ戻る。この家には三途の他には誰もいなかった。家の主である結城はすでに行方をくらませていた。
竜胆は気だるげにソファに座ると兄の問いかけに答える。

「俺らで例えんならさあ、」
「んー?」
当然のように隣に座った蘭に顔を向けて竜胆を口を開いた。

「兄貴には俺以外に信用してる奴がいて、そいつが兄貴の付き人してんの」
「ありえねー」
「だから例え話だって。で、俺がいなくて、その付き人が兄貴といる時に兄貴がどっかの誰かにぶっ殺された」
「おー?」
「……って事になったら、俺だったらぜってぇその付き人を殺すね。何年掛かっても」
「ふーん」
「……兄貴、これ伝わってる?」
「竜胆が兄ちゃんのことだーい好きってことは伝わったわ。俺も愛してんぜ〜竜胆〜」
「兄ちゃんのそういうとこ、ほんと嫌い」
両腕を広げて抱きついてくる兄を腕で突っぱねながら竜胆は溜息を吐いた。蘭はヘラヘラと笑いながら言葉を続ける。

「つまりは殉死ってことだろ?」
「……兄ちゃん、そういう難しい言葉知ってんだ」
「おー?舐めてんなー?」




それからのことについて、特筆することは無い。

結城優希は翌朝、東京湾で浮いているのを海釣りに来ていた一般人に発見された。

遺体からアルコールが検出されたことから、泥酔した状態で誤って海に落下したのだろう、と警察は結論づけている。

彼女は『梵天』のナンバー2である三途を殺害した犯人ではある。
ただし『梵天』としても彼女自身が既に死亡していること、彼女に親類がいないこと、遺体が警察に渡っていることから無意味だと判断したのだろう、それ以上のことは何もしなかった。


ただ竜胆だけは、遺骨を受け取る人のいない結城が彼女の兄と同じ墓に入れるようにこっそりと根回しをした。

なんてことはない。ただの気紛れと同情だ。
竜胆が彼女の立場だったのならそうして欲しかったし、きっと彼女もそうして欲しかっただろうから。




(2022.2.13)