寝ても醒めても

「帰りたくないんだ……」

駅から歩いて10分のところにある雰囲気のあるバーだった。時計は既にてっぺんに近づきつつあって、酔いにぼやけた思考でも今すぐ会計をして走って駅に向かわなければ終電を逃すだろうことくらいはわかっていた。
カウンター席で隣に座る徳川がそれをわかっていて、冒頭の世迷いごとを口にしたのかどうかは定かではない。定かではないが、今は他人の思考回路になど構ってはいられなかった。

「マスター、会計をお願いします」
「ダメです……女性に出させるなんて……」
「言ってる場合じゃないでしょ」
普段の彼からは想像もつかないほどモタモタと緩慢な動きで上着の内ポケットを探る徳川を無視して、財布から取り出したカードでさっさと会計する。

「徳川、立てる?」
「問題ありません」
そう言いながらバーチェアから立ち上がった徳川はそのまま流れるように膝から崩れ落ちた。問題しかない。しかし、そんな姿がなんだか可愛らしくて思わず気が抜けて笑ってしまう。
すると途端にこちらを見上げていた徳川が泣き出しそうな顔と声音で「すみません……」と呟くものだから、私は笑った顔のまましゃがみ込んで視線を合わせた。

「ダメそう?」
聞くと、顔を真っ赤にさせた彼は眉間に皺を寄せて首を振った。それに合わせて彼の黒髪がさらさらと揺れる。縋るように名前を呼ばれたから、うなづいて応える。

「苗字さん」
「うん」
「……置いてかないでください」
「置いてかないよ。こんな都会のコンクリートジャングルに今の状態の君を置いてったら一晩で毟られるもの全部毟られそうだもん」
「そんな無様は晒しません。毟られないようブラックホールで固定します」
「何を?財布を?」
っていうかラケットもないのにブラックホールは無理だよ、と声をかけながら立ち上がって徳川へ手を差し出す。そうすれば素直に手を重ねてきた彼を私が支えになりながら立ち上がらせた。徳川の腕を私の肩に回させ、彼の背中を支えて、ほとんど二人三脚の様相でバーを出る。
その時にチラリと見た腕時計。今すぐ徳川を投げ捨てて走り出さなければもう終電には間に合わない時刻になっていて、しかし私には徳川を置いていくという選択肢が存在しないから、最終列車はとっくに行ってしまったも同然だった。


「徳川、気分はどう?」
「はい、大丈夫です。……その、すみません、苗字さん」
「謝んなくていいよ。夜更かしもたまには楽しいし」
二人三脚のまま、駅へ向かう人の流れに逆らって夜の街を歩く。中には私たちと同じ流れで歩く人たちもいて、きっとその人たちも今日は帰らないのだ。

隣の徳川の足取りは雲の上を歩いているかのようにどうにも覚束なくて不安だ。彼が足を絡ませて倒れたらきっと私もドミノみたいに倒れてしまうに違いない。だから彼が転ばないように普段よりずっとペースを落として歩いた。それにどうせ夜は長いのだから。

吹き抜ける風は酒のせいで火照った体には心地よくて、けれどゼロ距離で接している徳川の腕はどうにも熱くて、プラスマイナスで言えばプラス、みたいな感覚だった。温度の話。
これからどこに行くべきか考えながら歩いていれば、ふと徳川がもごもごと口を開いた。

「終電、行ってしまいましたか?」
「多分ね」
「すみません」
「大丈夫だって。本当に帰りたかったら君を置いて帰ってるよ」
「……その、そうではなくて」
その時、不意に徳川が私に寄り掛かるのをやめて体を離した。それから急に、それまでの千鳥ようだった彼の足取りが、スイッチで切り替えたみたいにしゃんとしたものに変わる。まるでちっとも酔ってないみたいに。

思わず立ち止まって徳川を見上げる。
目を丸くする私の瞳に、バツの悪そうな顔した徳川が映る。

「酔ってなかったの?」
「酔ってなかったわけではないです。ただ、酒で前後不覚になったことはありません」
「酔ってなかったんじゃん」
「酔ってなかったわけではないかと……」
「嘘ついたの?」
「嘘をついたつもりはなくて、ただ演技をしました」
「ほんとは立てたってこと?」
「はい」
「唆したのは入江?」
「いえ、アドバイスを頂いただけです」
「それを唆されたって言うんだよ。鬼にも聞きな?絶対鬼もアドバイスじゃなくて唆しだって言うよ」
「俺がお願いしたんです」
「なんて?」
「好きな人を口説くためにはどうしたら良いか、と」
「……私、今口説かれてるの?」
「いえ、これからです」
返す言葉が見当たらなくて、馬鹿みたいに口を開いたまま徳川の顔を見つめる。徳川に見つめ返される。お互い黙ったまま互いの顔を見つめ続けた。変な時間が無闇に流れる。

「……えーっと、それで君はこれからどうしたい?」
無言の時間を壊して口を開く。徳川の発言によっては深夜料金のタクシーを使ってでもこのまま入江の家にカチコミに行く事になる。
問われた徳川は真っ直ぐに私を見つめながら、その薄い唇を開いた。

「ロイホ、に行きたいです」
「ロイホ」
「ロイホとやらで夜明けまで話し込むのが大人のデートの定石なのだ、と」
「……スピッツかーい」
「スピッツ?犬ですか?」
きょとんと首を傾げる徳川に、君は入江に揶揄われているのだと伝えるのは容易かったが、しかし終電を逃した以上私も徳川も行く当てがないのは事実であった。このまま道の真ん中で話を続けるより、どこかに入り直して話を続けたほうがきっと良い。となると、ファミレスは確かにうってつけではあった。

「…………まあ、じゃあ、行こうか」
「! ……はい!」
これではまるで私が徳川に口説かれるのを了承したみたいだと思いながら、けれど本当に嬉しそうに相好を崩す彼を前にするとなんだか意地悪なことを言うのは憚れる。

「では、行きましょう」
そう言って差し出された手を取らないのもなんだか変な話なわけで、私は何を考える間も無くその手を取った。素面だったら絶対にそんなことしていないだろうに、酔ってないと自分では思いつつも酒はしっかり回っていたらしい。
けれど徳川は私の手を握った。当たり前みたいに。きっと素面だったらそんなこと徳川だってしなかったに違いない。手を握って、歩くたびに繋いだ手をゆらゆらと揺らしながら歩いていく。犬の尻尾みたいに揺れる二人の間の繋いだ手を見て思わず笑った。

「……楽しそうだね、徳川」
前後不覚は演技とはいえ少なからず酒は回っているのだろう、いつもより感情のわかりやすい徳川は私の言葉に首を横に振った。

「……いいえ、幸せです」
そう言って頬を緩める彼の表情と感情に演技や嘘があるのならトロフィーものだ。指導者の入江ごと、芸能界に叩き込んでいる。
けれどそんなことは無いから私たちは深夜のロイホに向かう。

「帰りたくないと思っていたのは本当です。だからあなたが連れ出してくれて、嬉しかった」
「……そりゃあ、どうも」
「ですが、会計についてはすみませんでした。後ほど立て替えていただいた金額を、」
「いいよ」
「ですが、」
「ロイホで奢ってよ。それで充分」
「そう、でしょうか?」
「うん、君は可愛い後輩だからね。先輩面くらいさせて」
そう返すと、徳川は少し不満げな顔をして「恋人になれるよう努力します」と真面目くさった顔で言った。

「なんだか口説かれてるみたい」
「着いてからが本番ですから覚悟するように」
朝を迎えたら私たちはどうなっているのだろう。
まだ見ぬ未来がより良いものであることを、酔いから醒めつつある頭で願ってみた。





「どうやら朝まで話し合うことに意義があるようです。ということで議題をいくつか考えてきました。まずは『今後の日本テニス界の若手選手の育成方針について』です。有意義な議論にしましょう」
「……注文してからにしようよ」

ロイホの壁掛け時計を横目で見る。
これがあと5時間続くのか……。


(2022.6.11)