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開いた教室の窓から吹き込んだ風に窓際のカーテンが揺れる。よく晴れた空から降り注ぐ陽の光がそのまま教室に入り込んで、電気をつけなくても十分に明るかった。

机を挟んだ向かい側に苗字はいた。染めていないそのままの黒髪が入り込んだ風に吹かれてさらさらと波を打つ穏やかな昼。

「先輩」
携帯を弄ったまま苗字はいつも通りの呼び方で猪野を呼んだ。呼ばれた彼は読んでいた漫画雑誌から顔を上げて彼女を見る。けれど、相変わらず携帯に目を落としたままの彼女とは目が合わない。

「チョコ食べます?」
右手で携帯を弄る苗字が、左手で机の上に置いていたファミリーパックの袋からチョコレート菓子を一つ摘むとそれをそのまま猪野の方へ伸ばした。断る理由もなくて、猪野は「もらう」と答えて彼女の指の下に掌を出す。そうすればポトリ、と包装紙に包まれたチョコが猪野の掌に落ちてきた。

「あんがと」
「3倍返しですから」
「バレンタインかよ」
「は!?誰も先輩に愛の告白とかしてないんですけど!?!?」
「されてねーし、そこまでは言ってねぇって」
急に携帯から目を離して大声を上げてこちらを睨んでくる苗字に猪野は苦笑した。
へんなところで堅物なこの後輩は、猪野がちょっと色恋沙汰じみたことを言うと過剰に反応するところがある。顔を真っ赤にしてこちらを見る彼女の視線を受け止めて見つめ返すと、途端にやけに動揺した顔をして、それからプイッとそっぽをむかれた。
最近は懐かれてきたと思ってたんだけどな、と思いながら猪野は受け取ったチョコの包み紙を開いた。


高専二年生の猪野には後輩がいる。
それが一つ下の苗字名前だった。

苗字は呪術師家系の生まれらしいのだが、古くて閉鎖的な家特有のカビの生えた男尊女卑の価値観に耐えられず、家出同然の形で高専に入学してきたそうだ。

出会った当初は自分の周囲はすべて敵とでも思っていそうなほど刺々しい態度で触れるもの全てを傷つけていたのだが、半年もするとその態度も段々と軟化していった。
高専の教師も補助監督も生徒たちも、その多くが自分を害する人間ではないと気がついたのだろう。
今も時折人間に虐められて育った野良猫のような顔はするけれど、以前ほど片っ端から爪を出すようなことは無くなった。

そんな彼女と一番長く交流しているのが猪野だった。

というのも、苗字の学年は入学者が彼女1人だけ。
そうして猪野の学年も、昨年まではもう1人いたのだが、一般家庭出身だったその同期は呪術師が直面する様々な現実に耐えられず精神を病んで学校を去ったために、今は猪野1人だけ。

苗字の学年は1人。
猪野の学年も1人。

そうなるとただでさえ少ない教員が教室に1人しかいない生徒に対してバラバラに授業をするのも馬鹿らしくなったらしい。座学も体術の授業も、一年と二年が合同で行うようになった。
苗字は元から頭が良かったのか、案外あっさりと二年の座学にも付いてきたし、体術の授業でもまだまだ弱っちいながら猪野に負けん気いっぱいに食いついてきた。

猪野も元々世話好きな質であるし、人が好きだ。
まして初めて出来た呪術師の後輩。先輩風を吹かせたくなるのも当然だったから、それはもう存分に吹かせた。
苗字に報告書の書き方を教えたのも、補助監督への連絡の仕方を教えたのも、食堂のおすすめメニューを教えたのも、スタバのカスタマイズを教えたのも全部猪野だ。

入学当初こそ猪野に威嚇してきた苗字も、時間が経つにつれて柔らかい表情を見せるようになってきた。
最初なんて猪野のことを無視して挨拶さえ碌にしなかったのに、最近では彼のところまでわざわざやってきて「おはようございます、先輩」なんて言うのだから、まァそりゃ可愛い。
たまに猪野が寝坊して遅刻ギリギリに教室に駆け込んで来れば、なんとも得意げな顔で「また遅刻ですか。先輩は私の先輩なんですからもっと先輩らしくしてください」なんて減らず口を叩く。
全然可愛くなくて、とっても可愛い後輩だ。

さて、そんな苗字だが、何故か猪野のことだけを「先輩」と呼ぶ。猪野の上の学年にも学生はいるのだが、彼らのことは名字にさん付けだ。
先輩と呼ばれるのはどうしてか猪野だけ。

「苗字さあ」
「なんですか」
「思ってたんだけど、なんで俺だけ先輩呼びなわけ?」
そう問いかけると彼女は猪野を真正面から見つめて眉間に皺を寄せた。表現するのならば「何言ってんだコイツ」といったような顔だった。

「だって先輩は先輩じゃないですか」
「上の学年も先輩だろ?」
「上の学年の方々も先輩ですけど、先輩とは呼ばないだけです」
「……あー、つまりどういうこと?」
猪野が首を傾げると、苗字は少し頬を赤くして「だって……」と小さく呟くみたいな声を出した。

「後輩に先輩って呼ばれるのは、嬉しいものなんじゃないですか?」
「……どこ情報?それ」
「インターネットです」
ネットの情報に踊らされてる、と反射的に猪野は思った。
高専に来るまで家からは碌に出たことのない箱入り娘の苗字だ。まして同性の友人などいない彼女は、ネット上の謎情報を真実だと思ってその通りにしたらしい。
変な顔をする猪野の様子に不安を感じたのか、苗字は戸惑いがちに「……違うんですか?」と問いかけてくる。

違う、というのは容易かったが、それは彼女なりに猪野に喜んで欲しいと思ってしたらしい行動なのだ。それを否定してしまうのは少し違うだろう、と猪野は思った。
まあ、先輩と呼ばれて悪い気はしなかったのは事実であるし。

「いや、まあ、なんつーか、俺は嬉しいけど」
「……!でしょう!」
途端に自信満々にうなづく苗字に猪野はこういうところが憎めないのだ、と再認識する。

「嬉しいけど、それってつまり苗字は俺に喜んで欲しかったつーこと?」
どうやら彼女なりの親愛の証らしいと気がついてそう問えば、途端に苗字は「はぁ!?!?」と大声を上げた。

「な、何言ってるんですか急に誰も別にそんなこと言ってないんですけどそうやってすぐ勘違いして調子に乗るのやめてくれませんか先輩本当そういうところ直した方がいいと思いますけど本当違いますから」
「うおっ、すげえ否定するじゃん。違ぇの?」
「ちがっ……く、なく、もないですけど……」
段々と語尾が小さくなっていく苗字。おろおろと視線を彷徨わせる様子に困らせてしまったらしいことを知る。

結局よくわからなかったけれど、どうやら悪い意味で先輩と呼んでいるわけではなさそうで猪野は少し安心した。
苗字は普段から猪野にツンツンした態度ばかり取るものだから、可能性の一つとして「名前で呼びたくないほど嫌われている」のかもしれないとちょっとだけ思っていたのだ。

「とにかく!先輩は私の先輩だから先輩って呼んでるだけです!」
「おー。おー?」
兎にも角にもよくわからないが、苗字がそうしたいのならば止める理由もない。

「じゃあ、まあ、これからもよろしくな」
「はい、よろしくお願いしますね、先輩」
猪野がそう言えば、珍しく、彼女にしては非常に珍しく頬を緩めて微笑んだので、猪野もちょっとだけその笑顔に見惚れた。

いつもそうやって笑ってりゃあ可愛いのに。
思ったけれど、それは言わなかった。

高専に来るまで、苗字はきっと碌に笑うことさえできない場所で生きてきた子だから、今ここでくらい笑いたい時に笑って、泣きたい時に泣けばいい。
そう思う気持ちの方が上回ったから。


「ところで先輩」
「なんだよ」
「早くジャンプ読み終えてください。私が読む前に昼休み終わっちゃうんですけど」
「お前なあ、誰が毎週買ってきてやってると思ってんだよ……」
「先輩ですね」
「こんにゃろ……」
午後の体術の授業では覚えてろよ、と猪野は思った。