イエスタデイ・ワンス・モア

※夢主氏名固定




西からゆっくりとやってきた暗雲が街を飲み込んだ。
ぽつん、ぽつん、と間隔をあけて屋根の上に落ちてきた雨が、そう時を待たずしてざあっと川が流れるような水の群れの音へ変化する。
まるで部屋が水に飲み込まれたかのような音に、ふと意識が浮上した。重たい瞼を持ち上げて、目を開ける。薄くもやがかかったような視界。何度か瞬きを繰り返して、ようやく少し視界が鮮明になる。

気がつくと私は柔らかい温もりの中にいた。皮膚が鉛になったかのような気怠い重さを抱えたまま、心地よい微温さの布団の中から体を起き上がらせる。自分の体が重い。寝起きだからか、頭の中が酷くぼんやりとする。
半身を起こしたまま、周囲を見渡す。自分はベッドの上にいて、そのベッドの周りには病室のようにベッドだけを取り囲むようなカーテンがかかっていた。それをぼんやりと眺める。

「ここは、どこだろう」
思ったことをあえて口に出してみたが何の解決にもなりそうにない。
病院なのだろうか?少なくともこんな場所に見覚えはない。いや、覚えていないのはこの場所どころか、そもそも、

「わたしは、誰だろう」
それが一番の問題だった。
私は一体誰だろう。目を覚ました時、私の頭の中は空っぽになっていた。
名前も住所も家族も友人も神も仏もなにもかもが私の頭の中から出て行ってしまったようだ。ついでにいうと腹の中も空っぽ。締め付けるような腹部の痛みが私に空腹を教える。

何もない。今の私には何もなかった。
何もないというのは自由に似ていて、とても苦しい。

「……かっこいいことを言ってしまったな」
「誰がですか?」
「うぉわァお!」
「そんなに驚きます?」
いつの間にか、天蓋のようにベッドを囲っていたカーテンの隙間から一人の男の人がこちらに顔を出していた。その人は背が高く、がっしりとした体格の金髪の男性だ。彼はそのままカーテンの内側に入ってくると「目を覚ましたんですね。安心しました」とごく淡々とそんなことを言って、私がいるベッドのそばに置かれたパイプ椅子にギイィと音を立てて腰をかける。

安心した、と外側を見ただけの彼はそう思ったかもしれないが、私の内側は彼の見えないところで大きく変容してしまっている。

私は、私に声を掛けてきたこの人を知らない。
それを、この人に伝えるべきだろうか。

語りかけてくる言葉の中にある気安さから、この人が私の、つまり記憶を失う前の私と知り合いだったことは確実だろう。
知り合いから急に「あなたは誰ですか」なんて聞かれたらショックでは無かろうか。そうは言っても、このままダンマリを通すわけにも行くまい。よし、言うぞ。こういうのはさっさと言うに限る。

彼の顔を見つめたままなんて覚悟を決めた瞬間、男性は私を見つめ返しながら、ふっと糸が緩んだように微笑んだ。

「そうも見つめられると照れますね」
「エ、ア、すみません……」
「いえ、お気になさらず。私は貴女のことが大好きなので嬉しいです」
「へァ……」

いや無理無理無理無理!大好きって。ただの好きじゃなくて、大がつく好きだぞ。この顔、本当に私のことがものすごく好きって顔してる。エッ、もしかして私この人と恋人とか夫婦とかだった?このタイミングで「実は記憶が無くてあなたのことが誰かわからないんですよね、へへっ」とは言えな過ぎる。申し訳なさ過ぎて。

「あ、あのぉ……」
とはいえ、言わざるを得ない。こういうのって引き伸ばすと悪化する。記憶を無くしてることを隠しながら生活しないといけなくなるんだ。ドラマで見たもん。いや、見た記憶ないけど、ありそうだから適当に言っただけなんだけど。

雨音だけが聞こえる静かな部屋で私は腹を括って口を開く。

「あの!」
「はい、どうかしましたか?」
「私!実は!あなたのことを!」
「はい、私も貴女が好きです」
「あ、いえ、一世一代の告白ではなく」
「心から愛しています」
「愛の囁きでもなく」
実は意外と話を聞かない人だなこの人。一周回って怖い。
若干ビビりながらも、口を開く。

「あ、あのですね!私目を覚ますまでの記憶が無いみたいなんです。だからあなたのこともわからないです。ごめんなさい!」

何かを言われる隙も見せずに今度こそ一気に言い切る。
そうすれば、目の前の男性はこちらを見つめたまま固まった。大きく開いた瞳は揺れ、薄く開いた唇からは何の音も生まれない。そのわかりやすく驚いた表情に私はたまらなく後ろめたくなる。
……きっと、傷つけてしまっただろう。
私の意思では無いとはいえ、こんなにも私に好意を向けてくる人のことを忘れてしまったなんて。
もう一度、今度はゆっくりと「ごめんなさい」と口にする。

「……いえ、驚きましたが、そう、ですか。そうですね、貴女は強く頭を打ったと聞いていますから、きっとその時に、なのでしょうね」
「ええと、かもしれないです」
「目を覚まして知らない場所で知らない人間に話しかけられてさぞ不安だったでしょう。伝えてくれてありがとうございます」

……ああ、この人は良い人だ。自分もショックだっただろうに、こんなにも私のことを気遣ってくれるなんて。
彼は立ち上がると「家入さん、お医者様を呼んできますので待っていてください」と言って、カーテンの向こうへ戻ると、すぐに人を呼んできてくれた。

一度遠ざかった一人分の足音が、複数になって帰ってくる。聞き慣れない誰か達の声。それを雨音を聞くのと同じような心持ちで私は聞いていた。やがてカーテンの向こう側に感じる複数人の気配。

「ニコ、記憶ないってマジ?」
ガラーッと勢いよく全開に開けられたカーテン。先程の男性のものとは異なる声が私へ向けられた。思わず肩を震わせてそちらの方へ目をやると、黒ずくめの格好の上に目隠しをした銀髪の男性が視野が悪いだろうにも関わらず随分しっかりとした足取りで私のそばにやってきた。

「えっ、あ、ああ、はい、そうみたいです」
「やばー!ウケるー!」
「人の不幸にウケないでください」
知らない人にウケられたが、一緒にいた先程の金髪の男性がすぐに嗜めてくれた。が、銀髪の男性は相変わらず軽薄そうに笑ったまま「面白いから写真撮っていい?」と、許可を得る前に私に携帯を向けてきた。ので、なんとなくピースをする。
この目隠しの人が先程金髪の男性が言っていた家入さんというお医者様なのだろうか?とてもそうには見えないけれど。

「病人の前で騒ぐんじゃない、五条」
不意に落ち着いた女性の声が耳に届いた。そうして男性二人の後ろから白衣を着た女性が現れる。その服装からして、彼女こそが医者の家入さんなのだろう。目が合ったので、会釈をすると彼女はこちらを落ち着かせるような笑みを向けてくれた。

「まずはおはよう、ニコ。お前はもう一週間近く昏睡してたんだ」
「お、おはようございます。そうだったんですか」
「七海、って言っても今はわからないのか、こっちの金髪の方から話は聞いたんだが、記憶が無いんだって?」
「あっ、はい、そうです。すみません」
「ニコの過失じゃない。謝る必要はないよ」
そう言って彼女が差し出してくれた体温計を受け取って脇に挟む。すぐに鳴ったそれを家入さんに返すと「ん、熱は無いな」と確認してくれた。

「ほかに体に異変は?どこか痛いとか、吐き気とか」
「は、無いです。ただ記憶が無いだけ、みたいです」
「……そうか」
そう言って彼女が少し寂しそうな顔をしたから、私はなんだか申し訳ない気持ちになる。友人のような気安い話し方、距離の近さ、優しい表情。きっと私はこの女性とも知り合いだったのだろう。

「七海の言った通りだったな」
「ええ、彼女は私の婚約者だったことも覚えていないようです」
「……うエッ!?婚約者!?私が!?あなたの!?」
金髪の男性、七海さんの爆弾発言に思わず大きな声が出る。婚約者!フィアンセ!そりゃあ、私へ世間話レベルで愛を伝えてくるわけだ。
彼の発言から薄々親しい仲である気はしていたが、改めて告げられた言葉にびっくりしていると、今度は銀髪の五条が私のベッドの足元に腰掛けて拗ねるような顔つきのまま口を開いた。

「そっかあ。じゃあ僕の恋人だったことも覚えてないんだ」
「エッ!恋人!?エッ、さっきの婚約者ってのは、エッ?」
「つまり私のダーリンだったことも覚えてないんだな」
「ダーリン!?」
追撃するように家入さんまでそんなことを言い出した。
驚いて三人の顔を見るが、全員真面目な顔で言うものだからそれらが冗談なのか本当のことなのか全くわからなくなってしまう。混乱する頭のまま、私は手で額を抑える。
私は七海さんの婚約者で、五条さんの恋人で、家入さんのダーリン……?
さ、三股……?三股をかけていたのか?過去の私は……?

「あ、あの、待ってくださいね……えっと、私は誰の恋人なんですか?」
「私です」
「僕だよ」
「私だ」
「エッ?なにこれ、嘘つき村と正直村のクイズ?」
「私に囁いてくれた愛の言葉も忘れてしまったんですね……」
「僕にあんな幸せを教えてくれたのは君だったのに……」
「二人で過ごした情熱的な夜のことも覚えてないのか……」
「身に覚えのない罪悪感が私を襲う」
せめて三人が三人互いの発言を否定してくれればまだ考えようがあるのだが、全員お互いの発言を否定しないので本当に私が三股をかけていた疑惑が上がっていく。
ただただ最低ではないか、過去の私。
一体何をしているんだ、過去の私。

頭を抱える私に家入さんは言った。

「まあ、それは一旦置いておくぞ」
(置いていいの!?)
「覚えていないのは知人や自分のことだけか?一般常識的なものの記憶はあるか?」
「あ、えっと、はい。そうです」
先程の彼らの発言は物凄く気にはなるが、その話題を続けられても困るのは事実なので私も一旦置いておくことにした。
私は自分のもののようなそうではないような不思議な気持ちで自身の両手を見つめながら、家入さんの言葉にうなづく。

「本当に何もかもがわからないわけではないんです。体温計の使い方はわかりますし、箸を持てと言われたらきっと持てます。お金や命の価値、呪霊や術式のこともわかりますし、ジョジョに出てくるスタンドも全部言えます。わからないのは自分自身のことだとか家族だとか友人、皆さんのことばかりです」
「逆にジョジョはわかるの?僕らのことは覚えてないのに?」
「ジョジョ6部に出てくる白内障のスナイパーのスタンド名は?」
「マンハッタン・トランスファー」
「マジで覚えてるじゃん」
「6部序盤に倒される敵のことは覚えてるのに私たちのことは覚えてないんですか?」
「ちょっとニコ〜七海が泣いちゃったじゃ〜ん」
「泣いてませんが泣こうと思えば成人男性としてのプライドを投げ捨て貴女に縋り付いて号泣できるくらいにはショックを受けています」
「エッ、ごめんなさい……」
いやでもこれ私のせいか?

「ともかく、失われているのはエピソード記憶だけで、意味記憶は覚えているってことか。まあ、記憶喪失でも最悪の事態になってないだけマシだ」
「そう、ですか。その、私の記憶が戻る可能性はありますか?」
「もちろん」
家入さんは微笑むと私の髪を優しく撫でてくれた。

「案外些細なきっかけで思い出すものだよ。心配しなくていい」
「頭打って忘れたんでしょ?もっかい叩いてみる?」
「なるほど、任せてください」
「落ち着けバカ共」
焚き付けた五条さんと手を振り上げた七海さんが家入さんの一言で両断される。途端に七海さんがショックを受けた顔をした。

「五条さんと……同レベルにされた……?」
「何ショック受けてんだ七海。この僕と一緒にされたんだから光栄に思って咽び泣いて喜べよ」
「ショックのあまり咽び泣きそうです」
手を下ろした七海さんは辛そうな顔のまま何故か私の左手を取って、彼の両手で揉み込むようにニギニギした。よくわからないが振り解くような真似はせずされるがままにする。七海さんの手はあったかい。

「あの、ところでなんですが、ニコっていうのが私の名前なんですか?」
先ほどから彼らには度々「ニコ」と呼ばれ続けている。
これが本名ならちょっと変わっているな、と思っていると、私の手を握ったまま七海さんが「あだ名ですよ」と教えてくれた。

「あだ名でしたか。あ、皆さんからの好意にニコニコヘラヘラとイエスマンしているから「ニコ」ってことです?だからこんなふうに三股になっているってことですか?過去の私はクソ野郎だったんですね?」
「いえ、単に本名をもじっただけです。ちなみに貴女の本名は七海小鳥ですよ」
「いや、五条小鳥だよ」
「家入小鳥だからな」
「下の名前が小鳥で確定なのは理解しました」

名字は全然わからなかった。
彼らの発言をそのまま受け止めてしまうと三股どころか重婚してることになってしまう。それはいくらなんでも法律が許さないだろう。
というわけで、三人の発言は冗談半分に受け取ることにした。真実だったら怖いので現実逃避したとも言える。

私がそうやって現実逃避をしていると、閉まっていた病室の扉が軽くノックされた。コンコンコン、と三度鳴ってから「失礼しまーす」と年若い男性の声が薄い扉の向こうからする。

入ってきたのはこれまた黒ずくめの格好をした若い男性、いやむしろ青年と呼んでも良さそうな歳の人だった。彼は部屋に入るとすぐに七海さんたち三人に気がついて挨拶をし、それからベッドに起き上がっている私を見て目を丸くした。驚愕に見開かれる目に私もつられてびっくりする。

「エッ!ニコさん起きてる!」
「あ、はい、おはようございます」
「おはようございます!うわー!よかった!目ぇ覚ましたんスね!」
「おかげさまで」
黒いニット帽を被った青年はパタパタとこちらに寄ってくると嬉しそうに笑った。そんな元気のいい彼を見た家入さんが、彼に声をかける。

「猪野、良い知らせと悪い知らせがある」
「エッ、なんスか、怖。じゃあ、」
「まず良い知らせだが、見ての通りニコが起きた。健康状態は良好だ」
「あ、どっちが先とかは選ばせてはくれないんスね」
「それで悪い知らせだが、ニコが記憶を無くした」
「エッ!記憶喪失ってことですか!?」
「は、はい、ごめんなさい」
思わず謝ると彼は驚きつつも「いやニコさんのせいじゃないじゃないですって。謝んないでくださいよ」とそう言ってくれた。みんなそう言ってくれる。なんというか、みんなとても優しい。私は最低な浮気女(推定)だと言うのに……。

猪野、と呼ばれた青年は「困りましたね」と言いながらもベッドサイドのテーブルに見舞品らしき紙袋を置いて「あ、これお土産なんで、食べれそうなら是非」と朗らかに笑ってくれた。

「まあ、ニコさんが無事ならそれでよかったです」
「あ、ありがとうございます……えっと、もしかして四股目だったりします?」
「四股?」
「ああ、ううん、えっと、私に抱かれたり口説かれたりとかしてました……?」
「いやいやそんなそんな!」
「あ、そうなの?よかった……」
「一緒に式場見学に行ったくらいっスよ!」
「いやそれ四股だよ!!なにしてるんだ過去の私……!」
こんな若くて良い子にまで手を出していたのか私!式場見学ってもうそれ結婚済レベルの話ではないか。
再び頭を抱える私に四人は順に声をかけてくれる。

「あなたの知り合いで貴女の恋人じゃない人間を探す方が難しいと思いますよ」
「なんでェ……?」
「なんていうか、優しいって罪だよね」
「身に覚えのない罪悪感に押し潰されそうです……」
「みんな幸せだから良いんじゃないか?」
「良くないでしょう。良くないですよ」
「俺、ニコさんのそういうところも好きですよ?」
「ダメな女に引っかかってる……」
もしかして猪野くんも……?と思って、彼に「あの、私の本名わかりますか?」と問うと彼はキョトンとしてから答えてくれた。

「ああ!そっか、記憶無くしちゃったから自分の名前も覚えてないんスね」
「あ、うん、そうです」
「ニコさんは雉子谷小鳥サンっスよ。名字の最後の文字と名前の最初の文字くっつけてニコさんってあだ名ってこと」
名字が猪野ではない。つまり雉子谷が、

「私の本当の名字……!」
「あ、俺の名前は猪野琢磨です。ちなみに俺は将来猪野琢磨から雉子谷琢磨になる予定っス」
「婿入りィ!!!」
「貴女が望むのなら私だって雉子谷建人になりますけど。ちなみに得意料理は洋食全般です」
「雉子谷悟……ふーん?悪くないね。あ、僕の貯金額は11桁だからね」
「雉子谷硝子だ。100年先も愛を誓うからよろしく。あとニコの体を一番知っているのは私だから」
「怒涛の婿入りアピールやめてください。ありのままの皆さんが一番素敵ですよ本当マジで」
素敵です、と言った瞬間に全員満更でもない顔をするのはやめてほしい。本当に何をしたんだ、過去の私。

「相変わらずモテモテっスねぇ」
ベッドのそばでそう笑った猪野くんは雨の中やってきてくれたからか、その頬が少し濡れていた。それが目についた私は七海さんに握られていない右掌で彼の頬を撫でるようにしてその滴を拭う。

「ワッ!」
びっくりした様子で肩を揺らした猪野くん。
「あ、急に触ってごめんなさい。頬が濡れていたから心配になって」
「あ、いや、チョット、びっくりしただけっス」
「そう?ならよかった」
触れた彼の頬は想像していたよりずっと冷たかった。きっと外はずっと寒いのだろう。その寒い中を来てくれたのだろう。せめて少しでも温めてあげたいと彼の左頬に自分の右掌をそっと押し当てた。

「……猪野くんは土砂降りの中わざわざ来てくれたんですよね。今の私に君の記憶は無いんだけど、でもすごく嬉しいっていう今の気持ちは本当です。ありがとう」
「アッ、イヤ、そんな、全然。……あ、あの、その、」
「あ、やっぱり人に触られるの嫌でした?」
「いえ!さ、触ってもらえて、むしろ、嬉しい、デス……すごく……」
何故かしどろもどろになって俯く猪野くんに小首を傾げながらも「体冷やさないようにしてね」とだけ伝える。顔は見えないけれど、帽子と髪の隙間から見える耳がやけに赤い。やはりまだ外から来たばかりで寒いのだろうな。

ふ、と顔を上げると何故か猪野くん以外の三人に生温い目で見られていた。

「エッ、なんですか皆さんその目……」
「いえ、自分がかつてされたことを思い出しただけです」
「うんうん、ニコは無自覚にそういうことしちゃうタイプだよね」
「これだから人誑しは」
「エッ!?もしかして今のセクハラに当たります!?」
「大丈夫ですよ、猪野君ですし」
「大丈夫っしょ、琢磨だし」
「大丈夫だよ、猪野だから」
「不安!!」
「お、俺は大丈夫です……」
「ダメそう!!」
目が覚めて私は一体何度頭を抱えたのだろう。うううう……と呻きながら(軽々しく他人に触れるのはやめよう)と思った。


「失礼します」
と、新しい誰かの声がしたのはその時だった。
まさか五股目か!?と警戒する私に、病室へやってきた黒いスーツのどこか幸薄そうな男性は私に軽く会釈をすると私以外の方々へ声を掛けた。

「ええっと、皆さん任務のお時間がそろそろ……。家入さんも新しい患者さんがいらっしゃってます……」
「やだー!やだやだやだやだ!今日僕はずっーーとニコといるもんねー!」
私の足元にしがみついて駄々を捏ねる五条さん。何も言わないながら私の手をぎゅうと握ったままの七海さん。ベッドのそばから離れない家入さんと猪野くん。
そんな四人に私は苦笑した。
とてつもなく困った顔をする黒スーツの男性の援護になればと私は口を開く。

「あ、あの、お仕事を頑張る方って素敵ですよね」
「オーケー。僕最強だから。さっさと終わらせてニコのところに帰ってくるからね」
「なにか欲しいものはありますか?任務の帰りに買ってきます」
「少し離れるけど同じ建物にいるからいつでも呼んでくれ」
「俺スゲー頑張ってくるんで!また会いにきてもいいですか!」
「も、勿論です。それに皆さんが無事に帰ってきてくれればそれだけで十分ですよ」
呪言か?ってくらい効き目があってこわい。

四人は私の頭や頬を撫でたり手を振ったり優しい目で見つめたりしてから、少し名残惜しげに病室を出て行った。

途端に先程までの騒がしさは何だったのかというくらい静かになる部屋の中。たくさんの声に遮られていた雨音が私の鼓膜に帰ってくる。
怒涛の展開がやっと落ち着いて、思わず深く溜息を吐いた。

「大変でしたね……」
労るように声を掛けてくれたのは先程の黒スーツの方だった。彼は入れ替わりになるように私のベッドのそばにやってくると穏やかな微笑みを向けてくれた。

「先程メールで五条さんからニコさんが目覚めたことと記憶を無くしてらっしゃることを伺いました。いろいろなことがあって驚かれましたよね」
「あ、はい。たしかにびっくりしましたが、たくさんの方が来てくださって少し安心しました」
「それなら良かったです。あ、私の名前は伊地知と申します。伊地知潔高です。高専で補助監督として働いています」
「伊地知さん、ですね」
名前を呼ぶと彼は嬉しそうに笑ってくれた。
けれど何処か適度に距離のある態度に(お、この人は五股目ではないのでは?)と私は思った。私は別に周囲を誑かしたくはないのだ。というかみんな、私なぞに誑かされないで欲しい。

伊地知さんは持っていた紙袋を私に差し出すと「いくつか着替えと、起きている時間のお供になればとニコさんが好きだった小説や雑誌を持ってきました」と言った。

「え、ありがとうございます!」
「いいえ、少しでも記憶を取り戻すきっかけになればいいのですが」
「助かります!あ、そうだ。ちょっと話変わるんですけど、今日って何月何日ですか?」
家入さんからは一週間ほど昏睡していたと聞いていたが、そもそもいつからそうなったのかも覚えていないのだ。聞きそびれていたことを伊地知さんに問うと彼はすぐに答えてくれた。

「はい、今日は2018年の11月10日ですよ。ニコさんは2日から昏睡状態になってらしたので」
「わあ……そんなにも……」
「今日はもう夜なので明日から様々な検査と、低下した運動機能のリハビリなどが始まると思います。大変かとは思いますが、何かあったらすぐに家入さんや、頼りないかもしれませんが私はに言ってくださいね」
「頼りなくなんかないです。もう本当にありがとうございます」
伊地知さんの優しさが身に染みて、思わず両手を合わせて拝むと、彼は困ったようなけれど何処か嬉しそうな顔で笑ってくれた。

「それにしても、記憶が無くされたと言うのには驚きましたね」
「ですね。ご迷惑おかけします」
「いえいえ。ですが、そうですか……そっか……。では私に言ってくださったあの言葉も覚えてらっしゃらないんですね……」
「…………ン?」
伊地知さんの発言が気になって思わず彼を顔をまじまじと見ると、彼はどうしてか何かを思い出して照れたような恥ずかしそうな顔で頬を染めていた…………エッ。

「ご、」
「ご?」
「五股してるじゃん!やっぱり私!!!」















伊地知さんが退室した後、私は彼が持ってきてくれた紙袋の中を見た。そこにはいくつかの文庫本と雑誌。それから別の袋に包まれた新品の寝巻きがあった。寝巻きとは別に黒い袋があり、その中はブラトップなどの下着類。黒い袋には付箋が貼ってあってそこに「下着類は女性補助監督に買ってきていただいたものです」と書かれていた。
物凄く気を遣ってくれたんだなあと伊地知さんの優しさに頬が緩む。

時計を見るともう夜の時間だったが、今まで一週間も寝ていたわけで今はちっとも眠れない。せっかくだし、早速伊地知さんの好意を甘えて本でも読もうかと思い、紙袋から書籍を取り出そうとした時。

「ん、あれ?」
一枚の手紙が本の間に混ざっていることに気がついた。

白いシンプルな封筒を手に取って表裏を確認するが宛先も届先も書かれてはいない。伊地知さんからのものだろうか?と一瞬思ったが、彼は何も言っていなかった。
では紛れ込んだものだろうか?と思ったが、どちらにせよ一度中身を確認した方がいいだろう。
そう思って私は封のされていない封筒を開いて、中の便箋を取り出した。
そこにはどうしてか、記憶は無いはずなのにどうしてかやけに見慣れたような気がする筆跡が並んでいた。


『私へ』


その文字を見た瞬間、どうしてかわからないのだけれど、これは私が、雉子谷小鳥自身が書いたものだ、と直感的に思った。

きっと記憶を失う前の私が書いた手紙。
記憶を取り戻す手がかりになるかもしれないと思い、私は便箋を両手で持ってその手紙を読み始めた。






私へ

この手紙を読んでいる時、きっと私こと雉子谷小鳥は記憶を失っていることでしょう。
まずはそのことへ謝罪を。
これは私のわがままによるもので、あなたは、といってもあなたも私なんだけど、とにかく、あなたは被害者みたいなものです。私を好きなだけ恨んでください。

まず前提として、あなたが失った記憶はもう二度と戻りません。

普通人の記憶というものは忘れたとしても失われることはありません。いわば頭の中にある引き出しの鍵を無くしてしまったようなもので、運良く鍵が見つかればまた思い出すことができます。
ですが、あなたはそもそも引き出しの中にある記憶自体を奪われました。奪ったのは私です。だから、どんなに鍵を開けてももう無いんです。






「えぇ……」
早速容赦のない内容で戸惑ってしまう。
私は、過去の私に記憶を奪われてしまい、もう二度と記憶を思い出すことはない、だなんて、急に言われてもピンとこない。

けれど、多分本当のことなんだろう。
証拠もないのに、どうしてかそう確信してしまった。

記憶を無くしたことへの寂しさと戸惑いは少しあっても、恨みはない。
こんな手紙を残すくらいなんだから、きっと記憶を奪ったことにも何かしらの理由があるのだろう。
そしてそれはその先の文章に書かれているはずだ。

私は読み進めることにした。






私がこの手紙を書いているのは2018年11月2日。
全てが崩壊した10月31日から夜が2度明けました。
状況は依然悪化の一途を辿っています。私は、こんなにも自分が無力であると感じたことはありません。

あの日、私たちあらゆる術師たちが最善であると信じて選んできた選択の積み重ねがたった一つの悪意によって陵辱されました。私は多くを失い、傷つき、壊された。私が守ってきたもの、私が愛してきたもの、その多くは今はもう瓦礫の下です。

詳細を書くことはできませんが、ただそういうことがあったのだとあなたには知っていて欲しい。
それこそが私がこの蛮行を行う絶対の理由なのだ、と。





「10月31日……」
書き連ねられた文字を指で辿る。
手紙から何があったのかを知ることはできないが、何かがあったらしいことだけはわかった。

下らない冗談だと鼻で笑うことは容易くて、けれど、出来なかった。無意識に震える手が、早鐘のようになる鼓動が、私の言葉は事実なのだと他でもない私へ伝えてくる。





今のあなたが知っているかはわかりませんが、私の術式は『記憶の移動』です。
任意の相手の記憶を別の人間へ移動させることができるという、使い勝手の悪い力です。

この術式を発動した時、奪われた記憶は移動元の人間から失われます。
ここまで言えば察するかもしれません。

私は、私自身の記憶を別の人間へ移動させました。
だからあなたの記憶が無いのです。10月31日の絶望を知った私こそが移動元の人間なのです。

2018年11月2日の私は、自分が持っているエピソード記憶をすべて2006年3月31日の私へ移動させました。
過去の自分へ、自分が持っているすべての記憶を与えたのです。
この未来を改変するために。
この運命を捻じ曲げるために。

あなたになら、私の言葉の意味がわかるはずだ。
私は、2006年3月の私をこの先の未来を知っている人間に変質させたんです。
2006年の私だけがこれから先に起こることをすべて知っている。2006年の私だけが世界を一巡した状態にする。

私は運命を克服しなければならない。
この運命を克服することだけが、今の私の幸福であり、希望です。

けれど、私の選択は正しく無いのだと、他でもない私自身がわかっています。
全ての人間が最善であれと願ってきたあらゆる選択の積み重ねにやってきた今という現実を私は否定する。
それでも、せずにはいられない。
それこそが私がこの力を持って生まれた意味なのだと信じていたい。

私は運命を克服しなければならない。
例えそれが既存の世界に対する冒涜となろうとも。
私は私の望む世界のためになんでもすると覚悟をした。

もう何も失いたくないんです。
◼︎◼︎さんも、◼︎◼︎さんも、◼︎◼︎さんも、◼︎◼︎さんも、◼︎◼︎さんも、◼︎◼︎くんも、◼︎◼︎さんも、◼︎◼︎さんも、◼︎◼︎さんも、◼︎◼︎ちゃんも、◼︎◼︎たちも、誰も、こんな卑劣な悪意に苦しめられる世界でなければいいと思ってしまった。助けられる過去があるのならば助けたいと思ってしまった。私にはこの現実を変えられる可能性があるのだと知ってしまった。気がついてしまったからにはもう、見ぬふりはできなかった。

◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎。
誰も私を許さないでほしい。

この手紙を読んでいるあなたに罪はない。
記憶ごとすべての罪は私が引き受ける。
この現実を変えた先に、何もかもを失うとしても、私のこの行いを誰も知らないとしても、構わない。
私は私の独善でこの世界を私の理想の世界へ改変する。
その罪を、ここに告白する。

もしも私が私の理想のままに世界を変えられたのならば、きっとあなたのそばにはみんながいてくれるだろう。
記憶のないあなたにはわからないとしても、どうか彼らを愛し、守り続けてほしい。

それこそが私が望んだ未来なのだから。








手紙はそこまでで終わっていた。
一部乱雑に掻き消されて読めない部分はあったものの、書かれた文章だけで私は十分に理解する。
私ではない、過去の私の覚悟を。

あなたに何があったのかを私は知らない。
この先もずっと、永遠に。

それでも知っている。
今私がここにいる現実は、あなたが行った世界を作り変える行為の『最果ての今』なのだと。
2018年11月2日のあなたは、自分の全ての記憶を2006年3月31日のあなたへ受け渡し、受け渡されたあなたがこの世界を作り上げた。そうして今に至る。

それでも記憶を受け渡したという世界の事実は変わらないから、あなたは11月2日に記憶を失った。

そうして、今の私に成り果てた。
二度と記憶を取り戻すことのない、空っぽの私に。

「……これが、あなたの理想の世界だ」
私に会いにきてくれたみんなが私に好意を抱いていた理由もこれでなんとなく察しがつく。

2018年の記憶を得た2006年のあなたは、嬉しかったのだろう。まだ救える可能性のあるみんなと出会えたことが。まだ少しも傷ついていないみんながいることが。

だから彼らを心から愛した。何もよりも守ろうとした。
そんなあなたを見て、みんなもあなたを信じ、愛してくれた。
私はその結果だけを無闇に享受している。

「ばかな人」
みんなが愛したあなたはもうどこにもいない。
みんなを愛したあなたはもうどこにもいない。
あなたが愛したかったみんなはもう、あなたを知らない。
向けられる愛情はあなたが受け取るべきものだ。
この世界はあなたのための世界のなのに。


「本当に、ばかな人」
10月31日は過ぎた。
私が観測する限り、穏やかな世界。
嘆きも悲鳴も怒号も無い世界。
きっとあなたの言う「蛮行」こそが世界を救ったのだろう。

ベッドの上で酷く空しい心持ちになって、私は膝を抱える。
身に覚えのない世界を、人々を、それでも、愛し、守れとあなたは言うのか。

膝を抱えたまま、深く目を瞑る。

(……いや、それにしたって五股はやり過ぎだろ)
というか、五股どころでは無さそうなのだが。せめて両手の指には収まってほしい。

彼らを愛し、守る。それはいい。
過去のあなたが愛したものを今の私が守ることはやぶさかではない。
それはいいのだが、過去のあなたが積み重ねてきた人間関係の責任までもがすべて記憶のない今の私にいく。

「それは勘弁して……」
重婚は無理だ。法が許さない。とはいえ、事実婚はさほどメリットがない。責任を取るには不十分だろう。

どうしたものかな……と頭を抱えていた時、コンコンと病室の扉が唐突にノックされた。

「あ、はい、どうぞ!」
ノックの音に反射的にそう答えてから、私は持っていた手紙をサイドテーブルに置こうとして、

「……あれ?」
気がつくと私の手の中は空っぽになっていた。

……というより、私は今まで何を持っていたんだっけ?

抱えた膝の膨らみから滑り落ちるように、布団の上には伊地知さんが持ってきてくれた本や雑誌がある。私は本を、読もうとしていたはずで、だけど、なにかを、見つけて……あれ?

「入るね!」
「失礼するよ」
届いた声に思考は途切れる。
ハッと入り口の方を見ると、開いた扉から黒髪の男性が2人やってきたのが見えた。

「ニコ!目が覚めたって本当だったんだ!よかった!」
そう明るい声音で言った彼は、小走りで私のベッドに寄ると曖昧に空に浮かんでいた私の両手を、彼の両手で包むようにして握った。
高い体温の掌。生きている人の感触。
何も言えないままその人を見つめていると、彼とともにやってきた黒い長髪の男性が嗜めるような声を出した。

「こらこら。ニコは記憶も無くしてしまったって聞いただろう?急に近づかれたらびっくりしてしまうよ」
「そ、そうでした!ごめん、ニコ。えっと、僕のことも覚えてない、んだよね?」
そう言った寂しそうな声に胸は締め付けられるが、嘘をつくわけにもいかず「はい。ごめんなさい」とうなづく。

「でも、無事に目が覚めてよかった。君が昏睡したって聞いて理子ちゃんや黒井さんたちも心配してたよ」
「理子……ちゃん?」
「ああそっか、覚えてないんだったね。君の友人たちだよ。近々お見舞いに来るって」
「そうでしたか……」
過去の私、交友関係広かったんだな……。
しかし覚えていないのが心苦しい。
申し訳なさに眉を八の字にしていると、私の手を握った男性が穏やかに笑って「大丈夫だよ」と言った。

「一度仲良くなれたんだから、きっともう一度仲良くなれるよ」
「そう、だといいのですが……」
「大丈夫!」
彼は手を離すと「じゃあ、まずは僕たちから友達になり直そうよ!」と胸を張った。

その提案を聞いてキョトンとしていると、長髪の男性が口元を押さえながら「君らしいなぁ」とくすくすと楽しそうに笑った。
それを褒められたと思ったのか、提案をした彼は嬉しそうな顔をする。それから私に笑いかけた。

「はじめまして!僕は灰原雄!君ともう一度友達になりたいです!」
「ふふ、知り合いにこんなことを言うのは少し変な気もするけど、改めて。はじめまして。私は夏油傑。君の先輩だよ」

そう、自己紹介をしてくれた二人を見て、どうしてか、わからないけれど、私は酷く泣き出したくなるような気持ちになった。
差し出された灰原さんの掌を、取ろうとして、どうして、手が震える。

「……大丈夫?震えてるけど寒いの?」
問いかける声に私は首を振って、顔を上げた。そうして、灰原さんの掌を握り、優しい二人の顔を真っ直ぐに見つめる。

「はじめまして、灰原さん、夏油さん」

こんなにも泣き出しそうな気持ちになるのは、彼らの優しさが嬉しかったからなのだろうか。
きっと、それも理由の一つだ。

けれど、きっとそれだけじゃないと思った。
わからない。今の私にはその理由はわからないけれど。

「小鳥です。小鳥。私の名前は、……私の名前は雉子谷小鳥です」


胸の内から溢れるこの温かさは、確かに再会の喜びだったのだ。




(2021.4.17)