1




休日駅前での待ち合わせに苗字より後に来た挙句、待ち合わせ場所で知らない男に「お姉さん可愛いね、てか今ヒマ?遊ばね?」と話しかけられただけでなく勝手に手まで握られて半ギレになっている男嫌いの後輩を見た猪野の第一声がこれだった。

「うわ、すげー。俺ナンパって初めて見たわ」

都会ってすげーな、と宣う猪野に、当然のことながら苗字はキレた。知らない男の手を乱雑に振り払うと、彼女の彼女なりの精一杯のオシャレとして履いてきたハイヒールを鳴らして猪野に近づく。そうして苗字より幾分か背の高い彼をキッと強く睨んだ。

「何呑気なこと言ってるんですか?可愛い後輩が知らない男の毒牙にかかりそうだというのに他に言うことは無いんですか?っていうか来るの遅いんですけど。まず遅刻したことを私に謝ってください」
「いや今待ち合わせの30分前なんだけどな?」
「待ち合わせ1時間前に到着するのは常識なんですけど」
「早すぎんだろ。あっ、あー、なるほどな。そんなに俺とのデートが楽しみだったってことか。そーかそーか可愛い奴だな、ったく」
「は!?デートじゃないんですけどそうやってすぐに調子に乗るのやめてくれませんか仮に百歩譲ってデートだとしても遅れてくるあたり本当に最悪です打ちつけた額で地面に穴開くまで土下座してもらっていいですか!?」
「すげぇ厳しいじゃん。悪かったよ、ごめんって」
猪野は軽く謝ると苗字の手を取って「じゃ、行こーぜ」とさっさと歩き出す。さらりと手を取られた苗字は一瞬小動物のように固まって、けれどすぐに頬を赤くし少し俯いて、彼に手を引かれるがまま猪野の半歩後ろをついていった。

呪術師の家系に生まれ、女という性別だけで子供の頃から碌でもない扱いを受けてきた苗字にとって、男は敵だったし、そんな男に追従する女も敵だ。
そんな生活に耐えられず家出同然に高専に来た彼女は、年上の男が嫌いで、自分より背の高い男が嫌いで、よく喋る男が嫌いで、とにかく男が嫌いだった。
そんな苗字にとって一つ上の先輩である猪野は年上だし背は高いしよく喋るしで完全に役満と言ってもいい存在なのだが、高専一年の頃にちょっとしたきっかけでうっかり苗字は猪野に惚れてしまったのだ。

苗字のことを、女でも母体でも道具でもなくただの苗字として見てくれる猪野のことが、好きになった。
はじめての恋だった。

けれど、幼少期からの根深い男嫌いと、男に縋るような女には成りたくないという自立心などなど様々な気持ちが混じり合った結果、想い人にさえ過剰にツンケンしてしまうツンデレ系後輩が誕生してしまったのだった。

ちなみにそんな彼女の複雑過ぎる感情は、猪野には「遊びに誘ったら来てくれるくらいには懐かれている」程度にしか認識されていなかった。
彼女の恋心はツンデレの鎧によって、本命の彼にはちっとも伝わっていないのだった。

半歩後ろで手を引かれるがままの苗字に、猪野は自分の隣に並ぶように、と軽く彼女の手を引く。そうすれば素直に横に並ぶ後輩を猪野は横目で見た。
好きな人と手を繋げることが嬉しくて赤らんだ頬を隠そうとして少し俯き加減の後輩に、けれど彼は「苗字は呪術師家系の箱入り娘だから、外で知らない奴に急に話しかけられてびっくりしたんだろうな」と誤解した。

「なー、苗字」
「……なんですか」
「さっき、怖かったか?」
そっと顔を覗き込んでくる猪野に、苗字の心の中では「先輩が私のことを心配してくれた!」という喜びの気持ちと、「この程度で怖がるようなか弱い女だと思われてる……!」という反骨心が同時に生まれた。
そのどちらも正しく本心だったのだけれど、根深いのは後者の方だったものだから、苗字はほとんど反射的に
「は?舐めないでくれます?あんな人、私だけでいくらでも対処できましたから」
と素っ気ない声で吐き捨ててしまった。

「おー、そっか」
「当然です」
「ん、ならいいけどよ。でも、まあ、来るの遅れてごめんな」
そう言って宥めるように優しく笑いかけてくるものだから。苗字の心臓はぎゅうと痛みを覚えるほどに締め付けられた。

猪野は優しい。苗字のことを女だからと馬鹿にしないし、いじめないし、セクハラなんてしない。それどころか些細なことでさえ心配してくれるし、彼女の考えや意思を尊重してくれる。それは苗字にとっては世界がひっくり返るほどの衝撃。初めて無条件に苗字へ優しくしてくれた人が、彼だった。きっと、好きになったきっかけはそれ。

もしも優しくしてくれたのが違う人だったら、苗字はその違う人を好きになっていたのかもしれない。
それでも、事実として最初に苗字に優しくしてくれたのは猪野だった。
あなただけが、私に優しくしてくれた。
その事実は変わらないから。その事実だけを、苗字は恋と呼んでなによりも大切にすることにした。

いつかそれが現実の前で儚く破れるものだとしても。

「……今日のご飯」
「ん?」
「先輩が奢ってくれなきゃ、許しませんから」
呟くような甘える声に、猪野は嬉しそうに笑った。

「ったく、なんだよ、仕方ねーな!」
「なっ、ちょっと、やめてください!」
わしゃわしゃと苗字の髪を撫でる猪野に、苗字は口でこそそうは言ったけれど結局その程度で、後はされるがまま猪野が頭を撫でてくれる感触にただただ心臓を跳ねさせていた。
側から見れば完全に仲良しカップルなのだが、それに当事者2人だけが気がついていない。

すっかり放置されたナンパ男は仲良く去っていく2人をポカンと見つめるほかなかった。