スイートホームタウン

「失礼、そこの少年」
呼び止められたのが自分だと気がつくのに時間はそう要らなかった。夕方の街。大通りは帰路に着く人々で溢れているが、その道を数本外れた先、川沿いの道は夕暮れの街を犬を連れて散歩をする老人程度しか見受けられなかったからだ。
明確に掛けられた声。振り返った先にいたのは1人の女性だった。年齢はロロよりいくらか年上と言ったところだろう。彼女が手に持った革のトランクケースが目に入る。旅行者かとロロは内心で見当をつけた。

「……なにか?」
「君は地元の方かな?」
ノーブルベル・カレッジの制服を着用しているロロに対してそう問いかける彼女はロロが思っていた通り、旅行者だったらしい。少なくともこの街を知っている人間ならば出ない問いかけだ。ロロは「見ての通り」と皮肉げに頭につけたくなる気持ちを抑えてうなづいた。

「ええ、この街にある『ノーブルベル・カレッジ』の生徒です、ミス」
「学生さんね、急に話しかけてごめんなさい。私は見ての通り旅行者で、この街には先ほど辿り着いたばかりなんだ」
屈託の無い笑顔を惜しみなくロロに向けた女性は言葉を続けた。

「今晩の宿を探しているのだけれど、心当たりはあるかな?」
その問いかけにロロは頭の中でこの街の地図を思い浮かべた。今いる川沿いは学校のある中洲へ繋がる道があるばかりで旅行者向けの宿などは無い。この付近で宿があるのは大通りを挟んだ向こう側、そのさらに向こうにある繁華街近くだ。ロロは血色の悪い薄い唇を開いて答えた。

「あちらの大通りを超えた先になら、いくつか」
「そう、向こうなんだね」
ロロが指差した先へ彼女は視線を向けた。この街を熟知しているロロにしてみれば大した距離では無い。だが、ついさっきここに辿り着いたばかりの旅行者にとっては迷宮のようなものだろう。

「……よければ案内しましょうか?」
「それは……私としては勿論願ってもないことだけれど。君に迷惑をかけはしない?」
「いえ、私も特に用事があってここにいた訳ではありませんから」
事実だった。放課後の息抜きに川沿いで散歩をしていただけだったし、寮の門限まではあと2時間程度の余裕がある。慣れた街を案内する程度、大したことではなかった。ロロの言葉に嘘はないと判断したのだろう、旅人は相好を崩すと「有り難くお言葉に甘えるよ」とうなづいた。そうして二人、並んで歩き出す。静かな川沿いから人々の雑踏が騒がしい大通りへ向かった。

「貴女はどちらからいらしたのですか?」
「ここに来る前は英雄の国だよ」
そうでしたかとロロは相槌を打った。前にどこにいたか、というより故郷はどこなのかという意味合いで尋ねたのだが、どうせ一時の関係だと思い、多少の齟齬を指摘しようとは思わなかった。会話を続けるために「何故旅を?」とさらに問うことはできたが、彼女の為人を把握し切れてはいないためにそのような問いが許されるかの判別がつけられず結局聞かなかった。
二人が大通りを渡ったその時、この街の鐘が深く鳴り響いた。街の雑踏を全て掻き消すようなその鐘の音。慣れている街の人々はいつも通りの音に戸惑うことなく生活を続けているが、旅人である彼女はそうではなかったようだ。驚いたようにびくりと肩を揺らして、辺りを見渡す。

「驚いた……ああ、これが花の街の『救いの鐘』ね」
「ええ、その通りです。川の向こうに塔があるでしょう。あそこにある鐘です」
彼女は鐘のある方へ目を向けた。塔の向こう側には暮れゆく夕陽があり、それに彼女は目を細める。

「随分高い塔だけど、旅行者でも登れたりするの?」
「残念ながら。あの塔はノーブルベル・カレッジの学内ですし、鐘はこの街の大切な魔法道具ですから住人でさえそう見れるものではないのです」
「そっか……」
旅人は残念そうな声で溜息をついた。
それから少し歩いて宿の前まで辿り着く。ロロがここが宿だと紹介すると彼女はその場にトランクを置いてロロの手を両手で握った。それをブンブンと上下に振る。

「本当にありがとう!君のおかげで助かったわ少年!」
「お気になさらず。この街の者として当然のことをしたまで」
無遠慮に握られた手をロロはぐっと引いて解こうとした。が、何故か彼女に強い力で掴まれて解けられない。グイッと体全体で手を引くが離してもらえない。思わずロロの眉間に皺が寄った。半睨みで彼女を見つめるが、彼女はロロの手を握ったまま機嫌良さそうにニコニコと笑ったままだった。

「…………ミス、何かまだ私に用でも?」
「聞いてくれるんだね!優しい少年!」
「…………」
「なんといってもこの街はとても綺麗だ。ぜひ全体を見たいのだけど、塔以外でこの街を見渡せるところはあるのかな?」
「…………まあ、ありますが」
「案内してくれる、と!ありがとう!」
まだ何も言っていない、とロロは思ったがここまで図々しいと逆に清々しいくらいだ。先にも言ったがどうせ時間はある。袖振り合うもなんとやらだ。面倒ではないとは言わないが、どうせ今日限りの付き合いならば付き合ってやってもいい。思いっきり溜息をつきたいが、両手を握られていてハンカチを出せそうにない。ロロは仕方なく溜息を飲み込んだ。そんなロロの様子に気が付かないのか気がついていて無視しているのか、彼女は彼の手をギュッと握って嬉しそうに笑った。

「ところで君、名前はなに?」
「……ロロ・フランムです」
「よろしくね!少年!」
「…………貴女は?」
「名前・苗字だよ!」
ロロが案内したのは街の端にある高台だった。塔ほど高くはないが、川の向こうの街までよく見渡すことができる。沈みゆく夕日に逆らうように、二人は高台に上がっていった。
登り切った頃にはもうほとんど日は落ちかけていたが、街の東の方から段々と街灯や家の明かりなど人工的な灯りがついていくのが見えて、それはまた街の別の美しさを見せていた。高台の柵に腕を置いた彼女はどこか夢見心地のような表情で街を見下ろしている。

「いい街だね」
「……そうでしょうとも」
微笑む彼女にそう答えながらロロは来たばかりの貴女に何がわかるというのだろう、と思った。
この街のことなんて何一つ知らないくせに。旅人なんてどうせこの街を通り過ぎるだけの人間のくせに。

「『何も知らないくせに勝手なこと言いやがって』と思う?」
「……いえ、そんな……。まあ、思っていますが」
「素直でよろしい」
彼女は気にすることなく笑う。それから「ああ、そうそう。君、敬語を使わなくて構わないよ、私が君に世話になっているんだから」と手をヒラヒラと振った。

「この街に辿り着いた時、私はうっかりハンカチを落としてしまったの。そうしたら小さな子がそれを拾って追いかけてくれたんだよ」
「……それだけが評価の理由だと?」
「長年旅をしてるんだもの、街の治安の判断は必須のスキルだよ。この街にはマジカルホイールの二人乗りをして騒音を出すような人はいないし、街に落書きもない。それに通りの草花が枯れて放置されている様子もない。毎日街の人が丁寧に世話をしているんだろうね。そして何より子供が親切。それができるのは大人の教育もそうだろうし、他人から加害されるという意識が子供達に無いから。それだけ平穏な街だと言うことだよ」
「なるほど」
「それに何より君が親切だもの」
唄うようにそう語られて、ロロは彼女への認識を改めた。図々しく軽薄な女性だが、愚鈍ではない。辿ってきた街への敬意もある。この街とノーブルベル・カレッジに誇りを持つロロとしても彼女からの言葉に悪い気はしない。だからこそやはり彼女に尋ねたくなった。

「聞きたいことがある」
「なにかな?」
「……貴女は何故旅を?」
「国や街を渡り歩き続ける、そういう一族なの。固定の居住地を持たないから故郷もない。それ以外の生き方を知らないんだ。いつかどこかに辿り着くために旅をしているだけ」
「……それでは終わりがないではないか」
「そうかもしれないね」
彼女はなんでもないみたいにそう言った。ロロの方は見ずに、ただどこか羨望の眼差しで夜の帳が下りる街を見つめるばかり。
ロロは彼女の隣に立ち、再度彼女を見つめる。革のトランク一つだけを持って一人で旅をする人。持つ物は少なく、帰る場所も無く、辿り着くあてもない。この街を愛し、守り、故郷とするロロにはわからない感覚だ。むしろ己のことを他人事のように言う彼女へ、腹の底が煮え繰り返るような心地さえあった。

「……いつかどこか、と見果てぬ夢想をするからならないのだ。目的のない旅など旅とは呼べない。貴女のそれはただの放浪にすぎない。旅を終えたいのならば立ち止まればいい。辿り着きたい場所があるのなら歩けばいい。ただ意志もなく歩くだけの貴女は亡霊と同じだ」
「……初めてそんなことを言われたよ。君は手厳しいね」
「むしろ何故あなたにそれを言う者がいなかったのかとさえ思うが」
「言ったでしょう、旅人なんだって。人との縁など過ぎ去る風のようなものだから」
その諦めたような顔がロロにはひどく不快だった。
貴女のせいではないか、とさえ思う。図々しく、人懐こく、フレンドリーで、軽薄。話しかけてきたのは貴女の方だ。宿までの道の道案内という一時の縁で終わらせなかったのは貴女の方だ。

それなのにいつか私のことさえ一時の風だと言うのか。

「この街を、この私を、一時の通過点にするのはやめたまえ。この街も私も貴女のための道ではないのだから」
ロロが真面目な声で叱りつければ、街を見下ろしていた彼女は思わずといった顔でロロの方を見て、それからおろおろとひどく狼狽した。空中の不自然な位置で止まった手がゆらゆらと所在なさげに動く。それはまるで叱られ慣れていない子供が突然叱られて困惑しているかのような顔だった。
そんな表情に思わずロロもひるむ。咄嗟に「別に怒っているわけではない」と口をついて出た。

「だが、ミス・苗字。貴女はどこまでも愚かだ」
「わあ……なかなかストレートな物言いだね……」
「行く当てや帰る場所がないことが哀しいのならば、貴女が気に入ったこの街をそれにすればいいだけのことではないか」
「へ……?」
きょとんとした顔で固まり、こちらを見つめるばかりの彼女へロロは言葉を続けた。それまで振り回されていた彼はようやくその場の主導権を握り直して、併せて背筋もピンと伸ばす。

「この街が貴女を拒絶したか?この私が貴女を否定したか?そんなことはあるまいよ。もしそうだったのならば貴女は早々にこの街を去り、私の手など握りはしなかっただろう」
ロロは鳩尾のあたりで組んでいた手を離すと、受け入れるようにその両腕を広げた。

「この街を貴女の安寧の地とするが良い。そして旅立ちたくなったらそうし、帰りたくなったらこの街に帰ればいいのだ。私が待つこの美しい花の街に」
「…………ええと、その、少年」
「なにかね」
「そういったことに疎くて申し訳ないのだけれど、これは、その、つまり、ええと……」
「言いたいことがあるのならばはっきり言いたまえ」
「……私はもしや、その、プロポーズ……でもされている、のかな?」
「………………は?」
ロロはポカンと口を開いてから自分が何を言ったのかを再度思い返す。
端的に言えば、この街が気に入ったのなら住めば良いと、ただそれだけのことだ。
それが一体どうしてプロポーズなどといった世迷いことに……いや、捉えようによってはそう捉えることができるのか?流民にとってこのような発言はそういう意味合いになってしまうのか?
とにかく慌てて「違う、そう言う意味ではない」と否定しようとしたロロの前にいたのは、それまで余裕綽々とした表情ばかりを見せていた年上の彼女が頰を真っ赤に染めて気恥ずかしいそうに目を逸らす姿だった。
……なんだその反応は。なんなのだその表情は!

「…………」
「…………」
思わずロロも黙り込む。日が落ちて涼しくなった夜風が二人の間を通り抜けた。少し、肌寒い。彼女もそう思ったのか、どこか気恥ずかしそうな顔のまま口を開いた。

「その、少年。もしよかったらこのあと食事にでも行かないかな?」
「な、何故……?」
「その、今日の案内のお礼として!もちろん会計は私が支払うよ!……だから、その、君さえ良ければ、なんだけれども……」
段々と声を小さくして、彼女は自信なさげにそう言った。

……繰り返すが、門限まではまだ時間がある。それに彼女がそこまで言うのならば礼を受けないことこそむしろ彼女に恥をかかせてしまう無礼な行いだろう。

「……近くに気に入りの店がある。そこでよければ」
「いいの?ありがとう……!」
途端に喜色ばんだ彼女にロロは内心不思議と満足するような心地があった。それがどこから来る感情かについて、まだ見当がつかないけれど。

とかく今は道中でも店に入ってからでもいいから、彼女に少年呼びはやめてファーストネームで呼ぶように言ってやりたい。
そんなことを考えながら、ロロは彼女の隣に並んで歩き出した。


(2022.11.7)