ディープブルーを飛べ


「男の子はいいな。私も男の子になりたかった。そうしたら私も春ちゃんとヒカルとおんなじコートでテニスができるのに」

強い潮風が吹いているというのに、彼女の声はまっすぐにすぐ隣の俺まで届いてしまった。名前は砂浜の上で制服のスカートが汚れるのも気にせず膝を抱えて座っている。隣の俺は何も言えない。何も言えないまま離れることもできずに隣に座っていた。

もしも名前の隣にいるのが俺じゃなくてバネさんだったら。
もっと名前の心を軽くしてあげられるような言葉をかけていたんだろう。俯く名前の背中を撫でて、手を引いて一緒に帰ってやれたんだろう。
俺はバネさんじゃないから、言葉をかけてやることも触れることもできなくて「嘘だよ。帰ろ」と何もなかったみたいに立ち上がる名前を見上げることしかできなかった。口元だけ少し笑って、でも心の中では笑ってないことくらい知っていた。俺の前を歩く小さな背中を見つめながら帰路を行く。俺の肩にはラケットケースがあって、でも名前の肩にはなにもない。背筋を伸ばしてキビキビ歩く後ろ姿が無理していることくらいわかってたのに。

嘘をつかせてしまった。

こんな時に限って得意のダジャレはなにも浮かばなくって、へこんだ。





中学に入学して俺はバネさんたちのいる男子テニス部にはいった。
けど名前は女子テニス部に入らなかった。部活以前にテニスをしなくなったのだ。代わりに水泳を始めた。
小学生の頃はよく俺とバネさんと名前で海に行って遊んでいたから、泳ぎが上手いのは知っていた。きっと水泳は、テニスと同じくらい名前には向いてる。だから何もおかしくはないんだけど、どうしてか、彼女とあの学校の25メートルプールはちぐはぐでなんだか似合ってない感じがした。

スレンダーで小柄で柔らかい体。俺が知らないうちに名前は女の子らしい体つきになっていた。
水着を着たらそんな体のラインがはっきりとしてしまうから、時々クラスの男子がこそこそと噂をしたりしている。俺はそれを耳にするたびに心臓のあたりがムカムカして眉間に皺が寄った。名前のこと、大して知らないくせに。今の名前の外見だけしか知らないくせに。
だからと言ってそのモヤモヤとした気持ちを誰かに言った事は無い。誰に言えばいいのかもわからなかったし、なんて言えばいいのかもわからなかったから。

やがて春が過ぎて夏が来て、学校に慣れていくにつれ、俺と名前はあんまり話さなくなった。クラスが違ったし、テニスコートで会うこともなくなったから。時折、学校で見かけるくらいだ。

部活中、たまに俺はプールサイドに立つ名前を見かける。すっと背筋を伸ばして立った体が緩やかなカーブを描いて水面へ飛び込んでいく。キラキラと反射した光が眩しくて、離れたテニスコートまで、飛沫の跳ねる音が聞こえた気がした。
「ぼーっとしてんじゃねーぞダビデ!」
ネットの向こう側でバネさんが叫んだ。バネさんはプールで泳ぐ名前に気がついてない。

ねぇバネさん、名前がテニスをやめちゃったんだよ。俺たちの中で1番テニスが強かったのに。バネさんあのさ、俺、最近名前の声を聞いてないんだよ。隣のクラスだから会いに行こうと思えば行けるはずなのに、なんとなく会いに行きづらいんだ。ねぇバネさん、バネさんは、名前がいなくて、さ「ダビデ!!」

あだ名を呼ばれるのとほぼ同時にやってくる衝撃と痛み。スコーーンと、飛んできたボールが左の側頭部にクリーンヒット。脳味噌がぐわああんって揺れる。硬式のテニスボールってさ、当たるとすげえ痛いんだよ、な。
突き刺すような衝撃を受けたまま俺はコートの上にばたりと倒れこむ。コートに背中をべたりとつけて、仰向けのまま見上げた空は広くて青かった。

「ブルースカイ……意識、飛ばすかい…………プッ……」
「言ってる場合か!」
駆け寄ってきたバネさんの驚いた顔が真っ青だった視界に映る。すぐに心配そうな声で大丈夫か?と尋ねられて、俺はジンジンする側頭部を抱えたままカクンとうなづく。
でもなんか足りなく思うのはなんでだろう、なんて、ほんとはわかってる。
前までだったら、名前だって驚いて声を上げて心配した顔で駆け寄ってきてくれてたはずなのに。今はいない。来てくれない。足りない隣。
本当はまだクラクラしてるけど無理やり体を起こして落としてしまっていた人より長いラケットのグリップを掴む。
さびしい。名前がいなくて、俺はさびしい。とてもさびしいけど、もしかしてさびしいのは俺だけか?



今日は早めに帰ったほうがいい、と言うみんなの言葉にうなづいて俺は部活を早めに切り上げることにした。多分今日はずっとこんな感じで集中できないだろうなってわかってたから。
とぼとぼと帰路に着く。一人で歩く通学路はさびしい。家にこのまま帰る気分にはなれなくて、海辺に座り込む。体育座りでどこかどんよりとした空を眺めながら、ぼうっとする。ゆううつ、という言葉が浮かんだけど漢字がわからなかった。そこでじっと潮騒を聞いていた。

「……なにしてんの、ヒカル」
唐突に声をかけられたのは、浜辺に座って随分経ってからだった。声の方へ顔を向ければ、帰り際だったのだろう、学校指定の鞄を持った名前がいた。海風にヒラヒラと揺れる制服のスカートにどうしても違和感があった。やっぱり、ちぐはぐ。だって名前はいつもズボンを履いて、俺たちと走り回ってたから。

「名前」
「どうしたの、部活サボり?」
「違う。早退だ、『そう大』したことないけど……プッ」
「はいはい、元気ってことね」
名前はこっちへやってくると、何も言わずに俺のすぐ右隣に腰を下ろす。不意にやってきた久しぶりの名前に、少し心がびっくりしていた。中学に入る前は隣に座るなんてこと、いつものことだったのに。

2人、制服が汚れるのも気にせず体育座りで海を眺めていた。俺は何を言ったらいいのかわからなくて黙っていた。名前も俺と同じように黙っていて、でも何を考えて静かにしているのかはわからなかった。
でも黙り続けることも難しくて俺は口を開いてしまう。

「……名前」
「うん、どうしたの」
「いや、その、久々にしゃべったなって」
「そう?」
「ああ」
「そうかもね」
「うん」
続かない会話を埋めるみたいに強く吹き付ける潮風に目を細める。春と夏の間に生まれてしまった溝は思っていたよりずっと広がっていたらしくて、それまでの関係なんて全部帳消しになってしまったみたいだった。でもここから立ち上がってお別れしてしまったら、それこそ本当になにもかもが終わってしまう気がして、俺はここに居続けることを選択するしかなかった。

「ヒカル」
唐突に名前を呼ばれて、びくりと肩が揺れる。それから名前を見たら、彼女は静かな表情で海を見ていた。返事をすることも忘れて、その横顔を見つめる。

「ヒカルは帰んないの?」
「うぅん……。名前は?」
「私は、どうしよっかな……」
それだけ。それきり会話は止んで、潮騒ばかりが聞こえる。そんなふうにどこへ行っても行き止まりばかりな会話に立ち止まってしまう。まるで初めから、ずっとこんなふうだったみたい。まるで初めから、友達なんかじゃなかったみたい。そんなわけ、ないのに。

「名前……」
そんなことを頭の中でぐるぐる考えているうちに、自分でも驚くくらい泣きそうな声が出た。そんな声に名前もギョッとした顔でこっちを見て、慌てた様子で体育座りを崩した。

「な、なに、どうしたのヒカル」
「友達になりたい……」
「だ。誰と?」
「名前……」
「べ、別にもう前からずっと友達じゃん!」
「でも最近ずっと話せてない……」
「話しに来ればいいでしょ!隣のクラスなんだし!」
そう少し前のめりになって言葉を発していた名前だったけれど、キュウと引き攣るみたいな音が俺の喉から生まれた瞬間、バツが悪そうな顔で身を引いた。別に名前の物言いのせいじゃないのに、そんな顔をさせてしまうのが悲しかった。

「な、泣かないでよ……」
「泣いてない……」
「泣きそうだよ……」
眉を下げてこちらを心配げに見つめる名前に、俺は泣いてもないのにぐずぐずと鼻を鳴らした。

「友達なのに、ずっと話せてなくて、さびしかった」
「……うん」
「名前は、そうじゃない?」
「……そうじゃない、わけじゃないけど。……だって、そういうものなのかなって思って。みんな、女の子は女の子としか喋んないし、男の子と話したりするとすぐ好きなの?とか聞いてくるから、男友達と話しづらくて……」
「そうなのか」
「別に、話したくなかったわけじゃないから。ヒカルが嫌いになったとかそういうのじゃ、全然無いし」
「……よかった」
「うん……」
「男友達だと話しづらいのか?」
「まあ、ちょっとね」
「友達じゃなかったら、話せる?」
「どういうこと?」
「友達じゃない関係になったら、前みたいに話せるってことか?」
「……それって、彼氏とか彼女とかってこと?」
「それでもいい。俺は名前と話ができたらなんでも」
「うーん?……そう、なの、かなあ?」
名前は空を見上げて首を傾げた。俺も上手く自分の言いたいことがわからなくて、伝えられた気がしないけど、近くにいるのに話ができない関係に戻るのは嫌だった。

「じゃあ、そうしてみる?」
名前は俺を見てそう言ったから、よくわからないところはあったけど、俺はうなづいた。それを見て名前は「ヒカル、よくわかってないでしょ」というから、俺はやっぱりうなづいた。

「彼氏とか彼女って、何をしたらいいのかわからない」
「私もわかんないけど、とにかくヒカルは話がしたいんでしょ?だったら、話をしようよ、前みたいに」
名前は立ち上がって、スカートについた砂をはたくと俺を見下ろして昔みたいに快活に笑った。

「ねえ、ちょっとせっかくだし歩こうよ。せっかくのサボりなんだから」
「サボりじゃない。早退だ」
「『そう大』したことないんでしょ?」
「『相対』的には『そう大』したことない早退だ…………プッ」
立ち上がりながら俺がそう言えば、俺より背の低い名前はこちらを見上げて笑った。

「『そう、大』変なのね。……なーんて!あははっ!やっぱりヒカル、元気じゃん!」

昔は名前の方が背が高かった。
彼女を見下ろしながら思い返す。
時間の流れと共に変わっていくものはあるけれど、彼女のその笑顔はずっと変わらなくて、それが嬉しかった。

「カレカノってなにしたらいいのかわかんない」
「俺もだ」
「……手でも繋いでみる?」
「つ、繋ぐ」

繋いだ。
そうしてゼロになった距離に、これから、もしかしたら、いつか「どうしてテニスをやめちゃったの」って聞ける日が来る気がしたんだ。



(2022.10.07)