想定外の想定内

酒に重税をかけてほしい。
そうすればもう2度と飲まなくなるだろうから。

……誰かの手が顔に当たって、私は目を覚ました。
目を開いた瞬間に、頭の中身を取り出してミキサーにかけてそれをまた無理やり戻したみたいな重さと痛みに思わず呻く。

体を包む柔らかい感触からして自分はベッドの中にいるらしい。それから嗅ぎ慣れない匂い。まるで他人の家に泊まった時みたいなそういう類の違和感。それから自分の顔に当たった誰かの手を無意識に掴んだ。

「……あ?」
「ゔ……」

私は節張っていて太い指を数本掴んでいた。それから、隣から聞こえる低い呻き声。頭で理解するより先に、冷や汗がぶわりと噴き出した。
……ここはどこで、私の隣にいるのは誰だ?

寝そべったまま、隣へ視線を向けた。
途端に呻き声の主と目が合う。彼が今している「やってしまった……」という顔を、きっと私もしているのだろうな、と混乱する頭の隅で思った。

「……これは、つまり、我々はヤったんか?」
「あの、すみません、自分はその、一切記憶が……」
「いやごめん、私も無いわ。え?ここアオキの家?」
「自分の家です……」
「うわあ……下手にホテルとかより生々しいな……」
「生々しいとか言わないでください……というか、その、名前」
「え、なに、どうしたの」
「その、自分は今フリーなので、」
「え?うん」
「買わない限りコンドームは家に無いです」
「あっ」
「こんなことを聞ける立場じゃないんですが、体は大丈夫ですか?特に腰とか……」
「……一晩中リンボーダンスしてたみたいな腰の痛みがありますね……」
「……」
「……」
「……殺してください」
「一生に死のうな……」

私はアオキとベッドの上で向かい合いながら神妙な顔で頭を抱えた。
私とアオキの関係を端的に言うと、職場の同期だ。
それ以上でもそれ以下でも無く、たまに飲みに行ったり昼食を共にすることはあっても、恋愛関係に至ったことは一度もないし、それに近い距離になったこともない。

それがこのザマだ。
昨日は確かに仕事終わりに飲みに行った。かなり盛り上がって酒も進んだ記憶はある。
だが、私もアオキも酒にはそこそこ強いのだ。少なくとも私は酔って笑えるくらいのアホをしたことはあっても、記憶を飛ばしたことはないし一夜の間違いを犯したこともなかった。……無かったのになあ。
じっとりとした手汗をスラックスの太腿あたりで拭く。……ん?スラックス?いや待てよ?

「ハッ!待ってアオキ。私たち服を着ているじゃん。ってことはヤってないのでは?」
「すみません……着衣に興奮するタイプです……」
「いや急に性癖を暴露すな!」
「特にスーツを着ている女性がジャケット脱いだ時に露わになる体のラインとかが好きです……」
「だから暴露すな!そういう意味じゃなくても君の前でジャケット脱ぎ辛くなったでしょうが!」

私もアオキも、仕事終わりのスーツ姿からジャケットだけ脱いだ格好でベッドにいた。
唯一脱ぎ捨てられたジャケットはベッドの外に適当に放られて皺になっているが、お互いシャツは第一ボタンより下は閉められているし、スラックスも脱いでいない。いくらアオキの性癖が着衣でもこの格好であれこれすることはできないだろう。

「ヤってない。これはヤってない。完全にセーフ」
「じゃあなんであなたは腰が痛いんですか……」
「一晩中リンボーダンスしてたんだよきっと!」
「……殺してください……」
「生きろ!」

殺さなくても死にそうな顔をしているアオキの肩をバシバシと叩く。それから私はベッドを降りてその場で軽くぴょんぴょんとジャンプした。

「……なにしてるんですか?」
「いやもし生だったらこんなことすれば股から溢れてくるかなって思って」
「…………」
「お、何も出てこない!これ絶対セーフだよ!」
「…………」
「何故泣く!」

クソッタレなことに、こんなことがあっても今日は仕事なのだった。これは仕事がある前日に酒を飲みに行った私たちが悪い。いつも以上に死んだ目をしているアオキを元気付けながら2人一緒に出社した。

「おー、お二人さん、昨日の今日で仲良しやん」
「チリじゃん、おはよう」
「おはようさん。普段より5割増しで元気あらへんけどアオキさんはどないしたん?」
「今日はそっとしたげて」

出社してすぐにチリと会った。彼女も昨日の飲み会に参加してグビグビ酒を飲んでいたはずなのだがその割にシャキッとしている。
スーツもシャツも昨日のままで、化粧も鞄の中に入れていた最低限のものでどうにかした私とは天と地ほどの差だ。つか、ぶっちゃけ今日はもう帰りたい。まだ勤務してないけど。
そんな疲れた私たちへチリは笑いながら言った。

「流石に名前さんもアオキさんも今日ぐらい休むかと思っとったわ」
「いや、休もうかとは思ったけど、2人同時に休んだらなんかアレじゃん……」
「別にええやん。ってかほんまにおめでとうございます」

急に祝福された。思わず隣にいるアオキと顔を見合わせる。なに?初セックスのお祝い?昨日の私たちは「セックスします!」ってチリに宣言してからアオキの家に行ったんだろうか?だとしたらイカれてるだろ。
変な顔をする私とアオキに、チリはキョトンとしてから「どないしたん?」と問いかけてきた。

「……いや、おめでとうってなにが?」
「なにすっとぼけとんねん。そういうジョーク?」
「いえ、ジョークとかじゃないです……」
「マジで何の話?」
「なっはっは!なんや、2人して!」
「…………」
「…………」
「…………え?」

それまで大声で笑っていたチリが急に真顔になった。怖。チリは私たちにガッと近寄ると、真顔のまま声を潜めて問いかけてきた。

「え?ほんまに覚えとらんの?」
「昨日飲み会したのは覚えてる」
「名前が炭酸苦手だからとか言ってビールをカントー酒で割って飲んでいたことは覚えています」
「私もアオキがレモンサワーにウイスキー入れて大人の嗜みっつってたのは覚えてる」
「アホの飲み方。いや、そんなことはどうでもええねん」
チリは面接官の時みたいに真面目な顔をして言った。

「結婚したやん」
「…………」
「…………血痕?」
「名前が誰かを殺したんですか?」
「なんで当然のように私のせいにすんの?アオキの方が人殺してる姿が似合うよ」
「は?」
「は?」
「ちゃうちゃう。結婚。婚姻届出して夫婦になるやつや」
「私とチリが?」
「そうそう、名前さんのことはチリちゃんが幸せにしたるからなー……って、んなわけないやろ!ナマエさんとアオキさんがや!」

チリはスマホを取り出して素早く操作したかと思うと私たちに画面を見せつけてきた。

チリのスマホの画面には、明らかに酔っている私とアオキが記入済みの婚姻届を手に笑ってピースをしている写真があった。普段から無表情なアオキでさえ、微かに表情を緩めて穏やかな顔つきを見せている。そして、2人の背後には役所の夜間窓口。

「……え?」
朝の比ではないほどの冷や汗が背中を流れていった。
思わずアオキの顔を見る。目があった彼もまた無表情というか最早生気がない顔のまま、私を見つめ返す。それからその小さな口を開いて言った。

「…‥今、自分らは結婚してるってことですか?」
「せやで」

チリは無慈悲にうなづいた。まあ、無慈悲もなにも、彼女はなにも関係な……ん?

「え?この写真撮ったのはチリだよね?チリはなんで私たちが結婚するの止めてくんなかったの?」
「やって、昨日の飲み会で2人とももう数年は付き合ってますみたいな空気出しとったから、職場では隠しとるだけでプライベートでは付き合っとんのかな思って」
「付き合ってないです」
「本当に一切付き合ってないんだよ」
「……まじかあ」
「……仮に付き合っていたとしても、酔った勢いで結婚しようとするのは止めるべきだと思いますが……」
「そうだよ、なんで止めてくんなかったの」
「なんや!チリちゃんが悪いんか!しゃあないやん!チリちゃんも酔っとったんやから!チリちゃんは悪ないやろ!」
「まあ、それは本当にそう」
「すみませんでした……」

……とにもかくにも、結婚したらしい。
それを知って、私たちはただ呆然と立ち尽くした。どう見ても結婚した2人の空気では無い。通夜の方がまだ近い。

「あ!可愛い写真もあんで」と、場の空気を明るくしようとしてか、チリが別の写真を見せてくれる。
それは何故か私がアオキをお姫様抱っこしている写真だった。
腰の痛みの理由がこれでわかったのは良かったのだが、隣にいるアオキのHPがゴリゴリ減る音が聞こえた。こんなめちゃくちゃな状況で果たして仕事なんてできるだろうか。いやできるわけがない。というか、したくない。

「ごめんチリ。私とアオキ、今日休むわ……」
「トップにはどうにか伝えておいてください……」
「せやね……ちょっと2人でゆっくり話した方がええと思うわ」

社会人にあるまじき急な欠勤だが、昨夜にそれが霞むほどのやらかしをしていたので相対的にもうなにも怖くなかった。こんな無敵状態いやだ。
私とアオキは無言のままトボトボと出勤してきた道を戻る。昨日に戻って、昨日の自分を全力で殴ってやりたい気分だった。

私たちはとりあえず街へ出て、適当なカフェに入って話をすることにする。適当に注文したコーヒーを前に、私たちはカフェテーブルで向かい合った。とはいえ、話もなにも自分たちには記憶がないのだから昨日のことはあまり話せないのだけれど。そう思っていた時、アオキが口を開いた。

「一瞬だけチリさんのドッキリの可能性を考えました」
「うん」
「本当に休ませてくれた時点で違うなって思いました」
「そうだね……」

悲しい現実を再確認しただけだった。
溜息をついてから、私はアオキを見つめる。元より薄幸そうな顔つきの男だが、今日は輪にかけて幸が薄そうだ。落ちた肩が悲しい。

「ねえ、アオキ」
「はい、なんでしょう……」
「こうなったからには私たちにはもう二択しかないよ」
「二択……」
「そう。結婚を継続するか、離婚するかの二択」

私が指を2本立ててそう言うと、アオキは一瞬びくりと怯んだような顔をした。当然の反応だ。しかし、なってしまった以上、私たちは現実と向き合わなくてはならない。

「バツがつくのを覚悟で離婚するか、この状況を受け入れて夫婦となるか……ということですね」
「そう。言うまでもないけど、私たちは別に恋人じゃないし、恋愛感情も無いでしょ?そんな状況で結婚……つまり夫婦をやっていくっていうのは、正直難しいと思うのよ」
「……つまり、あなたは離婚したいということですか?」

先にそう問われて、少し困る。
そりゃあ、離婚した方がいいに決まっている。アオキだって、好きな人がいるかもしれないし、今はいなくても将来的に結婚したいと思う人が出てくるかもしれないのだから。

「……まあ、それが普通でまともな判断かなあとは思うよ」
「……そう、ですか」
「たださあ、私個人の話だけをするとね、アオキとは割とやっていけそうな気もしなくはないのよね」
「……はい?」
目を丸くしてこちらを見るアオキへ私は言葉を続けた。

「恋愛感情はいったん置いといてだよ?私と君は新卒の時からの付き合いだし、性格も為人もそれなりに把握してる。で、把握した上で私は君のこと好意的に思ってる。友人としてね」

この言葉に偽りはない。私は友人としてアオキのことを好意的に思っており、つまるところ夫婦としてはともかく、友人として共同生活を送るのは別に構わないかとさえ思っている。

「だから結婚したままにしてさ、夫婦って感じじゃなくても君と一緒に暮らすのは悪くないかもしれないって思ってるよ」

アオキはそう言った私を信じられないものを見る目で見てきた。……まあ、当たり前の反応か。口ほどにものを言う目に思わず苦笑する。
アオキは何かを言おうと口を開いて閉じてを数度繰り返してから、意を決したように言葉を紡いだ。

「……あなたがそんなふうに思っているのなら、」
「うん」
「自分はこの関係を継続できません」
「あー、うん、はい、まあそれが普通だよねえ」
「……いえ、おそらくあなたが考えている理由とは違うんです」
「え?違うって、なにが?」

普通に友達としてフラれた……と思っていたら、アオキは否定するように首を横に振った。それから苦々しそうに苦しそうに呟く。

「……その、自分は、」
「うん」
「あなたを恋愛対象として好意的に思っているので、あなたにそういった気持ちがない状態で夫婦だの共同生活などをすることはできないです」
「……うん?」
「いくらあなたでも、友人だと思っている男から性的な目を向けられていると知ったら共に暮らすなんて無理でしょう?」
「んん!?」

真顔で淡々と語られたがとんでもない爆弾発言だった。
アオキの言葉を頭の中で繰り返す。恋愛対象……?性的な……?

「ア、アオキ……」
「はい」
「こ、この私を……!?」
「……まあ、はい」
「す、すごいな君は……」
「その反応でいいんですか?」
「いや、びっくりして思わず……蓼食う虫もってこういうことか……」

私がそんな反応をしていたら、アオキにムッとした顔をされた。機嫌を損ねてしまったらしい。「名前」と普段より低い声で呼ばれる。

「……そんな言い方はやめてください。あなたは魅力的な人です」
珍しく彼がそうやって真剣な顔と声音をするから、私は息をつまらせて怯んでしまう。

「…………や、やめてもらっていいですか」
「なにをですか?」
「なんかそういう、褒めるみたいなの……」
「好きな人を褒めてはいけないんですか」
「わー!やめろやめろー!慣れてないんだよこういう愛とか恋とかワーとかキャーみたいなの!」
「……そういうところも可愛いですね」
「無敵か!?」

顔が熱い。この歳でなんで今更恋愛なんかでティーンエイジャーみたいに照れたり喚いたりしないといけないんだ。目の前のアオキはむしろ落ち着いたのかゆっくりとコーヒーを啜って一息ついている。その余裕が恨めしい。ジト目になって彼を睨むように見ていると「あんまりそんな反応せんでください」と言われた。

「そうも過剰に反応されるとチャンスがあるのかと勘違いします」
「んぎ……」
「ただでさえ経験が無さそうなところに今グッと来ているのに……」
「思ったこと全部口に出すのやめなさい!」
「……自分で言うのもなんですが、金と社会的地位はあります。あなたが一緒に暮らせると言ってくれた程度には性格や外見もあなたにとっては受容可能な範囲かと……」
「待って自己アピールを始めないで話を進めないで」
「……悔いてはいますよ。こんなバカみたいな形であなたとこのような関係になるつもりはありませんでした」
「いやまあ本当にバカみたいな形だったね……」
「でも、あなたのことが好きです」

じっと真剣に真っ直ぐに見つめられて、心がキュッと怯む。先ほども言ったが、恋愛とはあまり縁なく生きてきたこともあって、こういう時どうしたらいいのかわからない。内心パニックになりながらアワアワしていると、アオキはふと表情を緩めて言った。

「だから、あなたさえ良ければ少しだけ時間をください」
「……時間?」
「はい、今日からあなたを口説きにかかるので、もし落ちてくれたらこのまま結婚してください。もしそれでもあなたが自分をそういう目で見れないというのなら、あなたの望むようにしてくれればいい」
「くど……っ!ほ、本気で言ってるの……?」
「本気です。腹を括りました」

私がテーブルの上に放っていた手に、アオキは彼の自身の手を重ねるとそっと握った。男性らしい無骨で大きな手に撫でられて肩が震える。

「ということで、よろしくお願いします、名前」
「えっ?あ、はい?よろしくお願いします……?」
「今後の話ですが、やってしまったものはしょうがないので、上司と両親には結婚したことを伝えましょう。流石に全てを正直には言えませんから、数年前から付き合っていたことにして、酔っている時に今後の将来や結婚について話をしていたら勢いで婚姻届を提出してしまった、ということにするのはどうですか。付き合ってもいないのに出してしまったよりは聞こえがいいかと。あなたのご両親には土下座しますので」
「いや私こそ土下座しないとだから……」

……今思えば、上司や両親に元から付き合っていたという体で話を通そうとアオキが提案した時点で、私を口説き落とす前に外堀を埋める気満々だったのだろう。

次の週末には両家の挨拶に行き、アオキはアオキのお父さんに殴られ、私は実母に泣かれたりしたが、両家共に結婚については、しちゃったものはしょうがないよねと想像よりあっさり受け入れられた。いいのか、それで。

それからアオキは「外面的には結婚しているのだから指輪を作りに行きましょう」だとか、「新婚が別居だと変な噂をされますので一緒に暮らしましょう」だとか、「夫婦の寝室は同じなのは普通です」とか、「これくらい夫婦なら普通にしますよ。……ああ、大丈夫です。自分に任せてください」だとか、あれよあれよと流されて今に至る。

そして現在、私は膝の上で寝ているアオキのネッコアラを撫でつつ、アオキの家で彼と共にソファに並んでテレビを眺めている。……あれ?

「どうかしましたか、名前」
「……なんか私たち、結婚してない?」
「してます」
「なんか、私たちすごい夫婦じゃん」
「夫婦です」
「アオキ」
「はい」
「……これって、どこからが君の想定通りだったの?」

私がそう尋ねると、彼は「……さて、何のことですか?」と呟くように言ってからうっそりと微笑んで、私の腰を引き寄せた。


(2023.02.20)