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男の人が嫌いだった。
いつだって私のことをいじめるのは彼らだったから。

私が女だから、子供だからとカテゴライズして、その未熟さを当然のように否定する。至らない私の姿を見下ろして嗤う人たち。それらは男で、大抵年上で、小柄な私より大きくて、上手く気持ちを言語化できない私にナイフのような言葉で責め立てる。だから嫌い。大嫌い。
嫌い。年上なんて、背が高い人なんて、よく喋る人なんて、男なんて。

けれど、いつからだろう。
そうやって彼らと同じように他人を勝手にカテゴライズしてしまっていたのは。







高専にやってきた初日、一つ上の先輩だと紹介されたその人は私が嫌いなものをすべて詰め込んだような人だった。
夕暮れの高専の廊下、教師である五条悟によって紹介された男が私の前に立つ。五条悟もその男も、どちらを背が高くて、私は彼らを見上げるしかない。それが腹立たしくて仕方なかった。

「おおー!俺もついに先輩かあ!あ、俺は二年の猪野。なんかあったらいつでも頼れよな。えーっと、苗字、だっけか」
そう言って嬉しそうに私に笑みを向けた人。
年上で背が高くてよく喋るその男の人から差し出された掌。握り返されると当然のように思っているその手を、私はバチンと叩くように振り払った。

「気安く話しかけないでください。私はあなたなんかを頼る気なんてありませんから」
自分より大きな掌があっさりと弾かれるのを見た。拒絶されるなんて思ってもみなかったのだろう、ポカンとした顔で手を弾いた私を見つめるその人に背を向けて、私はさっさと荷物を持って寮へ向かう。

私たちを引き合わせた五条悟が「あちゃー」とわざとらしい声を出すのを背中で聞きながら、私はずっと身を硬くしていた。

古い術師の家系の家に生まれて、女であるというだけでずっと尊厳を傷つけられながら生きてきた。呼吸をしているだけで否定されるような場所から逃げるように高専に来たけれど、高専に出入りする人間もその多くは術師家系の人間だ。きっと場所が変わっただけ。ここにもきっと私を否定する人間はいるのだ。

他者に傷つけられたくなければ、すべてを拒絶するしか無い。

ほんの少しでも他人を受け入れてしまえば、あとは飲み込まれるだけ。そうしてやってくるのは痛みと苦しみ。そんなことわかっている。もう同じ轍は踏まない。

あの最低な家を出て、私は1人で生きていくと決めたのだ。
誰にも頼らない。誰にも追従しない。私はあの家の人間とは違う。私はあの家を出て、術師になって、ようやく私の人生を取り戻すんだ。


「よっ!苗字」
「…………」
私に手を振り払われたその人は、けれどそんなこと無かったみたいに私を追いかけてきては気安く話しかけてきた。
「苗字、高専の中全然知らねぇだろ?後で案内してやるよ」
「…………」
「ここすげぇ広いんだよ。俺も入学したばっかの時は何回も迷ってさあ」
「…………」
「東京ドーム何個分?って感じ。そのくせ設備とか結構古くてさ」
「…………」
「自販の種類もすげぇ少ねぇし、」
「なんなんですか、あなた」

廊下を歩く私の隣をぴったりとついてきては好き勝手に話し出すその男を私は睨んだ。関わるな、とわかりやすく伝えているのがどうしてわからないのだろう。
けれど彼は私と目が合った途端に「お、やっとこっち見たな」と楽しそうに笑った。

「だからさっき言ったろ、二年の猪野。オマエの先輩」
「そんなことは聞いていません。何の目的で私に構うんですか。五条悟から何か言われたんですか」
「オマエ五条サンのことフルネームで呼んでんの?」
「質問してるのはこっちです。質問に質問で返さないでください。馬鹿なんですか?」
「すげぇ言うじゃん」
鋭い言葉を振り翳す私に大して機嫌を損ねた様子でもない彼の様子に、私は酷く苛立っていた。
突き放しているのがどうしてわからないのだろうか。関わるなと言っているのがどうしてわからないのだろうか。
……違う、わかっていて話しかけてきているのだ。
それに気がついた途端、身体中の血液が沸騰するような怒りが生まれた。

……馬鹿にしやがって。

あとどれだけ拒絶すれば彼はいなくなるのだろう。あとどれだけ強い言葉を使えば彼は諦めるのだろう。

私は拳を握り込むと強い口調で言い放った。

「初対面ですが私はあなたが嫌いです。関わりたくありません。だからあなたも私に関わらないでください」
「いやだけど」
「…………は?」
彼のあっけらかんとした物言いに思わず眉間に皺を寄せると、彼は急に子供に言い聞かせるような声音で言葉を続けた。

「あのな、いいか、オマエは後輩で、俺は先輩。後輩は先輩の言うことを聞くもんなの」
後輩と言った時に私を指さし、先輩の時に自分を指さして彼は当然のようにそう言った。その何の疑いもない目に精神が苛立つ。
「……呆れた。馬鹿げた年功序列。私が嫌いなものの一つです」
「年功序列バカにすんなよな、経験者から教わることって多いんだぜ」
もう何を言ってもこの人には無駄らしい。私は深く溜息をついた。それを彼はどういう思考回路なのか、肯定の意だと受け取ったらしい。

「んじゃ、寮に荷物置いたらここに集合な!」
待ってっから、と言って廊下の壁際に背中をつけると、こちらへぱたぱたと手を振って私を女子寮へ見送るその人にさっさと背を向けて歩く。
勝手に交わされた約束を守る気なんてさらさら無かった。


ちっとも無かったのに。


「苗字ー!大丈夫かー!生きてっかー!寝てんのかー!」
女子寮の自室に荷物を置いてベッドの上に転がって1人を満喫していた私は、私の部屋の扉をバンバンノックしては呼びかける声に思わず「はぁ!?」と声が出た。
慌てて部屋の扉を開けると、当然のように彼がいた。

「あなたなんでここにいるんですかここどこだと思ってるんですか女子寮ですよ女子の寮なんですよわかってますか男性が入って良いところじゃないんです訴えますよ!」
「いやオマエが全然来ねーからなんかあったのかと思って管理人さんに許可取って入った」
「許可を出すな!何のための管理者よ!」
「早くしろよ、案内する場所多いんだから夕飯の時間になっちまう」
「案内してほしいなんて言ってませんけど!」
「ばーか、頼れる時に頼っとけっての」
ほら行くぞ、と私の腕を取って歩き出すその人に引っ張られる。つんのめるようになってしまって転ばないために慌てて歩き出してしまった。まるで彼についていくみたいに。
それは私が望んでしたことじゃないのに、彼はこちらを見て少し口角を上げて笑う。

「暗くなる前にまずは外から案内してやっからな」
「……っ!なんなんですか本当に……!」
嫌い。男なんて勝手で我儘で煩くて嫌い。大嫌い!



多分あっちもそうだったのだろうけど、そんなわけで第一印象は最悪だった。

とはいえ、そうは言っても学年が違うのだからそうそう顔を合わせることもないだろう。
そう思っていた私の希望を打ち砕いたのは五条悟だった。

「明日から1、2年は一緒に授業ね」
「……は?」
「マジすか。いいけど、なんで?」
「だって琢真も一人、名前も一人なんだよー?わざわざ別々に授業すんのめんどいじゃん。だからまとめちゃおって思ってさ〜」
「ふざけないでください教師の怠慢に生徒を付き合わせるつもりですかいい加減にも程があります大体学年が違えば授業内容も異なるのは常識なんですけどそのあたりちゃんと考えて発言してるんですか?」
「えっ、名前、二年の授業についていける自信ないの?なら別にしてもいいけど」
「は!?舐めないでください!それくらい余裕ですけど!」
「ひゅー!さっすが名前!じゃ明日から合同ね。よろしくぅ!」
「ええ、当然です。わかりました。…………えっ?あれ?」
「苗字苗字、オマエ乗せられてっから」
「なっ……!卑怯よ!五条悟!!!」
「卑怯か?これ」
「いやー素直で可愛いよねー」

五条悟の卑怯過ぎる策略によって、私は彼と毎日顔を合わせる羽目になってしまった。
それを良いことに彼は事あるごとに私に話しかけてくるようになったのだ。

けれどその程度で絆されるような私ではない。

翌朝、仕方なく二年の教室に足を踏み入れる。彼は既に教室に二つだけ並んだ机の窓側のほうへ座っていて、私が教室に足を踏み入れた途端にこちらを見てヘラリと笑った。

「よお、おはよー苗字」
「………………」
「おはよー」
「………………」
「今年の一年は挨拶も出来ねぇ奴だって舐められんぞー」
「………………」
「俺に舐められてもいいわけ?」
「ああ!もう!おはようございます!良いお天気ですね!ご機嫌いかがですか!これで満足ですか!?」
睨みつける私を見て彼は机に頬杖をついたまま頬を綻ばせた。それに米神が震える。
「何笑ってるんですかあなたがそうしろとやかましくいうから仕方なく従っただけなんですけどなんなんですか舐めてるんですか」
「いや、苗字さあ、」
「はい?」
「……いや、なんでもねーわ、忘れて」
「は!?そっちから勝手に話を振っておいて途中でやめるとかどういう了見ですか!」
「…………ふはっ」
「笑うな!」
私が肩を怒らせても何でもないみたいに笑うこの人が本当に嫌いだった。





二人しかいないから、必然体術の稽古も彼と行うことになる。男女差、なんて言い訳はしない。呪霊や呪詛師相手にそんな言い訳なんて通用しないのだから。

「苗字!また重心ブレてんぞ!」
「……っわかってます!」
「わかってんなら直せ!」
陽の光が降り注ぐよく晴れた日の運動場で、早次に繰り出される拳や蹴りを避ける。避けるばかりで攻勢に移れない。運動場を転がりながら、彼から距離を取る。体術の稽古の時は術式は禁止だ。けれど術式が使えれば、と思ってしまった思考を読み取られたのか、すぐに距離を詰められた。

「おら!オマエも中距離の術式なんだろ!距離詰められたらおしまいかよ!」
「っ!」
「防戦一方じゃ勝てねぇぞ!」
そんなことはわかっている。わかっているけれど、避けるだけで精一杯だった。顔目掛けて撃たれた右足を避けようとして背を反らす。その体勢が崩れた状態のまま放った左の蹴りは容易く掴まれて、そのまま遠心力を伴って勢いよく投げ飛ばされる。
身動きの取れない一瞬の浮遊感の後、すぐに背中から地面に叩きつけられる。
「ぐっ……!」
無理やり肺から空気を押し出されたような感覚に一瞬息ができなくなる。見上げた空の眩しさに目を細めたその時、視界に影がかかった。

「ほい、俺の勝ち」
「いたっ」
倒れた私のそばにしゃがみ込んだ彼に額を指で弾かれる。逆光の中の彼はにんまりと笑ったまま私を見ていた。
「攻められると防戦一方になるとこ直さねーとな。どうしたら反撃に移れるか考えろよ。でもまあ、前よりは動けるようになってんぞ。序盤のガツガツ攻めてくる感じはよかったし」
「……負けは負けです」
「気にすんなよ、まだ訓練なんだから」
「もう一回やります……」
「一旦休憩にしねぇ?」
「も゛ゔい゛っがい゛!」
「あー、はいはい、わかったわかった」
差し出された手を弾いて、自力で立ち上がる。
まだ私ではこの人に勝てない。わかっている。
けれどそれは立ち向かわない理由にはならないのだ。

「苗字ー、今日はもう終わりにしよーぜ」
「も゛ゔい゛っがい゛!」
「何回目のもう一回だよ……」






あいも変わらず彼は私に話しかけてくる。

「なー、苗字」
「…………なんですか」
「明日ヒマ?スタバ行かね?」
「……すたば」
「ああ、スタバ行ったことねぇの?」
「あっ、りませんけどなにか!?なんですか!?その、すたば?とか行ったことあったら偉いんですか!?」
「キレんなキレんな。行ったことねーなら余計行こうぜ」
「なんでですか、別に興味無いです」
「オマエ甘いもんとか好きだったろ?絶対気に入るぜ」
「……甘いもの…………ま、まあ、あなたがどうしてもというのなら行ってやらないこともないですけど」
「おし!じゃ、明日校門のとこで待ち合わせな!」

私はちっとも絆されてなどいない。
ただちょっとそのすたばとやらが気になったから、この人を利用するだけなのだ。





そんなこんなで高専に入学して数ヶ月が経った。
彼は性懲りも無く話しかけてくるけれど、私は変わらず誰とも連まず、絆されず、気高い孤高を保っている。ええ、本当に。

任務とかいくと何故かは補助監督の方からお菓子とかジュースとかを毎回貰うのだけれど、まあ、これは私という将来有望な術師に対する投資のようなものでしょう。
渡される時みんななんだか微笑ましいものを見るような目で私を見ているような気がするけれど、気のせいだ、多分。

断るのも悪いので頂いたものは貰うようにしているけれど、唐突にファミリーパックのお菓子とか貰っても一人では食べきれなくてちょっと困る。
そういう時は補助監督の方々にことわった上で彼にも横流しをすることにしている。あの人はよく食べるので消費に便利だ。



それはさておき、今日は任務の日だった。

「あの、苗字さん」
「はい」
現場についたのだが、合流するはずの術師の姿がない。慌てた様子で確認をとっていた補助監督の方が何処かへ電話をかけていたと思うと、それからすぐに私へ声をかけてきた。

「実は合流するはずの術師の方が前の案件の対応に追われていて来れそうにないと……」
「なるほど、そうでしたか」
「苗字さんは三級。原則として三級以下の術師は他の術師との同行が必要です。現在近場で活動している術師もおらず応援も呼べませんので、本日は任務を中断し、高専に戻る形にしようと思います」
「ですが、今回の任務の等級は三級でしたよね」
「はい、そうですが……」
「ならば問題ありません。私一人で対処可能です」
三級呪霊程度一人で倒せるから三級術師なのだ。
誰かに頼らなくても自分の力で戦える。そういう人になりたいと私はずっと思っていた。この任務をこなせたら、きっと私は今よりずっと自分を認めてやれる。そう思って、任務の続行を提案した。

そんな私の言葉に補助監督の女性は戸惑ったような顔をする。けれど私が黙って見つめれば、彼女は深く息を吐いてから「わかりました」と答えた。

「ですが絶対に無理はなさらないでくださいね。決して深追いはせず、危険な時には撤退も視野に入れてください」
「ええ、わかっています」
現場である廃墟の入り口へ進む。空から墨を落としたような帳が降りていくのを確認しながら、腰に差した刀をいつでも抜けるように柄に手をかけた。

あらためて今思えば、驕っていたとしか言いようがない。これまで経験を積んできたから、これまでの任務で失敗はなかったから、と判断を誤った。

三級呪霊程度一人で倒せるから三級術師。
この認識に間違いはない。
けれどそれはあくまでも、一対一で戦った時の場合の話だ。

廃墟の奥で三級呪霊が両手で数えられないほど発生していたこと。
そしてその数に気を取られた隙に容易く退路を塞がれたこと。
呪霊が順番待ちしてくれるわけもなく、一斉に襲い掛かられたこと。

すべて私の慢心と油断の結果だ。

下級の呪霊が連携を取るはずもないのだけれど、何体もいれば単純なヒットアンドアウェイが私を苦しめる。飛びかかってきた一体へ攻撃すれば、別の呪霊に背後を攻められる。上へ意識を向ければ下へ、左を見れば右へ、一体一体は弱くても数が多ければ意識は分散する。
数が多いのだから短期決戦で終わらせなければ消耗する一方だとわかっているのに、一体に集中できず倒しきれない。
攻撃されて、防御して、こちらが攻勢に移ろうとすればすぐに呪霊に逃げられる。そうしているうちに別の呪霊に攻撃されて、防御して、そんなことばかりを繰り返すばかり。

「……クソッ」
防戦一方じゃ勝てない。わかっている。

『どうしたら反撃に移れるか考えろよ』
いつか彼に言われた言葉を思い出す。わかってる、このままじゃダメだってわかっているんだ。でも弱いから。私は弱いから、傷付かずに勝つ術がない。

考える。
多数の三級呪霊に、ただの三級術師の私では勝てない。
けれど一対一なら絶対に勝てる。

正面から飛びかかってきた呪霊を睨みつける。
「まずはオマエから殺す」
発動した術式が私の視界の中のいる呪霊を捉えた。瞬間、空中にいた呪霊が術式の効果を受けて唐突に地面に叩きつけられる。間髪入れずに墜落した呪霊を刀で叩き斬る。それで一体目は倒した。
その代わりに、
「ぐっ……!」
当然のように背後から別の呪霊たちに攻撃される。鋭い爪で抉られた背中や脇腹に発火するような痛みを覚えた。けれど致命傷じゃない。まだ戦える。
振り返りざまに刀を振るうが避けられる。あと何体いるのだろう。いや、何体いようが知ったことか。

一体ずつ順番に倒そう。その度に背後を取られ、攻撃を受けるとしても。それしか今の私にはできない。仕方ないのだ。私が弱いのが悪いのだから。だとしても、

「順番に殺してやるから待ってろよ……」
最後の一体まで、絶対に殺してやる。


ノーガードで殴り殺す。脳筋じみたやり方ですべての呪霊を倒した頃には血を流し過ぎていた。制服の脇腹あたりが破けていて見ると、腹が拳ひとつ分ほど抉られている。そのくせアドレナリンのせいか、ちっとも痛みを感じないのだから人間というのはよくできている。
頭がぐらぐらする。視界がチカチカする。額から垂れてきた血を袖で拭い、動かない左脚を引き摺って来た道を戻る。とにかく補助監督のところに戻らなくては。その一心でただただ歩き続けた。

「苗字さん!」
廃墟を出た時、名前を呼ばれて顔を上げる。悲鳴じみた声の主は補助監督の方で、彼女は慌てた様子で私に駆け寄って来た。
「ひどい怪我じゃないですか……!すぐに高専に戻ります!」
そんなに慌てるほどのことでもないのに。そう思いながら肩を貸してくれる彼女に寄りかかり車へ向かう。

行きよりずっと速いスピード、荒い運転に彼女の焦りを見た。担当した術師が負傷すると補助監督の評価が下がったりするのだろうか。そうだとしたら申し訳がない。

「大丈夫ですからね、苗字さん。心配しなくて大丈夫です。家入さんにも既に連絡していますからね。痛いですよね、すぐに着きますから」
死ぬような怪我じゃないのに、どうしてこの人はこんなにも悲しそうな顔をしているのだろう。
車に揺られながらうつらうつらとする。
……私、弱いな。私ってまだまだ弱いんだな。また彼に稽古をつけてもらわないと。次こそ一発くらい当ててやりたいのに、私はまだ弱くて、こんなんじゃダメだ。もっと強くならないと。
でも今はどうしようもなく手足が冷えて、体を動かすのさえも億劫で仕方なかった。






「苗字が任務で怪我してぶっ倒れたってマジ!?」
「ぶっ倒れてません舐めないでください自力で戻って自力で医務室まで歩いてきて家入さんの治療を受けましたその間一瞬たりとも意識を落としていませんそもそも大した怪我じゃありませんから騒ぎ立てないでくださいうるさいです」
「元気じゃねーかよ!」
「元気に決まっているでしょう」
慌てた様子で医務室にやってきた彼を私は呆れた目で見つめる。私たちのやりとりを聞いていた家入さんが小さく笑う声が聞こえた。

高専に戻った私は家入さんの治療を受けて、ある程度回復した。流した血が多いせいでやや貧血状態ではいるものの、明日一日休めば問題はないと家入さんからも言われた。
つまるところ、大したことはなかったのだ。
任務を共にした補助監督の方があんなふうに慌てることもなんてなかったし、怪我をした私に泣きそうな顔で「あなたを危険な目に遭わせてしまい申し訳ありませんでした」なんて謝る必要なんてなかった。
だって、任務を続行して問題ないって判断したのは他でもない私だったのだから。

「はー、びびった」
医務室のベッドの上でヘッドボードを背もたれに座る私のほうへやってくると、彼はベッド横のパイプ椅子に当然みたいな顔で腰をかけた。

「……何座っているんですか」
「いいだろ、先輩を立たせるつもりかよ」
「立つとか座るとかじゃなくてそもそもなんでここに来たんですか」
「なんでって、そりゃあオマエを心配したからに決まってんだろ」
「なんであなたが私を心配するんですか?私が怪我しようが死のうがあなたには何の関係もないでしょう」
「……オマエさ、それマジで言ってる?」
首を傾げて彼を見れば、その人は珍しくグッと眉間に皺を寄せて不愉快そうな顔をしていた。いつもヘラヘラしている彼がそんな顔をするのを初めて見て、少しだけひるむ。

「……な、なんですかその顔」
「オマエは本当にバカだなって思ってる顔だよ」
「は!?喧嘩売ってるんですか!」
「ちげーよバカ」
「バカじゃありません!」
思わず身を乗り出すと、彼と目が合った。その瞳に真正面から射抜かれる。向けられる真剣な目に何も言えなくなって思わず黙り込むと、彼はベッドに投げ出されていた私の右手を取り、彼自身の両手で私の手をそっと包みこむ。それから祈るようにその手を彼の額へ寄せて目を瞑った。

握られた手から彼の体温を感じる。私のものよりずっと高い温度。
彼の手を振り払うことくらいできたはずなのに、その時の私はそんなこと少しも思い至らなくて、どうして彼がこんなことをしているのかわからず、ただただ静かに困惑していた。

「オマエが無事でよかった」
唐突に小さく呟かれた声に、息が詰まる。
どうしてそんなことを言うんだろう。
……だって、そんなこと初めて言われた。これまでどんなにひどい怪我をしてもそんなこと言ってくれる人なんて私の人生にはいなかった。家の人間にも、血の繋がった身内にも、肉親にも。なのに、

「……どうして?」
この人は赤の他人なのに、どうしてそんなことを思うんだろう。私は弱くて、何の価値も示せていないのに。
私はあなたにとって価値のある人間ではないのに。私が生きてたって、別にあなたに利益があるわけじゃないのに。

「どうして、そう思うんですか」
揺らぐ声のままそう問いかければ、彼は顔を上げて私を見た。それから聞き分けの悪い子供に伝えるみたいに、仕方ないなってそんな顔で微笑みながら私に言った。

「後輩だから」って。

「……後輩?……そんな理由で?」
「十分立派な理由だろ。確かにオマエは全然可愛げないし生意気だしろくに挨拶しねーしすぐキレるし全然俺のこと敬わねーし本当可愛くない後輩だけど、」
「……む」
「いつも頑張ってるし、案外素直だし、努力家だし、根性のあるすげー可愛い後輩だから」
「…………」
「先輩の俺は大事に思ってんの、これでも」

正面から優しい目で見つめられて、私もまた彼を見つめ返す。彼とはそれなりに同じ時間を過ごしていたはずなのに、私は今になってようやく彼の顔をちゃんと見た。

触れずとも柔らかさを感じる髪、真ん中で分けた髪のために露わになった額、大きな目の中の小さな瞳、輪郭から繋がる太い首。
ああ、この人はこんな顔をしていたんだ。こんな髪の色で、こんな目の色で、こんな声をしていたんだ。私、そんなことも知らなかったんだ。そばにいる人のことさえ、ちゃんと見ていなかった。私、何も見えていなかったんだ。

この人は男の人で、年上で、背が高くて、お喋りで、だけどこの世でたった一人の「猪野琢真」という私の先輩だった。

それに気がついた時、私はようやく先輩を知る。

この人が私の先輩なんだ。
私の、私だけの先輩。

その瞬間、私は私の心臓の音を聞く。
とくんとくんと、いつもより速い速度で鳴る音に連動するみたいにふわりと体温が上がった。
どうしてだろう。体が熱い。
胸の奥が締め付けられるように痛む。怪我は全部治してもらったのに。胸の中心がずきずきと痛くて、どうしてだろう、今にも泣いてしまいそうだった。

「……いたい」
「えっ?あっ!手ェ強く掴みすぎた!?悪い!」
慌てた様子で手を離された途端にひどく寂しくなった。むしろ心が伽藍堂になったような気がして、苦しい。

「やだ……」
「えっ、やだ!?やっぱ俺帰った方がよかった!?」
「ちがくて、」
立ち上がろうとする先輩の手を縋るように掴んだ。

「手を、握ってください、先輩」
「……えっ」
「だって、あなたが言ったんでしょう、先輩だって。あなたは私の先輩なんだから、先輩なら後輩の手くらい握ってください」
我ながら変な理論だと思ったけれど、彼は一瞬キョトンとした顔をした後に、また眉を下げて笑ってくれた。

「……ん、可愛い後輩からのおねだりなら仕方ねーな」
もう一度椅子に座り直して、それからまた包み込むみたいに私の手を握ってくれた。

そんなことが嬉しかった。
たったそれだけのことが、泣き出しそうになるくらい嬉しかったのだ。

「苗字、大丈夫か?」
「……なにがですか」
「すげー泣いてんじゃん」
「な゛い゛でま゛ぜんげど!」
「あー、はいはい、胸くらい貸してやるから泣け泣け」
「うゔ……ぐすっ……」
そうやって先輩が無理やり私を引き寄せて抱きしめるから、任務終わりで疲れていた私はろくに抵抗ができなかったのだ。ええ、本当に。

別に先輩に抱きしめられたのが心地よくて無抵抗のままでいたとか、そういうことではない。全然まったく本当に違う。


だって私は先輩なんかにこれっぽっちも絆されてなんかいないんだから。