4.美酒佳肴にうってつけの夜
呪術師はアングラとはいえ組織の上に成り立つ職業である。それぞれがそれぞれの役割を果たすことで結果的に組織が回り、社会が回る。つまるところ一般的な企業と大枠で言えばさほど変わらないのだ。
さて、労働、組織、社会人。
その三つが揃うと何が発生するか。
そう、飲み会だ。
七海は基本的に、術師も補助監督も集まって居酒屋を貸し切るような大きな飲み会にはあまり参加しない方なのだが、今回は先日任務を共にした猪野から「七海サンも来ません?」なんて誘い半分に聞かれたものだから、まあたまにはいいか、と思って参加することにした。
任務で少し遅れて飲み会に参加すると居酒屋の中は人の体温によって上昇した熱と、楽しげな笑い声に包まれていた。別にこういう雰囲気が嫌いなわけでは無い。七海はそっと人並みを縫って中へ入った。
「硝子硝子ー!デュエルしようぜ!僕のターン!ドロー!オレンジジュースを攻撃表示で召喚!」
「よし、伊地知、貫通効果で五条にダイレクトアタックだ」
「エッ?」
「オン?伊地知、やんのかァ?」
「ヒィッ!」
誤算が一つあったとしたら日本一忙しいはずの五条がその飲み会に参加していたことだろうか。
……絶対に絡まれたくない。
彼を視界に入れた瞬間心からそう思った七海は、彼に気が付かれる前にさっとあたりを見渡して安全圏を探した。
その時、居酒屋の端の方でつまらなそうな顔で何かをじっと睨んでいる苗字を見つける。
そうして彼女の視線の先にいるのが誰なのかを確認してから、七海は彼女の方へ足を進めた。
近寄った彼女の頬はすでにうっすらと赤く、もうそれなりに飲んでいるらしい様子がわかった。
「お疲れ様です、苗字さん」
「ゲェ……オツカレサマデス……」
七海が隣にやってきたのを見て露骨に嫌そうな顔をした苗字に思わず口角が上がった。
七海は苗字に嫌われている。
正確にいえば嫌われているのではなく、反骨心を抱かれている、というのが正しい。
その根っこにあるのは苗字から猪野への甘やかな感情だった。
苗字が猪野へ密かに想いを寄せていることは彼らの為人をある程度知っている関係者はほとんど察している、いわゆる公然の秘密、というものだった。
面白いのは、苗字が猪野をどう思っているかについては大抵の人間が察しているのに対して、猪野が苗字をどう思っているのかについては誰も知らないところだ。
彼は苗字を可愛い後輩だと評しているが、それ以上の言葉は誰も聞いたことはない。
今のところは苗字の片想いだろう、というのが多数の見解だ。
そんなわけで苗字は、ぽっと出の七海が猪野に懐かれているという事実がちっとも面白くないらしい。
つまるところ、嫉妬だ。
猪野に好き好きアピールされている七海が妬ましくてならないだけなのだ。
というわけで七海は苗字に好かれてはいない。
だが、懐かれてはいる。
猪野からの好意を受けている七海は気に入らないが、七海本人の人間性自体は好ましく思っているらしい。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、とならないあたりに苗字の善良さや素直さが伺えて、七海は割と彼女のことを気に入っていた。
七海が苗字の隣に腰掛けて、掘り炬燵に足を入れると、彼女はすぐに七海にドリンクのメニュー表を渡してくれる。こういうところが真面目なのだ。
「ありがとうございます」
「……七海サンもこういうの来るんですね」
「飲み会は嫌いじゃないですよ。大人数より親しい人間と少人数でするほうがより好ましいだけで」
「そうですか」
「あと、今回は猪野くんに誘われたので」
七海がそう言った瞬間、バッと素早く苗字が七海へ顔を向けた。苗字は七海を憎々しげな顔で睨むと、けれどすぐに何かを思い出したのか、顎を上げてドヤ顔をすると鼻で笑った。
「はっ!社交辞令で誘われた程度でいい気にならないでください。私は今日先輩と一緒に高専からこの飲み屋さんまで来たんですから」
「そうですか、それはよかったですね」
七海は店員を呼び止めて酒を注文する。苗字は自身のカシスオレンジに口をつけてから流れるように言葉を吐き出した。
「別にいつものことですから良いも悪いもありませんけどまあ私はあなたよりずっと先輩と付き合いが長いので当然というか当たり前すぎて別に今更たいしたことじゃ無いんですけど」
「でも猪野くん、今は他の人と飲んでるんですね」
七海がそう返した瞬間、苗字は固まり、それまでの饒舌さはなんだったのかというほど悲壮な顔で黙り込む。
それがあんまりにも悲しそうな顔だったので、七海は思わず笑ってしまいそうになる口元を掌で隠した。流石に笑っているのを見られたら彼女も機嫌を損ねるだろう。
苗字は寂しそうな目で向こう側の離れたテーブルを囲っている猪野の横顔を見つめる。
そのテーブルには男女問わず比較的若い術師や補助監督が集まっていた。話している内容までは聞こえないが、時折弾けるように聞こえるその笑い声は七海や苗字がいるテーブルまで届く。随分と楽しく盛り上がっているようだ。
七海は笑いながらテーブルの面々と話をしている猪野を見つめてから、すぐ隣にいる苗字へ目を向ける。彼女は雨の中の子犬のような表情をしていた。
そんなに恋しいのなら彼のところへ行けばいいのに、と七海は思ってしまうけれど、それができるなら苗字だってとっくに行っているだろうし、それができるような人間ならば彼女の想いはとっくに猪野へ伝わっているはずだ。
好きだけど素直になれないいじらしさこそが苗字を苗字たらしめているのだから。
七海は運ばれてきた酒を口にしてから、テーブルの大皿に残っていた最後の一個の唐揚げを苗字に進めた。
「苗字さん、唐揚げどうぞ」
「……いただきます」
「お酒も飲みましょうか」
「……飲みます」
元気無くもきゅもきゅと唐揚げを頬張り、追加で注文した酒に口を付ける苗字に、ふと七海はちょっかいをかける。彼にしては珍しく面白半分での行動だった。
「ところで苗字さん」
「……なんですか」
「猪野くんってモテますよね」
「モッ、モテ!?!?モ、モモモモモモモ!」
箸を取り落とした苗字がパニクった顔で七海へ目を向ける。びっくりしたかのように大きく開かれた目が七海を映し、それから苗字は慌てた様子で七海の胸ぐらに掴みかかると口をパクパクさせた。
「なっ、なっ!何言って、だ、だって、先輩にモテとか要らないんですけど!いやなんですけど!」
「要不要の話ではなく、客観的に見た意見ですよ」
ガクガクと後輩に体を揺らされながら七海は冷静に答える。それから掴みかかる苗字の手を首元から離させると、その手をテーブルの上に置かせた。
それから向き合うような形になった二人。七海は言い聞かせるような声音で、真顔のまま苗字を揶揄った。
「一度社会に出た私の一意見として聞いて欲しいのですが、モテる人にはとある要素があると私は考えています」
「な、なんですか急に……」
「よく「人は外見が9割」だの「結局は金」だの言いますがそれは違います。モテる人間に共通する要素とは「親しみやすさ」に他なりません。学生はともかく、社会人になって恋愛をする場合、高確率で結婚が視野に入ります。その際に重視しなくてはならないのは「自分はこの人と一生を過ごせるか」です。どんなに稼いでいたとしてもいつも仏頂面でつまらないそうな顔している人間と一生を過ごせますか?できたとしてそれは果たして幸せなのか。もちろん幸せは人によって異なりますが、大抵の人間は優しく親しみやすい人と仲睦まじく楽しい人生を生きていく方が幸せだと考えるでしょう。その点、あなたが惚れた人はこの要素を十二分に持っています。どんな相手でも明るく話しかけられる明朗さ、他人を出自や生まれで判断しない柔軟な考え方、そして見ての通り彼の周りには人が集まる。それは彼の人間性によるものです」
「あ、あう、あう………」
苗字は七海による怒涛のモテ理論を受けてパニックを起こし、喃語を吐き出すことしか出来なくなる。
「苗字さん、私が何を言いたいのかわかりますか?」
「せ、先輩が他の人に取られちゃう……」
取られちゃうも何もそもそも苗字のものですら無いのだが、酒のためかパニックのせいか顔を真っ赤にした苗字が七海を見上げた。
「そうですね。そうなったら大変ですよね」
「うん、うん、ど、どうしよ……」
酒のせい半分七海のせい半分で瞳に薄く涙の膜を張った苗字がぷるぷると震えるのを肴に七海は酒を煽った。クソほど酒が美味い。
「とはいえ、この界隈だと結婚の際に重視されるのはクソなことに術式や血筋なので、一般的な社会におけるモテは関係ないかもしれません」
七海のその発言に、どこかホッとした顔をする苗字。
続けて七海は言った。
「まあそれも術師同士での結婚なら、の話ですけどね。補助監督の方々にとってはそういうの関係ありませんし。確か猪野くんは特に家督を継ぐ予定もないそうですね。押せ押せな補助監督の方にプロポーズされるなんて可能性はあるんじゃないですか?」
「にゃーー!やだぁあ!!!」
上げて、落とす。
途端に苗字は悲鳴じみた声をあげて七海にしがみつく。バタバタと子供のように手足を振って暴れる苗字にしがみつかれたまま、七海は度数高めの酒を喉へ流し込んだ。
可愛い後輩が可愛い後輩に懸念している様を見ながら飲む酒が旨過ぎる。
七海は店員を呼び止めて酒を追加した。
「すみません、冷酒を3……いや、5つお願いします」
七海は猪野に好意を寄せる苗字を可愛がっていた。
というか、苗字が猪野に片想いをしていることを知っている人間の殆どが彼女を応援している。
こんな界隈にいると恋だの、片想いだの、純情などといった可愛らしいものとは縁遠くなるから、守りたくて仕方なくなるのだ。
七海に張り付いてエグエグと喉を鳴らす苗字に、周囲にいた事情を知っている補助監督たちが微笑ましそうな顔をする。それからテーブルに残った遠慮の塊を次々と苗字の取り皿に移していった。その様子に彼女が如何に可愛がられているのかを七海は再度認識する。
目に縁に溜まった涙が、苗字の瞬きと共にポトリと落ちる。
そんな彼女へ、好きな人を鳶に取られる前にやることがあるだろう、と発破をかけようした、その時。
「こら、苗字。七海サンに迷惑かけてんじゃねーぞ」
「猪野くん」
「……!」
本丸が来た。
その瞬間、周囲の補助監督たちが無言ながら騒めき立った。当然、顔に出さないながら七海も。
やってきた猪野は苗字にしがみつかれている七海に軽く会釈をすると、苗字の隣に腰掛ける。七海と猪野で苗字を挟むような位置に来ると、彼女の肩を軽く自分の方へ引き寄せた。
「オマエちょっと飲み過ぎだぞ」
「ほら、苗字さん、猪野くんが来てくれましたよ」
「……せんぱい?」
「おー、先輩だぞー」
「せんぱい……」
途端に七海に磁石のようにガッチリとくっついていた苗字がするりと離れ、猪野の方へ体を向けると先ほどまで七海にそうしていたように猪野にくっついた。甘えるように猪野に体を寄せる苗字に、それを見た補助監督たちがだらしのない笑みを浮かべながら酒を飲む。(わかる)と七海は内心で同意した。
「せんぱいのばか……くるのがおそい……」
「はいはい、悪かったって。スミマセン、七海サン。ウチの後輩が迷惑かけてたみたいで」
「いえ、気にしないでください。楽しくお話をさせていただいていましたので」
「そうなんスか?ならよかったんですけど」
正確には楽しんでいたのは七海と周囲の補助監督たちなのだが。
猪野は抱きついてくる苗字に「んー?もう眠いか?」と声をかけ、「掴むならこっち」と自分の服の裾を掴ませて、自分の太腿を枕にするように苗字を誘導させた。
補助監督たちが残っていた酒を流し込んでから「すみません!こっちビール追加でェ!」と店員に告げるの聞きながら、七海も冷酒に口をつける。多めに頼んでおいてよかった。
猪野に誘導されるがまま、こてんと転がった苗字は何に疑問を思うこともなく先輩である猪野の太腿に頭を置いて、ポヤポヤとした表情のままうつらうつらとし始める。
「エヘッ、ウへへへヒヒ」「急な供給を受けている」「酒が全然足りないわ」と呟く補助監督たちに内心うなづきながら、七海は表面上平静を保ったまま、「あちらのテーブルはいいんですか?」と猪野が元いたテーブルの方を示した。
「大丈夫っス!それに今日はまだ全然七海サンと話せてないんで!」
パッと明るく笑う猪野にわかりやすく懐かれて七海もそりゃあ悪い気はしない。つい緩みそうになる頬を酒が入っても強固な理性で保つ。
猪野は自分の膝の上に頭を置く苗字の髪を手慰めに弄りながら「七海サン……は、全然お酒残ってますね」と確認してから店員に自分用の酒と、恐らく苗字のために水を頼んでいた。
慣れた手つきで酔った苗字を介抱する猪野に七海は問いかける。
「苗字さんっていつもこんな感じなんですか?」
「そっスね。弱いくせに飲むし、飲むとすぐ泣き出すし、泣いたらすぐ寝るしで、しっちゃかめっちゃかっスよ、ほんと」
口ではそう言いながらも、そうなった苗字のためにわざわざ盛り上がっていた席を離れるくらいなのだから猪野はしっかり先輩だ。
「お二人は飲みに行ったりは?」
「ちょくちょくサシ飲みしてますね!まあ、俺から誘うばっかですけど」
二人はサシ飲みをする。そんな新規情報に補助監督たちの酒が進みに進んでいた。七海も倣うようにテーブルに置いていた自分の酒を煽る。相変わらずびっくりするほど旨い。
「毎回苗字さんがこうなると、帰りは大変なんじゃないですか?」
「そうなんスよ!最後までまともに起きてた事ないですからね、コイツ」
「……そういう時、帰りはどうしてるんですか」
流れるように確信に迫る七海に、補助監督たちもゴクリと吐息を飲んだ。
それを知らない猪野は、わしゃわしゃと乱すように苗字の髪を撫でながら、笑って言った。
「しょうがないんで、俺んちに連れて帰ってます!」
その瞬間、近くの補助監督が自分が飲んでいたビールに溺れてゴボゴボと泡を吹いた。その姿は完全に突然の公式からの供給過多に溺れるオタクの様相であった。
「猪野くんの家に、ですか……」
「はい!…………?……あっ!いや、違いますからね!?マジで寝かせてるだけっスから!苗字んちに俺が入る方がダメだろって思って、いや本当に!苗字にもちゃんとシラフの時に許可取って介抱してます!マジで何もしてないです!ほんと、七海サンに誓えます!」
「いえ、私に誓われても困りますが、そうですか」
七海の真顔に何を思ったのか、両手を上げ慌てた様子で言葉を続ける猪野。
その心配はしていなかったが、しかし、なるほどなるほど……なんでお二人は付き合ってないんですか?
七海は思わずそう思った。
「そういった関係ではない男女が夜間に家に、というのはあまりよろしくはありませんが、あくまでも介抱ですからね。苗字さんも理解の上なら、他人が口出すことではありません」
「うっ……スミマセン、軽率で……」
「それはさておき、猪野くんの家で朝を向けた時の苗字さんの反応はどんな感じですか?」
「へ?」
酒が入った七海はいつもより堪え性が無かった。補助監督がまたビールで溺れそうになっている。
「あ、ああ、えーっと、そうっスね、初めのうちはめちゃくちゃキレられたんですけど、そういうのが何回もあると流石にあっちも申し訳なさとかあったみたいで、最近は俺より先に起きて朝飯作ってくれるようになりましたね。多分、介抱のお礼代わりって意味合いっぽいです」
言葉の終わりに少しはにかんだ猪野に、近くの補助監督が一人、机に突っ伏した。「挙式じゃん……」と呻く声に、周囲の補助監督たちか同意するように黙ってうなづく。
「猪野くん」
「はい?」
「……本日も苗字さんをよろしくお願いします」
「えっ?あっ、ハイ、勿論っス!後輩ですからね!」
当然のように後輩を介抱するつもりでこちらに来ていたらしい猪野に、七海の表情筋もついに陥落した。
酔っ払いの世話なんて面倒極まりないものだ。できることなら誰だって避けたい。けれどどうしてか猪野はそれを己の義務のようにしようとする。
……ねえ、猪野くん、それは本当に『後輩だから』面倒を見てやっているんですか?
それとも『彼女だから』してあげるんですか?
言葉にして問いかけはしなかったけれど。
「……アレ?七海サン、今ちょっと笑いました?」
「さあ?自分ではなんとも」
飲み会が終わっても、苗字は猪野にくっついたまま八割方夢の中にいた。そんな彼女を慣れた手つきで抱き上げる猪野に、もうビールも無いのに補助監督が溺れている。
「じゃあ俺は苗字連れて帰るんで!」
お疲れ様です!と、そう笑ってパタパタ手を振る猪野と猪野に抱えられた苗字の姿に、七海は確かな満足感を得た。
……たまには飲み会に参加するのもいいな。
二人を見送りながらそんなことをぼんやりと考えていた七海に、おずおずと話しかけてくる人影があった。
「あの、七海さん」
「あなたたちは……」
話しかけてきたのは飲み会の最中、近くにいた補助監督たちだった。彼ら彼女らは軽く目配せをすると、七海に「あの、よろしければ、」と口を開く。
「二次会、しませんか」
二次会の議題は当然決まっている。
とはいえ、基本的に七海はあまり大勢での飲み会には参加しないし、その後の二次会などにも顔を出さないタイプの人間だ。行くとしても親しい人間と少人数でする程度。
いつもの七海なら角の立たないように断っているのだが。
「しましょう。近くにゆっくり話せるいい店があります」
サムズアップ。今夜ばかりは即答だった。
普段は苗字を抱えて公共交通機関で自宅まで向かう猪野なのだが、今日は七海がタクシー代を出してくれたためにリッチにもタクシーで自宅まで向かう。
猪野の自宅住所を聞いて、「じゃあこれで足りますね」と、当然のように万札を出してきた七海に「いやいやいやそんなことをしてもらうわけには!」と首を振る猪野だったが、七海に「私が見ていたのにも関わらず彼女を泥酔させてしまったので」と言われてしまえば断るのも逆に悪い。
今度七海サンに礼をしないとな、と考えながら辿り着いた自宅アパートに苗字を連れ帰った。
「苗字ー、俺んち着いたぞー」
「んむむ、んむぅ……」
あいも変わらず寝ぼけ眼の苗字に、軽く水を飲ませてから自分のベッドに寝かせる。酔ってはいるが、それのせいで吐き気や体調不良があるような様子ではない。一晩寝かせれば朝にはいつもの彼女に戻るだろう。
猪野のベッドの上で枕に顔を埋めてふにゃふにゃと何事かを呟く苗字の無防備な姿に少し笑う。
ハリネズミのようにツンケンした普段の姿からは想像もできないほどの気の抜けっぷりはいつ見ても、可愛らしい、と思う。
苗字の着ていたワイシャツの首元を少し緩めてやってから、猪野は烏の行水でシャワーを浴びて寝巻きに着替える。
「ねみぃ……」
飲み会は楽しかったけれど、酔いのせいか流石に眠い。
猪野の家には来客用の布団も、寝れるようなソファも無いから、仕方なく苗字が寝転がったベッドの隣に猪野も横になる。
それなりに幅はあるけれど、それでも一人用のベッドに二人転がって、寝息を立てる苗字の顔を猪野は向き合うように見つめた。
「あんま七海サンに迷惑かけんなよ」
眠っている彼女に伝わるはずもないとわかっていて、そう口にする。
どうしてか苗字は七海にもやけにツンケンしているのだ。時折見ているこっちがヒヤヒヤする。
七海サンの懐が広いからいいものの……と猪野は溜息を吐いて苗字の髪を撫でた。
いや、本当はわかっている。
苗字は七海にツンケンしているけれど、同時に七海に懐いてもいる。
多分、七海が許してくれるとわかって甘え半分に突っかかっているのだ。親からの愛情を試そうとわざと悪いことをする子供のように。
「苗字、オマエってもしかしてさぁ、七海サンのこと、……好きだったりすんの?」
飲み会の最中、他のテーブルにいた時にふと何かを探すように周囲を見渡して、その時に酔った苗字が七海に抱きついているのを見て、思わず心臓が跳ねた。
酔っていたとはいえ、あんなにも人との距離を詰めている苗字を見たのは初めてのことだったから。
「まー、確かに七海サンはカッコいいし、超大人だし、お堅そうに見えて冗談もわかる人だし、すげぇ優しいし、」
きっと、苗字の怖がり故の他者への警戒も、理解して優しく受け止めてくれるだろう。
「わかってっけど、」
どうしてか、心臓のあたりがモヤモヤとした。
……モヤモヤ?
……なんで?
大好きな先輩と可愛い後輩が仲良くしてんのを見てモヤモヤするってなに?つか、俺はどっちに対してそう感じてんの?七海サンに?苗字に?……どっちも?
グッと眉間に皺が寄る。
俺ってもしかしてすげー心狭かったりする?
ハァーと深く深く息を吐いた。自分はそういうヤキモチみたいな感情とは無縁な人間だと思っていたのに。
小さな自己嫌悪に襲われる猪野に、少し寒いのか、目を瞑ったまま苗字が猪野に擦り寄ってきた。もぞもぞと動いて、猪野の胸元に額を押し付けて体の力を抜く苗字。
「……せんぱい」
舌ったらずにそう呼ばれたことに、不思議とモヤモヤが晴れて、少し口角を上げる。俺もちょっと酔ってんのかな。
「……そうだよ、俺がオマエの先輩だよ」
毛布を引き上げて、自分より彼女を優先してその体にかけてやる。
それからこちらに寄り縋るその小さな頭を片腕でそっと抱きしめて、猪野も静かに目を閉じた。
◇
一方その頃、某二次会会場にて。
「前に高専にちょっとデカめのGが出たんですけど、それを見ちゃった苗字さんがすごい悲鳴上げてから、周りに他の人たちもいたんですよ?日下部さんとかもいたんですけど、真っ先に猪野さんのこと呼んでて、アーーやっぱり困った時に一番に頼るのは先輩なんですねそうなんですねって思って優勝しましたトロフィー贈与」
「はいはいはいはい!それ私も見てましたけど、苗字さんが悲鳴上げた時、猪野さんも苗字さんに呼ばれる前にすぐ彼女のところ向かってましたからね、ちょっと駆け足で、私見てました、この目で見ました、えっ、ちゃんと見てた私超偉いな……」
「えっ?好きじゃん……そんなん実質両想いじゃん……」
「あーーイイ、イイ、そういうのもっとちょうだい」
「キますねこれ……酒追加注文していいですか」
「どうぞどうぞ」
「あ〜〜酒が進む〜〜」
「私からもいいですか、任務の時の話なんですけど」
「術師視点の新規情報来ちゃう」
「酒だ、酒が足りない」
「アーーすでに最高ォーー」
酔いにまみれた夜は更けていく。