鳳凰と子鹿

うちの学校のテニス部は怖い。
強豪であることは事実としても、なんかいつもコートから破壊音が聞こえるし、練習の時の気迫がすごいし、部長の顔が怖いし、インドア派の私にとっては可能な限り関わりたくないというのが本音だ。

「……びょ、平等院先輩、お、お話があるのですが……」
関わりたくなかったのにぃ……。

部活に集中していた平等院先輩は、急に声をかけてきた私をジロリと見下ろした。それだけで脚がすくむ。すくむというか生まれたての子鹿のようにガックガクに震えている。
平等院先輩の後ろでボール拾いをしているクラスメイトがそんな私を捕食される前の草食動物を見る目で見てくるが、助けてはくれないらしい。目が合ったが悲しそうな顔で首を振られた。

「……一体何の用だ」
心臓に響くような低い声だった。今なら蛇に睨まれたなんとやらの気持ちが完全に理解できる。口の中に溜まった唾液をごくりと嚥下してから唇を開く。

「わ、私は生徒会会計の苗字、」
「用件はなんだ」
頭の中で用意していたセリフが途中でピシャンと遮られて頭の中が真っ白になる。あわ、あわわ……と内心パニックになりながら必死に呼吸を繰り返す。そしてもう一度頭の中で用意していたセリフを途中から言い直す。

「え、ええと、ら、来年度の部活予算の件で、」
「予算の要望書なら既に提出済みだ」
うえええん……。ピシャリと言われて泣きそうになるのを我慢する。今すぐ帰りたい。逃げ出したい。先輩顔超怖い。





自主自律をモットーとしている我が牧ノ藤高校において、部活動の活動費用は校長から提示された金額を生徒会が各部の成績や意見をもとに分配する、というシステムを取っている。
当然部活動側はみな潤沢な予算が欲しいと思って要望書を出すが、予算には当然限りがあるのでどこかで何かしらの妥協をしてもらわなくてはならない。
そしてその度に生徒会は各部活にその妥協をお願いするために頭を下げにいく。この時期、生徒会は部活動からヘイトを向けられるだけクソみたいな立場になる運命なのである。つらい。

そんな愚痴ははさておき、今年も当然各部活からの要望が予算額を越えたため、生徒会員が各部活に土下座をしに行っているというのが事の始まりである。
そして厳正なるじゃんけんの結果、私はテニス部に向かうことに決定した。決定して私が最初にしたことは泣くことだった。他の生徒会員の安堵の声が恨めしかった。

そして今、私は平等院先輩と向き合っている。
岡山の山奥で鬼みたいにデカい熊と戦って付いたのが額の傷だとか、襲ってきた海賊団百人を返り討ちにしたとか、アルプスで雷に打たれたのに無傷で生還したとか様々な逸話がある平等院先輩は実際に目の前で見ると噂の一千倍怖い。平等院先輩を見ていると逆に怖いものがなくなる。先輩が怖すぎるからだ。

泣きそうになる涙腺を耐えて、引き攣る喉を叱咤して、唇を開く。頑張れ私、負けるな私。

「テ、テテ、テニス部から頂いた予算案ですが、他の部活との兼ね合いもあり、要望の全てを通すことがで、で、でき、出来ない状況となっています。で、ですので、要望の再案を依頼したく、ま、参った所存です」
一つ上の先輩へ、というより無意識に理事長レベルへの敬語になってしまう。今先輩がどんな顔をしているのか見れなくて俯くと、見たことないくらい高速で震える自分の脚が見えた。

「は?」
地を這うような低い声が私の鼓膜を揺らした途端にびくりと肩が震える。
逃げ出したくなる脚を必死にこの場に留めて向き合うのは、私が生徒会会計だからだ。職務から逃げても何も解決しない。あと脚が震えすぎて走れないからだ。

「こっちの要望に相応の成果は上げているはずだが?」
「も、もちろん把握してます」
落日気味だった我が男子テニス部が蘇り、全国制覇を果たしたのは平等院先輩が入部した二年前であり、その時に先輩が一年生ながらシングルス1で勝利を上げたことは記録にも残っている。まして翌年には連覇まで果たしている。
つまりテニス部の活躍も学校としても誇れるものであるし、その中でも平等院先輩の功績は大きなものだ、ということだ。
勿論わかっている。そんなことは生徒会一同全員わかっている。だがそう単純にはいかないのだ。

「結果を出していない部を削ればいくらでも予算は取れんだろうが」
頭上から降り注ぐ傍若無人な声に私の小さな肝は限界だ。許されるのならもう本当に泣きたい。テニスコートのうえで転げ回って駄々をこねて泣きたい。
泣いて全てが解決するのならそうしていたけど、そうもいかないから背筋を伸ばし、顔を上げて先輩の肉食獣みたいな鋭い琥珀の瞳を見る。

「も、もちろん過去の成績は予算の検討において重要な事項です。しかし私たちはそれだけで判断しているわけではありません。成績を上げていることは予算を増やす理由にはなりますが、成績を上げていないことが予算を削る理由にはなりません」
「ハッ、所詮は理想主義者共の甘ったれた考えだ。強者が何故弱者に場を譲る必要がある?弱さを免罪符にすることこそが弱者を弱者たらしめる。奪われたくなければ、勝ちを手にするほかねえ。違うか?」
「そ、れは、そうなんですが……」

……言い方はあれだが、平等院先輩の言い分も理解できないものではない。
言ってしまえば、テニス部は勝てる部活なのだ。強い部活に予算を出して、確実に勝てるように支援するのは間違った考えではない。

しかし、それは生徒会に出来ることではない。何故なら全ての生徒に対して公平であることが我が生徒会の理念だからだ。全ての生徒に、全ての部活動に公平な機会と予算をを与えること。それが生徒の代表である生徒会の役割なのだから。

……けれどそれは先輩には理解してもらえない考えでもあるだろう。

言い淀む私に平等院先輩は背を向けて「予算の再案はしねえ」と吐き捨てる。そうしてベンチに置いていたラケットを取ろうと歩き出す平等院先輩の背中を見つめた。

……理想論ではこの人を納得させられない。ここに来る前からわかっていたことだ。
だから、納得させるなら彼と同じ理論の中で戦うしかない。

だから私は震える脚で真っ直ぐに立つ。後ろ手に右の手首を左手で握る。胸を張って、息を吸って、腹を括る。

「……っ、たかが二連覇如きで大きな面をしないでいただきたい!!」

私が出した声は無様にも震えていて、側から見ても泣きそうな声だっただろう。
テニス部の活動場所というアウェイ極まりない場所で、テニス部全員に喧嘩を売るような発言。もう生きて生徒会室に戻れないかもしれないと思いながら、こちらを振り返る平等院先輩の怖い顔を見ていた。

「……ほう」
平等院先輩は静かに呟いて口角を上げた。それは笑み、というより肉食獣が狩りの最中に牙を見せるのに近かった。
ゆっくりとこちらを歩いてくる平等院先輩の威圧感たるや。背後に阿修羅か何かが見える気がした。静まり返ったコートで、先輩が私の前に壁のように立ち塞がる。

「今、……なんつった?」
訂正するなら今だ、と言外に言う先輩に今すぐ「嘘でちゅ。なんでもないでちゅ」と掌を返したくなった。でも吐き出した言葉は戻らない。だから私は息を吸って大きな声でもう一度言った。

「たかが二連覇如きで大きな面をしないでいただきたい!!と、言いました!!」
はっきり不退転を告げた私を先輩は無表情で見下ろす。今気を緩めたら漏らす、と思った。

「確かにテニス部は二連覇を果たしています。素晴らしい成績であることは疑いようもありません。しかし!」
頑張れ私。負けるな私。それいけ私。怖いよ私。死にたくないよ私。
頭の中で自分にエールを送りながら言葉を続ける。

「二連覇ならば弓道部、卓球部、バレー部も同様!三連覇ならば水泳部、陸上部、剣道部!柔道部に至っては五連覇です!強い者がより多くを、と言うのであれば、たかだか二連覇程度のテニス部はむしろ予算を削られる立場であることを承知いただきたい!!」

震えすぎて下半身の感覚がない。もしかしたらもう漏らしているのかもしれない。
目の前の先輩は無表情のままだ。怖すぎる。自分では大きな声を出しているつもりだが、実は先輩には全然届いていないのかもしれない。それは泣く。もうヤケクソだった。普段大声なんて出さないから腹から声を出す方法なんてわからなくて、喉から必死に声を出す。

「予算を自由に取りたければ!!世界一でも獲ってきてから言ってください!!」

しん、と静まり返ったコートが怖かった。
誰も何も言うなと思ったし、誰か何か言ってくれとも思った。もう心がめちゃくちゃだった。多分絶対漏らしてる。何に対してか、誰に対してかわからないがとにかく助けて欲しかった。その時、

「……世界一、か」
不意に沈黙を破ったのは平等院先輩だった。私を見下ろすその顔に無表情は既に無く、むしろ何故か面白いものでも見たような顔で私を見ている。怖い。

「フン、生徒会のインテリ共の中にも骨のあるやつがいたようだな」
「あ、え、はい、ありがとうございます……?」
「褒めちゃいねえ」
「ヒッ」
平等院先輩はベンチの方を顎で示すと「座れ」と言った。地べたに、という意味だろうか。

ベンチに向かって歩き出す平等院先輩の背を立ち尽くしたまま見ていたら、振り返った先輩に「再案しろつったのは貴様だろうが早くしろ」と鋭く言われる。長時間正座していた後のような足取りでなんとかベンチ近くまで辿り着く。平等院先輩が端に座って場を空けてくれたので私もベンチに座っていいらしい。腰掛ける。

「何度も再案出すのは時間の無駄だ。この場で終わらせる。貴様も意見を出せ」
「あっ、あっ、あっ、ご協力いただだだき、あり、ありがとございまひゅ」
「貴様さっきまでの威勢はどうした」
呆れたような目で見られて、しかしそれまでみたいな恐怖感は薄れていた。なんとか生きて帰れそうだ。

……と思った矢先に「あ、ここの予算削って欲しいです」「あ゛?」「ヒィン」と言うやりとりで予算より先に精神を削るのはまた先の話。

まして、冬にワールドカップで優勝してきた平等院先輩が卒業式の日に私の元にやってきて、「世界一獲ってきたんだが、つまり来年度の予算はテニス部が自由にしていいってわけだな」と、まるで海賊みたいにタカってくるのはもっと先の話である。

さらに言えば卒業後もなんだかんだで先輩との付き合いが続くのも、もっともっと先の話なのだった。



(2022.7.4)

平等院、誕生日おめでとう!