祭りの後の後の祭り

◇祭りの後の後の祭り



昨夜の記憶が無い。
正確に言えばクソほど酒を飲んだ記憶しかない。

自宅のベッドの上でガンガンと痛む頭を抱えながら起き上がる。全裸だった。私は寝る時全裸派なので別にこれは大したことでは無い。
これで寝起きに隣に行きずりの男でもいたらラブロマンスでも始まっていたのかもしれないがそんなことも無かった。寝転がる私の隣には虚無しかない。

「ア゛ァァ頭いた………マジで痛いなこれ……」
呻きながら全裸で頭を抱える。マットレスに額をくっつけたまま、手探りであちらこちらへ手を伸ばして携帯を見つけ出す。画面をつけて時間を確認する。7:32。午後から高専に顔出さなきゃなんないにしては、早く起きてしまった。二度寝するか。痛む頭を押さえながらベッドから立ち上がり、家に常備しているウコンを飲む。これって酒飲む前に飲まないと効果ないんだっけ?まあプラシーボ効果で多少は効くだろう。
キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを手に取って流し込む。
仕事ある前の日の夜に酒飲むのやめよう。つか、酒飲むのやめよう。

私は18回目の禁酒を決意した。



昨夜は七海と猪野と飲んだ。えーっと、そうだ、任務先から近かった錦糸町で飲んだんだった。
後輩に飲ますのはアルハラになるから仕方なく同輩の七海にバカほど飲ませて、自分も飲まされて、……それ以降の記憶が無い。何も覚えてない。やべーな、次七海に会ったときにクソほど叱られそう。七海も全部忘れててくれないかな。あいつ酒強いからダメそうだな。
それでも自宅にキチンと帰ってくるのだから私は偉いな。すごく偉い。帰巣本能?

「家には帰れたのにメイク落としてないとか馬鹿かよ」
何も偉くなかった。フラつく足のまま洗面所まで行って顔面にオイルを塗りたくる。アンチエイジングって25越えたら始めた方がいいって本当かな。もう26なんだけど。四捨五入したら30じゃん。まあ、10の位の単位で四捨五入したら0歳だからいいか。現実逃避。
そのままシャワーを浴びて、着替えてうだうだしているうちにぼちぼち家を出ないといけない時間になった。
酔ってようが二日酔いだろうが、働かなくちゃならないのが社会人の辛いところだ。覚悟はできているか?俺はできてない。



「昨日大丈夫でした?」
「昨日より今日がやばい。二日酔い。今日電車で来たんだけど途中吐きそうになって2回降りた」
「ウケる」
「ウケんな」
高専で猪野と会った。一緒に飲んだわりにケロッとしている彼は私ほど馬鹿な飲み方はしなかったらしい。そういうところ要領がいいのだ、この後輩は。

昨日の任務報告書の内容合わせのために、執務室のソファで向かい合いながらああだのこうだの言いながらパソコンを弄る。そのうち七海も来るだろうから、彼にも確認してもらおう。
ある程度まとまったところで、不意に猪野が切り出した。

「……あの、苗字サン昨日のこと覚えてます?」
「酒飲んだ」
「雑過ぎでしょ。そうじゃなくてもっとさあ、大イベントがあったじゃん」
「生きてるだけで毎日が大イベントだよ」
「すーぐそうやって適当なこと言う」
昨日の記憶なんて正直何も無い。なんかやらかしたんだろうか。腕を組んで考え込む。

昨日……昨日……七海のグラサンでケント・デリカットしたら猪野に全然伝わんなくてジェネレーションギャップにショックを受けた記憶しか思い出せなかった。
思い出さんでいい、そんな記憶。
前に飲み会でそれやって「ケントだけに!」つったら五条さんと酒入ってる硝子さんには大爆笑されたのにな。悲しい。

そんな苦い思い出に顔を顰めていると、猪野が若干の焦りを滲ませた表情で言葉を続けた。

「あの、もしこれを忘れてたらヤバいんですけど、昨日苗字サンは、」
猪野がやけに神妙な顔で何かを言いかけたその時、七海が執務室に入ってきた。

「……お疲れ様です」
「あ、七海サン!お疲れ様です!」
「お疲れ、七海。声カッスカスじゃん」
「……酒焼けです。久しぶりに悪酔いしました……」
私が座っていたソファの隣に座ると、七海は深く深く溜息を吐いた。明らかに顔色が悪いし、いつも以上に草臥れている。これは二日酔いだろう。仲間を見つけて私ははしゃぐ。

「おっ!七海も二日酔い仲間じゃん」
「……ハァ……昨日錦糸町で飲んだじゃないですか」
「そっすね」
「朝起きたら久里浜の海岸にいました」
大爆笑。となりに座る七海の背中をバシバシ叩くと七海の眉間の皺が深くなった。これ以上やったら殴り返されるなというボーダーラインの直前でやめて、七海の肩に腕を回す。

「あは、あははは!マジで?わはは!超ウケる。なんで総武線乗ったの?七海帰るなら半蔵門じゃん」
「わからないです。本当に何の記憶もない。朝日がすごく綺麗でした」
「よかったね。飲み会での鉄板ネタが出来たじゃん」
「貴女と違ってそういう体の張り方してないんですよ」
「私もしてないわ」
大爆笑する私と、いつも以上にテンションが低い七海。
それをそんな私たちを見て顔が強張っている猪野。

流石の猪野も泥酔した七海の痴態を知ってドン引きなのだろうかと思っていると、猪野は「えー……マジかぁ……」と小さな声で呻きながら頭を抱え始めた。

「どうかしましたか、猪野くん」
「ドン引きした?そうだよ、君が思うほど七海はちゃんとした大人じゃないんだよ」
「貴女にだけは言われたくない」
「なにおう」
「いや、それは全然大したことじゃないんですけどぉ……」
猪野はそのへんになんかすごい複雑な動きをする虫でも飛んでるのかってくらい視線を彷徨わせてから私たちに尋ねた。

「……あの、2人って昨日のことどこまで覚えてます?」
「3人で飲んでたところまでです」
「同じく」
「……区役所ってワードに身に覚えとかないですか?」
「いや?役所とかここ最近行ってないし」
「まずなかなか用がないですからね」
そう答えた私たちに猪野は戸惑いと恐怖と半笑いが混ざった複雑な顔をした。どういう感情なのか全然わからない。

「……昨日、行ったんですよ」
「誰が?」
「俺ら3人で」
「どこに?」
「区役所に、です」
「なんで?」
「……あの、2人とも落ち着いて聞いてくださいね」
「そう言われて落ち着けた試しが無いんですが」
「なに?怖。いっそ聞く前に暴れてやろうかな」
「苗字、ステイ」
「にゃん」
猪野は軽く咳払いをすると、意を決したように口を開いた。

「七海サン、苗字さん」
「はい」
「うん」
「ご結婚おめでとうございます」
「…………は?」
「…………えっ?」
その時の猪野の表情は、先輩の結婚を祝うというよりかは、余命を告げる医者の表情に近かった。

「…………結婚?」
「結婚です」
「誰と誰が?」
「七海サンと苗字サンが」
「いつ?」
「昨日の夜っす」
「何故?」
「さあ……?結婚したいって言い出した後に俺にゼクシィ買いに行かせて居酒屋で婚姻届書いてそのまま区役所に提出してましたけど……」
「バカの行動力じゃん」
「結婚するにしても後輩にゼクシィ買わせるとか最悪すぎるんですが」
「昨日の私たち何してんの?」
「……ダメです。本当に何も思い出せない」
自問自答に考え込むが本当に何も思い出せない。それは七海も同じだったらしい。吐き気を堪えるような表情ででそう呟いていた。

「猪野、これほんと?なんかの冗談だったらマジで殴るよ、七海が」
「殴りませんよ。殴るとしたら苗字の方を殴ります」
「なんでだよ」
「いや、俺がお二人にこんな嘘つくわけないじゃないですか……」
猪野が一番悲痛そうな顔をしていた。どうやら私たちが本当に全てを忘れているとは思ってもいなかったらしい。猪野は携帯を取り出すと、何やら操作してからその画面を私たちに見せてくれた。

画面には一枚の写真があって、その中で区役所の夜間提出窓口と思われる場所の前で婚姻届を手にこちらへ向かって仲良くピースする私と七海の姿があった。死にたい。七海も今すぐ死にたそうな顔をしていた。

「エビデンスを出すな……逃げ場を失ったじゃん……」
「……猪野くんは本当に何も悪くないのでこんなこと言いたくないんですけど、どうして止めてくれなかったんですか」
「2人とも本気っぽかったんで……俺が知らなかっただけで実はそういう仲だったのかなって思って……」
「酔った人間の発言なんか本気にしちゃダメだよ。次の日には忘れてるんだから」
「私たちのように」
それきり、3人黙り込む。私は半笑いで2人の顔を見つめるほかなかった。自分ごとじゃなかったらめちゃくちゃ面白かったのにな。今からでも他人事にならないかな〜。現実逃避。その最中にふと思う。

「えっ、じゃあ今の私って苗字じゃなくて七海なの?それとも七海が苗字なの?」
「七海サンが苗字サンです……。苗字サンが名字変更の手続き面倒臭いって言ったら七海サンがじゃあって……」
「えっ、七海優し………」
「勘違いしないでください。夫婦別姓さえ碌に選べないクソな社会への諦観であって貴女への優しさではないので」
「七海サンそれ昨日も言ってました」
「なに?ツンデレ?」
七海を見つめると視線も合わせずにわざとらしく大きな溜息をつかれた。

「猪野くん」
七海は私を無視して後輩に話しかける。
「……昨日何があったのか、順番に詳しく説明してもらえませんか?」
「……了解です」
猪野は任務中か?ってくらい真面目な顔で昨晩の私たちのとんでもないやらかしについて話してくれた。







◇猪野が知っていることについて



昨夜の話である。

「最初はビール。それから適当に3、4杯。軽く酒が入ったところでハイボール、日本酒2杯、それからもう一度ビールを入れて、ウイスキーと焼酎。その順番で飲ませると七海は確実に酔う。猪野も覚えておけよ」
「世界のバグ技じゃん」
猪野はその夜初めて七海が酔うところを見た。

テーブル4人席で猪野の正面に座る七海に普段の精悍な表情はない。
矢で射るような鋭い眼光は熱を持ったようにとろりと溶け、時折くらくらと頭を揺らしながらテーブルに置かれていた醤油瓶の裏に書かれた成分表を熱心に読み込む七海に普段の聡明さは少しもなかった。

「活字中毒だから文字があったら読みたくなるんだろうな」
「活字中毒っていうか普通なら急性アルコール中毒になってるところですけどね、このハイペースな酒の量。あー、七海サン、大丈夫っすか?とりあえずお冷頼みますね」
「バッカ猪野お前これからが楽しいんだよ。な!七海!次何飲む?カルーアミルクでいい?カルーアミルク飲んでる七海という絵面が面白そうだからそれにするね」
「……遺伝子組み換えでない……野田市……」
「七海サン、醤油瓶しか見てないんですけど」
「ウケる」
「いやウケてないでください」
肩を組んで隣に座る七海に引っ付く苗字もなかなかに酔っていた。

任務終わりの20時過ぎ。仕事を終えた3人で軽く飲みにでも行こうかという話になって入った錦糸町の居酒屋で3人は軽く、どころではなくガッツリ飲んでいた。3人とも明日も仕事があるのだが、そのことはすっかり頭に無い。社会人という皮を脱ぎ捨てて、今はただのアルコールの魔力に堕落した哀れな人間となっていた。人は愚か。これには神も大洪水不可避。

シラフの猪野だったら流石に止めていたが、彼も彼でなかなかに酔っていたので、苗字が七海のために注文したカルーアミルクに追加でロックのウイスキーを流し込んだグラスを七海に飲ませているのを見過ごした。
見過ごしたというか、また苗字サンがなんかしてんな〜くらいにしか思えない程度に判断能力が低下していたのだ。七海も七海で受け取ったグラスを水でも飲むみたいに流し込んだ。味の判断さえ出来ていなかった。

「苗字、このカルピスなんか甘いんですけど」
「それラッシーだから」
「そうでしたか。失礼しました」
「いいってことよ。醤油いれてみ?みたらし味になる」
「入れました。ウニの味がします」
「やべー酔っ払いしかいねぇ」
猪野は半笑いで先輩2人を眺める。猪野は酔っていたがまだ理性もあったので流石にこの辺で自分がやめておかないと本当に2人のストッパーがいなくなるな、と思って酒のペースを落とした。

「そういや、お二人って同期なんですよね?」
「そうそう、ブーギーウーみたいな感じ」
「全然意味わかんないですし、ブーギーウーって言われて「あっ、はいはいサンリオキャラクターのね」ってなる人ほとんどいないですからね?」
「でも猪野はわかってくれるじゃん?そゆとこ好き……付き合う?付き合っちゃう?私、実はずっと琢磨きゅんのことが好きでした!付き合ってくれろ!」
「すみません、俺幼少期の頃のトラウマで巨乳が怖いんですよ」
「『波よ聞いてくれ』?誰の胸がグングニルだ。つか、それじゃあ七海もダメじゃん!」
「七海サンはいいんですよ。あっ、これ伝わります?トラウマを経てもなお七海サンのことは特別っつーか、別格つーことが。へへっ、照れますね。まあ別にトラウマとか無いし断りのためのその場限りの嘘なんですけど」
「苗字、その中だと私がブーですよね?」
「もうその話終わったわ!つか七海はどっちかっていうとギーだよ!うるさ!もう七海嫌い!私より胸囲のある男嫌い!」
「私は好きですよ」
「えっ……?トゥンク……これが恋の始まり……?」
「正直胸のある女性に惹かれるものはあるというか」
「胸の話かよ!帰れ!財布だけ置いて帰れ!自分の胸揉んでろ!」
苗字は七海に肩パンをすると、すぐに叩いた手を押さえて涙目になった。叩かれた七海より、叩いた苗字の方がダメージがあったようだ。ノーダメージの七海は平然とウイスキー増し増し醤油入りカルーアミルクを飲み干す。


「えーーん!結婚したい結婚したい〜!」
唐突に苗字はテーブルに突っ伏すと机の下で足をばたつかせた。猪野の隣の空席の椅子が苗字に蹴られて少し動く。
「なに?20代半ばに差し掛かると唐突に来る凄まじい結婚願望何?周り誰も結婚してないのにすごい結婚したい。何この欲求。なんで?知らん」
「わかります。この歳になるとごくたまにものすごく結婚したくなりますよね。なんなんでしょうね、この衝動」
「えー?そんなに結婚したいもんっすか〜?俺はまだ遊んでたいっすけど」
「坊やだからさ」
「先日以前働いていた会社の後輩から結婚式の招待状が来たんですよ。その時が最高潮に結婚願望強くなりましたね」
「マジ?行った?」
「いや普通に仕事だったのでご祝儀だけ渡しました」
「やさし〜!偉〜!えらえらえらえらエラ呼吸!」
「は?肺呼吸ですけど」
「七海サン、落ち着いて、ただの酔っ払いの妄言ですから」
苗字はウイスキーのグラスを揺らして氷を転がすと、深く溜息をつく。そのどこかアンニュイな表情に、猪野は(この人なんで喋ると全てが台無しになるんだろうな)と思った。

「結婚したい……」
「わかります」
「結婚するか」
「しますか」
「…………えっ?お二人が?」
「今思ったけど需要と供給じゃん。灯台下暗し?頭の上の眼鏡?その辺においた携帯?みたいな?」
「言いたいことはわかるんですけど、何言ってるか全然わかんないっす」
「どうよ、七海。お前から見た私は」
「100点満点中500億点です」
「はいこれは挙式」
「わー、おめでとーございまーす」
その時の猪野は彼らの発言を本気にしていなかった。
これまでの発言同様に酔っ払いの妄言だ、と。

「七海、財布」
「はい」
苗字が差し出した掌に七海は躊躇いなくジャケットの内ポケットに入れていた財布を出して渡す。苗字は受け取った財布をそのまま猪野の前にポンと置いた。
「えっ?なんすかこれ。えっ、フェラガモじゃん!」
「猪野ちょっとコンビニでゼクシィ買ってきて」
「俺が!?七海サンの軽く10万はしそうなフェラガモの財布で!?コンビニに売ってる300円のゼクシィを!?」
「あれ毎号婚姻届ついてくるんでしょ?今書こ」
「そんな急に言われても印鑑なんてありませ、……ありました」
「何故か私も持ってるんだよなあ」
「マジで買ってきていいんですか!?この財布で!?」
「あれそんな高い財布なの?」
「忘れました。300円くらいじゃないですか?」
「んなわけないっしょ!」
猪野は大切そうに七海の財布を両手で抱きしめると「命に変えても守護ります」と真剣な表情で告げてから、居酒屋を出て行った。その背中に「いや命のほうを大事にしてください」「なんだあいつ」と温かい声をかける。

「猪野面白いな」
「ええ、明るく健康的で、見守りがいのある後輩ですね」
「おいおいおいおい私というものがありながら他の人類見てんじゃないわよ」
「ああ、すみません。お詫びに焼酎イッキします」
「キャッキャッ」
「ただいま帰りました」
猪野が帰ってきた。

「早ッ」
「早いですね」
「いやコンビニ隣なんで」
猪野は卒業証書みたいに丁重に七海に財布を返したが、七海はそれを礼と共に受け取ってから適当にジャケットに突っ込んだ。
「で、買ってきましたけど、ゼクシィ」
「猪野ありがと。ほら財布もちゃんとお礼を言って」
「ありがとうございます、猪野くん」
「七海サン、まだ間に合うので七海サンを財布扱いする人と結婚すんのやめた方がいいと思いますよ」
「いえ、私が苗字の財布なのは事実なので」
「……つまり弱みを握られているんですね?」
「まあ、惚れた弱みというやつですね」
「あっ、あー、はいはい、なるほど、お二人はそういう関係なんすね。理解しましたこの世の森羅万象を」
「付録でなんかポーチついてきた。七海にあげるね」
「ありがとうございます。家宝にします」
「えっ、重ッ、何?怖ッ」
そんなこんなでピンク色の婚姻届を取り出した2人は騒がしい居酒屋の中、頭を寄せ合ってペンを握った。

「「夫になる人」……?つまり私のことだな」
「いえ、私のことです」
「私かもしれないじゃん!」
「わかりました。公平にグリンピースで決めましょう」
「グリンピース!」
「グリングリンチョリン」
「チョリンチョリンパリン」
「ドン!」
「あーん!負けたァ!」
「じゃあ私が夫ということで」
「たまに交換してね」
「いいですよ」
「……そういう制度でしたっけ?それ」
緩い会話をする2人に猪野は思わず突っ込んだ。


「新しい本籍どうする?皇居?県立カシマサッカースタジアム?」
「鹿島アントラーズのホームスタジアムじゃないですか。なんすか、そのアントラーズファン同士の結婚みたいな本籍のチョイス」
「明治神宮球場でも東京ドームでもどこでもいいですよ、苗字に任せます」
「よっしゃ任せな、すべてを」
「部外者の俺が一番不安。結局苗字サンどこにしたんですか?」
「霊園」
「霊園!?」
「結婚は人生の墓場とも言うし」
「言いますけど!」
「名字どうする?私が変えてもいいけどそうすると手続きとか色々面倒臭いな」
「じゃあ私が変えますよ」
「七海、いいの?」
「構いませんよ。夫婦別姓さえ碌に選べないクソな社会への諦観ですから」
「諦めないで」
「真矢みき」


「私たちが書くべきところは全て埋めて、残りは証人欄だけですね」
「猪野、印鑑持ってる?私たちの人生の連帯保証人になって」
「借金背負わされそうな言い方やめましょ?つか俺そんな都合よく印鑑なんて持ってな、……あった」
「助かります。ありがとうございます、猪野くん」
「えへへ。あ、でもこれ欄が2つありますよ?俺の他にもう1人誰かに書いてもらわないといけないみたいっす」
「ああ、本当ですね。困りましたね」
「誰かー!印鑑持ってる人いないー?婚姻届書いてるから証人になってほしいんだけどー!」
「いや、苗字サン、居酒屋でそんな都合よく印鑑持ってる人なんて、」
「あ、オレ持ってますよー」
「て、店員さん……!」


そんなんこんなで婚姻届が書けた。書けてしまった。
ノリノリで書いたものをそのままゴミ箱に投げ捨てるわけもなく、彼らは明るい夜道を歩いて、近場の区役所まで辿り着く。

婚姻届を提出に来たのだ、と夜間窓口の当直担当の職員に告げると、職員は彼と彼女の選択を微笑んで祝福してくれた。
「わあ、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
職員は自分事のように嬉しそうに笑った。が、そのあと微かに頬の赤い七海と苗字を見て「……酔ってます?」と不安げに問いかけ、言外に2人が本当に理性的に出した結論であるか否かを確かめようとした。が、七海も苗字も大人特有の対人用外面で職員の不安を蹴り飛ばした。

「いやいや、酔ってないですよ」
「ええ、少しも酔っていません」
「そうですか?それならばいいんです。……実はですね、以前酔った勢いで夜間に婚姻届を提出して、その翌日にすごい形相で取り消ししてくれって言ってきた方がいらしたものですから、つい」
「へぇ、そんな困った人もいるんですねぇ。ま、私たちには無縁の話だね、七海」
「勿論です、苗字。貴女とはもう10年近い仲ですよ。今更そんな後悔なんてするわけがないじゃないですか」
七海と苗字は顔を見合わせて満更でもない顔でそう言い合った。

翌日の自分達のことなど、2人は知るよしもない。

「せっかくですし、記念に写真でも撮ります?」
婚姻届を提出しようとする2人に猪野がそう言ったのは完全な善意だったし、酔っ払い2人も善意だと認識した上で彼が向けるカメラへピースをする。
それから祝福の言葉を受けながら2人は確かに婚姻届を提出した。

写真に映る苗字は笑っていて、その隣に寄り添う七海も珍しく柔らかな表情をしていたものだから、(2人とも幸せそうでよかったなぁ)と猪野はその時確かに思っていた。

思っていたのだ。



・・・
・・




「と、いうのがコトの顛末です」

高専の執務室で話を終えた猪野は、自分が犯したとんでもない罪を告白するような顔をしていた。勿論、実際のところ猪野には何の罪もない。
今はただ、酔った勢いで法的拘束力を持つ大きな契約をしてしまった愚かな私と七海だけが頭を抱えていた。

「ロールバックロールバックロールバック」
「もうコミット済みなんですよ」
呻く私に七海は感情の死んだ声で答える。結果にコミットというか、結果がコミットしてしまった。

「マジか〜結婚しちゃったか〜」
ソファに背中をベッタリと付けたまま天井を仰ぐ。
正直なところ、猪野に話をされても未だに自分が婚姻届を提出したという記憶が蘇らないせいで宙ぶらりんな感覚のままである事実は拭えない。
果たしてそれは七海もなのだろうか。

天井を仰いだままチラリと視線だけで七海の顔を盗み見る。普段から深い眉間の皺はもう溝とか亀裂と呼んで良いものになっていた。そのしかめっ面に少し笑う。
しかし、七海のことが好きな私はともかく、七海は私みたいな粗雑で可愛げもなく、その上恋愛的に好きでもない相手となんて絶対結婚したくなかっただろう。可哀想なことをしてしまった。離婚って最短いつ出来るのかな。早めにしてあげよう。七海の戸籍にバツをつけてしまうことになるから申し訳ないけど。
七海への申し訳なさと起こってしまった事象のどうしようもなさに思わず半笑いしながら七海に頭を下げる。

「……あー、なんかごめん。七海は好きでもない相手と結婚したくなかったよね」
「エッ」
私がそう言った途端にびっくりしたような声を出したのは猪野だった。七海は眉間に深い皺を寄せたまま「は?」と言った。え、何、怖。

「…………私ではなく、貴女の方こそ好きでもない相手と結婚なんてしたくなかったんじゃないですか」
「え?私七海のこと好きじゃないなんて言ったっけ」
「好きじゃないわけじゃないとも言われてませんが」
「好きじゃないわけじゃないわけがなくない?」
「……??……ちょっ、ちょっと七海サンも苗字サンも待ってくれます?好きじゃないわけじゃないわけじゃないってつまりどっちっすか?もっとわかりやすく言ってください」
「好き」
「私も好きです」
「あ、ハイ、ご結婚おめでとうございます」

パチパチと拍手されるのにつられて両腕を広げれば七海も同じように広げてくれたので、お互いの胸と胸を合わせて正面から抱き締め合う。
ぎゅうと抱き締めた腕に力を入れると七海の胸と私の胸の筋肉と脂肪が互いの肺を圧迫しあって普通に苦しかったので早々に距離を取る。乳圧やば。口に出さないだけで七海も、見ていた猪野も同じことを思っていたと思う。ヤマアラシのジレンマってこういうことか。多分違うと思うけど。

「……あれ?これって落着した感じ?」
「……よくわからなくなってきましたね」
「でも昨日お互い同意の上で婚姻届出して、今もお互いの気持ち確かめ合ったんですよね?まだ何か問題とかあるんすか?」
冷静な第三者である猪野からそう問われて考える。
事象だけを並べ立てると実のところは特に問題などなかったりする。私と七海は顔を見合わせた。
そうして私の感情的要因から確認しても、特に問題はないのだ。

「……苗字」
「うん?」
七海に名前を呼ばれて答える。すると彼はいつも通りの、つまりはやや影のある陰気な無表情のまま口を開いた。

「とりあえず職場ではこれまで通りの旧姓でよろしくお願いします」
「あ、うん、はい」
七海はそれだけ言うとすっかりスリープモードになっていたパソコンをつけなおして、彼が来るまでに私と猪野で書いていた報告書に目を通し始めた。

……これはつまり、そういうことなのだろう。

「……ツンデレ?いや、クーデレ?」
「引っ叩きますよ」
「でも私のことは好き?」
「…………」
「肘の全然痛くないところすごい抓るじゃん」

照れ隠しなのかそうじゃないのか、肘の裏側のちっとも痛くないところをもぎゅもぎゅと抓ってくる七海に思わず笑ってしまう。

そういう素っ気ないんだかそうじゃないんだかよくわからないところも、好きだよ。







◇猪野が知らなくて、2人が忘れてしまったことについて



これは七海と苗字が夜間に婚姻届を提出した後の話だ。


「あ、俺そろそろ帰んないとです」
「えー、猪野帰っちゃうの」
ポケットから取り出した携帯に表示された時刻を見てそう言った猪野に、苗字はつまらなそうに唇を尖らせた。
その唇を見た七海はほとんど無意識に彼女の尖らせた唇をむにっと指先で摘む。それはシラフの時ならば絶対にしない暴挙だったが、その場にいる人間は全員大なり小なり酔っていたため、誰も七海の行動に反応しなかった。

「いや俺最近深夜ドラマにハマってて、そろそろ帰んないと時間に間に合わないんで」
「なるほど、それは急いで帰らないといけませんね」
「ヤバいじゃん。ダッシュしな、ダッシュ」
後輩の帰宅をあっさりと受け入れた七海に、猪野は苗字からは見えない角度で彼にパチパチとウインクをした。邪魔者は退散して2人きりにするからあとはよろしくどうぞ、といった意味合いだろう。猪野は気の遣える後輩だった。

七海は可愛い後輩がこの場にいることを邪魔だとはほんの少しも思わなかったけれど、その善意からの配慮を無碍にするような人でもなかったから、「お疲れ様でしたー!」と笑って手を振る猪野に内心感謝しながら「気をつけて帰ってくださいね」と声をかける。

去っていく後輩の背中に大きく手を振ってから、苗字は彼女より背の高い七海を見上げてへらりと気の抜けた笑みを浮かべた。

「楽しかったねぇ」
「ええ、とても」
苗字は「にゃはは」とも「にゅはは」ともつかない笑い声を上げると七海の手を取ってぎゅっと握る。そうして2人は元来た道を戻るように、ゆっくりと歩き出した。

「んふふ、七海と結婚しちゃった」
「してしまいましたね」
「私でいいの?」
「貴女以外を考えたことなんてありませんよ」
「そうなの?知らなかったな」
「貴女こそ、私で良いんですか?」
「どうしてそんなこと聞くのさ」
「私は根暗で冗談の一つも碌に言えないですし、人としても男としても未熟で、貴女に釣り合うような人間だとはとても思えたことがないんです」
その言葉を聞いた瞬間、苗字は声をあげて笑う。それは七海の抱える不安を吹き飛ばすような笑い声だった。

「未熟なところ?例えば、私が手を握ってるのに握り返してくれないところとか?」
「……ああ、これは失礼しました」
彼がそっと彼女の手を握り返すと、苗字は「あらら、七海が完璧な男になっちゃった」と楽しそうに喉を鳴らした。それから七海の手を引いて、もう一度その掌をしっかりと握る。

「七海、不安なんて感じるだけ無駄だよ。私はずっと昔から君のことが一等好きなんだからね」

その微笑みと言葉が確かに七海に届いた時、彼は「生きていてよかったな」なんて大袈裟なことを心の奥底から思った。
自分の好きな人が、自分を好きでいてくれるということがどれだけ奇跡的なことなのか。愛が愛で報われる瞬間に、七海はその夜ようやく辿り着く。
彼がもう少し酒を飲んでいたら、あるいはもう少し自分の感情の制御が下手だったら、きっと落涙していたほど嬉しくて、彼女に対して恋とも呼べない淡い感情を抱いていた10代の頃の心が還ってくるような心地さえした。

「苗字」
「うん?」
「貴女は誰にでも優しくて、皆のことが好きだから」
「信じられない?」
「信じさせてくれませんか」
子供のわがままみたいな声音に苗字は嬉しそうに笑った。笑ってから、七海の手を握ったまま立ち止まる。つられて足を止めた七海の首裏へ空いている手を回すと自身の方へ引き寄せる。
苗字にされるがまま少し前屈みになった七海へ、彼女は少し背伸びをして唇を重ね合わせた。
ほんの数秒、ふれるだけのキスをした2人は近い距離で目と目を合わせて、互いの瞳の奥にある多幸感を知る。

「そんな可愛いことを言わなくたって、いつだってキスくらいしてあげるよ」
「面倒な私は嫌いですか?」
「大好きだってことをこれから嫌というほどわからせる」
「是非、何度でもわからせてください」
戯れるみたいにそう言っては笑って、2人はもう一度互いの唇を重ね合わせた。




これは2人のために足早で帰宅した猪野は知らないし、当の本人たちである七海も苗字ももうすっかり忘れてしまったこと。

この出来事を観測する者はおらず、記憶は忘却の果てで乾いた砂に還るとしても。

それでも、2人が物語のエンディングみたいに幸せなキスをしたことは誰の手にも消すことのできない事実なのだ。





(2021.6.28)