03 知らないんでしょ?

「君は普段から立って寝るタイプなのか?」

唐突に慣れ親しんだ人の声が聞こえて、名前はハッと、いつのまにかどこか遠くに旅立っていた意識を取り戻した。いつしかすっかり夕暮れ。差し込む日の色がすっかり橙色に変わる頃。校舎2階の廊下で名前は教科書を抱えて立っていた。
気がつくと目の前にはこちらをやや呆れたような顔で見つめるジャミルの姿があって、名前は少しだけ目を開いて驚いた。

「……あれ、ジャミル先輩。どうしたんですか?」
「それはこっちのセリフだ」
「……えっと、」
「メドゥーサにでも会ったのか?こんなところにひとりで突っ立っているから、石にでもなったのかと思ったよ」
どこか皮肉げに口角を上げて彼はそう言った。
その時、吹きさらしの廊下に生ぬるい風が吹き込む。それによってジャミルの長く伸ばされた黒髪がさらさらと揺れた。フィルターをかけたみたいに少しだけ霞んだような視界。目を擦る。なんとなく夢見心地のような気分。

「……俺、寝てたのかな」
「だとしたら随分器用だな、君は。目を開けたまま、荷物を持ったまま、立ったまま、だなんてな」
それからジャミルは唐突に先輩らしい顔をして腕を組むと「放課後の校舎には長居しないほうがいい」と忠告した。
「どうしてですか?」
彼がそう語る理由に何の検討もつかず、名前は素直に問いかける。そうすればジャミルは出来の悪い弟にでも言い聞かせるように警告した。
「妖精やらゴーストやらが活発になるのが黄昏時以降だからさ。君みたいなぼんやりした奴はすぐに妖精に連れていかれるぞ」
「連れていかれるってどこに?」
名前が重ねて問いかけるがジャミルは「さあ?」と肩をすくめるばかりだった。
「だが、フェアリーガラで学んだだろう?妖精にこちら側の理屈なんて通じないんだ。遊び半分にめちゃくちゃにして、アフターケアなんて一切なしに勝手にいなくなる。そういうものなのさ」
わかったか?とこちらを見つめるその瞳に、ああ、doubtの連中みたいなものですね、と合点がいったように名前が言ったが、その例えはジャミルのほうには伝わらなかったらしい。少しだけ小首を傾げて、しかしこの話はそれまでだった。

「それで、名前はまだここに用があるのか?」
「いえ、もう寮に戻ります」
「そうか、なら同伴に預かろう」
そう言って並んで鏡の間へ向かおうとするジャミルに名前は軽く頭を下げて礼を言った。するとジャミルは何故かむしろギョッとしたような顔で名前を見た。
「……それは何に対する礼なんだ?」
「ええっと、先輩、俺のこと心配して一緒に帰ってくれるのかなって」
そう返せば、彼は苦々しい顔をして否定した。
「君はカリムほどではないにしろ随分物事を前向きに捉えるんだな。ああ、一応言っておくが褒め言葉ではないからな」
「褒め言葉かと思いました」
「幸せな奴だな、君も」
ジャミルの「君も」という言葉の当てに見当がついて、名前は少しだけ笑う。その瞬間、監督生の脳裏にはこの世界で一等愛おしい人の顔が浮かんだから。ジャミルはうっかりその笑みを見てしまい、苛立ちに似た感情が自身の胸に生まれるのを感じた。

こんな下らないことで嬉しそうな顔をするな。
どうして、お前は、お前たちは、いつもいつも、そうやって…………。

眉間に眉を寄せるジャミルの海馬、その神経から一つの記憶が蘇って、それが余計に彼を追い詰めた。

(『……あの人だけが俺を、』)
フラッシュバックのように想起された記憶。それを振り払う。……嗚呼、本当、嫌になる。

「ジャミル先輩」
階段を降りている途中、不意に名前に呼びかけられて深く思考の海に沈んでいたジャミルの意識が浮上する。呼びかけられたことへの微かな驚きはあるものの、それをおくびにも出さないで「どうした」と常のような声音を吐き出した。
「実は先輩のお力を借りたいんです」
「……まあ、話くらいは聞こうか」
そう返せば、名前の頬が緩んだ。それだけでもう全てが解決したみたいに。

「勉強を教えていただきたくて」
「なんだ、何をふっかけられるかと思えばそんなことか」
「俺にとっては重大なことですよ」
「違いない。それでどこか苦手なんだ」
「はい、実は九九がわからなくて」
「ああ、九九か……………は?」
九九。九九?……九九とはつまり、1の桁と1の桁の掛け算の九九、のこと、だろうか?いや、そんなまさか、ここはナイトレイブンカレッジ。ツイステッドワンダーランド随一の名門校だ、そんなエレメンタリースクールレベルのことに躓くような人間がいるわけが……。

絶句したジャミルを見て、名前は困ったような顔で謝罪した。
「すみません」
「それは、どういう謝罪なんだ?さっきのはジョークだったという意味か?」
「いえ、ジョークじゃないことに対しての謝罪です」
「なるほど……」
「あの、こんなことを聞くのも変かもしれませんが、九九ができないって、そんなにヤバイんですか?」
「これは俺の意見ではなく一般論として聞いてほしいんだが、普通にヤバイぞ」
そう返せば名前はしみじみと「そっか、これはヤバイのか……」と呟く。ジャミルはその言葉だけで彼がこれまで、それがヤバくない環境にいたことを察して、思わず追撃しようとしていた口を噤む。噤んでから、一呼吸置いて、そっと問いかける。

「その、一応聞くが、これまでの授業はどうしていたんだ?」
「モノを覚えるのはできるんです。痺れ薬を作るのに必要なのが無花果兎の血、エレメージェーバイトの粉末、ランタン蝶の鱗粉だということは覚えられる。でも、材料を2:3の割合で混ぜろとか、4倍に増やせとか言われると、わからなくなる。……そんな感じです」
計算が必要な授業は大概グループ作業だったので、今までは割と周りに助けてもらえていたんですけど、ついにクルーウェル先生にバレまして、と名前は眉を下げた。
「……叱られたか」
「いえ、怖いくらいに優しくされました」
「それは……怖いな」

ちなみに本当に怖かったのはクルーウェルの方だった。冗談だろうと思い「6×8は?」と問いかけたところ「………………56?」と真顔で回答された時、クルーウェルは未知の生物を見る顔をしたかと思うと、それからすぐに捨てられて薄汚れてしまった仔犬を見る目をして名前に言った。
「周りに誰か頼りにできる先輩はいるか?」と。
本当ならばクルーウェル付きっきりでこの毛並みの悪い仔犬の世話をしてやりたかったのだが、複数のクラス、複数の授業を掛け持つ多忙な教師には週末に名前のためだけに小テストをしてやるくらいしか時間が割けなかったのだ。

「そういうわけで、ジャミル先輩、助けてくれませんか」
少しだけ眉を下げてそんなことを頼む名前。

……知ったことかとその手を振り払うのは容易かった。

それでもジャミルはこの学園でおそらく唯一、名前が決して良くはない家庭環境で育ってきたらしいことに気がついている人間だ。
前々から勘付いてはいたのだ。家族や故郷に対する情や執着のなさ、暴力を振るうことにも振るわれることにも慣れている様子、異常なまでの痛みへの我慢強さ。そして今回知った基礎的な教育の不足が決定打だった。
……生まれは仕方のないことだ。親や家は選べない。生まれ落ちた以上、その枠組みの中で生きていくしかない。生きていくしかないのだ、名前もジャミルも。せめて生きていく中で少しでも自分の自由を勝ち取るしかない。
誰もが生まれながらに持っているものを、血の滲むような努力の末に手にしていくしかない人間もいる。

……つまるところこれはただの哀憐であり、同情だ。

「勿論だよ、名前。君の力になろう」
「ありがとうございます。……本当に」
「別に気にしなくていい。君はカリムの恋人だろう?そんな立場の人間が掛け算もできないとなると面目が保てないだけ。ただのこちらの都合だよ」
前を向いてさっさと歩き出し、素っ気なくそんなことを言うジャミルに名前は静かに小さく微笑んだ。

やがて鏡の間に辿り着いた頃、ふと思い出したようにジャミルは隣に立つ名前を見て問いかけた。
「……君はどうして俺に頼ったんだ?」
「それは勉強のことですか?」
「ああ、君なら頼ろうと思えばリドルでもあのアズールでも、頼りになる先輩はいくらでもいただろう?」
その中でどうして、自分を選んだのか。

名前にそれを問いかけてから、ジャミルは内心、こんなこと聞くんじゃなかったと後悔をする。……どうしてそんなことを聞きたいと思ったのだろう。
これでは、まるで「ジャミル先輩が一番頼りになるからです」と言って欲しいみたいじゃないか。

名前はジャミルの言葉に少しだけ目を丸くして、それから穏やかな顔で口を開いた。

「だって、」
だって、

「ジャミル先輩が、」
ジャミル先輩が、

「一番、」
一番、

「馬鹿にしないと思ったから」
頼りになると、………………あ、あ、あああ、あ。


名前はいつものような穏やかな顔つきで言葉を続けた。
「先輩は優しいから俺がどんなに馬鹿で九九ができなくてもそれを理由に笑ったり馬鹿にしないだろうなって、だからジャミル先輩に頼ろうって思ったんです。事実そうでした。ジャミル先輩は笑わなかったし、教えてくれると言ってくれた。だから、本当にありがとうございます。俺は、それがすごく嬉しかった」

………………空白。

「……なんだ、そんなことか。そんなことを気にする必要はない。自分に何が出来ないかを把握するのが勉強の第一歩だからな」
「そう言ってもらえるとありがたいです」
「ふん、別に大したことじゃない。……それじゃあ、明日の放課後にでもスカラビアまで来てくれ」
「はい、ありがとうございます、ジャミル先輩。それでは」
「ああ、それじゃあ」
そう言って、鏡を通り抜けてオンボロ寮へ帰っていく名前の後ろ姿を見送って、その姿が鏡の中に消えていった瞬間、ジャミルが貼り付けていた「いつも通り」の笑みは溶けるように剥がれ落ちていく。その下には表情の抜け落ちた伽藍堂の顔があった。

「……馬鹿だな」
吐き出された声は空虚だった。馬鹿だな、本当に、馬鹿だよ、お前は。「ジャミル先輩は馬鹿にしないから」だなんて、あんな顔で微笑んで、助けを求めて、嗚呼、あいつは本当に愚かだ。
「ジャミル先輩は馬鹿にしない」だって?

馬鹿にしてるに決まってるだろう。

俺は内心でずっとお前のことを馬鹿にしていたんだ。その愚かしさを、魔法を使えないことを、出生の悪さを、真っ当な教育も受けられなかった幼少期の環境を、馬鹿にして哀れんでいた。彼を見て、変えようのない彼の惨めな過去を思って、嗚呼、自分のほうがよっぽどマシだったんだなと酷く安堵していた。君が愚かでどうしようもなく可哀想なことに勝手に救われていたんだ。そう思っていることを言葉や態度に出さないだけ。ただ、それだけ。

それを君は優しさだと呼ぶのか?

「……は、ははっ、はは」

……そんな奴が、一瞬でも君にとっての一番になりたいと思ったなんて、言えるはずもないのに。


誰もいない息苦しいほどの静寂に満ちた鏡の間でジャミルはひとり立ち尽くす。そんなはずはないのに誰かに置いていかれたような、或いは何もかもを失ったような気持ちになるのは何故だろう。

不意にジャミルはほんの数十分前、名前にユニーク魔法をかけた時のことを思い返した。監督生と鏡の間に向かう前。立ったまま寝ているのか、と彼を揶揄うほんの少し前のこと。

それは計画的なものではなかった。たまたま偶然、人のいない夕暮れの校舎で名前と会った。ただそれだけ。
本来ならばもっと早くにしておくべきだった従者としての仕事を今の今まで後回しにしていた理由からは目を瞑って、毒蛇は慣れたように彼の意識を肉体の外へ誘う。

監督生の夜の闇のような瞳が夕陽より濃い赤に変化したのを確認して、ジャミルはさてと顎に手を当てて何から問いかけるべきか考える。
この人畜無害そうな後輩は戸籍こそあるものの、しかしどれだけ調べても彼がこれまで何処にいたのかも、過去の人間関係もちっとも見当たらないのだ。まるで唐突にこの世界にやってきたみたいに。

明らかに不審で、警戒に値する人間。ジャミルはずっと彼が怪しいと知っていた。そんな人間が主人の心に入り込んだことを知っていた。どうして、そんな人物を早くに調べようとしなかったのか。
「……従者失格だな」
呟いたジャミルに、操られた名前は何の反応もしなかった。お人形のように自由自在に操れるというのに、ジャミルが能動的に操らなければ反応がないというのもそれはそれでつまらない。

「さて、まずは……そうだな、名前、君はカリムを狙った刺客なのか?」
問いかければ彼は虚ろな目で真実を答える。
「いいえ、違います」
「……まあ、それもそうか。君が本当に刺客ならとっくに行動に移してるはずだからな。つまりカリムやアジーム家への殺意や敵意もないんだな?」
「はい、ありません」
ジャミルはうなづいて次の質問を繰り出す。次は、一応身元の確認でも行うべきか。
「君のファーストネームは?」
「名前」
「次にファミリーネーム」
「苗字」
「名前 = 苗字。珍しいファミリーネームではあるが、これも戸籍通りだな」
どうにも経歴は怪しいが、そこに嘘はないようだ。どうにもちぐはぐ。しかし、どうしてかこの監督生相手なら納得ができた。この後輩は暴力を躊躇わない割には理性的で、学がないくせにやけに聡明と、変にバランスの悪いところがあるのだ。
「出身は?」
「鬼邪地区」
聞いたことのない地名に眉が寄る。
「……後で調べておこう」
自分は知らないのに名前が知っていることがあることが妙に不愉快だった。

それからジャミルは彼にいくつか質問をした。他者に感染するような病は抱えていないか。誰かに脅されてカリムやアジーム家に害するよう命じられていないか、等々。
……しかしなんと言うべきか、
「つまらないほど何もないな」
敵意も悪意も不安要素もない。良いことではあるが、これではわざわざユニーク魔法を使った甲斐がない。しかしこれ以上はもう大した話は聞き出せそうにもなかった。

息をつく。少し考えて、それ以上聞くことがないと判断すると、やがてジャミルは自身の好奇心に任せて口を開いた。
「……君はカリムのどこを好きになったんだ?」
下世話な話だとわかっていたが、何かを得たという納得が欲しかった。それができないのなら、きっと吐き出されるだろう花畑みたいな言葉を嗤って、それで満足したかったのだ。ああ、結局恋愛なんてこんなもんか、と。……なのに。

「……カリム先輩は、」
「ああ」
「抱きしめてくれました。頭を撫でてくれました。それが嬉しかったんです」
「…………は?」
想定外の言葉に目を開く。抱きしめられた?撫でられた?それだけのことがなんだというのだろう。カリムという奴は普段から誰彼構わずそんなことをする奴だ。それが一体なんだというのだろう。
「それは記憶にある限り、俺の人生で初めてのことだったから。だから好きになりました」
名前はそう言って、それだけ言って、口を噤んだ。
ジャミルはそれに呆気にとられたような顔をする。

人生で初めて抱きしめて、撫でてくれた。

……それだけ?ただそれだけのことで?

一番最初に優しくしてくれたから。たったそれだけのことで、それだけのことが好意に変化するのなら、そんなの、つまるところ、言ってしまえば、

「……なんだ、誰でもよかったんじゃないか」
吐き出した声はジャミル自身でさえも驚くほど恐ろしく冷たかった。

名前の人生においてそうしてくれたのがたまたまカリムだったから好きになっただけで、もしほんの少しなにかが違っていたら彼はカリムじゃない、たまたま偶然優しくしてくれた誰かを好きになったのだろう。「初めて抱きしめてくれた。撫でてくれた」なんて、そんな理由で。

それを理解した途端、つまらないと思った。
愛だの恋だの、そんなもの初めから下らないものだと思っていたがやはりその程度だ。

だって、もしもほんの少しだけ運命が違っていたのなら、君はカリムではなく俺のことを好きになっていたかもしれないということだろう?

思考はそこに至り、失意、失望、幻滅、そんな感情が湧き出して、ジャミルの胸の内を黒く染めていく。何故自分がこんなにも苛立っているのかについては目を逸らしたまま、ジャミルは苛烈になる感情を隠さずに言葉を吐き捨てた。

「つまるところ、君は人ではなく行為を好きになっただけだ。結局のところカリムじゃなくたってよかったんだろう?優しくしてくれるなら君は誰だってよかったんだ」
嘲るような声がジャミルの喉から生まれる。

何もかもが馬鹿らしい。結局その程度だった名前も、カリムと名前の間にある感情になんらかの、例えるのならば尊いと呼べる何かがあるのかもしれないと勝手に期待をしていた自分も、全てが馬鹿らしい。

もう、いい。どうでもいい。
そう思って振り払うようにユニーク魔法を解除しようとした、その時、名前が口を開いた。

「……それでも、あの人だけです。あの人だけが俺を大切にしてくれました」
「……それがなんだ」
「どれだけ仮定の話をしても無意味です。だってそれは起こらなかったことだから。例え、俺が他の誰かを好きになる可能性があったとしても、それでも今の俺が好きになったのはカリム先輩だけです」
名前の唇は誰に操られているわけではなかった。ただ彼が彼自身の心に内包する事実をこの世界に露見していくだけ。それだけのことが、しかし相対するジャミルから言葉を失わせていく。

「この世界の誰でもなく、カリム先輩だけが俺を抱きしめてくれた。何があってもその事実は変わらないから」

ユニーク魔法にかかった名前はただ本心を語っているだけなのだとわかっている。けれど、それでもジャミルは操っているはずの人形から酷く拒絶されたような気分になった。

……別にジャミルは名前が好きなわけじゃない。
カリムから奪いたいわけでも、壊してしまいたいわけでもない。
ただ、カリムの大好きなおもちゃが自分のものだったらどんな気分なのだろうかと、ほんの少し想像しただけ。もしもなにかが違っていたら、このおもちゃは自分のものだったのかもしれないのだ、とそんなことを考えてしまった、それだけ。ただそれだけ。それだけ、だけれど。
まさかおもちゃのほうからこうも拒絶されるとは思いもしなかった。

しかし考えてみれば当たり前のことで、仮定の話なんていくらしたところでもうターニングポイントはとっくの昔に過ぎ去っているのだ。名前の心の柔らかいところに触れたのは結局のところカリムが最初。先着一名様の席にはカリムが座って、その席は永遠にカリムのものだけになってしまった。
名前は初めからずっとそこにいた。そこにいたけれど、カリム以外の誰ひとりとして名前を抱きしめたり撫でたりなんかしなかった。言ってしまえばそれが答えだ。きっと記憶のないまま時を遡れば同じ現在に辿り着く。

例え、今ジャミルが目の前にいる名前を大切に抱きしめて、優しく撫でてやっても、現実は何一つして変わらない。
……今はなんだかそれが無性に惜しい気がした。

だからジャミルは有り得ない仮定を頭の中で想像してみる。
愛おしそうにジャミルに笑いかけて、名前を呼んで、自分の腕の中で幸せそうに目を瞑る彼のことを。
一緒に厨房で並んで、たまの休みに手を繋いでどこかに出かける、そんなありふれた幸福を。
それは例えるのならば、子供の人形遊びのように。

「……もしも、何かがほんの少しでも違っていたら、俺は君の一番になれていたのかな」
そんな「もしも」はもう永遠にやってはこないけれど。
所詮、すべては無意味な仮定の話だ。

廊下を染める夕日の角度が深くなっていく。黄昏時のひと気の少ない校舎はあまり長居する場所ではない。
ジャミルは深く目を瞑り、息を吐く。それから再び目を開ければ、いつも通りのジャミル・バイパーの姿だ。
彼は名前にかけていたユニーク魔法を解除すると、それと同時に口を開いた。


「君は普段から立って寝るタイプなのか?」


(2020.08.18)