君は無傷のユートピア

※生存IF
※各種捏造設定多数




七海が術師を辞したのは春先のことだった。

昨年の秋に特級呪霊との戦闘で負った左半身の火傷は家入の治療によって街を歩けば一瞬人の目を引く程度におさまった。
けれど、蒸発して消えた左眼だけはどうしようもなく治らなかったのだ。

元より近接戦闘の、まして対峙した相手のごく一点に攻撃を当てなければ効果を発揮しない七海の術式において、遠近感を失うことは致命的だった。
低級任務から少しずつリハビリを続けていけばそれなりに勘は戻せたのかもしれない。けれど、おそらく勘を取り戻すより先に呪霊に殺されるほうが早いだろうと、七海は客観的に思考する。そう思うくらいにはもうかつてのような働きが出来なくなっていた。
遅かれ早かれ死ぬのならば少しでも多くの呪霊を祓って術師として死んだ方がいいときっとかつての七海なら考えたのかもしれない。けれど、今はもうそんなことは思えなかった。

意識不明の重体から目を覚ました時、泣きながら自分に縋りつく後輩たちがいて、その柔く優しい心に傷跡や呪いを残せるほど七海は非情にはなれなかった。それができたのならばそもそも、七海はきっと術師に戻る選択さえしていなかっただろう。

そのような経緯から七海は人生の比重の多くを捧げた術師を辞した。
惜しむ声はあれど、引き止める声は少しもなかった。いつでも顔を出してほしいという声にうなづきながら、きっとそんな日はないだろうと思う。

桜の舞い散る中、七海は遠い昔にそうした時の様に高専に背を向けた。
降り注ぐ淡い色合いの花弁と、遠くから聞こえる少年少女の声に戻らない青い日々を思い出しそうになって、目を伏せる。耐える様に過去を振り返ろうとする意識を掻き消して、その場を離れた。

緩やかで、穏やかで、どうしようもない行き止まり。

開放感は確かにあった。
それを押し潰すほどの罪悪感も、また。
呪術師という仄暗い世界に戻った時、七海はこの世界に骨を埋める覚悟を決めた。ここで生き、ここで戦い、その果てに死ぬのだ、と。それを良しとした。その道を辿る自分の在り方だけを良しとした。

けれど現実はそれを違えた。
傷を負いながらも壊れ切らない体と心を保ったまま七海は生きて、その世界を脱した。かつての覚悟を裏切ってしまった。死から逃げ延びてしまったことが何よりも哀しかった。
いつもそうだ。自分ばかりが生き残る。死にたかったわけじゃない。けれど、生き延びたかったわけでもなかった。死に時を失くして、あとは無意味に生を消費していくばかり。そんな自分のこれからが、これまでより良いものであるなんて思えるはずもない。

術師でない自分に価値を抱くことは七海にとって非常に難しいことだった。
術師ではない自分を許容することは、術師として生きてきた中で失ってきたあらゆるものをすべて否定してしまうことであるような気がした。

術師を辞することによって失った社会との繋がり。
何者でもなくなった七海は、日がな家に籠って積み上げていた本を読んでは、夜がくれば頭の中に巡り続けるあてどない悲観的な思考に襲われながら浅い眠りにつく。時間に追われることなく生活をすることを望んでいたはずなのに、食事をしても本を読んでも何も感じられない自分がいた。働いていた時よりよっぽど睡眠時間は確保できているというのに、その質は酷く落ちていた。眠ろうとしても眠れないから強い酒を大量に消費して無理やり意識を飛ばす。

そうすれば当然、毎日のように悪い夢ばかりを見る。
泥濘の中でもがき苦しむような夜を越え、朝日の中で目を覚ます。見た悪夢の内容は忘れてしまうとしても、悪い夢を見て感じた恐怖は火傷の痕のように現実を生きる七海に残り続けた。

そんな日々がずっと続いている。
ただ生きているだけで、息をしているだけで苦しかった。死ぬ理由がないから生きている。心臓が動いているから、生きているだけ。ただ惰性のみで生存を続ける日々。


緩やかで、穏やかで、どうしようもない行き止まり。


「電話帳の整理をしていたの。上から順に連絡して、繋がらなかったら消してしまって、そうでなかったら少しお話でもしようかと思っていたのよ」

懐かしい人から電話が来たのはそんな日々が一ヶ月ほど続いたとある日のことだった。唐突に電話をかけてきた理由を七海が問う前に彼女はそう言って笑う。
電話越しに聞いた懐かしい彼女の声は変わらず軽やかで、深夜のラジオのようにいつまででも聴いていられそうな音程だった。彼女は七海に問いかける。

「お元気かしら?」
その言葉に肯首するのは容易くて、けれどそれをしなかったのはある意味では七海の、七海なりの甘えだったのかもしれない。きっと今の七海でなければそうならなかったタイミングの合致が偶然にもその言葉を引き出した。

「……あまり、元気ではないかもしれません」
「まあ、そうなの」
掠れた七海の声に、彼女は変わらない声音で答える。

生きる理由も死ぬ理由も見失って、惰性で呼吸を続ける自分の現状が決して良くないだろうことは七海もわかっている。けれど、行き止まりの先に進めないからこうやって停滞の日々を繰り返すばかり。
蹲ったまま、立てなくなっていた。今という時間からもう進めなくなっていた。目の前に立ち塞がる行き止まりに手をついたまま、もう自分1人ではどこにも行けなくなっていた。

「ねぇ、今日の夜は空いてる?」

そうやってひとりで蹲る七海の隣に、何の前触れもなく彼女がやってきた。







苗字名前というのが先の電話の主であり、術師になる以前の七海を知る数少ない知人の1人だ。
彼女は七海の実家の近所に住む3つ年上の少女だった。両親が共働きのために家に1人になることの多かった彼女のことを、とあるきっかけで知り合った七海の母がいたく気に入り、ことあるごとに世話を焼いたのだ。そんな理由で彼女は頻繁に七海家にやってきて、当時まだ幼かった七海の姉のような存在となっていた。仲は良かったと思う。外で駆け回って遊ぶよりも、家の中で静かな本を読む方が好きだった少年時代の七海に彼女はよくよく付き合ってくれたことを今なお覚えている。

子供の頃の関係など、大抵は成長するにつれて一過性のものとなっていくものだ。けれど、七海と苗字の関係が大人になった今になっても細く長く続いているのは、年一程度の定期的な連絡を怠らなかった七海のまめさが理由であったし、先の電話に表れるような苗字のマイペースさが理由でもあった。

「美味しいイタリアンのお店があるのよ」
そんな電話越しの声だけで七海を久しぶりの外へ連れ出した彼女は、教えられたその店へ七海がやって来た時にはとうにテーブル席に腰をかけていた。入り口扉のベルが鳴った途端に顔を上げた苗字は、そこにいるのが七海だと気がついて手を上げる。

「なっちゃん、こっち」
真顔で黙ってその場に立つだけで周囲に圧をかけてしまうような、あるいは堅牢な砦のような七海のことを「なっちゃん」などと愛らしいあだ名で呼ぶのは世界中どこを探しても苗字だけだ。
大人になっても昔からのあだ名で呼ばれ続けることに鼻白んだことは多々あったが、邪気のない声とそこにある親しみに結局何も言えなくなって、微かな照れを感じながらもそれを受け入れてしまう。

「お久しぶりです、名前さん」
苗字名前は七海より3つ上の31歳の独身の女性だ。誕生日はまだ先だった記憶があるからまだ32歳ではない筈。七海が住んでいる場所から電車を乗り継いで1時間程度のところに居を構えているという話は以前に聞いていて、今も変わっていないのならばこの店の近くに住んでいるのだろう。
久し振りに会う苗字の姿を見て、その顔や体つき、そして髪や化粧、纏う衣服もその全てが彼女という人間に噛み合っている、と七海は思った。そしてそれが結果的に彼女の美しさを完璧に引き立てている、とも。

苗字は人好きのする笑みを浮かべたまま「久しぶり」と七海の言葉を繰り返す。七海は彼女の腰掛ける椅子の向かい側に座り、苗字を真正面から見やった。
見つめられた彼女は同じように七海を見つめ返し、彼の片方だけになった目の色を懐かしげに見つめてやはり微笑む。
「最後になっちゃんに会ったのはいつだったかしら」
「確か2年ほど前だったかと」
そう語る彼女の目には七海の顔の左半分を覆う火傷の跡も、蒸発して失くした左目部分を隠す眼帯もまるで見えていないようだった。店内の明かりがやや薄暗いことを持ってしても、ほんの数十センチ向こうの彼女にそれらが見えていないはずもないのに。

「ここのブルスケッタがとっても美味しいの」
メニューを広げた彼女が「ちょっとオレンジ風味なのよ」と言うから、七海は「肉と合いそうですね」と返す。
それから2人でメニューを覗き込んで、アンティパストとブルスケッタ、トリッパのトマト煮にプッタネスカ、それから赤ワインをボトルで頼んだ。

「春になったのにまだ少し寒いわね」
「そうですね、朝晩は特に」
「体調は崩してない?」
「ええ、おかげさまで」
「なっちゃんのお母様が、息子が全然連絡を寄越さないと嘆いておられたわ」
「……そのうち電話します」
離れていた時間の溝を埋めるような当たり障りのない会話を交わす。互いに無理をすることもないストレスのない会話に七海はここに来るまでに感じていた微かな緊張を無くす。彼女との会話は単純に心地が良かった。

彼と彼女が運ばれてきた食事を分け合い、ワインを何度も傾けた頃、七海は不意に決壊するように口を開いた。

食事中のワイン程度で酔うはずもないのに、それを口にしたのはきっと、七海の目の前にいるのが他でもない苗字だったからなのだろう。幼少期から七海にとって姉のような存在であった彼女ならば、きっとどんな話でも受け入れてくれると心の奥底で幼い頃の七海が顔を出して、そっと寄りかかるように甘えた。

「仕事を辞めました」
彼女が相槌を打つ前に七海は言葉を続けた。
「というより、怪我をして辞めざるを得なくなりました」
苗字は傾けていたワイングラスをゆっくりとテーブルに置くと、息を吐くように「まあ」と呟いた。

「労働そのものは嫌いです。それに付随する凡ゆるものもまた。今の私はそれらから逃れられたはずなのにどうにも息苦しくてならないんです」
七海の言葉に苗字は小首を傾げた。
「それは何が原因?」
「……仕事を続けたその果てに自分の結末があるのだと、思っていました。けれど実際はそうならなかった。つまるところ、……」
その先を口籠る七海に苗字は「……ゴールを見失った?」と支えを与えるように、七海の言いたかったことに限りなく近い言葉を口にしてくれた。

もう少しだけ七海が酔っていたのならば「死に場所を失った」と口にしていたかもしれない。けれど、苗字は七海がどんな職についていたのかを一切知らない人だから、七海の理性がその口を閉じさせた。
この世界には知らなくていいことがいくつもあり、まして彼女には知ってほしくないことも同じくらいたくさんあって、呪術師はその最たるものだった。

苗字は口元に手を当てると、なぞなぞの答えを言うみたいに微かに明るさの灯った声音で言った。
「つまり、なっちゃんはそのお仕事が好きだったのね」
「違います。そういうわけではありません」
キッパリと否定する七海に苗字は少し笑う。
「でも未練がある、と」
「多くのものを置いてきてしまったから。離れるとはそういうことですが」
「さみしい?」
「少し違って、どちらかと言えば、むなしいと感じています」
ブルスケッタは彼女の言う通り美味しかった。絶品と言ってもいい。けれど、それは一時的な慰めにさえなりそうにもなかった。心が乾いていくような、感受性が枯れていくような心地はもうずっと前から続いている。
何を食べても、何を読んでも何も感じない日々。摩耗した心が、疲弊している自分を自覚するごとにさらに摩耗していく悪循環から抜け出せなくなっていた。

苗字は変わらない穏やかな声音で七海を肯定する。
「悪いことではないわ。ある意味では当然の感情でしょう」
「この結果をきっと死ぬまで後悔するとしても?」
「後悔を抱えていくしかないのでしょうね、それこそ死ぬまで」
七海にとって苗字という女性は幼い頃からの優しい記憶の中の住人であり、平穏の象徴のような人だった。
だからこそ、そんな彼女の口から「死」という言葉が生まれたことに七海はどうしてか無性にショックを受ける。
術師ではない人生を生きる人の中にさえ、それが存在することは当然のことなのに堪らなく悲しくてならない。呪いなんてものがなくとも人は死ぬのに、そんなことさえ頭の中から消えていた。

彼女は掛けていたソファに背をつけると膝の上で指を組みながら七海へ言った。
「5年前に父が死んだの。その時に私は自分を構成するものの一部が欠けたような気がした。それが戻ってくることは永遠にないでしょう。穴の空いた自分を、今の自分だと受け入れることが私にできる唯一のことだった」
「それが今の私に最も近い感情です。ただ私は名前さんのように受け入れることができていない」
「時間が解決してくれる可能性はある?」
「解決したのならば、きっと私はそうである自分を許せない気がします」
これまでの日々が、失意が、苦痛が、悲哀が穏やかに流れる時間のよって風化していくのならば、それこそが絶望だ。忘れたくて逃げて、忘れられなくて戻ってきて、今は忘れたくないのにあの場所を離れる他に選択が無かった。

馬鹿らしい、矛盾だ。
死ぬことに悔いはないのに、生きていくことには悔いがある、なんて。

微かな沈黙の後に、苗字は七海を昔からの愛らしいあだ名で呼んだ。
「なっちゃん」
「……はい」
「ブルスケッタにトリッパ乗せたらすごく美味しいって知ってた?」
「美味しくないわけがないと知っていました」
七海の返答に彼女は嬉しそうに微笑む。

「今日は私のおうちにおいで。珈琲を淹れるわ。それとね、冷蔵庫にケーキがあるの」
「素敵なお誘いありがとうございます。誘拐犯みたいですよ」
「そうなの、なっちゃんを誘拐しようと思って」
「怖いですね。抵抗せず貴女に誘拐されることにします」
「まあ、嬉しい」
だからドルチェはその店では食べなかった。
誘拐犯が言うには冷蔵庫にケーキがあるらしいから。

店を出て、すっかり日の落ちた夜道を2人で歩いた。七海は何を言うわけでもなく彼女の左側に立って、彼女のゆったりとした歩調に合わせて歩く。視界の中にいて欲しかった。そこにいるのだと、ずっと証明して欲しかったから。

店から歩いて十分程度のところに彼女の家はあった。そこがマンションの一室ではなく、二階建ての一軒家であることに七海は少し驚いて、それをそのまま口にする。
「知り合いから格安で譲ってもらったの。だから一括でぱぱっと」
彼女の言う格安を具体的に聞いてみれば、それは相場の格安をさらに格安にしたような金額で、なお驚く。

「1人で住んでいるんですか」
「ええ、気ままに、自由に」
中古だというその一軒家の中は、けれどその内部は年数を感じさせないほど綺麗だった。曰く買ってすぐにリフォームしたのだ、と。
靴を脱いで家に上がれば、苗字は「そっちがお手洗い」「こっちが洗面所」と七海に説明しながらリビングへ向かって歩いた。

七海をリビングのソファに座らせた苗字はアイランドキッチンの向こう側で豆を取り出して、珈琲を入れる準備を始める。七海は物の少ないリビングを軽く見渡した。
リビングは広々としているのに、こざっぱりとしていて物は少ない。娯楽的なものはと言えば、壁にかけられた絵や写真、それから丁寧に世話をされた観葉植物程度だった。

「あまり物は持たないほうなんですか?」
「リビングだけは物を少なくしてるの。仕事上の来客もあるから。でも仕事部屋はすごいんだから。書籍と書類とで溢れてて、もう私にも片付けようがないの」
オーバーなその物言いに七海が少し笑うと、彼女も口角を上げた。
「二階を仕事部屋にしているけどその他に空いてる部屋が2つもあるの。客人用の布団を出すからなっちゃんはそこね」
珈琲の香りがキッチンの作業台から広がり、やがてリビングをゆっくりと満たしていった。

「書斎はどちらに?」
「リビングの横の、そっちの部屋よ。本が入りきらなくて、いくつかは2階の空いてる部屋に置いてるけど」
「それは空いていると言っていいんですか」
「置いてるのは大抵は読まない本ばかりだから」
「例えば?」
「献本とか」
「貴女が書いた本の」
「私は訳しただけよ。翻訳家ですもの」
「読みたいです」
「焼くなり煮るなり」
ソファ前のテーブルに珈琲を2つ運んだ苗字は再びキッチンに戻って冷蔵庫を開けた。きっと本命のケーキがそこにあるのだろう。取り出したホールのガトーショコラに彼女は慣れた手つきでナイフを入れた。そうして丁度いい大きさに切り分けた物を小皿に乗せて、それを2つ、フォークと共にリビングのテーブルへ置いた。彼女は七海の隣に腰をかける。

「いただきます。手作りですか」
「ええ。お口に合わなかったら私に見えないところでこっそり捨ててね」
「そんなことはしません」
そんなことはするつもりもなかったし、する必要もなかった。ガトーショコラは珈琲に、珈琲はガトーショコラにぴったり合うように作られたみたいに、完璧な双璧だった。あまり甘い物を好まない七海にとってもそれは丁度良い加減の甘さで、一日の最後に食べるものとして素晴らしいものだと思った。

「美味しいです」
「本当?よかった」
「たまにこうやって作るんですか」
「仕事の息抜きに。作るのは良いけれど、自分はさほど食べないからあなたが来てくれてよかった」
「わかります。作ることそれ自体がストレスの発散になるというか、作業をするだけで満足するから結果はさほど重視しないというか」
「そう。ただ頭の中を空にするために行う料理という作業が、たまに必要になるの」
きっと数ヶ月後には記憶に残らないだろう些細な会話をそうやって続けて、やがてコーヒーカップも皿も空になった。七海が洗い物を買って出ると苗字は微笑んで受け入れる。彼女はその間に客人用の布団を用意すると言って二階に上がっていった。

たった2人分の皿とフォークとカップを洗うのに時間はそうかからず、苗字が上から戻ってくるより早く七海は戸棚に各種を仕舞い終える。手持ち無沙汰な時間を、七海はリビングにかけられた額縁の中を覗くことで埋めた。

リビングの白い壁には静物画や風景画がいくつかかけられていて、その中の一つに七海の視線は寄せられる。
その小さな額縁の中には、幼い子供が書いたような異国の言葉が少し焼けた白い紙の中で踊っていた。


Hej
God morgen
tak skal du have
tak skal du have


デンマーク語だ、と七海にはすぐにわかった。
自身のルーツのひとつであるその国には両手で数えられるほどしか訪ねたことはないために発音にはそこまで自信は無いが、読み書きに関してはそれなりの経験があった。まして、そこに書かれた文字はごく一般的で日常的な言葉だったから。


こんにちは
おはよう
ありがとう
ありがとう


お世辞にも上手いとは言えない字で書かれたそれがどうして彼女の家のリビングにこうも丁寧に飾られているのかさっぱりわからないが、きっと彼女にとっては価値のあるものなのだろう。

「懐かしいでしょう」
掛けられた声に振り向くとリビングに戻ってきていた苗字が目を細めていた。洗い物への礼を言ってから彼女は七海の隣に立つ。
「なんのことですか」
懐かしいと言う彼女の言葉の意味がわからずそう問うと、苗字はむしろ驚いたような顔をして「覚えてない?」と七海に言った。

「これを書いてくれたの、なっちゃんよ」
七海は苗字の顔を見つめたまま「私が、ですか?」と首を傾げる。まるで記憶になかった。もう一度その文字を見つめて記憶を掘り返してみるが、やはり海馬のどこにもこれを書いた記憶は残っていない。

「子供の頃にね、私がなっちゃんにデンマークの言葉は知ってる?って聞いたら書いてくれたの」
そう言われてみれば自分の文字のような気がするけれど、子供の頃の下手な筆跡に今の自分の筆跡の面影はない。
「覚えてません」
「そうなの?残念だわ」
「それより、どうしてこんなものを今も残してるんですか」
こんなつたないものを、と七海が言えば、苗字は「可愛いでしょう」と酷く愛おしげにそれを眺めた。

「ここに引っ越す時にたまたま見つけたの。きっとあなたに書いてもらったのが嬉しくて残しておいたのね。改めて見たらすごく詩的に思えてつい飾っちゃった」
「子供の落書きでしょう。できれば今すぐにでも捨てて欲しいくらいなのですが」
「だめ。宝物なんだから」
そう言うだろうとわかっていたけれど、やはりすぐに却下されてしまった。

「もっと良い額縁に飾っていればよかったわね」
「結構です。十分過ぎる扱いですよ」
「デンマークの言葉は今でもわかる?」
「ええ、自分のルーツですから」
それから2人は代わる代わるにシャワーを浴びて、就寝の準備をした。
苗字に案内されて上がった二階の一室には布団が敷いてあり、壁際には大きな本棚がある。そこに彼女が手がけた本があるのだろう。七海はまず本棚の前に立って、目についた本を手に取った。異国の作家の名前の下に、訳者として苗字の名前が添えられている。
七海がそれを確認している間に彼女は部屋の窓を開けて「寒くなければ少し換気をしてね」と言った。

「ありがとうございます。至れり尽くせりで」
「家族みたいなものだから」
「今日久しぶりに名前さんに会ったのに、私もそんな気がしていて不思議な気持ちになります」
「昔からの関係って忘れないものね、案外」
家は好きに使って、と苗字は笑って部屋を出た。彼女の自室は一階にあるのだと、話の流れで聞いている。階段を降りる足音が遠ざかっていくのに耳を傾けながら、七海はどこか心地良さのある溜息を吐いた。

初めて訪れたはずの彼女の家は不思議なほどに居心地が良かった。波長がぴたりと合うような、チューニングしたラジオにノイズの混ざらないような、そんな透明な感覚。

いつしかすっかり夜更けと呼んでいい時刻になっていたが、少しだけ高揚した気持ちが抜けなくて睡魔は遠い。
彼女が開けてくれた窓縁に腰をかけて、七海は手に持っていた本をそっと丁寧に開いた。








仕事日だろうと休日だろうと7時半には起床するルーチンがいつしか生まれていて、苗字はいつものように目を覚ました。窓から差し込む光は明るい。今日は晴れなのだろう。布団から起き上がると少し涼しくて、寝巻きの上からカーディガンを羽織った。
朝食はあまり取らない。寝起きの体に固形物を詰め込むことが苦手で、大抵は珈琲だけで済ませてしまう。けれど、その日は自分1人だけではないことを思い出して、さてどうしようかとぼやけた頭で考える。

顔を洗って最低限の身なりを整えてから、苗字は二階へ上がった。迷うことなく客人の泊まる部屋に顔を出す。まだ眠っていたのなら一階へ戻ろうと思っていたけれど、その必要は無かった。

「おはようございます、名前さん」
開いた窓からは涼しい風が吹き込み、遠くバイクの走り抜ける音が聞こえた。七海は窓縁に腰をかけたまま、本を手に、顔を上げて苗字を見る。

「おはよう、なっちゃん。早起きなのね」
苗字がそう問いかけると、七海は黙り込んで、それから足元に積み上げられた5冊の本へ目をやった。それだけで苗字は七海が夜の間ずっと本を読んでいたらしいことを理解する。そして積み上げられた本の全てに苗字が関わっていることに気がついて苦笑した。

「まあ、取り上げておけばよかったかしら」
「少しだけのつもりだったんです。最初は」
「楽しかった?夜更かしは」
「最高でした。初めてフィリップ・マーロウを読んだ時を思い出すような気持ちです」
「そんなことを言われたら怒れないじゃない」
ちっとも眠くなさそうな七海が本を手放さないものだから、苗字はもう笑うしか無かった。
「外で朝食にしましょう。近くにパン屋さんがあるの。イートインもできて、珈琲が美味しいのよ」
「ええ、喜んでご相伴に与ります」

身なりを整えてから2人、家を出て降り注ぐ淡い光の中を並んで歩いた。色素の薄い七海の瞳には朝という時間はいつだって眩しくて仕方がない。目を開くだけで、揺れる木々が、その新緑が、飛び立つ小鳥が、街を往く人々が、変わらず視界の中にいる苗字が、世界の何もかもが瞬いて見えた。発光する感覚、というものがあるのならばこれがそうなのかもしれない。

いまはまだ朝方と呼んでいい時間帯。太陽はずっと低いところにあって、歩いていく道に日向は少ない。時折吹き込む夜の冷たさを残した風は、それでもやがて太陽に温められて消えていくのだろう。

昨夜七海が着ていた服は夜のうちに苗字が洗濯をして乾燥機にまでかけてくれていたから、七海は昨日と同じシャツに袖を通した。
「皺になっちゃってごめんね」と彼女は言ったけれど、今日のような何も無い平日の朝ならば、シャツは少し皺になっているくらいでちょうどよかった。

パン屋は苗字の家から徒歩5分程度のところにあって、彼女が起床するより前から既に開店をしていた。個人経営らしいその店の扉を開くと、温かな熱と鼻孔をくすぐる焼き立てのパンの匂いが2人を歓迎する。それだけで七海はそれまで気がつかなかった自分自身の空腹を思い出した。

苗字は入り口付近に置かれたトレイとトングを流れるように取ると、七海を振り返った。
「どれが食べたい?」
好きなのを選んでね、取ったげる、とカチンとひとつトングを鳴らして彼女が微笑んだから、七海はその時にはもう、この人は息を吸うように自分を甘やかす人なのだとわかって、何も持たないまま彼女のそばにくっついてパン屋の動線を巡る。
彼女の半身後ろを歩いて、七海は「あれを取って欲しいです」「これが食べたいです」と気になったパンをそのたびに彼女に伝えた。そうすれば彼女は柔い笑みを絶やすことなくトングで危なげなくパンを挟んではトレイへそっと移す。

平日の朝、そう人の多くないパン屋の動線をぐるりと回って、レジ前に辿り着いた頃、七海は苗字の手からトレイを取ってそれをレジに置いた。彼女が当たり前のように財布を出そうとするからそれを手で制して、イートインコーナーを指さした。

「一等いい席を取っておいてくれませんか」
そういえば彼女は財布から出したカードを七海に渡して「あっちで待っているわ」とトレイに乗った沢山のパンの上にトングを置いて、七海が指差した方へ歩いていく。彼女に渡されたのはこのパン屋のポイントカードだった。
七海はレジ台にトレイを置くと、それからカルトンに彼女から渡されたポイントカードを乗せた。会計をする店員に「バタールは持ち帰りでお願いします」と告げてから、レジ横に並んでいた袋詰めされたマドレーヌを1つ、「これもお願いします」とトレイのそばに置く。家に帰ってから彼女が珈琲と併せてこれを食べたなら、きっといい。そう思ったのだ。

支払いを終えて、イートインコーナーへ向かえば、苗字は窓際の2人掛けの席に座ってぼんやりとガラス越しの街を眺めていた。その横顔だけで、七海は完全だと思う。

苗字は以前会った時と変わらず穏やかな人だった。
人柄も性格も雰囲気も在り方も。
安定している、と言い換えてもいい。大きな起伏がなく、常に最良の状態を保ち続けているような、そんな人だった。少なくとも七海の目にはそう映っている。
それはなろうとしてなるものではなく、なんらかの過程を経てきた偶然の結果としての穏やかさのようだった。そこに七海は少しの神秘を見る。それは神様みたいなものでは無くて、海を揺らめく波がすべてパターンになっていることを知った時のような、そんな自然的な神秘の形だった。

「一等いい席ですか?」
七海はそう問いかけながら彼女の向かいに座れば、苗字はうなづく。
「新幹線も飛行機も窓際が好きよ」
「奇遇ですね。私もです」
パンの乗ったトレイを置く。テーブルにはイートインの客へのサービスとして用意された珈琲が2つ、湯気を立てていた。
窓の外を眺めながら朝食を食べ始める。会話は無く、ただ穏やかな静謐さに包まれながら、窓の外を往く人々をどこか遠い感覚で眺め続ける。
このパン屋からもう少し行けば商店街があって、その中に昨夜苗字と待ち合わせたイタリアンがあった。イタリアンのある商店街を北に抜ければ、各駅だけが停まる駅がある。七海は昨日そこから来た。それが今はもうずっと昔のことのように思えるのはどうしてだろう。

「良いところですね」
そう七海が溢した声を拾い上げて苗字は嬉しそうに破顔した。
「いい街でしょう」
「ええ、とても。貴女の暮らす家も含めて、とても素晴らしいと思います」
「気に入った?」
「非常に」
「暮らしたらいいのよ」
「私が?」
「ええ、あなたが、ここに」
本心からの賛辞ではあったけれど、そう返されるとは思っていなくてたじろぐ。けれど、すぐにそれもいいかもしれないと思ってしまった。
今住んでいる場所に居続ける理由もない。その理由はとうに手放してしまった。それでも住み続けていたのは離れる理由が無かったから。それはつまるところ、住み続ける理由がないことと同義だったのだけれど。

七海が本気にして黙り込んだのを見て、苗字は「私の家の二階が空いているの」と内緒話をするみたいに言った。それは願ってもないことだったけれど、七海は首を傾げて彼女に問いかけた。

「貴女はそれでいいんですか」
「どうしてそんなことを?」
「無職のうえ片端の男を置いて、貴女にメリットがないでしょう」
七海がそう言った時、苗字は一瞬、ひるんだように息を止めた。それから止めた息を吐き出すみたいに言葉を紡ぐ。

「そんなことは知らない。あなたはただのあなたよ。私の昔馴染みの男の子。一緒に暮らしたら楽しいだろうと思った。それだけよ。それ以上の理由なんて何もない」
彼女がいつもよりずっと早い口調でそう言ったから、なんだか七海は珍しいものを見たような気になった。七海の七海自身への物言いに少し怒ったのかもしれない。穏やかで安定している彼女が、ごく珍しく。
そう思い至ったからにはもう、七海はそれ以上自分を卑下するような物言いが出来なくなる。子供時代に叱られた時のように、少しだけ心が小さく柔らかくなった感覚のまま口を開いた。

「名前さんが構わないのならば、私にその提案を拒絶する理由はありませんよ」
「ええ、いらっしゃい。珈琲くらいしか出せるものはないけれど」
「十分過ぎるほどです」
「暮らしのことは生活しながら決めていきましょう」
「そうですね。暮らしの前に生活ですから」
七海の言葉に微笑んで、それからオレンジのデニッシュに齧り付いた苗字を見て、彼は少しだけ目尻を下げて珈琲に口をつけた。

重々しい砦のような七海がほんの少し表情を緩ませるだけで彼を前にした人は許されたような心地になるのだけれど、そんなことを七海当人は知らないし、苗字は元より七海から威圧的なものを感じたこともなかった。
苗字から見た七海は、いつか幼少期を共に過ごしたあの頃から何も、何一つ変わってなどいなかったから。

「昨日のブルスケッタといい、今も変わらずオレンジが好きなんですね」
「ええ、好き。最近はオレンジのパンが好きなの。以前仕事で大阪に行った時に食べたパンがすごく美味しくて。王冠みたいに大きなオレンジのパン」
「リーガロイヤルですか」
「すごい。どうしてわかったの」
「私も仕事で何度か。好きなんです。クローネは勿論、あの店のカスクートがとても」
「あのパンのためだけに大阪で暮らすことも考えたわ」
「いつか行きましょうか」
「大阪へ、パンを食べるためだけに?」
「そのためだけに」
七海がクロックムッシュとピロシキ、スパンダワーを平らげた頃、苗字はようやくデニッシュを一つ食べ切った。彼女の唇についたデニッシュのかけらを、七海が自身の口の端を指して教える。苗字は照れた顔でそれをナプキンで拭った。

珈琲をゆっくりと飲み終えてから、2人はパン屋の前で別れた。
「それでは、また」
「ええ、また」
七海はこれから商店街を通り抜けて駅へ、苗字はバケットの入った袋を抱えて来た道を戻っていく。
一日を始める準備をする商店街の中を七海は自分だけの歩調で歩いた。吹き抜ける風が七海の皺のついたシャツを揺らす。

歩きながら、昨日から先程までのことを思い返した。
久しぶりに人と会話をした。人と食事をした。人の家で夜を明かし、積み上がった本を惰性で上から取るのではなく、本棚に並ぶ本を自分の意思で選んだ。自分が何を食べたのか、何を飲んだのか、その味も抱いた感情もはっきりと思い出せる。
それは多くを聞かずにただそばにいて笑ってくれた彼女がいたからなのだと七海にはわかっている。当然のように七海を受け入れて、微笑んでくれたあの人。
久しぶりにちゃんと呼吸が出来たような気がした。

歩きながら、七海はこれからのことを考えた。
これからの日々のこと、これからの生活のこと、これからの暮らしのこと。想像するこれからの中には彼女がいる。ソファに座る七海の隣で珈琲を口にする苗字のことが容易に想像できて、無意識に口元が緩む。
あてはない。果てもない。何処かに行けそうな気がした。目の前にはもう行き止まりなんてものはないような、気が、した。


一日ぶりの自宅に戻ってから、彼女が渡してくれたパン屋のポイントカードを返し忘れていたことに気がつく。
謝罪と共に電話をかければ、彼女が「バケットを食べ切るまでに返しにおいで」と言った。だから七海はその日のうちに引越し業者へ連絡をした。

家具の大半は処分して、たくさんの本と衣服とそれから必要最低限だけを彼女の家へ運び込む。
苗字と再会してからほんの5日後のことだった。
彼女の家の空いていた二階の2部屋がこれからは七海の居住空間となる。

「隣で仕事してるのに、うるさくしてすみません」
「いいのよ、生活音がある方が作業効率が上がるんですって」
「すぐ隣の部屋で荷解きをされるのは生活音とは言わないでしょう」
運び込んだ荷物を片付ける七海の様子を見に、苗字は隣の仕事部屋から頻繁にやってきた。引っ越しという非日常が彼女にとっては物珍しくてならないのだろう。あんまり何度も顔を出すものだから、七海はとうとう「手伝ってくれませんか」と口にする。彼女は喜んで「本類」と書かれた段ボールを開いた。

「名前さん」
「なあに」
「本を読み出さないで」
「少しだけ」
「寝転んで読まないで」
「んー」
「お仕事はいいんですか」
「締切はまだ先だから」
「あるにはあるんですね」
スーツはいくつかを残してほとんど処分した。今後着る見通しは無かったし、必要があれば都度買えばいい。
床に寝転がって七海の本を読み出した彼女の体を脚で跨いでクローゼットへ向かうと七海はその中に衣類をかけていった。

ほとんど七海の部屋に遊びにきたような苗字を放って、七海は黙々と部屋を片付けた。時間はいくらでもあるのだからゆっくり日をかけて作業をしたって良かったのだけれど、あんまりゆっくりしては苗字が仕事を放っぽり出して、毎日のようにこの部屋に来て七海の本を読み漁りそうだったのだ。
別に本ならいつ読みにきたっていいのだけれど、せめて仕事はきちんとしてほしい。大人なのだから。
夕方にはあらかた落ち着いて、少なくとも足の踏み場はあり、今日この部屋で就寝ができるという状態にはなった。

「疲れた?」
日が暮れてから、リビングで彼女が作ってくれた夕食を囲む。
その最中に彼女からそんなことを問われた。
テーブルの真ん中に置かれた苗字手作りのロールキャベツの湯気越しに彼女のまばたきが見える。七海は自分の小皿に置いたロールキャベツへ箸を入れながら口を開く。柔くなったキャベツとその中の挽肉を割り開いた瞬間、溢れ出た白い湯気に七海がかけていた眼鏡が曇った。

「疲れたというほどではないのですが、久々に体を動かした気がします」
「なら今日はぐっすり眠れるんじゃないかしら」
「はい、きっと」
そうであればいいと、七海は思った。
不眠と呼ぶほどではない浅い眠りがずっと続いていた。眠れば毎晩夢を見る。いつもいつも悪い夢。夢の内容は覚えていないけれど、悪夢を見たという息苦しい感覚は目を覚ましても残り続ける。
それをもう、ずっと繰り返していた。

「ホワイトソースのロールキャベツってどう思う?」

コンソメで味付けをされたロールキャベツに舌鼓を打つ七海に、唐突に苗字は言った。
一瞬何の話か分からず、思わず苗字の顔をまじまじと見つめる。見つめた先の彼女の顔はえらく真面目な表情だった。
「……どう、とは?」
「それって広義の意味ではシチューと同じじゃないかしら」
「ホワイトソースを市販のシチューの素で作る場合も多いでしょうし、まあ、広義の意味ではシチューと言えるんじゃないでしょうか」
「その場合ってシチューがメインだと思う?それともロールキャベツ?」
「直感的にはロールキャベツですね」
「理論的には?」
「…………ロールキャベツですね」
「なるほど。ラーメンは麺とスープのどっちがメインか、という議題に似ているわね」
「そんな議論したことも聞いたこともありませんが」
「じゃあ、しましょう」
「しません」
「もしもラーメンにロールキャベツを入れるとしたら何味のラーメンにする?」
「味噌一択ですね。……いや入れませんけど」
些細で下らない雑談に苗字が喉を鳴らして笑った。七海はその表情に胸の奥が無性に暖かくなる心地があって、ほんの少しだけ口角を緩める。ああ、幸せだ、と心から思った。


夜が更けてから、彼女とおやすみを交わし合って二階に上がり、七海はベッドに横になる。
引っ越し当日でありながら、慌ただしさとは無縁の日を過ごした。
前にここへ来た時のように彼女が携わった本を夜通し読み続けたいと思いながらも、一度マットレスに身を横たわらせるとすぐに疲労によく似た睡魔に誘い込まれてしまう。

彼女の手前、言わなかったけれど、少しだけ疲れた。
ならば今日は夢も見ないほど深く眠れるだろうか。
そんなことを考えながらふと、穏やかだった今日一日のことを思い返した。
新しい住処、暖かな食事。外連のない時間。美味しいと言った七海に嬉しそうにはにかんだ彼女。それだけのことにふと、目の裏が熱くなる。

……ああ、きっと、大丈夫だろう。

明日の朝「よく眠れた?」と聞いてくれるだろう優しいあの人に心からうなづきたい。ほんの少しの嘘もなく「よく眠れました」と、そう答えたい。

ささやかな祈りを抱いて、七海は掛けていた眼鏡とその下の眼帯を外し、ゆっくりと睡魔に体を預けた。









凄惨な死体の中を歩き続ける夢を見た。

いくつもの見知った顔が真っ赤に汚れた地に転がっている。大抵は壊れていた。曲がらないはずの方向に曲がった体。体を裏返したように血肉と臓物に塗れた体。欠けていて残っているものの方が少ない体、あるいは体だったものの破片。声は無かった。息も、また。

七海だけが死体の海で呼吸をしている。

歩き続ける。体は酷く疲れていた。体の末端の感覚はもう無い。心臓だけが稼働していて、それが無理矢理体を動かしているような、自分のコントロールを失った感覚。
立ち止まりたい。(そんなことは許されない)座り込みたい。(歩き続けるしかない)もういやだ。どうしてまだ歩き続けるのだろう。(自分で選んだ選択だ)この先には何も無いのに。(わかっていてそれを選んだはずだ)どうして頑張らなくてはならないのだろう。(逃げてはならない)痛いのも怖いのも本当は嫌なのに。(生き残った人間の義務だ)もう終わりにしたい。(過去を裏切ることは許されない)もう、終わらせてしまいたい。
そう思いながらあてのない死体の海をただただ歩いていく。愛していた人たちを、守りたかった人たちの死体を踏みつけ、感情のない数多の伽藍堂な眼球の視線に全身に受けながら、歩き続けた。

流れ出る水音、錆びた鉄のような匂い、踏みつけた肉の感触、砕けた骨の音、自分の荒い呼吸。歩き続けた。
その行為に意味はないと分かっていた。その果てに何もないと知っていた。何の価値もないと知っていた。歩き続けたとしてももうどこにも辿りつけない、何からも逃れられないと識っていて、なお、足を進め続ける。果てのない地平を歩き続けて、歩き続けて、歩き続けて、

その最果てに彼女がいた。

まるで星の発光のように、少しも汚れていない衣服を纏って、何一つ欠けていない体のままで、全てを受け入れるような優しい微笑みで、七海へ手を振る、その人。

あの人のところへ行きたいと思った。
帰りたい。
許されたい。
……望みたい。

誰も傷つけず、誰にも傷つけられない日々を。
誰かや自分の死に怯えることのない安寧の生活を。
憎悪や諦観や憤怒を抱えることのない静かな営みを。
それはきっと彼女と共にいれば容易く叶う願いなのだ。

「名前さん」
嗄れた声でその人を名を呼んだ。
それだけで彼女は当たり前のように微笑みかけて、七海の名前を呼ん、

その瞬間、彼女の体が千切れた。

その柔い体を両断する様に、腰から上がずるりとずれて零れて溢れて崩れて潰れて壊れて、落ちた。死んだ。死んでしまった。綺麗だったその人はもう汚れていないところを見つける方が難しくて、あっという間にたくさんの死体の群れの一部になってしまった。瞬きのうちにもうどこに彼女がいたのかわからなくなってしまう。敷き詰められた血肉と見分けがつかなくなってしまう。

それを、七海は少し離れたところから見ていた。
何もせずに、何もできずに、ただ呆然と。

彼女と過ごす時間が、時折わけもなく泣き出しそうになってしまう程に幸福だった。穏やかな時間を、苦痛のない日々を、これからの人生をあの静謐な人と過ごしていけたらどれだけ良いだろう。
そう願ってしまう。
叶いますようにと、この日々が続きますようにと。

……こんなにも血に塗れた自分が?
この身は数多の血に汚れていて、綺麗な貴女の隣に立つ資格さえないというのに。
貴女という月が翳るのならば、その雲はきっと私だ。
貴女という花が散るのならば、その風はきっと私だ。

きっといつか、私は貴女を呪ってしまう。

救えなかったもの。
見捨ててしまったもの。
殺してきたもの。
全てが思い出される。その全てが七海を許さない。どうしてお前が、どうしてお前ばかりが、と数多の怨嗟と呪詛が七海を責め立てる。多くを奪い、失い続けてきた自分が今更都合よく穏やかな幸福を得るなど、許されるはずもない。あの優しい人の隣に立つことなんて、できるわけもないのに。

今まで旅立っていった多くの仲間が心から切望し、けれど叶わなかったごく普通の幸せを、誰かと生きる喜びを、当たり前のようにやってくる明日を、どうして自分だけが享受しているのだろう。どうして彼らは得られなかったのだろう。どうして自分だったのだろう。

どうか、教えてほしい。
どうして誰かを守ろうとする人ほど傷つかなくてはならないのか。
どうして優しい人ほど世界の嘆きに晒されるのか。
どうして救われるべき人ほど苦しまなくてはならないのか。

どうして、私が生き残ったのか。
その意味を、価値を、理由を。
生かされた命のその果てにあるものを。

教えてほしい。




悪い夢を見た。
目を覚ました時にはもう夢の内容はすべて忘れている。
何があったのか、何をしたのか、何を思ったのか、誰がいたのか。何も覚えてはいない。

それでも自分が恐ろしい夢を見たという感覚だけは焼きついて離れなかった、ずっと。










苗字の家に越してきて一ヶ月と少しが経った。
春から初夏へと移り変わるその途中、日々過ごしやすい気温が続く中、時折思い出したように酷く暑い日や酷く寒い日が唐突にやってくる。今日はその酷く暑い日だった。

七海が昨夜の間に抽出したコールドブリューを苗字はいたく気に入ってくれた。氷をたっぷりと入れたグラスになみなみと注いでは仕事部屋へ連れて行く彼女の足取りに、初夏が来て、夏の盛り、それから残暑のあたりまでは絶やさず作るようにしよう、と七海は思った。

苗字は日中、大抵は仕事部屋に篭って翻訳の仕事をしていることが多いから、料理や洗濯や掃除やら諸々、家の仕事は自然七海が大部分を担当することになる。一人暮らしが長かったから自炊には慣れているけれど人に食べさせたことはほとんどない。そのことへの不安はあったが、苗字は七海の作る料理をすぐに気に入ってくれた。

まるで昔からずっとそうだったみたいに、或いは離れていた時間なんて本当は無かったみたいに、彼女は七海の日常の一部になった。
自分の生活に他人が、他人の人生に自分が入り込むことを七海は自分でも驚くほどあっさりと受け入れることができた。それはきっと、その相手が他人ではなく、苗字名前という人だったからだろう。

日々は穏やかに続いている。
近くに商店街があるから日々の買い物には困らない。
人目を引く自分さえ、買い物を繰り返すうちにあの商店街の中の景色の一部になれた。
買うだけ買って手をつけられていなかった本を望み通りに読み進める日々。
パン屋の新商品が最近のホットニュースになるくらいには生活の中に大きな事件はない。
夜は珈琲を手に苗字となんでもない話をして笑い合う。

ずっと夢見ていた理想のような生活。


それなのにどうして日常の雑音が途切れた瞬間に、言いようのない罪悪感に苛まれるのだろう。



「なっちゃん、次の水曜日って空いているかしら」
「空いていない日がありませんよ」
「会って欲しい人がいるの」
「ご結婚されるんですか」
「ふふ、面白い冗談ね」
正確にはなっちゃんに会いたいって人がいるのよ、と言い換えた苗字は七海の作った昼食のペペロンチーノをフォークで丁寧に巻いていた。
奇特な人間もいるものだと思いながら、彼女から詳細な話を聞いて、さほど考えることもなく了承する。世話になっている苗字からのお願いを断れるほど七海の面の皮は厚くなかったし、忌避すべき厄介事のようでも無かったからだ。

半袖のシャツの上に薄いカーディガンを羽織った苗字はきっと七海が先のお願いを断ったとしても機嫌を損ねることはなかっただろうと思えるフラットさのまま、パスタを口にして「なっちゃんは本当に料理上手ね」と目を細めた。


次の水曜日、14時に商店街の喫茶店で。

その日はあっという間に来て、七海は久しぶりに人と会うためにスーツに袖を通した。呪術師だった頃に纏っていた白をベースしたスーツはすでに処分してしまっていて、七海は代わりに落ち着きのあるグレーのものを選ぶ。整髪剤で髪をセットしようと思って、引っ越してからはフォーマルな場に出ることもなかったために整髪剤自体を常備していなかったことに気がつく。仕方なく前髪を下ろしたまま、変な癖が無いかだけを確認するにとどめた。

苗字は別件の仕事のために今日は9時には家を出ている。七海は眼帯が確かに自身の左眼部分を隠していることを鏡で確認した後、その上からさらに眼鏡を掛ける。そうして少し早めに家を出て、家の鍵を閉めた。

件の喫茶店は商店街を入った先、駅近くの通りを一本中に入ったところにある。外観だけは七海も以前から知っていて、機会があれば行ってみたいと思いながらその機会を得ていなかったのだ。
古き良き、という枕詞が似合いそうなその喫茶店はどこか昭和の雰囲気を残している。商店街の大通りから少し外れた静かな通りからつながる入り口扉は曇りガラスで中の様子は見えず、一見さんが入るにはやや気後れを感じさせるが、苗字から伝えられた店に間違いがないことを確認してから、七海は重い扉を押して喫茶店の中へ足を踏み入れた。

からんからんとベルを鳴らして七海が入ってすぐに、空のトレイを持ったウエイターが七海を目に映して、柔らかい笑みのまま会釈をして近寄ってくる。
「いらっしゃいませ、一名様でしょうか」
「いえ、待ち合わせをしていまして」
それだけで察したウエイターが体を引いて、店内を指し示す。

喫茶店のテーブルは平日の日中ながら4分の1程度が埋まっていた。大抵は仕事の打ち合わせらしき人々だ。
照明を絞った心地の良い薄暗さのある喫茶店の中で七海はすぐに待ち人を見つける。彼女らは広い店内の奥まった壁際の4人席にいた。

「なっちゃん」
壁際のソファ席に座る苗字がひらひらと手首を回すみたいに七海へ向かって手を振った。外でも変わらないその呼び名に七海は内心微かな羞恥を感じながらもそのテーブルへ向かう。
苗字の向かい側、通路側の椅子に座っていたやや小柄な男性が、苗字が七海に声をかけたと同時に振り向いた。彼は七海を目に写すとパッと表情を明るくして立ち上がった。
「なっちゃんさん!」
苗字のつけたあだ名が七海の預かり知らないところでまで周知されていることに、七海はもう苦笑するほかなかった。

テーブルのそばで彼らは向き合った、
「はじめまして、唐橋と申します。なっちゃんさんですね、噂は予々名前さんから伺っていますよ」
「はじめまして、七海です。良い噂だといいのですが」
「最近くしゃみされました?」
「ええ、つい先日」
「1回だったでしょう?」
「2回だったかもしれません」
七海の返答に男性は声をあげて笑うと、すぐに苗字の隣へ座るように掌で促す。軽く会釈をして、七海はジャケットを脱ぎ、苗字の隣のソファ席に腰を落ち着けた。

七海の正面に座る男性は唐橋真哉と名乗って、名刺を差し出した。七海はそれを受け取ってから「すみません、私の方からは今は渡せる名刺がなくて」と、事前に氏名や連絡先を書いておいた簡易的な紙を彼に手渡す。

「事情は伺っていますのでお気になさらないでください。むしろご丁寧にありがとうございます」
「そう言っていただけるとありがたいです」
唐橋は七海が渡した紙を見て「七海建人さん」と名前を覚えるように一度読み上げた。

どこかげっ歯類を思わせるような人懐こい顔立ちの唐橋は、元より苗字から聞いていたのか、七海の火傷痕の残る顔や眼帯には少しも意識を向けずに彼へメニューを渡した。七海より先に来ていたらしい2人の前にはすでにコーヒーカップが置かれている。

「お二人はブレンドですか?」
「ええ、そうです」
「では、私も同じものにします」
「あ、でも、なっちゃん、あのね、ここはワッフルが美味しいのよ」
「名前さんいつもそれじゃないですか。あ、なっちゃんさん、僕のおすすめはケーキセットのモンブランなんですけど」
「真哉くんこそ、いつもそれじゃない」
ケーキなら絶対にフルーツケーキのほうがおすすめだの、そもそもこの店で一番美味しいのはカレーライスだの、いつしか討論を始めた2人を放って七海はウエイターを呼び止めブレンドだけを注文した。ポンポンとおすすめをいくつも口にする2人は随分とこの店の常連のようだ。

注文を終えてから七海は唐橋から渡された名刺へ改めて目を落とした。小柄で童顔な彼だが、役職を見るに苗字より年上なのかもしれない。ふと社名部分に記載された出版社名に目を留める。その出版社名には見覚えがあった。

「……唐橋さん、御社って確か『ガゼル』の、」
七海がそう言った瞬間、唐橋は素早く顔を上げて嬉しそうな顔をした。笑うと余計に人懐っこく、そしてやや幼なげに見える。
「そうです!ご存知でしたか!嬉しいなあ」
「はい、もちろん。毎号買っていますよ。以前のイスラム文学特集が特に気に入っていて」
「ええ、ええ、評判良かったんですよ、あの号は特に」

『ガゼル』とは、唐橋が所属する出版社から年に4回発刊されている文芸誌の名前だ。古今東西の海外短編を新訳し掲載している雑誌で、傾向としてはややマニアックだがそれゆえにコアなファンが多い。
この雑誌の特徴としては英語圏の作品のみならず、様々な言語圏、文化圏の作品を取り扱うところがある。「バルト文学特集」や、先程七海が話題に上げた「イスラム文学特集」がその例で、一冊丸々を使ってある文化圏の小説作品のみを取り扱ったりなんてことをしていた。

ふと、七海の頭の中で離れていた思考と思考が糸で結ばれるように繋がった。
「……もしかして『ガゼル』ですか?」
「ええ、『ガゼル』です」
思わずそう問いかけた七海に、唐橋は深く強くうなづいて肯定した。


先日苗字が七海へした『お願い』とは、端的に言ってしまえば『翻訳の依頼』であった。
七海が英語とデンマーク語に通じていることは以前から苗字も知っていた。その苗字が唐橋と仕事の打ち合わせをしている際に、次々回発刊する『ガゼル』で北欧小説を特集したいと編集部の方で話が上がっていることを聞いたのだ。
そしてできれば、まだ英訳さえされていない新進気鋭の作家の作品をいち早く日本語訳して掲載できたら、と考えていることも。

その話を聞いた時、苗字の頭の中で、リビングに飾られている、いつかの七海の書いたデンマークの言葉が思い出された。

唐橋には「デンマーク語ならば精通している知り合いに心当たりがある」と伝え、七海には「よければデンマークの短編小説の翻訳の仕事を受けてみないか」と伝える。
そうやって苗字は彼ら2人を橋渡しするような役目を喜んで負い、橋渡しをされた2人は今日この喫茶店で顔を合わせた、というわけなのだった。
とはいえ、七海もまさか自分が好んで買っている文芸誌の翻訳の仕事だとは思ってもみなかったのだけれど。


一旦間を取ろうと、七海は運ばれてきた珈琲に口をつけた。それからゆっくりとカップをテーブルに置いた七海へ、唐橋は人好きのする笑みを浮かべて口を開いた。
「デンマークの新進気鋭の作家の短いミステリをひとつ、掲載したいと思っているんです」
「謹んでお受けいたします、と言いたいところなのですが」
そう七海が言った瞬間、断られると思ったのか唐橋は目に見えて困った顔をする。それがあまりにもショックそうに見えて、七海はすぐに「いえ、断るという話ではなくて」と付け足した。

「私は翻訳業が未経験の素人ですから、はたして掲載できるレベルのものをお出しできるだろうか、と思っているんです」
七海は明確に現状の不安を口にすれば、唐橋はホッとしたような顔をしてから、すぐに表情を引き締めて「その心配は大丈夫です」と言った。

「僕も名前さんもサポートに入りますし、いきなり本番の原稿をさせるなんてこともしませんから」
まずは既に和訳や英訳されたデンマーク小説からいくつか翻訳をして経験を積んでいこう、と彼は言った。
つまるところ七海を一から訳者として手間をかけて育てていこうというのだ。

「……どうしてそこまで?」
思わずそう問うと、唐橋はすぐに「貴重なマイナー言語精通者を逃したくないんですよ!」と泣き言みたいな声を上げた。
「出版物の翻訳より、国際書類とかの翻訳の方がお金になるのよ」
ゆったりと珈琲を飲みながら苗字がヒントを出すみたいに笑った。
「そう、だからみんなそっちに行っちゃうんですよ……まして雑誌なんて年々売り上げ下がってますから、正直出せる金額にも限度があるのは事実なんですけどね……」
溜息混じりにそう言った唐橋に七海は少し慰めるような声音で「構いませんよ」と喉奥を鳴らした。

「私でよろしければ」
「それはもう是非!」
ころころとわかりやすく表情を明るくした彼に七海も苗字も小さく笑う。差し出された傷のない唐橋の右手を、七海は一瞬だけ間を置いて、それからしっかりと握った。

それから改めて今後についての話を詰めて、あらかた話がまとまったあたりで唐橋は社に戻ると言って伝票を持って席を立つ。軽やかなその足取りを見送って、七海と苗字は並んで座ったまま、すっかり話し込んで冷めてしまった珈琲を喉に流し込んだ。

「ありがとう」
不意にそう言われて、七海は自身の右手側に座る苗字を見た。微かに目を伏せたその横顔に七海は首を横に振る。
「いえ。こちらこそ、良い機会を頂いてありがとうございます」
「迷惑だったらどうしようかと思っていたの」
「そうだったら先に断っていますよ」
「ここの方たち、みんな良い方たちばかりなのよ」
「ええ、わかります」
「それがあなたの負担にならなければいいのだけれど」
普段とは雰囲気の違う苗字がそんなことを口にしたから、七海は少しだけ、ほんの少しだけ心臓を撫でられたような心地がして押し黙る。彼女のその言葉の意図を探るより先に、苗字はメニューを手に取ってテーブルへ広げた。

「なっちゃん、ワッフル食べる?」
「……名前さんが食べたいんでしょう?」
「そうよ。でもランチの後だから全部は食べれそうにないの。ね、半分こしましょう?」
メニューに載せられた見本写真のワッフルにはアイスと生クリームがたっぷりと乗っかっている。それだけで胃がもたれるような感覚を覚えながら、七海は「アイスと生クリームは名前さんが食べてくださいね」とだけ言って、ソファの背もたれに体重をかけた。




いってしまえばインターンやアルバイトのようなものではあるものの、七海は久しぶりに労働と再会した。労働という割にストレスとはほど遠く、まして煩わしい人付き合いなどないも同然。自分のペースで己のルーツとなる言語と向き合い、遠い異国の作家が紡いだ言葉を通信士のように訳していく。
そんな起伏の少ない生活が、これまで長く過重な疲労に侵されていた七海の肉体と精神に安らぎを与える。七海本人に疲労の自覚があったかどうかはわからない。けれど確かに悪夢を見る頻度は減っていた。

週に4日翻訳の仕事をして、残りの3日は休む。打ち合わせなどが入らなければ、水曜日と土曜日、日曜日は休日。
七海はそういうふうに生活をしていくようにした。というよりは、そうした方が良いとフリーランス歴の長い苗字からアドバイスを受けたのだ。
「生活をルーティンとして組み込むこと。強い言い方をするならば、自分の生活をきちんと自分で支配するの」
もしかしたら苗字は、気を抜けば自分の疲労にも気がつかずに働こうとする七海の性格に気がついていてそう言ったのかもしれない。その正誤はわからないが、七海は素直に先達のアドバイスを受け入れることにした。今のところそこに支障はなかった。

仕事の日は部屋にこもって原稿と顔を突き合わせる。
渡されたデンマーク語の文章を一文一文和訳したり、自分が考えた訳が元の文章の意味と合っているのかを調べたりする。大抵は後者の作業が多い。
七海は付箋に「Kierkegaard 岩波既存和訳確認」とボールペンを走らせると、パソコンの周りに散らばるプリントアウトした元の原稿の中の一枚、「Sygdommen til Døden」という文章のそばに貼り付けた。
それから手に持ったペンを頬に当てて、出てきたその国特有の慣用句をどう訳すべきか、悩む。立ち上がって意味もなく部屋の中を歩き回る。窓の外を眺める。また椅子に座って珈琲を飲みながら、タイピングをする。顎に手を当てながらボールペンを回す。珈琲を手に立ち上がる。また歩き回る。机に珈琲を置く。再度歩き回る。ふと時計を見てそろそろ昼になることに気がつく。その日は七海が昼食の担当だった。部屋を出て階段を降り、一階のリビングに立つ。冷蔵庫の野菜室を覗いたら茄子があった。ボロネーゼに入れよう、と思った。

一日3回の食事は2人、顔を合わせてする。ヒュッゲとでも評するべきか、大きな変化のない日々の中で代わり映えのない会話をすることがやがて七海にとっての大切な日常になっていった。
互いの仕事の状況を鑑みて、家事は分担。買い物はできるだけ2人で行く。週に一度、パン屋でバケットを買う。時折喫茶店でフルシティローストを一杯頼んで、本を読む。休日は商店街近くを散策する。外での打ち合わせがあった時、苗字はよく駅前の鯛焼きを買って帰ってくる。たまには珈琲ではなく紅茶を飲む。よく晴れた日にはシーツを洗う。
そんな生活、暮らし、日常。
流れていく時間。
移ろっていく四季。
変わっていく自分。
痛覚も悲哀も憤怒も離別も怒号も悲鳴も血も臓物も無い生活。
この日々がたまらなく幸せだと思った。


それが何よりも、苦しくて仕方なかった。


今になって思えば、2人ともお互いが存在する生活に慣れ始めていたのだろう。元より家族のような間柄の2人。それゆえに自分と他人の境界が曖昧になりかけていた。
きっと、だから、こうなったのだろう。

「何をされているんですか、名前さん」

とある休日、壁際に寄せた椅子の上に立って、壁にかかった額縁の絵を外そうとしている苗字に七海は思わず声をかけた。どうにも危うげな姿勢で爪先を伸ばす彼女が心配で早足でそばに寄る。彼女は七海の方を向くと少し助けを求めるような目をした。

「もう季節も夏に変わるし、絵を掛け替えようと思ったの」
「私がやりましょうか」
「お願いしていいかしら」
「もちろん、適材適所です」
七海がそう言うと、彼女は額縁へ伸ばしていた手を引っ込めて「ありがとう。助かるわ」と椅子から降りた。それから彼女よりずっと背の高い七海を見上げて、笑いかけた。

「なっちゃん、あとは頼むわね」
(「七海、あとは頼んだ!」)

それは唐突で、ほんの偶然で、けれど致命傷だった。

彼女が七海へ言った瞬間、彼が受けたのは不意に殴られたような衝撃、10年前と今のオーバーラップ、フラッシュバック、深い山の奥、雨に濡れた土の匂い、噴き出す血、千切れる体、最期にこちらへ笑った彼の表情、焼き付いて離れない記憶、一瞬の目眩、心臓に氷の刃を刺されたような感覚。体中の血が下がっていく気がした。
額縁へ伸ばしていた指先が震える。吐き出そうとした息さえ喉の奥で溜まり、息の仕方を忘れた。

七海の内心の異常に気がつかなかった苗字はいつものように微笑む。
「じゃあ、私は掛け替えるほうの絵を持ってくるわね」
「…………は、い」
なんとか、そう吐き出す。それだけは言えた。背中に流れる冷や汗に体が途端に冷え出していく。よかった、七海は反射的に思った。彼女に自分が抱える異常性を知られなくてよかった。彼女をいつかの親友と重ねてしまったことを、彼女に知られなくてよかった。
苗字がリビングを出たのを確認してから、七海は震える右手を左手で押さえつけた。息が荒い。目眩がする。
落ち着け、違う、なにも起こっていない、誤作動だ、どうして今更、こんなこと今までなかった、違う、彼女は、だって、夢の中で、違う、ただ額縁を下ろすだけじゃないか。

「……っ、名前さん!」
思わず彼女の名前を呼んだ。急に恐ろしくなった。彼女が今自分の視界の中にいないことが。呼びかける声が彼女に届かないことが、呼びかけた声に返事が無いかもしれないことが、今の七海には酷く恐ろしくてならなかった。

「はーい、どうしたのー」
のんびりとした声がリビングの外から聞こえて、途端に七海は自分の手の震えが収まるのを感じた。肩の力が抜ける。凍りついていた時間が不意に溶けたような感覚。窓の外、初夏の日差しが降り注ぐ庭先で鳥が鳴く声が七海の鼓膜を揺らした。
なんでもない、見慣れた家のリビングの景色。七海はそこに立ち尽くしながら(ああ、そうだ、額縁を下ろすのを任されたのだった)と思い出す。

「……大丈夫です。なんでもありません」
……本当に?
囁く声を振り払って、七海は今度こそ危なげなく額縁を壁から外す。苗字が戻ってきたのは、それからすぐのことだった。

「額縁、ありがとうね、なっちゃん」
持ってきた別の絵をリビングのテーブルの上に置いてから、苗字はキッチンへ向かって布巾を濡らしてよく絞った。七海はずっと手に持っていた額縁を同じようにテーブルの上に置いて、それから苗字が持ってきた方の絵へ目を向ける。

それは美しい海の絵だった。
どこまでも晴れ渡る広い空、誰もいない静かな浜辺、太陽の光が反射したように輝く波間、どこまでも遠い水平線。水彩で淡く描かれたそれは確かな現実の質量を持って七海の瞳に飛び込んでくる。いつか聞いたことのある潮騒が、その絵を見た瞬間に頭の中で再生された。

それはまるでずっと夢見ていた理想の海のようだった。

キッチンからこちらへ戻ってきた苗字が濡らした布巾で、それまでここに飾られていた額縁をなぞるように拭いて埃を払う。
「綺麗な海ですね」
ぽつりと無意識に溢れた声に苗字は嬉しそうに「ありがとう」と微笑んだ。
「この絵は名前さんが?」
「ええ、昔教わったの。下手の横好きにしかならなかったけれど」
「そんなことはありません。目を奪われる。思い返せば私の母も水彩画を趣味にしていました」
「そう、子供の頃にあなたのお母様から教わったのよ。子供の拙い絵を何度も褒めてくれた」
「母は娘も欲しがっていました。だから貴女を本当の娘のように思っていると思います、今も」
「そうだったらすごく嬉しいわ。私、本当の母には、…………」
そこで言葉は不自然に途切れた。
失言をしかけた、という自覚が苗字にもあったのだろう、唇を薄く開いたまま、絵を見つめて何も言わずに固まる。
昔馴染みの七海と話をしていて気が緩んだのだろうか。事実七海は詳しい話は聞かずともそれを識っている。けれど、七海を前にしたが故の微かな気の緩みも、不意に溢れた彼女の人生の寂寞も、七海は見ないふりをした。代わりにそっと口を開く。

「名前さん、これはどこの海ですか」
額縁の薄いガラス越しに七海はその美しい海を手の甲でそっと撫でた。
「こんなに綺麗な海がこの世界のどこかにあるのならば、いつか行ってみたい」
心からそう思った。ずっと夢見ていた美しい景色。

呪いからも他人からも解放されたなんでもない浜辺に家を建てて、日がなゆっくりと本を読んで暮らす。そんな理想郷のような海に辿り着くことは、術師だった頃の七海の叶うことのない夢だった。
それがもしも叶う日が来るとしたら、それは七海が術師ではなくなった時であり、そしてそれは今現在だった。

隣で苗字はゆっくりと息を吐くのを七海は耳だけで知る。再び口を開いた彼女はもう穏やかで起伏の少ない、いつもの彼女になっていた。
彼女は七海と同じようにその絵を見つめると、薄い唇を開いて言葉を紡ぎ出す。

「なっちゃんは「ユートピア」の語源がギリシャ語だって知っていた?」
「……いいえ、初めて知りました」
「場所を表す「topos」に否定詞「ou」をつけたものが語源」
彼女は続けた。

「それは『素晴らしく良い場所なのにどこにもない場所』という意味を持つ」

静かな声で彼女はそう言った。いつもみたいに穏やかで優しい声なのに、酷く淋しい声音をしている。それだけで七海はどうしようもなく残酷な事実を理解する。
きっと彼女もそうだった。同じ夢を見たのだろう。いつか辿り着けるはずだと信じた、永遠に辿り着けない理想郷。
苗字は横に立つ七海を見上げて、目尻を緩めた。

「これは私の頭の中、私が夢見た理想の中にしか存在しない仮想の海よ」
「どこにも、無いんですか」
「どこにも無いの。もしも壮大な偶然の結果としてこの絵と同じ景色があったとしてもそれはもう私が祈った理想ではない。理想は現実とふれあった瞬間に理想ではなくなってしまうから」
そう彼女が言った瞬間、七海は淋しいところにひとり放り出されてしまったような気持ちになった。あるいは彼女をひとりきり空っぽの世界に突き飛ばしてしまったかのような、そんな軋むような胸の痛み。

「理想の海がこの世界のどこにも無いとしても、叶わない夢を見ることだけは私にだって許されていたの」
苗字は七海へそっと微笑みかけた。
その微笑みを前に立ち尽くす。

……ああ、知っていたさ。
本当はとっくの昔にわかっていたことじゃないか。 

七海だって別に海に行きたかったわけじゃない。
本当に行きたかったのは、誰も傷つけず、誰にも傷つけられない安寧の場所。愛別離苦からも怨憎会苦からも解放された理想郷。楽園、桃源郷、アルカディア、ザナドゥ、エデン、ユートピア。名前なんて、場所なんて、どこでもなんでもどうでもいいから、ここではない何処か遠く、悲しみが決してやってこない場所へ辿り着きたかった。

けれど、夢見ていた理想の海なんて、本当はどこにもない。願った未来にはきっと辿り着けないし、大抵の場合、夢はいつだって夢のままで終わってしまう。

それでも願っていた。せめてより正しい結末を、ほんの少しでも誰かを救えるのならば、と。世界に蔓延る不条理へ立ち向かうための術を持っていたから。だから術師になった。
叶わないと知ってなお、祈り続けた。
消費される生に絶えきれず、一度は逃げた。
逃げた自分を受け入れられなくて、再び戦った。
自分の無力さを認識してなお、戦い続けた。
戦って戦って戦って戦い続けてその果てに死ぬのならば、何の悔いもない。
最期に先立って行った彼らと同じ結末に辿れるのならば、それだけで弱く愚かな自分を許せた。

そうだった、はずなのに。

自分ばかりが逃げ延びた。生き残った。数多の死体を踏みつけ、踏み越えて。振り返れば血と臓物に塗れた地平が広がる。
気がつけば逃げ延びた自分だけが、穏やかで普遍的でどこにでもあるような幸せを享受していた。多くの人が願いながら辿り着けなかったこの場所に。

辿り着けないはずの理想郷に辿り着いてしまった。
止まないはずの雨が上がり、明けるはずのない夜を越えて、目が焼けるほどの朝日の中で立ち尽くす。

自分ばかりが生き残ってしまった。
……幸せになってしまった。

その事実が、今度こそ本当に七海を追い詰める。

ずっと考えていた。
どうして誰かを守ろうとする人ほど傷つかなくてはならないのか。
どうして優しい人ほど世界の嘆きに晒されるのか。
どうして救われるべき人ほど苦しまなくてはならないのか。

潮騒の絵を前に、黙ってただ立ち尽くす七海へ苗字は何も言わなかった。
優しい人。この人は本当に七海に何も聞かなかった。これまでのことも、今のことも、これからのことも。ただそこにいることを当然のように受け入れてくれる。それにどれだけ救われていたのかを、救われたのと同じくらい苦しくて仕方なかったことを、きっとわかっていてくれたのだ。わかってそばにいてくれた。

救われていた。
許されていた。
幸せだった。

だから本当はずっと苦しかった。
貴女はもうとっくの昔から私の「大切」で、貴方といると幸せだから、つらかった。

教えてほしい。
どうして戦い続けた人たちではなく、逃げ延びてしまった私がこの幸せを享受しているのか。
どうか、この事実に罪を与えてほしい。
そしてその罪をどうか罰してほしい。

「愛しているんです」
七海は絵を見つめたまま、言葉をこぼした。
隣に立つ苗字が七海の静謐な横顔を見つめる。それを、言葉のないうなづきを七海は受け取った。

「これまでの私が得てきたものも、失ってきたものも、そのすべてを。歩み続けた先により良い未来がきっとあるのだと信じていた。例えそこに辿り着けずとも私の生と死がその礎になるのだと。そのために生きることだけが私にできることだったのに、それさえ違えてしまった」

変わっていくことは、これまでの歩みの中で得てきたものや失ってきたものの価値をすべてを無に返すことなのだと、そう思えてならない。

「私は変わっていく自分を許せない。自分ばかりが生き残って、幸せになって、果たしてそれが正しいことなのかわからなかった。皆が後ろ指をさしてくれたのならどれだけ良かったか。でも誰もそうしてくれない。私の生存を許してしまう。私の生存に価値を見出してしまう。それが、」
かなしい、と七海はつぶやいた。

それから七海は静かに苗字へ目を向ける。平坦でゆっくりとした声音。ふとすれば無表情にも見える彼の顔には深い哀しみがあった。吐き出すように、絞り出すように、それでいながら淡々と七海は言葉を続けた。

「幸せです。貴女と過ごす今のこの安寧の日々がたまらなく幸せなんです。けれど、幸せであればあるほど苦しい。置き去りにしてきたすべてが私を呪っているような気がしてならない」
名前さん、と七海は嗄れた声でそばに立つ彼女の名を呼んだ。いつか、悪夢の中でそうしたように。
名前さん、教えてください、どうか、名前さん。

「私が今になって幸福を得ることは許されることなのでしょうか」

七海はそれだけを言って口を閉じた。だらりと落とした腕、半分だけの視界、火傷痕に引き攣る皮膚、立ち尽くす。ただ待ち続ける。苗字が答えを返してくれることを待っていた。

だから苗字はただ両手を伸ばして彼の肩を撫でる。
それからいつものように彼のことを、昔からの呼び名で呼んだ。彼女にとってこれ以上ない親愛の証としてのその名を。
知らない街でたったひとり迷子になった子供のような彼の顔を見て、苗字は手を差し伸べるみたいに微笑む。

「泣かなくったっていいのよ」
苗字は幼い子供に語りかけるようにそう言った。
七海の左の涙腺は以前の火傷の際に破損している。そこから涙が零れることはもうきっと無い。苗字は自分よりずっと背の高い七海の右の頬へ掌を寄せた。掌の内側には濡れた感覚があって、それごと温めるように苗字は七海の頬を撫でる。

「許すも何もないわ。誰もあなたを呪ってなんかいない。みんなあなたを愛しているだけよ。あなたの生存を、存在を、そのすべてを。これまであなたがたくさんのものを愛してきたのと同じように」
温い掌を、柔らかな愛撫を七海は受け入れる。縋りつくように彼女の左肩に顔を押し付けた。泣いたことなんて碌に無いから、上手く泣くことさえできなくて、痙攣する喉で必死に息をした。背中を撫でてくれる彼女の掌の感触が、これまでもこれからもずっとあってくれたらよかったのにと思った。

縋りつきながらも苗字に寄りかかることを躊躇う七海の背中へ手を回し、自らの腕で彼を引き寄せ、その体温を受け入れる。
まっすぐで誠実で、誰かのために怒ることのできる優しい男の子。
苗字から見る七海は初めて出会った時から何も変わってなどいない。

「あなたのことを許せないのはあなただけなのでしょうね」
「きっと、死ぬまで許せそうにない」
「ええ、それでもいいの。許すことは救いになどならないから」
「貴女もそう思って生きてきたんですか」
「……母を決して許さないと決めた時、私はようやく私になれたと思った」
「それは呪いでしたか」
「祝福だったわ。初めて呼吸をしたような気がした」
「ごめんなさい、名前さん」
「どうして謝るの。あなたは何も悪いことをしていないのに」
「貴女もきっとこんなふうな寂しいことなど言いたくなかったはずだ」
「……いいの。いいのよ、長いこと1人でいたから寂しさも忘れていた。あなたがここに来てくれてよかった。1人だと孤独さえ見失ってしまうものね」
思い出させてくれてありがとう、と彼女は喉を揺らした。

「ここがあなたにとって居心地の良い場所となれたのならよかった。好きなだけここにいればいい。もしも離れたくなったらそうすればいい。私はもう、人はどこにでも行ける、何にでもなれるだなんて口が裂けても言えなくなってしまった。けれど、願った場所へ向かおうとする行為は誰にでも許されていることだと知っているから」
例えそれが道半ばで途絶えたとしても、例えそれが叶わない歩みだとしても、その根源にある祈りに貴賎はないのだと信じている。

夜のラジオみたいに心地の良いその音程に耳を傾けながら七海はきっと許せないと思った。これから先何があってもきっと七海は七海を許せない。許せない自分を受け入れることしかできない。それでいいと彼女は言った。少しだけ安堵した。思い返せばずっとそうだった。七海は昔からずっと、許せなくて、見過ごせなくて、我慢できなかった。
術師を志した時も、術師に戻った時も。
二十数年前のあの日もそうだ。
まだ何も知らない子供だった頃、秋の深まる夕暮れ過ぎ、すっかり暗くなった公園のブランコに薄着のまま裸足でひとり座り込む少女の冷たい手を取って、七海は自身の家まで連れて帰った。母も父も息子に多くを聞かなかった。そして連れられてきた少女にも。七海にとっては見慣れたいつも通りの夕食を差し出され、声を殺して泣いていたあの子の姿を今も覚えている。

「ここに来てくれてありがとう、なっちゃん」

ありがとう、と言いたいのは七海の方だったのに。

昔からずっと考えていることがある。
どうして感謝されるべき人ほど他者へ感謝を伝えるのだろう。どうして周囲から謝罪をされて然るべき人ほど他者に謝ろうとするのだろう。どうして誰かを守ろうとする人ほど傷付かなくてはならないのだろう。どうして優しい人ほど世界の嘆きに晒されるのだろう。

答えは一度も出せなくて、世界の不条理を変えられるほどの力は持てなくて、だからこそせめてこの手の届く距離を、この目の届く範囲を守れたらとそう願っていた。
自分の手で守れるものがあるのならば、それがどんなに小さくとも大切に守ろうと思っていた。

出来たのだろうか、私は、それを。

救うことができた数と、取りこぼしてきた数を天秤にかけたとて無意味な計算だとわかっている。そこに意味はない。そこに貴賎はない。それでもいつだって失ってしまったものばかりが思い出されてしまうから。

だから、今はただこの小さな理想郷だけは守り抜こうと思った。

傷だらけのこんな壊れた体だけど、血に汚れたこの手だけれど、残った片目だけではすべてを見つめることはできないけれど、貴女がくれた平穏な日々を、貴女といる生活を、何より貴女こそを、守って生きていきたいと、そう思うよ。

初め、縋りつくように苗字の肩に顔を寄せていた七海はいつしか、彼女の体を真正面から強く抱きしめていた。ふと自分が、彼女の小さな体を思っていたよりも強く腕の中に閉じ込めていることに気がついて力を抜く。
腕の中で彼女が身動ぎして、七海の胸元で顔を上げてどこか懐かしげに微笑んだ。

「なっちゃん、大きくなったわね」
「何時と比べてるんですか」
「子供の頃は私の方が背が高かったでしょう」
「……そうでしたね」
遠い記憶の中、幼い七海は苗字よりずっと低い背丈で、けれど彼女の手を強く握って迷いなく夜道を進んでいく。暗いところから明るいところへ連れて行ってくれたのは彼だった。
苗字には彼が星のように発光して見えた。
初めて自分さえも照らされていると思えた。初めて誰かに手を差し伸べられた。そんな原初の記憶。

2人はそれからまた少しの間、互いの欠けたところを補うみたいに抱き締めあって、それから何事もなかったみたいに体を離した。体に残る他人の体温を纏ったまま、七海は海の絵を壁に飾る。
まるで夢みたいな美しい海は何処の時間軸にも存在しない一瞬を切り取って、その白い壁に有り続ける。
それでよかった。それだけでもう充分だった。


その日から何かが劇的に変わったということはない。
相変わらず七海は翻訳の仕事をして、休日には買い物に出て、毎日苗字と顔を合わせて食事をする。これまでは毎晩苗字が入れた熱い珈琲を飲んでいたけれど、夏めくこの頃は七海が作ったコールドブリューを飲むことの方が多くなった。

それから、強いていうのならば、家の中では眼帯を外すことにした。
七海がこれまで眼帯をしていたのは医療目的としての目元の保護ではなく、「眼球を失くした人間の目」を周囲に見せないための配慮としての目的だった。けれどきっと苗字は気にしないと思ったのだ。
朝、唐突に眼帯を外したまま一階に降りてきた七海へ、苗字はいつも通り「おはよう」と微笑むだけだったものだから、その時は七海も「おはようございます」と返すにとどめたのだけれど、その後にやはりなんだか居心地が悪くなって「夏場に眼帯をしていると蒸れるので外しました」とわざわざ彼女を呼び止めてまで言い訳を伝えてしまった。そうすれば彼女が珍しく声をあげて笑うものだから、七海はすっかり気が抜けて「外では着けるので、忘れてたら教えてください」と恥じらい半分にそう言うしかなかった。







何もせずとも汗ばむような夏も盛りのとある夜。
商店街で夏祭りがあって、いつもより人の多い通りを彼と彼女は2人で歩いた。商店街の店々が通りに簡易的な屋台を出しては人を呼び寄せている。通りに沿って並ぶ雪洞や絶えず流れる盆踊りの曲に、人々の気分は否応なしに高揚する。

祭りに行こうと強請る彼女に渋々着いて行ったようなものだったが、いつもより賑わいのある街を歩くのは思っていたよりもずっとよかった。なにより彼女が楽しそうだから、それだけで十分か、と七海は思う。

「なっちゃん、これ美味しいわ」
途中で購入したベビーカステラをひとつ七海の口元に寄せてくるから、唇で食むように受け取る。卵の風味が強い甘い菓子に口内の水分を奪われながら、七海は人混みの中に彼女を見失わないようにその腕を取った。

金魚のような浴衣姿が通りを行き交う。あちらこちらの屋台を指さす苗字の声を聞こうと少し身をかがめた時、「あ、おにーさん!」と美容室の店前からこちらへ手を振る青年に気がついた。
彼はその美容室で働く美容師で、以前七海が髪を切りにその店へ行った時に担当してくれたのが彼だった。七海は軽く会釈をしてから苗字の腕を取ったままそちらへ足を進めた。

「おにーさん、髪伸びましたね!」
「そうでしょうか」
「そうですね!また来てくださいよ!」
「はあ、君はいつ休暇日なんでしたっけ」
「火曜っす!」
「じゃあ火曜に切りに行きます」
「なんでっすか!ウケる!」
染め抜いた人工的な金髪をブレイズに編み込んだ髪型も、耳の縁にある大量のピアスも非常に目を引くが、接客業という側面もあるからか、口を開くとコロコロと表情を変えてやけに親しみを感じさせる青年だった。おしゃべりすぎるところが少し傷だが。

「美容室も出店を出してるのね」
七海の体の後ろからひょいと顔を出した苗字に、美容師の青年が「エッ!美人!彼女!?」と声を上げた。
「おにーさん彼女いるなんて言ってなかったじゃないですか!」
「詮索やめてください。美容室変えますよ」
「一番困るやつ!」
「何売ってらっしゃるの?」
「タピオカミルクティーです、お姉さま」
美容室のウィンドウ前に簡易的な作業台を作って数人の若い美容師たちが名前明カップの中にミルクティーと、それから黒くて丸いタピオカを入れている。
それをまじまじと見つめた苗字が口を開いた。

「カエルの、」
その瞬間、咄嗟に七海は掌で苗字の口を塞いだ。七海の大きな掌では苗字の口だけではなく、顔の下半分はすっぽりと覆われてしまう。彼の掌の下で苗字はもごもごと何かを言う。多分「なにするの、なっちゃん」だろうなと思った。

「名前さん、思ったことをすぐに口に出さないでください」
「これカエルの卵みたいっすよね!今、流行ってるらしいですよ!」
「なんで私が今止めたのに君が言ってしまうんですか」
七海の努力も虚しく、とうとうそのワードが口にされてしまって、肩を落とす。
「でも超美味いっスよ!騙されたと思って買ってください!」
人懐こい笑顔で彼がそう言うから、七海も苗字もまあ騙されてもいいかと思った。
「では手切れ金代わりに買いましょうか」
「いや美容室も変えないで、おにーさん」
タピオカミルクティーとやらを一つ買って「また来てくださいねー!」と、ぶんぶん手を振る青年に軽く手を上げてその場を離れた。

「なっちゃん、先飲んでいいわよ」
「はい、毒味ですね。いただきます」
七海は通常のものより太いストローを咥えて吸う。ただ吸うだけでは甘い液体ばかりが流れ込んでくるものだから、底に転がったタピオカに狙いを定めて吸い上げる。思っていたより勢いよく流れ込んでくる質量に内心驚きながら舌の上で転がるモチモチとした感触を歯で繰り返し噛んだ。
七海は真顔でそれを咀嚼し終えると、そのまま何も言わずに苗字へカップを手渡した。

「……どうだった?」
「飲んでみてください」
「どうして感想を言ってくれないの」
「どうぞ」
「なっちゃん」
「飲めばわかります」
小さな意地悪をする七海にむうと上目遣いをする苗字。けれど七海が何も言ってくれないとわかったのか、おっかなびっくりストローに口をつける苗字を少し上の高さから眺めて七海は微かに頰を緩めた。七海と同じように紅茶ばかり流れ込んでくるのかストローを動かしてタピオカを狙う苗字。吸い込んで口内にやってきたタピオカを彼女がもぐもぐと噛んでいるらしいのを見て「どうでしたか」と七海は問いかける。

「ん!甘くて美味しいわ」
「そうですね」
パッと笑った顔でこちらを見上げてくる彼女に目を細めて、タピオカミルクティーに集中する彼女が人にぶつかられないようにそっと腰に腕を回して自分の方へ引き寄せた。
「タピオカって昔も流行ってなかったかしら」
「もう少し粒が小さかった記憶があります」
「そうそう、牛乳だったかの中に入ってて」
「ココナッツミルクですね」
「ブームは巡るって本当なのね」
「随分様変わりしたような気もしますが」

苗字の足元へ這い寄る蝿頭を踏み潰して歩く。出店をあらかた見て回って、最後に冷たいチューペットとひとつだけ買って半分こにした。
帰りは商店街を数本外れたひと気の少ない道を選んで帰路に着く。

祭りの喧騒さえ今は遠く、七海は少し先を歩く苗字の纏うワンピースの裾が、夜の海にさざめく波のように揺れるのを眺めながらいつもよりずっとゆっくりと歩いた。紺色のロング丈、ワンピースのノースリーブから伸びるしなやかな腕は暗い夜道の中では発光しているかのようにさえ見える。すぐ向こう側の通りにはたくさんの人たちがいるのに、2人きりの夜。

もしも、もしも彼女へ何かを伝えるのならば今以上に絶好の機会は無いと思った。

「名前さん」
七海はその人の名前を呼んだ。それだけでふわりとスカートの裾が膨らんで、半分ほど減ったチューペットを手にした彼女が振り返る。なんの警戒もない瞳が七海を真っ直ぐに捉えた、その刹那。

七海の鼻先にポツンと雨が落ちた。

「あ」
「雨」
苗字が掌を天に向けてすぐにコンクリートに小さな水玉模様を作り始めていた雨が、あっという間に道路を真っ黒に染め上げた。不意にバケツをひっくり返したような大量の雨水が容赦なく全身に叩きつけられる。唐突な天気の変化に悲鳴みたいな笑い声を上げた苗字の腕を取って七海は足早に木陰を目指した。

葉に雨が打ちつける音の下、街路樹の下で雨宿りをする。ほんの十数秒、雨に降られただけですっかり衣服は濡れ切ってしまった。額に張り付いた前髪が煩わしくて、雨をワックス代わりに髪を撫でつけた。もう夏の盛りだというのに雨が降っただけで一気に体感温度が下がる。吹き抜ける風は夏場にしては冷たく、濡れた体にはひんやりと冷たいほどだ。大丈夫だろうか、とふと隣に立つ彼女へ目を向けると、苗字は濡れて顔に張り付いた髪を後ろに流していた。七海の視線に気がついて、彼女は顔を上げた。

「びっくりしたわね」
「通り雨でしょうか」
苗字の纏う夏用の薄い生地のワンピースはすっかり濡れて張り付き、彼女の腰とその下の下着のラインをはっきりと見せている。七海は黙って目を逸らしながら、誰かがここを通りがからないことを静かに、けれど強く祈った。

雨は止まない。コンクリートを打ちつける雨の勢いは変わらなくて、2人は並んで木の下に立ち尽くす。
「名前さん」
「ええ」
「寒くはありませんか」
「涼しくてちょうどいいくらいよ」
「そうですか」
「ね、なっちゃん」
「はい」
「さっき、何か言おうとしてた?」
苗字は彼女よりも背の高い七海を見上げた。その視線を感じながら七海は彼女の方を見ずに、雨の降り続く空を伺う。いつしか暗い雲が空をすっかり覆っていて、雨は降り止まない。遠く、ごろごろと雷が雲の中で轟く音が聞こえた。
七海はゆっくりと隣に立つ彼女へ視線を移す。それだけでぴたりと目が合った。小首を傾げた彼女に七海は口を開く。

「さっきは、」
一度唇を閉じて、いつのまにか口内に溜まっていた唾を飲み込む。

「たまには夜の散歩もいいですね、と言おうとした瞬間に降られました」
そう言った途端、苗字は声をあげて笑った。

「いいじゃない、雨の中の散歩も」
「せめて傘が欲しいです」
「傘の下で耳を傾けるだけではなく、雲の下で浴びるのもいいものよ」
「それで風邪を引いてしまったら元も子もないでしょう」
「風邪引いたら看病してあげるわ」
「2人とも引いたらどうするんですか」
「真哉くんに助けを呼びましょうね」
「呼びません。唐橋さんを困らせないでください」
七海は溶け切ってすっかり液体になってしまったチューペットに口をつけて、すべてを飲み下した。口の中に広がる人工的な甘さに少し眉間に皺を寄せる。空になったビニールを指先で潰した。
それから少しの間、木の下で雨から守られたまま、降り注ぐ雨を眺めた。テレビの砂嵐みたいな雨音に混じって、人々の声が聞こえる。祭りの通りはここよりもっと人が多かったから大変だろう、とぼんやりと思う。

「通り雨かと思ったのですが、長いですね」
「走って帰るのはどうかしら」
苗字が七海の手首にそっと手をかけた。太い手首にそっと添えるだけのような指先に、どうしてか痺れるような感覚を覚えた。
「……それは流石に」
「そう?」
七海の手首に触れていた指が離れる。
まだ少し中身の残ったチューペットを握る小さな拳。
彼女の脚に張り付いたままのワンピースの裾。

唐突に、苗字は木陰を出て駆け出した。

七海は驚いて彼女の名前を呼ぶけれど、彼女が少しも振り返らずに家のある方向へ駆けていくものだから、放っておくこともできず、七海も慌ててどしゃぶりの雨の中に飛び込んだ。
雨音の中、苗字の履いている踵の高いサンダルがパチンパチンとコンクリートを叩く音が聞こえる。
「名前さん!」
名前を呼ぶ。彼女は走りながらターンするみたいにくるりと振り返って笑った。

「なっちゃん、あのね──」
彼女の唇が動くのを見た。
けれど、上空1000メートル上から大地へ向かって真っ直ぐに叩きつけられる数え切れないほどの雨音に、彼女の言葉のその先が聞こえなかった。だから、追いかける。走りながら思う。

もしも雨が降り出さなかったら、自分は彼女に何と言っていたのだろうか。
七海は生まれることのなかった言葉のことを考える。
考えても答えは出なくて、どれだけ待っても答えはやってこなくて、だから多分本当に「たまには夜の散歩もいいですね」と言おうとしていたのだろうと思う、きっと。

土砂降りの雨の中を2人は走って、ようやく家に着いた頃には雨はもうほとんど止んでいた。

「ほら、通り雨だから待っていればよかったんですよ」
濡れた髪をかき上げながら恨めしげに七海がそう言うと、苗字はまるで気にしていない声音で微笑んだ。
「いいのよ、止まない雨の中を走ったって」
玄関の扉を開けて、三和土に2人は足を踏み入れる。体から零れ落ちる雨が床を濡らしたのを見て、七海が息を吐く。
「ああ、家の中が濡れる……」
「寒い?なっちゃん、先お風呂入っていいわよ」
「結構です。名前さんが先に入ってください」
「いいの?ありがとう。あ、タオル持ってくるわ」
サンダルを脱いで、濡れた足で苗字は洗面所へ進んでいった。フローリングの廊下に彼女の裸足の足跡が残る。七海は三和土に立ったまま、中へ呼びかけた。

「あの、名前さん」
「はーい」
「さっき、なんて言ってたんですか」
「いつー?」
「雨の中で走ってた時に」
ああ、とバスタオルを何枚も抱えて玄関に戻ってきた彼女は、七海にそれを手渡して笑う。それから、受け取ったタオルで頭を拭く七海へ、向けた掌の四指だけを柔く折って耳を貸して、とジェスチャーをする。それに素直に従って七海が腰をかがめると、彼女は彼の耳元に口を寄せた。

「あのね、私、あなたが追いかけてきてくれるってわかっていたから雨の中へ飛び出したのよ」

囁くようなくすぐったい声に鼓膜を揺らされて、七海は肩を落として笑うしかなかった。
もうきっと自分は一生彼女に勝てないだろうことがはっきりとわかってしまったから。











季節がいつしか夏と秋の境目に来た頃、七海が唐橋から依頼されていたミステリ短編の翻訳が終わった。校正等も含めて、完全に七海の仕事は完了し、あとは後続に任せるのみという段階まで来たのだった。

以前唐橋と苗字と3人で集まった喫茶店で、今日は唐橋と七海の2人だけがテーブルで向き合っていた。
「改めまして、この度はありがとうございました。編集部のほうでもかなり評判いいですよ」
「こちらこそありがとうございました。唐橋さんのご尽力のおかげです」
そう返せば唐橋は顔の前で手を振って「いやいや」と謙遜して笑った。
「ということで、原稿は次の号に載ります」
「はい」
「で、なっちゃんさんさえ良ければ新しいお仕事もお願いしたいと考えているんですよ」
「次もデンマーク語ですか」
「いえ、今度は英語です。ルポルタージュに興味はありませんか」

そう切り出した唐橋のよれば、七海の翻訳した文章を読んだ編集長がその文体を見て「ミステリもいいが、この人にはもう少し硬い文章の方が合う」と言ったのだそうだ。

「ルポとか学術書とか、専門知識が必要になりますのでなんでもとは言えませんがそういう方面のほうが良さそうだ、と」
「以前金融系の会社で働いていました。経済新聞程度の専門用語ならば英語でも支障はありません」
「いいですね、覚えておきます」
「ルポルタージュ、私でよろしければお引き受けします」
「なっちゃんさんはそう言ってくださると思っていました!」
両手を上げて笑う唐橋に、七海の気も緩んで小さく息を吐く。それから珈琲に口をつけた。温かい湯気に七海が掛けていた眼鏡が少しだけ曇る。けれどカップをテーブルに置けばそれもすぐに晴れた。

「詳細は改めてお伝えしますね。よし!今日の仕事終わり!なっちゃんさん、お喋りしましょう!」
「あなたは労働時間でしょう。仕事してください」
「ここのケーキセット食べました?」
「全種類制覇しました。私は断然レモンパイ派です」
「えっ、全部のケーキを食べたんですか」
「食べました」
「……意外と食いしん坊ですよねえ」
「別に普通です」
「そうかなあ……」





何はなくとも日々は当然のように続く。
朝晩が酷く冷え込むようになったある日に、七海が翻訳した短編を収めた『ガゼル』は発売された。
それより前に献本をもらっているというのに、わざわざ朝から本屋へ出かけて雑誌を買ってきた苗字に溜息を吐きつつも、自分ごとのように嬉しそうな彼女を見るのは悪い気分ではない。ソファに座って雑誌を広げる彼女へ七海はキッチンで淹れた珈琲を差し出した。

「ありがとう。いただきます」
「お構いなく」
七海は自分用のマグをテーブルの上に置いて、苗字の横に腰をかけると途中まで読んでいた本の続きを開いた。栞は本の厚さの3分の2あたりの位置にある。きっと今日中に読み終えられるだろう。

積んでいた本を読むスピードと新しく本を買うスピードはほとんど変わらなくて、結局これから読む予定の本の総数は大して変動していない。
本好きにとっては幸福極まりないことだ。

七海と苗字は半身分程度、間を開けながらソファに並んでそれぞれ好きなように時間を過ごす。ふと、2人は偶然まったく同じタイミングで珈琲に口をつけたのだけれど、どちらも自分の手元の文章を目に追うのに忙しく気がつかなかった。

七海が足を組み替えた。
苗字が肘掛けに頬杖をつく。
彼らの距離感は変わらない。

2人は手を繋がない。唇を重ねることもないし、同じベッドで眠ることもない。それでも一緒に暮らしている。
同じ食卓を囲み、珈琲を飲んで、たまに並んで買い物に行く。

たったそれだけの、彼の願った小さな理想郷はここにあった。

不意に思いがけず眠気を感じて、七海は壁にかけられた時計へ目を向けた。昨夜徹夜をしたということも今朝早起きをしたということも無く、ましてまだ午前だというのに、抵抗が難しいほど瞼が重い。気を抜くと瞑ってしまいそうな瞼のまま、七海は隣に座る苗字を見た。膝の上に雑誌を置いて、静謐な表情でページを捲る彼女の横顔。

……まあ、いいか。
なんとなく許されたような気になって、七海は本に栞を挟むとそれを肘掛けに置き、それから腕を組んで目を閉じる。とろりとろりと弱火で温められるような快い眠気に、あっさりと意識を手放した。

苗字がそのことに気がついたのは、七海が寝入ってから10分は経ってからのことだった。
隣に座っていたはずの七海の方からページを捲る音が聞こえなくなったことに気がついて、ふと彼の方へ目線を向ける。するとそこにはソファに体を沈み込ませて眠るどこか穏やかな表情をした青年の姿があった。

苗字はそっとソファから立ち上がると、ブランケットを持ってきてそれを七海の体にかける。微かに身じろぎする体に小さく笑って、それからその寝顔を見つめた。
顔の左側を広く覆うケロイド、引き攣って閉じ切らない左の瞼、その奥の伽藍堂。彼の寝顔が、何も知らない人にとってどういうものかはわからないが、苗字にとっては昔と変わらない、優しくて傷つきやすい男の子のささやかな平穏のように見えた。

その穏やかな深い眠りを目に映して、苗字はいつか読んだ海外小説のある一文を思い出した。


You take a really sleepy man, Esme', and he always stands a chance of again becoming a man with all his fac---with all his f-a-c-u-l-t-i-e-s intact.

『エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機──あらゆるキ─ノ─ウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね』


そうであればいい。
苗字は沈黙からしか七海の語らぬ過去を知らない。
知らないながら、そうであればいいと思った。

この日々を幸せだと言って泣いた彼が、語らぬことで苗字を守ろうとした優しい人が、どうかこれ以上傷つけられぬように。

彼女はこの小さな理想郷から祈った。





(2021.5.23)