ナイトグルーヴ


アマデウスと苗字。
二人の関係性はプロ選手とその専属マネージャーだ。
互いのことは選手として、或いはマネージャーとして非常に優秀な人間であると認識している。

苗字はアマデウスが何の憂いもなくテニスに集中できるようにマネージャーとして全ての雑務を担当し、アマデウスは彼女が万全に整備した道を往って勝利を勝ち取る。
つまるところ二人は仕事上のパートナーと呼んでいい。

だから今日のそれも仕事の相談だろう。
そう思って、ミーティングルームのテーブル越しに向かい合いながら、苗字はアマデウスの言葉を確認するように繰り返した。

「パーティ?」
「ああ、来月のだ。苗字なら既にスケジュールを把握しているとは思うが」
「来月の半ばにあるスポンサーとのパーティのことだね」
向かいの椅子に足を組んで座っているアマデウスがうなづくと、苗字は「どうかした?」とばかりにビジネス的な視線を向けた。その迷いのない真っ直ぐな視線を見つめ返してアマデウスは口を開いた。

「……貴女も知っての通り、パーティには同伴者が必要だ。それは、つまるところ、女性のパートナーのことなのだが」
「時代錯誤なことにね」
「俺もそう思う。だがそれはスポンサー側から提示されたルールでもある。そして俺はスポンサーを持つプロのプレイヤーだ」
「ジレンマ、と言うべきかな」
「そうだな、正直苦手だ。そういったルールも、パーティそのものも」
「うん、把握しているよ。けど安心して欲しい。パーティの夜は君が最低限の挨拶回りを終えたあたりで急遽君の自宅が火事になったという連絡が入ることになっている」
「……というと?」
「私は慌てて君を連れ出し、自宅へ向けて車を運転する。そして今更会場に戻ってももうパーティが終わっているくらい車を走らせたところで火事が誤報であったことを君に伝える予定だ」
「それは、至れり尽くせりだな……」
「任せて欲しい。テニスの練習ではないんだから、苦手なことを無理してまでする必要はないよ」
「……心強いが、そこまでしなくていい」
「そう?」
「そうだ」
「君は真面目だね」
苗字はどこかキョトンとした顔でアマデウスを見つめると、視線を落としてテーブルの上に広げていたスケジュール帳に修正線を引いた。どうやら火事の予定は無くなったようだ。

それから彼女は続きを促すようにアマデウスへ視線を向け、指を組んだ両手をそっとテーブルの上に置く。その時にアマデウスは彼女の爪がペールピンクに塗られていることに気がついた。丁寧に整えられた砂糖菓子のようなそれが、自分の無骨でささくれだった指先と同じものに見えたことは一度も無い。


彼女はアマデウスが学生時代にプロになった時からずっと専任マネージャーとしてテニスプレーヤーとしての彼を支え続けてくれている。
プロになったばかりの頃のアマデウスは当時高校生で、そんな彼を支えた苗字もまた大学を卒業してマネージメント業に就いたばかりの新米マネージャーだった。新米二人の危なっかしい二人三脚で、それでもやってこれたのは二人の相性が悪くなかったからだろう。

アマデウスにとって苗字はプロになったばかりの辛く苦しい時期を支えてくれた信頼できる恩人だ。
だが、だからこそ、アマデウスは彼女の手を握ったことは一度もない。
彼と彼女はあくまでも仕事上のパートナーでしかないからだ。

……けれどそれはアマデウスが彼女の手を握りたいと思ったことがないことと同意義ではない。

「……確かに俺はそういった煌びやかな場を苦手としている。だが、」
アマデウスは神妙な表情で口を開いて、言葉を続ける。

「それでも俺はプロのテニスプレイヤーだ。多くの人に支えられて此処にいる。だからこそ支えてくれる人には誠意で応えたい」
静かな、けれどはっきりとした声でアマデウスは真っ直ぐにそう告げる。その言葉にマネージャーは目を丸くして、それからそっと眦を和らげた。

「やはり君は真面目だね」
そう言って彼女は嬉しそうに笑う。プロとしての彼の姿をそばで見てきた彼女はとっくの昔にアレキサンダー・アマデウスのファンなのだ。彼の素晴らしいプロ意識に喜びを感じないわけがなかった。

「私は君の誠実な判断を尊重するよ、アマデウス」
「すまない。貴女には苦労をかけてばかりだ」
「いくらでもかけてほしい。選手に頼られるなんてマネージャー冥利に尽きるというものだからね」
彼女はニッコリと「それはそれとして火事を起こしたくなったらいつでも言ってくれていい」とも言った。

そんな微笑みの通り、彼女はいつでもアマデウスの味方でいてくれるのだが、そこにはやはり年下の少年を見守るような色が残り続ける。アマデウスが彼女よりもいくらか年下であることは変えようもない事実だ。それは仕方ない。別に弟のように可愛がられていることを嫌っている訳ではない。

ただ、好意を寄せている女性からそういうふうにしか思われていないというのも困る。とても困るのである。

仕事に私情を挟むほど子供ではないが、この関係を無意味に継続し続けてそのうち何処の馬の骨ともわからぬ輩に彼女の心を持っていかれるのを黙って見ている訳にはいかない。

アマデウスはパーティが苦手だが、この時ばかりはチャンスだと思えた。

「……話を戻して、パーティの同伴者の話だが、」
「うん。誰か呼びたい人がいるのかな」
その言葉にアマデウスは小さくうなづいて、それから向かいに座る彼女にだけ聞こえるような声で言った。

「…………苗字を」
「私を?」
「……そうだ。パーティの同伴者として、貴女を誘いたいと思っている」

これがアマデウス青年にとってどれだけ勇気を振り絞っての発言であったかは筆舌に難い。
長年憧れ続けてきた女性をパーティへ誘うなんて!
とはいえ、もちろんこれも仕事の一つだ。プロとして、浮ついた気持ちでスポンサーのもとへ赴くつもりはない。

……けれど、そう、パーティが終わったら。パーティが終わって、プロのテニスプレーヤーではなくただのアレキサンダー・アマデウスに戻ったのなら。

闇夜の帰り道、ハイヒールで足元の悪い彼女の手を取ってエスコートする夢くらい、見たっていいだろう?

アマデウスは自分の耳がひどく熱いことを自覚しながら、努めて普段通りの表情を作ってみせた。
まるでなんてことないみたいな顔。断られたとしてもまあ仕方ないな、みたいな表情をしながら、アマデウスの心の中は大嵐だった。暴風雨に晒されながら心の中でアマデウスは膝をつき両手を組んで目を瞑り、ただ祈る。

どうかこれまで築き上げてきたはずの好感度が俺の一方的なものではありませんように、と。

そんな切実な大嵐を知らない苗字は、一瞬ポカンと惚けた顔をする。それから小首を傾げて苦笑した。

「驚いた、まさか私がパーティに誘われるとは」
アマデウスは内心で祈る。
「迷惑か?」
「そんなことはないけども、その、こう言ってはなんだけど、君ならもっと他に誘える人がいるんじゃないのかな?」
「そんなものはいない」
「そ、そうなのか、それは、その、意外だね……。いやこの言い方も失礼かな」
「構わない。それでどうだ、来てくれるだろうか?」
「それについては心配する必要ないよ。言ったでしょう、君に頼られるなんて冥利に尽きると。もちろん引き受けるよ」
表面上は普段通りのクールさを保ちつつ内心で全力のガッツポーズするアマデウス。そんな彼へしかし彼女はどこか不安げに眉を寄せながら問いかける。

「……いや、でも、その、本当に私でいいの?」
「勿論だ。他でもない苗字に頼みたい」
やや食い気味に答えたアマデウスに彼女は少し頬を赤らめて驚く。けれどすぐに照れ隠しとしてわざとらしく得意げな笑顔を作って見せた。

「ま、まあ、確かに慣れない場に行くのならば同行者は慣れた相手との方がいいだろうからね」
それだけではないが、アマデウスは神妙な顔を作って「そういうことだ」と答える。

「それになにより、苗字がそばにいると安心できる。きっと何があろうと俺の味方になって助けてくれるだろうと信じられるからだ。誰かを誘うというのなら貴女しか考えられない」
「そ、そうか。そうも熱烈に頼りにされては断れないなあ……」
アマデウスからの追撃のような褒め言葉に流石の彼女も視線を泳がせて頬を染める。テーブルの上で彼女の人差し指と人差し指が所在なさげに互いの指の腹を撫であっていた。

……照れているようだ。
彼女が。
アマデウスからの言葉に。

それに気がついた瞬間のアマデウスの行動は早かった。
攻め時を逃しはない。
彼のプロ意識の高さはテニスでもソフトクリームでも焼肉でも発揮されるので当然ここでも発揮された。
アマデウスはテーブルに腕をついて前のめりになると、正面にいる苗字の瞳をじっと見つめた。その突然の行動に驚いて目を丸くする彼女が、けれど身を引いたり体をこわばらせたりしていないことを確認してから彼は言葉を紡ぐ。

「普段あまり伝えられていなくてすまなかった。苗字には心から感謝している。貴女が支えてくれなければ俺はここまでプロとしてやっていくことはできなかっただろう。苗字がそばにいてくれたおかげだ」
「そ、そんなことはないよ。すべては君の努力の賜物だからね」
「努力できる環境を作ってくれているのは苗字だろう。俺が何不自由なくテニスできているのは貴女がいるからだ。苗字が俺のマネージャーで本当によかった」
「いや、あの、その言葉は嬉しいけど、その、アマデウス、君、どうかした?まさか熱でも」
「熱も無いし、どうもしていない。すべて本心だ」
「こんなことを言うなんて、あまり君らしく無いんじゃ……」
「そう思わせていたのならこちらの過失だ。口にしたことはなかったがいつだってそう思っている」
彼女の瞳を覗き込めば、それが戸惑いと照れで揺れているのが見えた。可愛らしい、と素直に思う。

「名前」
アマデウスは彼女の名前を呼んだ。
ファーストネームで呼んだのは初めてのことかもしれない。

「どうかこれからもそばで俺は支えてほしい」
「そ、それはもちろんだけれども……」
「俺のパートナーになってくれ」
「……アマデウス、これは、その、パーティの話だね?」
「それ以外の話でも俺は構わない」

彼がそう言った瞬間の初めて見る彼女の表情。
それを瞳に映して、アマデウスは最終セットを勝ち取った時のような気持ちになった。




(2022.5.25)
Happy Birthday! Alexander!