同じ轍は踏まない




「生まれ変わったら七海の犬になりたい」

七海の体に寄りかかったまま、彼女はそう言った。
頬はチャンポンした酒のせいで紅潮し、足元はフラフラ、重たい瞼はもうほとんど開いていない。

飲み会終わりの0時前。
眠りを知らない夜の街。
そばの車道を走るタクシー。
駅からやや離れた繁華街の中、七海の強固な体幹を支えになんとか歩く彼女。歩調を合わせながら七海は、この先輩は一体何を言っているんだろうと思った。
酔っ払いの妄言、寝言、そんな類いか。

「おっきいやつ。ゴールデンリトレバーとか」
「……ゴールデンレトリバー」
言い間違いを直すように固有名詞を言ってやれば、彼女が口の中でもごもごと何かを呟いた、のが見えた。身長差と声の小ささ、それから通りかかった車のエンジン音のせいで七海には何も聞こえなかったのだ。

車が過ぎ去る。
彼女がまた口を開く。

呪術師なんて血生臭いものじゃなくてさあ、

「生まれ変わったら、七海に可愛がられてる犬になって、いっぱい撫でられたりするの」

そんなことを言う。
何度聞き直しても酔っ払いの妄言だった。
ふにゃふにゃとそんな馬鹿げたことを言う先輩に「撫でるくらいなら生まれ変わらなくてもできますよ」と言おうとして、七海はやめた。

酔ったらすぐ忘れるのだ、この人は。言ったって覚えてやしない。いつもそうだ。鈍感で、忘れっぽくて、ヘラヘラしてて、こっちの気も知らないで、私ばかりがいつも。

この場でタクシーを拾えばすぐに帰れるのに、どうしてわざわざ時間をかけてまで駅のタクシー乗り場まで戻ろうとしているのか、この人は知らないのだろう。
どうして毎度毎度二次会を断ってまで泥酔した貴女を家まで送るのか、この人は知らないのだろう。
貴女が寄り掛かるたびに、その体温を預けるたびに、私が何を思っているのか、貴女は知りもしないのだろう。

なんて、ひどい人。

無知は罪だと言った人間は、ちゃんと罰まで考えてくれただろうか。


「…‥なぁみぃ」
鳴き声のような音が聞こえた。多分「七海」と呼んだのだろう。甘ったれた女の声。

寄りかかったままこちらを見上げる彼女に言いたいことはいくつもあった。
子供がじゃれるような恨み事も。
花束を用意したいほどの愛の言葉も。

けれど結局何も言わなかった。
溢れ出すような痛烈な感情に、しかし恐怖と臆病が勝ったから。
好きだという気持ちだけで、自分が生きることを選んだこの血生臭い道を裏切れなかった。それを誠実さと呼べるほど愚かにはなれないとわかっていたけれど。


「来世でもよろしくね」


けれど、貴女が言ったのだ。
貴女がそう言ったのだから、ちゃんと生まれ変わってほしい。

ちゃんと犬になって、私の元まで逢いに来てほしい。



今となってはもう酷く、苦い思い出だ。











七海建人には前世の記憶がある。
人に言ったことはない。頭がおかしいと思われるとわかっていたから。

灰原は高校の同級生。五条さんと夏油さんは大学の先輩。伊地知くんは会社の後輩。猪野くんはインターンに来た学生。炎上案件でぶっ倒れた時に担当してくれた産業医が家入さん。
先月買い物に出たら、染めたショートカットの少女と跳ねた黒髪の少年、それからパーカーを着た少年がスタバの新作を手に笑い合いながら街を歩いているのを見て、彼らの名前も知らないのに、どうしてか泣きそうになった。

子供の頃から夢を見るように前世の記憶を取り戻して、その記憶の中で見覚えのある人たちによく似た人が今の自分の周りに現れた。
前世ではなく、もしかしたら正夢だったのかもしれない。正誤はわからない。
とかく、その記憶は断片的で、飛び飛びで、曖昧で、私は自分の前世らしいもののすべてを何もかも思い出せているわけではない。

その中で彼女の夢を見た。

知らない人。名前も思い出せない。けれどこちらに向ける笑顔だけは、夢なのに確かに今の私の脳裏に焼きついて、前世ではない今の私の心臓を締め付けた。

前世の私は彼女のことが好きだった。
けれど、それを伝える選択をしなかった。

その理由を今の私は知らない。
ただ、馬鹿な男だな、とだけ思った。

自分の名前を呼ぶ声に、向けられる笑顔に、揺れる髪に、自分より小さな背丈に、叫び出したいほどの感情を抱えながら、口を噤むことを選んだ愚かな男。どんなに愛しても足りないと知っていたくせに。

『生まれ変わったら××の犬になりたい』

生まれ変わる前に恋人になってほしい、って言えばよかったじゃないか。
夜が明けるまで、彼女の酔いが覚めるまで、隣にいて話をしていればよかったのに。

彼女の夢を見て、朝が来て、目を覚ますたびに頬は濡れる。彼女の夢を見るたびに彼女を好きになる。
前世の自分の感情に引き摺られているのか、はたまた正しく今の私自身の感情なのか、判別は付かなかった。

どうであれ、遅い話だ。
彼女はきっと犬になってしまった。
金色の大きな犬にきっとなってしまっただろう。

なんて、苦い思い出。






休日になるたびにペットショップや譲渡会へ向かう。
きっと犬になってしまった彼女を見つけるために。

けれどどうしてかいつだってタイミングが悪くて、ゴールデンレトリバーは大抵一足先に別の飼い主に引き取られてばかり。その度に、きっと彼女ではなかったのだ、と思って自分を慰める。

彼女が犬になっても、私は彼女のことがわかるだろうか。
そんな疑問を抱きながら、彼女を探す日々だった。


東京都心の大きな街。ターミナル駅を降りて、ふと見た携帯にメッセージが届いていた。送り主は灰原。
どうやら前世でも友人だったらしい彼とは今世でも高校で出会い、大人になった今でもつきあいがある。照れずに言うのならば、親友と呼んでいい仲になっていた。

『ヤバい!靴下左右色違いで履いてきちゃった!』

どうでもいい連絡だったが、彼らしくて少し口元が緩む。確か今日は上京してきた妹と出かけるとか言っていたはずだ。彼に『アシンメトリーが最近のトレンドだから大丈夫ですよ』と適当に返信を返す。

別のトークルームを確認すると、五条さんから無駄に無意味に大量のスタンプが送られていた。いわゆるスタンプ爆撃。既読も付けずに、トークルームごと削除した。

携帯をジャケットに仕舞って、歩き出す。
大きな街なら大きなペットショップがあるから、もしかしたらと思ったのだ。毎週、休みが来るたびに似たようなことをしている。馬鹿だな、とは自分でも思う。これでは前世の自分を笑えない。

広い駅の出口から街を見渡す。行き交う人々の群れの中に紛れようとして、ふと階段を降りた先にある小さな広場へ目を向ける。

そこで、目が合った。

よく待ち合わせに使われている広場に立つ一人の女性。
戸惑いながら、助けを求めるような視線があたりを彷徨って、それが偶然彼女のいる方向を見た七海の視線とぶつかった。

その人は一人ではなかった。街路樹を背にするようになった彼女の前には男女二人組。
ナンパにあっている、というよりかは強引な宗教勧誘にあっているらしい。
引き攣った笑顔で二人に受け答えをしながら、どうにかこの場を離れようとしているらしいが、背にした街路樹に退路を塞がれて逃げられずにいるようだ。だからといって、目の前の二人の間を割って抜けていく勇気も出せないらしい。

視線を逸らさなかった七海に期待を抱いてか、七海と目があったその人は縋るようにこちらを見た。それから目の前の二人には見えないように手を下げたままさりげなく七海の方へ掌を向ける。

そのまま、彼女はまずゆっくりと親指を掌の方へ曲げた。それから残りの4本の指で親指を包むように拳を握る。
声が出せない状況下で使われる、国際共通のヘルプサイン。

明確に助けを求められて尚、見て見ぬ振りができるのなら、きっと七海はもっとずっと前に自分のことが大嫌いになっていた。

目を合わせたまま彼女へゆっくりとうなづいて見せれば、それだけでその人は酷く安堵したような顔をする。
足早に広場へ続く階段を降りる七海の頭の中で、親友である灰原が「やっぱり七海はそういう奴だよね」と嬉しそうに笑った。

……変だな。七海と灰原が出会った高校の指定制服はブレザーだったのに、今七海の頭の中でそう笑った灰原は黒い学ランを着ていた。そんな姿、見た事もないはずなのに。

人の流れに逆らって真っ直ぐに彼女の方へ向かう。そうして、彼女に話しかける二人組の背後に立った。
七海が来ていることに気が付いていない宗教勧誘の二人は相も変わらずその女性へ「次元上昇」だの「聖句」だのと何やら迫っているが、七海はわざとその話を遮るようにはっきりと腹から声を出した。

「先輩」

そう七海が言った瞬間、振り返った二人組は七海を目に映すと、ギョッとした顔をしてから、怯んだように半歩後ろに下がった。高い身長と恵まれた体躯、愛想のない顔立ちはこういう時に役に立つ。
七海は二人組を無視して、名前も知らない彼女へ話しかけた。

「いいですか、先輩。今貴女がいるのは東南口。私が待ち合わせようと言ったのは東口です」

彼女の待ち合わせ相手を演じて言った発言を、彼女は一瞬キョトンとした後、すぐに理解してくれた。

「あ、はは、ごめん、出口いっぱいあってわかんなくなっちゃって」
「いいから行きますよ。予約の時間がもう迫ってます」
「あ、うん、ごめん」
七海は二人組の間に手を突っ込むと、そのまま街路樹を背にしていた彼女の手首を掴んで、自分の方へ引き寄せた。決して強い力で握り締めないように細心の注意を払いながら。

それだけで二人組は観音開きの扉のように間を開けて、彼女を通す。男の方が何か言いたげな顔をしていたが、七海がチラリと視線をやるだけでぴたりと口を閉じた。

「急ぎましょう」
「うん、はい、あ、ありがとう、ございます」
「いえ」
腕を取ったまま、少し早足でその場を離れる。
そのまま、歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、あの広場からもう十分に離れたあたりで速度を落として、道の端で立ち止まった。
それから、ようやく彼女の細い手首を離して、振り返る。

「……急に腕を掴んですみませんでした。助けを求められたと思って行動したのですが、不要でしたか?」
早くあの場を離れようと歩調も合わせずに進んだせいだろう、彼女は荒い息を繰り返していて、七海が立ち止まった瞬間膝に手をついて深く息を吐いた。頭を下げた彼女の旋毛が七海の目に入る。

「……はあっ、は、あの、ありがとう、ございました。はっ、はぁ、ほんと、困っていたので、助かりました、本当に、ふー」
「すみません、歩調も合わせずに……」
「ああ、いえ!気に、しないで、ください。はあ、普段、ろくに運動、してないせいで、……」
「大丈夫です。ゆっくり息を整えてください」
「はい……」
そこで七海はようやくその人が10センチ弱程度のハイヒールを履いていることに気がついた。そんな人に平靴の上コンパスの違う七海の速度に合わさせるなんて無茶なことをさせてしまった。

少しずつ、彼女が息を整えるのを七海は静かに待つ。
それからようやく落ち着いたらしい彼女が、膝から手を離して顔を上げた。

「重ね重ねお恥ずかしいところをすみません。あの、先程は助けてくださって本当にありがとうございました」

そう言って彼女が笑ったのをこの目に写した瞬間、七海の視界の中で過去と現在がオーバーラップした。頭の内側から思いっきりぶん殴られたような衝撃に襲われて、言葉を失う。

……識っている。
私はこの笑顔を識っている。


『生まれ変わったら、××に可愛がられてる犬になって、いっぱい撫でられたりするの』


かつて、七海の記憶ではない記憶の中で、そう言って笑った人が、今、今の、今世の、今ここにいる七海の目の前にいた。

彼女だ。
……嗚呼、彼女だ!

かつての七海が心から愛し、今の七海が心から焦がれたその人が、今、現実、確かに目の前にいる。
目を見開いて驚いた顔をする七海に、彼女は小首を傾げて「あの、大丈夫ですか?」と問いかける。

その声。その声で私の名前を呼んでほしかった。ずっと、貴女に会いたかった。肩口で揺れる髪も、自分よりずっと低い背丈も、柔らかな声音も、夢の中でしか会えないと思っていた。毎晩眠りにつこうとするたびに貴女の夢を見たいと祈った。会えなくてもせめて、と。そう思いながら、それでもずっと探していた。どんな姿になっていても構わないと思いながら、ずっと貴女に会いたいと願っていた。

心臓が跳ね飛ぶ。
心拍数が上がる。
無意識に手が震える。
視界の端でチカチカと光が飛ぶ。
体が自分の支配から離れて、勝手に動く。

薄く開いた唇から、言葉がこぼれ落ちた。


「……どうして、犬じゃないんですか?」
「…………へっ?」












『中華がいいです!』

メッセージアプリに猪野から届いていた連絡を見て、七海はそういえば今度彼と食事に行こうという話をしていたのだったな、と思い出す。
イタリアンか中華か、決めて欲しいと言った話への返事だろう。
七海はチェーンのカフェ、窓際のテーブル席に座ったまま、片手で携帯を操作しながら返信を打つ。
わかりました、と打とうとしたのに緊張のために震える指はいうことを聞かなかった。

『わか。まひた』

打ち直そうとした指すら震えて、誤って送信してしまう。しまった、と思うより先に既読がついた。早すぎる。

『七海サンめっちゃ誤字ってますね笑』

『了解です!次インターンで出社するの水曜なんで、またその時に!』

素早く返ってくる返信に肩を落とす。
OJTとして後輩を指導したときは一番に「人様に見せるものでは誤字脱字に注意するように」と伝えるのに、これでは形なしだ。
息を吐いて、携帯の画面を落として、ポケットに仕舞う。


「すみません、お待たせしました」
ちょうどそのとき、注文カウンターのほうから彼女が戻ってきた。
手に持ったトレーには二人分のコーヒーと、いくつか見繕ったらしい菓子が乗っかっている。

「いえ、こちらこそすみません。運ばせてしまって」
「まさか、恩人ですもの。これくらいさせてください」
彼女はそう言って微笑んだ。
ずっと見たいと思っていた笑顔が、今の自分の目の前に当然のように存在している事実に目が眩みそうだった。


もしも迷惑ではなければ、助けてくれたお礼をさせて欲しい。

そう言った彼女の言葉に一も二もなく七海はうなづいた。若干食い気味で引かれたかもしれない。引かれても構わなかった。
とにかくその時の七海はこの出会いを一期一会のものにしまいと必死だったのだ。

「コーヒーありがとうございます」
「いえいえ、お礼を言うのはこちらです。あ、お菓子も是非どうぞ」
七海が軽く頭を下げると、彼女は両手を胸の前で振って警戒心のない顔で笑う。それから、ずずいっと七海の方へ寄せられたフィナンシェやクッキーといった個包装の菓子類。受け取らないのも失礼だろうと思い、七海はその中からレーズンサンドを選んで、ソーサーの上に乗ったコーヒーカップの隣にそっと置いた。

そうやって表面上はいつも通りを取り繕いながら、七海はテーブルを挟んだ向こう側に座った彼女を視界の中に映して、表情には出さないながらも感動に身を震わせていた。

なにせ、『居る』のだ。

夢にまで見た、というかむしろ、夢の中でしか見ることのできなかった憧れの人が今、自分の目の前にいて当然のように笑いかけてくるというシチュレーション。推しアイドルのバクステに当たったファンの如き興奮と緊張で、七海は彼女からは見えないテーブルの下で足を小刻みに震わせる。

そして、それになにより、と、七海は掛けていた眼鏡のブリッジの位置を震える手で直しながら思った。

彼女が今見つめているのは『私』だ。
あの意気地なしの前世の自分では無く、今ここにいる私だけを見てくれている。
そうだ、今の私は前世の私を通じて夢の中の彼女を見ているのではない。
今の私が現実の彼女を見つめ、現実の彼女が今の私を見つめてくれている。
そして、二人を遮るものは何一つして存在しない。

それを、ただそれだけのことを、一体どれだけ望んでいたことだろうか。


そんな七海の万感の想いなどつゆ知らず、彼女はすっかり恩人に気を許して、にこにこと笑う。

「えっと、七海さん、でしたよね」
「(……!?名前を呼ばれた……!)……ええ、そうです」
内心の動揺を隠しながら、七海は努めて穏やかな声を出して返事をした。

「よかった。七海さん、改めてになりますが、先程は助けていただきありがとうございました」
「……いいえ、むしろ明確にヘルプサインを出していただけてこちらのほうが助かりました」
周囲に助けを求めることが、容易いことのように思えてどれだけ難しいことなのか、想像に難くない。そして助ける側にとって「助けてほしい」という意思表示が手を伸ばす覚悟にどれだけ繋がるのか、改めて思い知る。
きっと彼女があのハンドサインを出さなければ、七海も見過ごしてしまったかもしれないのだから。

「伝わってもらえて本当によかったです。ありがとうございます」
彼女は本当に安堵したように胸元を手で押さえながら、微笑む。その笑顔だけで、彼女を守れたという事実だけで、七海こそが救われるのだときっと彼女はちっとも知りはしないのだ。

「いいえ、貴女が助けを求めてくれたからです」
「でも、実際助けてくれたのは七海さんですし」
「大したことはしていません」
「そんなことないです。あの場で私を助けてくれたのは七海さんだけですから!」
「……ですが、」
「……ふふふっ」
唐突に笑い出した彼女に、七海は思わず彼女の顔を見つめた。その柔らかい表情に、下げられた警戒に、心はたまらなく歓喜する。

「ふっ、あははは!ダメですねこれ、どっちも譲らないから、感謝合戦になっちゃいますねぇ」
独特な言い回しをして笑う彼女に、硬直していた精神が柔らかく解されるのを感じる。緊張のために震えていた七海の体もゆっくりと落ち着きを取り戻した。


「七海さんは本日どのようなご用件でお出かけされていたんですか?」
何かこの後用があるのなら早めに切り上げよう、と気を遣ってくれた彼女に七海は首を横に振って「大した用事ではありませんよ」と返した。

「ペットショップに行こうかと思っていたんです」
「なにか飼ってらっしゃるんですか」
「いえ、これからそうしようかと。犬を探していたんでます」
「犬がお好きなんですね」
そう言った彼女を七海は真っ直ぐに見つめながら、深くうなづいた。

「ええ、好きです」
本当は、貴女のことが。

「私も犬は好きですよ」
「大きい犬は好きですか?例えば、ゴールデンレトリバーとか」
「どちらかといえば、そうかもしれません。七海さんもですか?」
「ええ。大きな犬を飼おうと思っていました」
「「思っていた」ということは、今はそうではない、と?」
過去形に引っかかりを覚えたのか、彼女は重ねるように問いかけた。その言葉に七海は静かにうなづく。

「……はい。少し躍起になっていました。目的と手段を違えてしまったような……。人と人との出会いがそうであるように、あらゆる出会いはある種偶発的な、運命的な要素を持っています。ですが、私はそれを故意的に発生させようとしてしまいました。それを今になって反省していて、……つまるところ、そもそも犬を飼うかどうかを今考え直しているところなんです」
「そう、でしたか。詳しい事情は存じ上げませんが、七海さんは誠実な方ですね。飼うという選択をしたとして、きっと貴方の元で暮らす犬は幸せだと思いますよ」
彼女は穏やかに柔らかに、はにかんだ。

一息置くように彼女がコーヒーに口をつけたのを見て、七海もカップの持ち手に指をかける。心理学におけるミラーリング。七海は意図的に彼女とタイミングを寄らせてコーヒーを口にする。

「七海さんのおっしゃる通り、あらゆる出会いが偶発的で運命的であるのならば、私たちの出会いもそうなんでしょうか」
「そうであればいい。そうであって欲しいと、少なくとも私はそう思っています」
「出会いと選択こそが人生、とも言いますしね。七海さんが選んだレーズンサンド、美味しいって評判なんですよ」
「それは楽しみです。レーズンサンドも、私が今貴女とここにいる事も出会いと選択の結果ですから」
彼女は菓子の山からフィナンシェを選んで袋を開いた。真似るように七海もまた、手元に寄せていたレーズンサンドの封を開ける。手のひらよりずっと小さなそれを、七海は数えるほどの咀嚼で食べきった。
なるほど、彼女の言葉通り、美味しい。
微かに目尻を下げると、それだけで彼女は「美味しいでしょう」と自慢げに微笑む。


そうやって彼女と交わす些細な会話の何もかもが心地良かった。
もっと話をしたい。
もっと同じ場所にいたい。
もっと貴女を見ていたい。もっと、もっと。
彼女の些細な表情や仕草に目を奪われては、そのたびに心臓がぎゅうと掴まれるような甘い痛みを知った。
きっかけは夢の中の彼女だったとしても、今私は確かに目の前にいる彼女に心を揺り動かされている。そう、確信した。

「あの、」
と、七海は彼女の名前を呼んだ。彼女は咀嚼していたフィナンシェを嚥下して、一拍、「はい、どうしました?」と小首を傾げる。

駆け引きじみたことは苦手だ。
けれど何もせずにこのまま別れてしまったら、きっとあれだけ馬鹿にしていた前世の自分のことももう笑えなくなる。

七海はテーブルの上に裏返した名刺を置くと、それをそのまま彼女の方へ滑らせた。名刺の裏には七海の個人用の携帯番号。彼女がこの席に座る前に、書いておいたのだ。

「もしも私が貴女に一目惚れをして、こんなふうに自分の電話番号を教えたとしたら、貴女は私に電話をかけてくれますか?」

その人は驚いたような顔で七海を見つめてから、彼が差し出した名刺へ目線を落とした。
彼女は何も言わなかった。言わないまま取り出した携帯を操作して、それからすぐに耳に当てる。
七海の携帯が震えたのはそのすぐ後のこと。

七海は碌に画面を見ずにすぐさまその着信を取った。

『こういう答えは、どうでしょうか』
目の前の彼女の声と、電話口の向こうの声が少しだけズレて重なった。七海は電話を切らずに口を開く。

「嬉しいです、今すぐ貴女を食事に誘いたいほど。この後のご予定は?」
『ランチに行こうと思っていました。イタリアンはお好きですか』
「好きです、とても」
『ラグーとボンゴレが美味しいお店なんです』
「それは重畳。分け合いませんか。貴女が嫌でなければ」
『勿論です。私もそう言おうと思っていました』
それから2人示し合わせたように笑って、電話を切った。ぷつりと途切れた電子音は夢から覚めたように乾いた音だったけれど、変わらず七海の目の前には彼女がいて、彼女もまたこちらを見て微笑んでいた。
いつかの夢ではなくて、この瞬間の実在する現実として、今。

彼女はテーブルの上のクッキーの個包装を摘むと、手を伸ばして七海の着ていたジャケットの胸ポケットにそっと放り込んだ。

「七海さん」
「はい」
「思っていたのですが、敬語じゃなくていいですよ。きっと七海さんの方が年上でしょうし」
空にしたコーヒー。2人は椅子を引いて席を立つ。
七海はトレイの上に2人分のマグを乗せて持ち上げた。2人が立ち上がって並ぶとその身長差が明らかになる。七海よりずっと小柄な体を少し高いところから見つめて、撫でやすい身長差だな、と思った。
いつかそうしたかったように、犬のように柔らかそうなその髪をそっと撫でてみたい。
そんなことをぼんやり思いながら、七海は彼女に問いかけた。

「失礼ですが、ご年齢は?」
「今年で29になります」
「でしたら、私に対しては敬語を外していただいて構いませんよ。なんなら呼び捨てで。むしろ下の名前で呼んでいただけると嬉しいですね、先輩」
「…………えっ?」

返却口へトレイを返しに行った七海の背後から困惑したような声が一音だけ届いて、思わず彼女の見えないところで小さく笑う。

トレイを置いて、七海はすぐに彼女の隣へ並んた。
隣にいる彼女は七海に支えられなくても真っ直ぐに立っている。
彼女はゴールデンレトリバーじゃなくて人間として七海の隣にいる。

「あの、えっと、ごめんなさい……七海さん、年下なんですね……」
「いいえ、お気にならず」
「気にしますよ……」
「そう思われるのならば、尚更ぜひ私のことを呼び捨てで呼んでくれませんか」
「うぇぇ……それは……」
「謝ると思って、どうか」
「そう言われてしまうと……」
困ったように眉を下げていた彼女が七海を見て、何度か躊躇ってから口を開いた。

「えっと、七海……?」
「……はい」
ただ名前を呼ぶだけで照れたようにこちらを見上げる彼女へ言いたいことはいくつもあった。
子供がじゃれるような恨み事も。
花束を用意したいほどの愛の言葉も。

だから順番に伝えようと思った。
貴女がずっと恋しかったことは言えなくても、これからずっと貴女に恋をして生きていくことくらいは、きっと、すぐに言えるようになるだろう。

だから、大丈夫。

私はもう自分おまえと同じ轍は踏まない。


(2021.6.6)