火宅の二人


これは「そうあれかし」という願いの果て。
潰えた幻想。夢の死蝋。壊して、治して、また壊した。

何度も何度も一緒に壊され続けた。
けれど、陰陽両儀、対の君。自分ではないもうひとりの自分。
その存在がいるから自分は自分なのだと認識できた。
違う体温があるからまだ生きているのだと思えた。
だからどんなに辛くても耐えていられた。
だから、手を離してはいけなかったのに。
今になって思い至る。

離した手を取り戻す。そのために幾千幾万の屍の山を築き上げようとも。

ふ、と意識を覚醒させる。
いつしか千年もの時が経っていた。







「面白いことがわかった」
と、さして愉快そうにも見えない顔で硝子が言ったのはいつのことだったか。そうだ、悟がまだ学生だった時の頃だ。
しかし、その時はそう深く関心を抱かなかったのだ。なにせとうの昔に死んだ人間の肉体のことなど、生きている自分には些事と呼ぶ他なかったから。

硝子は言った。
「両面宿儺の主腕と副腕ではDNAが異なるようだ」と。

いくら大元は人間であるといえ、特級呪物である両面宿儺の指をDNA鑑定にかける狂人など世界中どこを探しても五条の目の前にいるこの女しかいまい。悟と傑は真顔でそんなことを言う硝子を目を見開いて見つめ、それから思わず顔を見合わせた。
指によって爪の形状が異なることに気がついて学長に掛け合っただとか、高専が所持している6本の指を全てDNA鑑定にかけただとか、結果2種類のDNAに分かれただとかそんなことを言っていた気がするが、その当時の悟としては同級生である彼女のイカれっぷりのほうが面白くて碌に話なんざ聞いてはいなかった。

「ーー、という可能性がある。……って聞いちゃいないな」
ゲラゲラ笑う悟と傑を呆れた顔で見る硝子の表情だけはよく覚えていたのだけれど。

だからそのことを思い出したのは、ずいぶん後になってからのことだった。



・・・



苗字家は五条家の流れを継ぐ呪術師の家系である。
御三家である五条本家の血からは何代も前に分かれ、最早分家と呼ぶには遠く、しかし縁を切ったわけでも無い。ごく軽く言うのであれば、遠い親戚と言ったところだ。
五条を危ぶませるような強い力のある家では無いこともあり、それ故に五条という強大な力の傘の下で苗字家は現状維持という安寧を得ていた。

しかしそんな両家の関係に亀裂が入りかけたことがある。

5年前のことだ。苗字の当主には既に男の後継がいたのだが、その下に1人女児が生まれた。名を「名前」という。
その子供は生まれた時からすでに両手両足、両眼が無かった。
これが呪術と関係のないごく一般的な家庭であれば嘆きの声とともに迎え入れられたのだろうが、呪術師の家系において生まれながらの欠失は祝福となる。事実、苗字の人間は歓喜した。

『天与呪縛』
生まれながらに肉体に強制された縛りのことであり、その縛りが強ければ強いほど与えられる才能も大きくなる。名前はこの天与呪縛という特性をもって生まれたからだ。

名前は生まれて3ヶ月で言葉を話した。
そうして当主に、他家へ通じている内通者を教えた。
次期当主を狙う暗殺者の存在を教えた。
存在のみが伝承される特級呪具が眠る土地を教えた。
これまでに幾人も食った強い呪霊を倒す方法を教えた。

目の無いはずの彼女には、しかしこの世の全てが見えているようだった。空洞の瞳で過去未来現在を見通しては、それを求められるがまま与える。

もちろん、対価は必要だったが。

名前は内通者の存在を伝える代わりに自分の世話をする侍女を要求した。
暗殺者の存在を伝える代わりに車椅子を要求した。
消失していた呪具の在処を伝える代わりに離れ屋敷を要求した。
一級呪霊の倒し方を教える代わりに黒地の着物を要求した。
どれも名前へ、感謝の意と共にすぐに与えられた。

そう、名前が家へ与える情報に対して、彼女からの要求ががあまりにもささやか過ぎたのだ。

決して等価と呼べない取引。無害すぎる猿の手。
五条本家の老人たちが名前という存在を、そして何より彼女が残していく子孫を危険視するのは早かった。

そうして家を押しつぶすかのように与えられた五条からの圧に慌てふためいたのは苗字の人々であり、そんな彼らを落ち着かせたのはやはり名前だった。頭を抱える当主らの前に、侍女に車椅子を押させて現れた名前が実父に優しく微笑んだ。

「ご安心ください、父上。わたくしは元より子宮がございませぬ。子を孕み、血を繋ぐ手段を持ち合わせておらぬ故本家様が拙を恐れる理由などありませんと、そうお伝えくださいませ」

名前の言う通りその身体を調べてみれば、確かに彼女には女としての機能がなかったのだ。
故にこれは一代限りの力であると伝えれば、五条も苗字への警戒を緩める。苗字家の危機はひとまず去ったのである。

これはすべて、名前がまだ一歳になる前の話である。







苗字へ潜入させた五条の間諜が手足を捥ぎ取られた死体となって発見された。

それは五条悟が23歳の年のこと。卒業後、特級呪術師として全国を飛び回りながら高専の教師としても働いていた彼が久々に家に呼び出されたかと思うと、挨拶もそこそこにそのようなことを伝えられた。
「知ったことかよ」と思う反面、五条家の老人たちが間諜を入れるまでに警戒した苗字家とその娘とやらに興味がないわけではなかった。
聞いたことがないわけでは無い。五条から流れを継ぐ苗字家に生まれた天与呪縛の子供。

苗字名前。
曰く、苗字の突然変異。
曰く、上質な天与呪縛。
曰く、無害な猿の手。
曰く、三明越えて六通。

天与呪縛のために両腕両脚両眼を欠失して生まれたその子供は無い腕で容易く特級呪霊を祓い、無い目で知りうるはずもないこの世の全てを見通すのだと。そうしてそれをごく当然のように人々へ伝えるのだと。

現在数えで六つの子供が術式を超えた、神霊に等しい異能を持っていることに、老人共は怯えてならない。あの無害じみた猿の手がいつこちらへ牙を剥くのかと震えているのだ。

「全てを見通す、ねぇ……」
気に食わない老人共が畏怖するほどの猿の手とやらがどのようなものなのか見てみたい。
五条悟が老人共の言う「苗字名前に接触せよ」との命令に素直に従ってやったのは、ただの好奇心。それだけが理由である。


苗字家は夜分に突然やってきた悟をそれはもう当然のように歓迎した。
本家の人間がやってきたことに驚きと緊張こそあれど、彼らの姿に裏や悪意は無いことはわかる。
悟が名前への面会を望めば、苗字の使用人にすぐさま彼女の住まう離れ屋敷へ案内された。五条と苗字の間には「苗字家は五条家が要求した場合に必ず苗字名前を使用させる」という盟約があるからだ。

離れの場所は目視出来たし、そこに彼女がいることもわかる。悟は案内役を返してひとり、屋敷の庭を進んでいく。月明かりが微かに進むべき道を照らす真夜。夜空には綺麗に穴を開けたような丸い月が浮かんでいた。月を見上げて感傷に浸るほど情緒がある人間でも無い。悟は黙って離れ屋敷の玄関前に立ち、中へ声をかけるのではなく、庭へ足を踏み入れることにした。目的の人物はそちらにいるとわかっていたから。

「こんばんは。素敵な夜ね、抑止力さん」
離れ屋敷の玄関の裏側、広い庭に立ち入った悟に、女の、子供の声がかけられる。
瞬間、声のする方へ目を向けると、そこには縁側の傍、安楽椅子の上に置かれた肉塊があった。
……違う、肉塊ではなく人間だ。
悟は黒いバイザーの下の瞳を微かに見張ってそれを見た。

安楽椅子の上に横たわる体には本来あるべき枝分かれがない。手足のない体に夜闇に溶けるような黒地の着物を纏った子供がこちらにそっと笑いかけた。悟はそれを無言で見つめる、けれど目が合わない。当然だった。あの子供には生まれつき眼が無い。

「……君が、苗字名前かな?」
「そう呼びたいのならそう呼んで。名前にあまり価値を抱かないの」
問いかけながらも確信を持って彼女の名前を確かめると、答えた名前はそっけなくそう言った。
「そっか、じゃあ名前と呼ばせてもらうよ」
「どうぞ、お好きに」
屋敷の中から現れた侍女が淹れたばかりの茶を縁側に置く。茶を出す程度には歓迎をされているのだろう、応えるように彼女に近づき、縁側に腰掛けた。

茶を差し出した侍女は頭を下げるとすぐに立ち去って、黙って離れの玄関に向かい出ていった。そしてその歩みのまま、侍女の気配がこの屋敷から離れていく。五条の代表者として来た悟と名前の会話を聞かない、という苗字家なりの誠意の表れなのだろう。
話を聞かれても別に気にするつもりもないが、場を提供されたのなら素直にその場を使ってやろう。
そう思って、悟は話を切り出すためにその薄い唇を開いた。

「君の、」
「ええ、これは苗字家のものではない。完全に独立した、それこそ突然変異と呼んで良いものよ」
「……五条の、」
「私のせいとも言えるし、そうではないとも言えるわ。そうね、所謂等価交換や縛りというものよ。それを破ったから貴方の家の方はあんなふうに死んだ」

尋ねる前に答えが返ってくることに、思わず悟は子供のようにべぇっと舌を出して露骨に嫌そうな顔をする。その表情が彼女には見えていないとしても構わなかった。

「君の術式は苗字家伝来のものでは無いね?」という問いかけも「五条の人間が死んだのは君の術式のせい?」という問いかけもすべて聞く前に答えられてしまう。
めちゃくちゃな会話をするのは好きだが、これはなんだか違う。キャッチボールがしたいのに盗塁をされている気分だ。

「あのさあ、コミュニケーションしようよ。君、友達いないでしょ」
「あら、貴方ってとってもお忙しい方なのでしょう?時間を惜しむかと思って気を遣ったのだけれど」
「気なんて遣わなくていいよ。女の子との会話は長く楽しみたいタイプなんだよね、僕」
「我儘な人。でもいいわ。私も人とのお喋りをしてみたいところだったの」

ああ、うん、こっちの方がよほど良い。
悟は口元に笑みを形作って、そのよく動く舌と脳味噌を存分に働かせることにした。

「じゃあ改めてお喋りしよっか!苗字に入れた五条の人間が死んだのは縛りを破ったからだって言ってたね。君は何を要求されて、何を要求したんだい?」
「別に大したことでは無いわ。呪詛師の居場所を教える代わりに、両面宿儺の指を求めただけ」

その名を聞いた瞬間、悟が口笛を吹くようにその唇を尖らせて「ひゅー」とわざと驚いたような音を出した。

両面宿儺の指。
呪いの王とまで呼ばれた8本の手脚に2面の顔を持つとされる鬼神、両面宿儺の指の死蝋。それは特級呪物に指定されている強大な呪いの塊である。現代の術師の力では祓うどころか封することさえ困難であり、ただそこにあるだけで並の呪霊など容易く退けるほどの強い呪物。
例え苗字名前がどれだけ強い術師であっても一個人が所有することができるような代物では無いのだ。

「……そりゃまた随分大物を要求したね。どうして?」
「好奇心」
なんとも無しに彼女は答えた。
それからくすりと笑う。
「そんな顔をなさらないで。試してみたかっただけよ」
「五条を?」
「いいえ、私の運命を。私が求め願った時に両面宿儺の主腕と副腕のどちらの指が来るのか、試してみたかった」
「ふーん?色々気になることはあるけどさ、それって無意味じゃない?君の術式があればどちらでも好きに呼び寄せられるわけでしょ」
あっけらかんと悟がそう言えば、彼女の胴体と頭だけの体が驚いたように一瞬硬直して、それからどこか諦めたように深く息を吐く。

「……そこまでわかるのね、貴方の眼」
「そ、ちょっとばかり特別製でね」
そう言って悟はそっと自身の瞼に触れ、それから盲目の彼女に気がつかれないようにこっそり上げていた黒いバイザーを引き下げてその美しい青眼を世界から隠す。
彼の持つ「ちょっとばかり特別製の眼」である六眼は苗字名前の術式のシステムを明確に認識していた。

未来を見通すとされる苗字名前の術式『彷徨三昧六神通』は正確には未来を見ているのではなく、未来に至る道筋を観測しているに過ぎない。

大前提として、呪術師であろうとなかろうと基本的に人間は呪力というものを持っている。負の感情から生まれるエネルギーと捉えていい。
その呪力を持った人間が別の人間と接触する時、そこに呪力を媒介とした縁が生まれていくのだ。それは例え道ですれ違っただけでも、一方的に存在を知っているだけでも縁というものは繋がっていくものであり、数多に繋がった縁は分岐を繰り返し、あらゆる未来の可能性を作り出していく。

術式『彷徨三昧六神通』は呪力を持った人や物の繋がりから様々な未来の可能性を強制的に発生させ、その中で希望の未来へ至る可能性を観測および選択をし、確定した未来として固定化する。

「欲しい未来に至る道筋を導き出す。ざっくり言うとカーナビみたいな術式ってことだよねー!」
「間違っていないけど、そんな俗な表現されたのは初めてだわ……」
少女の呆れたような声に悟は思わず喉を鳴らす。うんうん、せっかくお喋りするなら人を振り回すほうが断然いい。
「それにしてもすごいね。未来っていう不確定要素だらけのビッグデータを一個人で演算し続けるなんて。脳が焼き切れて廃人になってもおかしくないレベルだよ」
「天与呪縛だからそうならないだけよ。それに私はあくまでも有限の可能性の中から有限の未来を測定するだけ。終わりのない無限を操る貴方に比べたらささやかなものだわ」
「謙遜がうまいなあ。まあ、僕が最強なのは事実だからね」
「ふふ、貴方のそういうところ、嫌いじゃないわ」
「あー、嬉しいけど君に手を出すとほら、お家騒動とか犯罪とかになっちゃうから……ごめんね?」
「ああ、貴方のそういうところ、嫌いだわ」
割と本気で嫌そうな声に笑う。無条件に好かれるよりよほど良い。
けらけらと笑う悟の声だけが静かな離れの庭に響く。この離れ屋敷の女主人は黙って、彼が笑い声以外の音を喉から生み出すのを待つ。
けらけらけらけら笑って、かと思うと唐突に真剣な顔つきになって悟は口を開く。

「……ああ、そっか。両面宿儺の指の主腕と副腕どっちが来るか試したって話だけど、君はあえて未来を『視なかった』んだね」
ぴたりと笑うのをやめたかと思うと、途端に大正解を叩き出してきた五条悟という男に名前は溜息をついた。飄々とした裏で頭を回し、少ない情報から最善を導き出す。名前からしてみれば、それも立派な予知に思えた。素直に敵に回したくはないなんて思う。

「……ええ、その通り。完全に私の手から離れた未来に結果を委ねてみたかったの。だから敢えて未来を視なかった」
「うんうん、けど蓋を開けば主腕副腕どころかそもそも両面宿儺の指自体が来てなかった、ってことか」

名前は術式『彷徨三昧六神通』を使って、未来に至る道筋を観測している。
つまり例え可能性として1%にも満たない未来であっても、彼女がその未来に至る道筋を視てしまえば、ごく僅かな可能性をも確定的なものにし、確実にその未来を現在に引き寄せることが可能になるのだ。
逆に言えば、99%の可能性でやってくる未来であっても術式で確定させなければ、残りの1%を引き当てて起こらないこともある。それが今回の件だった。

「……本当、恥ずかしいことだけどその通りよ。せめて指が私の元に来るところまでは確定させておくべきだったわ……」
「あはは、うっかりさんめー。まあ、まず約束を破って指を持ってこなかった方が悪いんだけどね」
そう言うと悟はぴっと指を一本立てて名前に笑いかけた。さて、楽しい前菜はおしまい。ここからがようやく本題だ。

「そんなわけで僕は君にお詫びをしなくちゃならない」
不意にそう言われた名前は彼のその発言に胡乱げな顔をした。お詫びとやらをされる理由が見つからなかったからだ。
「……何の話?」
「五条と君の取引の話さ。君が五条に与えた情報は事実だった。件の呪詛師はこちらで拘束、処理したからね。つまり五条は正しく利益を得た。なのに君が正しく利益を得ていない。そこが問題なんだ」
その言葉に名前はわからないとばかりに小首を傾げて、口を開く。

「何が問題だというの?私との取引を違えた人間は死んだんでしょう?」
「死んだとしても、さ。五条だけが利益を得たってことは、五条が君に借りを作ったってことなんだよ。いいかい、臆病者共にとって借りというものは背負わせるものであって背負うものではないんだ」
「……なるほど、その借りとやらをさっさと返してしまいたい、というわけなのね」
悟は「大正解」と笑った。だから、五条悟は今ここにいる。

「僕にできることなら君になんでもしてあげよう。あ、宿儺の指でもいいよ。君個人にあげることはできないけど一目見せてあげるくらいなら余裕だしね」

さあ、なにが欲しい?

そう真正面から問われて、名前は口を噤んで考える。
今まで対価を要求してきた時は、特に難しいことも考えずにその時々にふと思いついたものを言っているだけだった。侍女も車椅子も着物も両面宿儺の指も、すべてその時に欲しいと思ったから、ちょうどよく口にしただけ。

けれど今は、なにも思い浮かばない。

「……両面宿儺の指はもういいわ」
両腕と副腕のどちらが来るか、あの時は知りたかったけれど今はもうそう思わない。
だって、考えてみればわかること。

どうせW副腕が来るに決まってるW。

そうして、それが来るとわかっているのに、実際に副腕が来たのを確認して私はガッカリするのだ。そんなことは未来を見なくてもわかる。だからもういい。
それどころか借りとか利益とか、そんなものさえもどうでもいい。どうでもいいけど、それでは大人たちは納得しない。

ならば、そうならば、

「……将来、私は貴方から命に代えても返せないほどのものを貰う」
ぽつり、と意図せず零れたような名前の言葉に、悟は思わず声を潜める。

「……それは確定した未来?」
「確定はしていないけれど、高確率でそうなる。その未来は私にとって喜ばしいことだけれど、私の術式でも確定することは出来ない」
「なぜ?」
「私が貴方から大きなものを貰う未来の周辺では情報量があまりにも多過ぎるから」
名前は見えない目で虚空を見つめたまま「よく言うでしょう。『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている』と」とどこか虚ろに戯けて笑う。
「膨大すぎる情報のせいで天与呪縛の身であっても私では処理しきれずに焼き切れる。良くて廃人、8割方死ぬ」

ごく一般的な人間の未来でさえ、常人の脳髄では演算することなど不可能なのだ。けれど名前にとってそれは気怠げに欠伸をする程度の作業でしかない。そんな彼女でさえ、処理しきれずに死ぬと断言できるほどの情報量の未来が確定的にやってくる。

「……そういうやばい未来が来るって情報自体が最早僕らにとっては大きなアドバンテージだよね。それがいつのことなのかくらいは聞いても大丈夫?」
「5年後よ。情報量はその前から少しずつ増えているけれど、5年後いっきに複雑化する。些細な行動や選択の結果、周囲に大きな影響を与える人物が何人も動くのでしょうね」
「5年後、……2018年か。僕が29歳になる年で、君が10歳になる年だね。それで?そんな話をしたその心は?」
あえて戯けたように言葉を紡ぐ悟に対して、名前は構うことなく普段通りの冷めた声音で語る。

「これらを前提に私から貴方に対して行いたい要求は2つ。ひとつめの要求は、「私が貴方に2つの要求をする」ことを貴方が了承してから伝える。ふたつめの要求は、私のひとつめの要求を貴方がすぐに忘れること」

数拍の間、その後悟は手を挙げて少女へ問いかける。
「……聞いてもいい?」
「ひとつめの要求が何か、という問い以外ならば」
オーケーと悟はうなづきて問いかける。
「ひとつ、なぜひとつめの要求を秘匿するのか?ふたつ、ひとつめの要求は僕や僕の周囲、人間社会に害をなすか?」
「答えるわ。まず、ひとつめの質問。私が要求を秘匿するのは貴方という人間の影響力が強すぎるから。私がする要求の内容にはとある未来の結果が含まれている。貴方がその結果を覚えていることでより悪い未来になる可能性があるから」
彼女は一度息をつくと、それから再度気を入れ直したように口を開く。

「そして、ふたつめの質問の答え。それは『いいえ』よ」

沈黙が2人の間に満ちた。虫の声だけが鼓膜を揺らす。
そんなどこか真面目腐った沈黙の中、五条悟はどこか気の抜けた顔でぽりぽりと頬を掻く。

……だって、ねぇ?まさか、等価交換のための要求で、こちらが要求を了承するか否かの選択権が与えられるとは思っていなかったから。
問答無用で2つの要求を通す事は彼女には出来た。技術もあったし、その立場も持っていた。なのに、しない。その愚かしいまでの誠実と清貧に、応えようと思った。ただ、それだけのこと。

「うん、わかった。『いいよ』、君の要求に応えよう!」
そう笑って見せれば、彼女はどこか胸を撫で下ろしたように顎を引いて、それから「ありがとう」と口元を緩めた。

「ありがとうも何も等価交換だって言ってるでしょ。こっちはもう君に借りがあるの。だから君に借りを返してるだけ」
「ああ、そう言う話だったわね」
「うん、じゃあ、要求をどうぞ」
受け入れる、とばかりに悟が両腕を軽く広げて彼女に体をしっかりと向ける。見えない彼女にはわからないかもしれないが、少しでも誠意を見せようというアピールだ。

「ではまず、ひとつめ」
鈴のような少女の声に契約の呪力がこもる。

『私は5年後に死にます。私が死んだ後、私のこの離れ屋敷の書斎の棚、上から2番目の引き出しに入っている手紙を私の侍女に渡してください。この要求の記憶は貴方が私が死んだことを知った瞬間、貴方に戻ります』

ごく当然のように告げられた断絶の未来に驚いた悟が「は?」と小さな困惑の声を溢すよりも先に、ふたつめの要求が彼の脳に染み込んでいく。

「そしてふたつめ。『ひとつめの要求の内容を忘れなさい』」

その瞬間、たった1人の幼い少女の声がひとつの未来を絶対的に固定化した。


・・・


ふと悟が気がつくと、丸い月が先程より空高く上っていた。離れ屋敷の中の時計を見ると、最後に記憶していた時間から30分ほど経っている。

「……名前、もしかして終わってた?」
「ええ、とうに」

名前からの「秘匿されたひとつめの要求」と「ひとつめの要求を忘れろというふたつめの要求」。
恐らくその要求を自分はされたのだろう。された上でその記憶を消去された。だからどんな要求がされたのかなど、何も覚えていない。連続する意識の途中にぽかんと空いた空白。
けれど不思議と不安はなかった。彼女が明確に悟やその周囲、人間社会に害をなさないと明言したこともあるだろう。
それに何よりも、五条悟の勘が大丈夫だと言っている。

勘、と言ってしまえばそれはまるで思考の放棄のように思えるかもしれないがそれは違う。
勘とは、人間という演算機がこれまでの自身の経験や知識をベースに無意識のうちに導き出した結論の発露だ。
常人ではあり得ないほど数多の経験と場数、莫大な知識を持っている五条悟という演算機の勘がただの思考の放棄であるはずもない。
だから彼の勘は下手な論理的思考よりも当たるのだ。
故に彼は彼自身の直感を信じる。

空に浮かぶ月が光を地上に溢した。月明かりに照らされて、屋敷の庭木がぼんやりと輪郭を現す。
何もなくここでただふたり、穏やかに月を見続けることもできたけれど、悟は縁側から立ち上がった。幻想みたいに心地のいい場所。でもきっと自分の居場所はここじゃないし、彼女の隣にいるべきは自分ではない、とそんな感覚が胸をよぎる。

だから、「じゃあね」と軽く手を振って帰ろうとして。
「あっ、そうだ」
ずっと前から聞いてみたいことがあることを忘れていた。悟は庭先に立ったまま、安楽椅子の上の彼女を見つめる。

手足のない身体、見えない瞳、苗字名前という少女。
苗字の突然変異、上質な天与呪縛、無害な猿の手、三明越えて六通。
人でありながら他人に使われることを良しとし、未来を観測する演算機となることを自ら受容するその命の在り方。だから、問いかけてみたかったのだ。

「名前、君の『目的』はなに?」
その命は何のために生き、何のために死ぬのだろう。
そんな抽象的な質問に、しかし彼女はゆるりと口元を歪めてはっきりと答えた。

「『兄さま』」

それは融けるような声だった。
その声に孕む女の情念。どろりと濡れるような欲望。人肌よりも熱い婀娜な吐息。
それでいて遠く過ぎ去った地平を眺めるような祈りの声。

「この身は兄さまの為に生き、兄さまの為に死ぬもの。私は兄さまの剣であり盾。隠であり、魂を分けた半身」
兄さま、とは苗字家の後継である男子のことだろうか。
しかし兄に向けるにしては重く、昏く、情念に満ちた声音。その言葉の本質は如何や。

五条悟はこの4年後、乙骨憂太と祈本里香を見て苗字名前を思い出す。
当然の帰結。なにせこれは道理だ。

より強く愛している方がより強く支配している。
より強く愛している方がより強く呪っている。

そんな当たり前のこと。
世界を敵に回してでもたったひとりを狂おしく愛する者。愛しているから狂うのか、狂っているから愛しているのか。その違いに意味はないとしても。

「あなたにはわからない」
それは五条悟には理解できない美しい泥濘。いつかその泥の上に花が咲くとしても、今はまだただの泥。
澱んだそれを遠くから眺めているような心持だった。
言葉を失くした悟に、名前は笑って、それきり。

「さようなら、抑止力さん」
先程の情念など感じさせない涼やかな声で苗字名前は五条悟を「抑止力」と呼んだ。その呼び名の意味は、その言葉の意味のままなのだろう。

「……うん、じゃあね、名前」
きっとこの先どれだけの逢瀬を重ねても、今日以上に心が近づくことはない。どうしてか、そう確信した。
不理解よりももっと根本的な断絶。理解したいとかそうじゃないとかそんなことは関係なくて、ただただもうこれ以上互いを理解することはできないから。
惜しむこともなく、悟は安楽椅子に背を向けてこの場を立ち去った。



帰り際、ふと苗字の使用人に尋ねてみる。
「名前は兄と仲が良いのか」と。
すると使用人は一体何故そんなことを尋ねるのかとばかりにひどく困惑した顔をした。

「御当主の命により、お嬢様は御生誕以来一度たりとも若様とお顔を合わせたことはありませんが……」

悟は一瞬惚けて、それから思った。

……では、あの子の言っていた『兄さま』とはいったい誰のことだったのだろう。









2018年6月。
虎杖悠仁という器を得て、およそ千年ぶりに両面宿儺は此の世に自我を取り戻した。覚醒した両面宿儺の自我は己の本能のまま全てを鏖殺せよと叫ぶけれど、未だその肉体の所有権は器の少年が硬く握ったまま。両面宿儺という呪いの王はごく限定的な場面でしかその身体を我が物として扱うことはできないでいる。

忌々しいことだ。
けれど、意識が深い水底にあった時に比べればマシであることも事実。
己がこの肉体を本当に掌握するのはまだ先のことだろう。だが、その程度構わない。これまで千年待ったのだ。あとほんの少し待つ程度、些事である。最終的に己がこの世界に君臨できれば良いのだから。

今はまだままならぬものを抱えて、生得領域で彼は想起する。
かつてのこと、夢の名残り。得難い己の一面。
今はもう遠い約束。繋いだ掌の温み。

両面宿儺には記憶がある。

まだ自分が人だった頃の記憶だ。遥かな忘却の地平へと遠ざかったそれは最早記憶というより記録と呼ぶべきような粗末な代物だったが、しかしまだ覚えている。

自分が両面宿儺に成り果てる前の記憶。
呪いの王として造られる前の記憶。

遠い記憶だ。遠すぎて、もはやそこにあった感情は消失している。自分に記憶を思い返してもそれは最早他人の描いた絵を見るようなもので、それを体験したはずの自分の感情はどこにも残っていなかった。けれど、それでもわかることがある。きっとあれは人にとっては幸福と呼んでもよい記憶なのだろう。
今の自分にはそんなもの何の意味もないけれど。


俺は小さな農村に生まれた。決して裕福ではなかったが、優しい父と母、双子の妹と一緒に暮らしていた。

「兄さま」
こちらに笑いかける自分の半身。
同じ時に同じ胎から生まれた魂の片割れは愛らしかった。手を引いてやればどこまでもついてくる。揶揄ってやれば泣き噦りながらも離れない。柔い髪を撫でると笑った。笑うとできる小さな笑窪を覚えている。春、夏、秋、冬、晴、雨、曇。そんな些細な、記憶にも残らない日々の群れ。
大きな幸福はない。けれど大きな悲しみもない。そんな穏やかな日常。このままずっとこうして生きていくのだろう。漠然とそう思っていた。
けれどそれはある日を境に一転する。

まあ、何、よくある話だ。
村が飢饉に襲われた。長く雨が降る。嵐が起こる。作物は枯れていく。流されていく。人が死んでいく。生き残った村人は困り果てる。

そんな時、やってきた呪術師がこう言った。
「子供を2人差し出せ」と。
「さすれば全てを解決する」と。
差し出されたのは俺と双子の妹だった。

これもまた、よくある話だろう。
つまるところは人柱だ。とはいえ、村を救うための人柱ではない。
あの呪術師たちが真っ当に俺達を人柱にしていたのならば、あるいは村人くらいは救われていたのかもしれない。けれどそうならなかった。
呪術師たちは子供がそれぞれ男女1人ずつ欲しかった。手に入れられるのなら、理由は何でもよかった。だから村人達を騙して、俺達を手に入れた。

呪術師たちが作りたかったのは人柱。
村ではなく、この国を救済するための呪い。
人を、生きたまま呪物にする。誰よりも何よりも強力な呪物を作り上げ、それによって外からの呪いを遮断する。毒を以て毒を制する救国のための生贄。

つまるところ、そのために材料が必要だったのだ。
誰でもよかった。
たまたま都合が良かったのが俺達だっただけ。

呪いは強い負の感情によって生まれる。
だから何も知らない子供が必要だった。
だから大人より感受性の強い子供の方が都合が良かった。
だから、俺達は連れて行かれた山奥の隠れ屋で死なない程度に心と体を深く、強く傷つけられ続けた。

まず衣服と共に尊厳を奪われる。知らない手が、自分達を掴む。触る。逃げようとして、子供の力がいかに無力かを思い知らされる。そうして自分が人であることを忘却するほどに、他人に、獣に、物に、呪霊に犯される。嬲られる。陵辱される。体を割り開き、何度も揺さぶられて、地に引きずり倒されて、昼夜の感覚を失う。暴力に似た凌辱、凌辱に似た暴力、違う、凌辱は暴力で、暴力は凌辱だった。それを、ずっとされ続ける。ずっと、ずっと、ずっと。いつしか時間の感覚は無くなっていた。やがて抵抗することの無意味さを知る。自分が傷つけられることに慣れてきた頃、片割れを犯すように命じられた。了承すれば片割れを傷つける。けれど拒絶すれば片割れが手酷く壊される。だから壊れた天秤で壊れた選択をする。思い出したく無い記憶が脳に刻まれて、傷となって残り続ける。互いが互いを庇おうとするから、片割れが傷つけられる前に、片割れを傷つけるよう命じられる前に、自らが凌辱されることを望むようになっていく。犬のように媚び諂い、痛みを望んでいく。自ら望んでそれを選んだことにされていく。
そうして加虐は激しくなる。殴る蹴るが児戯に思えるような加虐。反転術式を他人に使える呪術師がいなかったらもっと早くに死ねただろうに、死が救いに思えるほど、死を心から渇望するほど、俺達は心と身体を壊され続けた。人の悪意に際限はないのだと知覚する。指を折られ、治される。爪を剥がされ、治される。目を抉られ、治される。腹を裂かれ、治される。内臓を壊され、治される。孕んだ子を引きずり出され、治される。生きたまま脳髄を引きずり出され、死なないうちに治される。生きたまま焼かれて、死なないうちに治される。生きたまま潰されて、死なないうちに治される。生きたまま皮を剥がされ、死なないうちに治される。生きたまま体を切断され、死なないうちに治される。生きたまま解体されて、死なないうちに治される。生きたまま獣に食われ、死なないうちに治される。生きたまま呪いに侵され、死なないうちに治される。壊され、治され、壊され、治され、壊され、治されていく。
苦しかった。辛かった。逃げたかった。泣き叫び、助けを呼び、悲鳴を上げ、暴れ、赦しを乞うた。何度も泣いて、何度も何度も、痛くて、何度も、やめてと叫んで、助けてと泣いて、何度も何度も何度も、熱い、生きたまま、何度も、潰されて、治されて、もう自分が、死んでいるのか、生きているのかわからない、嫌だ、泣いて、ゆるして、何度も、意識があるから、どうして、痛みがあって、たすけて、潰されて、壊されて、何度も、数え切れないくらい、その痛みに耐えて、耐えられなくて、壊れて、崩れて、たすけて、痛い、痛い、殺して、殺してほしい、もう終わらせてほしい、ころして、ころして、何度も何度も何度も何度も繰り返す、摩耗する、混濁していく、だから、けれど、そうし続けて、……けれど、やがて全てが無意味だと気がつく。
誰も何も自分達を助けてくれないと知って、諦めた。やがて泣くことをやめ、助けを諦め、悲鳴を失くし、死体のように転がったまま、死ねる日を待った。
自分がそうなるのを、片割れがそうなっていくのをずっと見ていた。片割れが嬲られ、犯され、壊され、刻まれ、そのたびに治される。痛みを覚えている。死ねなかったことに恐怖する。おやすみ。おはよう。また明日が来ること、ただそれだけのことが絶望だった。壊して、治して、また壊される。自分がどうなっているのか、自分が何なのか、生きているのか死んでいるのかさえわからなくなっていく。名前を呼び合う。何度も、まじないのように互いの名を呼ぶ。片割れとふたり、ずっと手を繋いで。そうしていなければ自分の定義さえできなくなっていた。片割れの体温を確かめなければ自分が生きているのかさえわからなかった。

「兄さま」
先ほどまで体の中身を掻き出されていた片割れが力なく微笑む。また治された。生かされた。生きてしまった。死に辿り着かない。輪廻の如く繰り返される生存。死ねないまま望まない生だけを浪費して六道を巡り続ける。
「××」
片割れの名前を呼ぶ。俺が今ここで片割れを殺してやれば、救われるだろうか。もうここで終わりにしてやれるだろうか。片割れはこんな壊れたようにではなく、昔のように笑うだろうか。そうやって何度も片割れを殺してやろうと思い、ひとりになることを恐れて出来なかった。
「……許せ、俺の対、我が半身よ。お前の手を離すことさえ出来ぬ俺を」
「お傍におります、兄さま。私はこの手を離しなど決していたしませぬ」
手を握る。何度も壊されては治されるけど、もう感覚は摩耗していて、肌に感じる微かな体温だけが拠り所だった。恐怖はあった。憎悪も、絶望も、諦観も。

けれど、片割れが手を繋いでいてくれたから、まだ人のままでいられた。まだ呪に落ちずにいられた。


なのに、ある時、気絶から目を覚ますと、ずっと片割れの手を握っていた筈なのに、俺は俺の手を握っていた。何が起こっているのかわからなくて、わかりたくなくて、理解することを拒絶するのに、認識し、てしま、うぁ、あ、あああ?あ、ア、アアア、ァァアぁああああ、?
首をうごして、見渡す。地面に転がる自分がいて、となりに同じように転がる片割れがいる。
片割れの両腕が無くなっていた。それなのに、俺の腕がふたつだけだった腕が、よっつになっていた。ずっと手は離さなかったのに、離さなかったから、ずっと握っていた。俺は片割れの手を離さなかったのに。片割れの腕が俺の腕に成っていたから、俺はかつて片割れのものだった俺の手を握っていた、のは、どうして、だって、たしかに繋いでいたのに。

それを契機に俺達はひとつにされていく。
陰陽両儀。太極を人の肉体で完成させるのだ、と。
切断した片割れの腕を俺につける。切断した片割れの脚を俺につける。抉った片割れの目を俺に入れる。取り出した片割れの子宮を俺に入れる。繋がらない筈の循環器を無理やり繋げて血は巡っていく。終わって欲しいという意思に逆らって体を生きようとしていく。歪に増えていく俺の肉体。それに反してただ奪われていくだけの片割れ。奪うだけ奪って、もう治す必要のない片割れはとっくに事切れていた。それはもう少なくとも人の形と呼べるものでは無かった。死んだ片割れが細切れにされていく。もう泣き叫ばない片割れ。もう生きてはいない片割れ。片割れ。俺の半身。もういない人。
死んだ片割れの肉を喰うように命じられる。拒絶すれば、無理矢理喉に流し込まれる。腹に詰め込まれる。もう、やめろ。だって、そんなもの、もう俺の片割れじゃない。俺の中に入れたって、一つになんてなれない。手を繋いでくれた片割れはいない。名前を呼んでくれた片割れはいない。あの体温をもう思い出せない。幸福だった筈の記憶は恐怖と嫌悪と憎悪で塗り潰されていく。思い出せなくなっていく。片割れの名前はなんだった?最後に言ってくれた言葉は?俺を呼んでくれた片割れの声は?片割れが呼んでくれた俺の名前は?思い出そうとして、思い出せなくて、思い出せなくて、……


……ああ、そうだ、この身の名は『両面宿儺』。

8本の手脚に両面を持つ人工的に造られた生きた呪物。人類の敵。奇形の鬼神。「そうあれかし」という願いの果て。潰えた幻想。夢の死蝋。

呪いとして造られた。
だから願われた通りに世界を呪う。

「死ね。森羅万象その一切悉く死に絶えるがいい」

だから殺そう、そのすべてを。
俺達が味わった苦痛を、恐怖を、絶望をすべて返してやろう。
思い出す。空洞になった片割れの目。ふたつの穴。だから、もういくら呪っても俺達の穴は無い。もう人としての我らは死んだ。この身は最早ひとつの現象。ひとつの災害。ひとつの終焉。

生きたまま呪物と成り、そのまま速やかに封されるはずだった俺はその場にいた呪術師共を、いや呪詛師共全て殺し、この暗い屋敷から出る。
ずっとここから出たかった。漆黒の夜空に浮かぶ玻璃の月。大地を踏み締め、仄暗い月明かりを浴び、思う。ああ、やはり光は生で感じるに限る、と。
都合よく殺され、都合よく生かされるなんてそんな道理は何処にもない。ああ、そうだろう、我が半身、我が片割れ、対の君、俺のたったひとりの妹。欠けてしまった俺の魂の断片。
壊そう、殺そう、呪おう。俺達が道理となればいい。

どれだけ経っていたのかわからないほど長い年月の果てに生まれ育った村に帰る。けれどそれはとうに滅んでいた。骨と皮だけの亡骸がいくつも転がり、以津真天が鳴き続けていた。その中には父母がいたかもしれないが、そんなことより何も喰えなかったことに溜息をつく。もっと肥えた人間の多いところへ行こう。思考はごく単純に巡り、都へ向かうことにした。まだ見ぬ都を夢想する。煌びやかな街、美しい社、貴い者達の住まう世界。それらが血に塗れたらどれだけ愉しいだろう。すべてが死に絶えたらどれだけ悦ばしいだろう。

そうしてやがて辿り着いた都は、ああ、夢想した通り!沢山の人、人、人人人!ああ、こんな馳走、見たこともない。我が片割れにも見せてやりたかった!
一歩進むごとに人を喰う。
一歩進むごとに人を殺める。
さすれば、満たされる。充たされる。けれど、足りない。そんなものでは足り得ない。

もっと高貴な者の血で喉を潤そう。
もっと多くの肉で腹を満たそう。
幾千幾万の人を喰い荒らし、その血肉を糧にしよう。

俺の片割れよ、我が半身よ。我が魂の陰。どれだけ他人がそう造り上げようともこの身は太極には至らない。俺だけでは一極にしか成らぬ。お前がいなければ足り得ない。お前が要る。お前が要るのに、お前が居ない。そんな世界では俺は欠け続ける。それは道理ではない。だから俺が道理を形作る。

俺の腹に詰め込まれたお前の胎盤でもう一度お前をこの火宅へ産み落とす。

元の家主の首を折り、御簾の奥で寛ぎながら肉をしゃぶる。燃え盛る都、食い荒らされた餌の残骸。都で一番高い屋敷からはそんな愉しい地獄がよく見えた。
ああ、来たぞ、俺を祓おうと呪術師共が群れを為して来た。愚か者共、その呪力をもって片割れの贄となるためにわざわざ彼方から来てくれようとは。ああ、悦ばしや、喜ばしや。その全てを喰らい尽くしてやろう。
殺し、奪い、壊し、嬲り、「そうあれかし」と望まれたまま、この世を俺という呪いで犯そう。

その果てに幾千幾万の屍が生まれようとも、この願いのために幾万幾億の時が流れようとも構わない。

那由多の彼方で俺はもう一度お前に会うのだ。


千年の妄執の果て、再び肉の器を得た呪いは獣のように嗤う。嗤う。嗤う。









私は兄さまが大好き!

兄さまはとっても素敵で、すごく身軽で、かっこよくて、頭が良くて、いつも優し、く、…………ええっと、うん、たまに、結構しっかりすごく意地悪だけど。
でもいつだって私のことを大切にしてくれる。

私が風邪を引いた時兄さまはずっとそばにいてくれた。
私が木から降りれなくなった時は登って助けてくれた。
私が道で転んだ時は手を差し出してくれた。
私が迷子になった時必ず一番に見つけてくれた。
私が野犬に襲われた時はその犬を殺してくれた。
私が近所の子にいじめられた時その子を事故に見せかけて殺してくれた。
私が不安な時や寂しい時はいつも手に握ってくれた。

私たちが村人共に捨てられ、あの呪詛師共に連れて行かれた時も兄さまは怖がる私の手をずっと握ってくれた。

私が犯された時兄さまは一緒に犯されてくれた。
私が嬲られた時兄さまは一緒に嬲られてくれた。
私が壊された時兄さまは一緒に壊されてくれた。
私が殺された時兄さまは一緒に殺されてくれた。
朝が来るのが怖くて私が泣いていた時兄さまは優しく涙を拭ってくれた。
私たちはあの怖い人たちに何度も殺された。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も気が狂うほどずっとずっと殺されて、でも兄さまは私が寂しくならないようにずっとずっと手に握っていてくれた。

私が本当に死ぬその時まで手を握ってくれた、優しくて大好きな兄さま。
兄さまは私にあんなに優しくしてくれたのに、私は兄さまを置いてたった一人あの地獄から抜け出してしまった。

(「お傍におります、兄さま。私はこの手を離しなど決していたしませぬ」)
手を離してしまったのは私だった。
手を離さないと誓ったのは私だったのに。
兄さまとの約束であり、己に課していた縛りを破ったのは私。

それだけが私の後悔。
縛りを破ったが故に残ったたったひとつの大きな疵痕は記憶となって魂に刻み込まれた。
三途の川を渡り、輪廻を巡って肉体は転生しても、私の魂にはその疵痕が残ったまま。疵痕は前世の記憶となって、転生した肉体に宿る。
それがたまらなく嬉しかった。だって大好きな兄さまを忘れずにいられたのだから。

また会いたい、と魂はあの懐かしい体温を求める。疵痕を持って新しく此の世に生まれなおした私の肉体は天与呪縛。幾千に広がる未来を観測できるその術式は私にとってひどく都合が良かった。

だから私は探し続けた。もう一度兄さまに出会える未来を。もう一度手を繋ぎたい。それだけ。ただそれだけ。

数多の縁を繋いで、未来の可能性を増やしていく。兄さまと出会える未来を観測するたびに脳髄が焼かれる。兄さまと手をつなげる未来を引き寄せるたびに内臓が腐敗する。体が壊れていく。けれど構わない。兄さまと居られない世界に意味なんてないのだから。

分割思考でかかる負荷。繰り返す演算と観測。その果てにこの肉体が摩耗し、壊れ果てても。それが一体なんだというのだろう。
兄さまが居ない日々の方がずっとずっと無意味だから。
繰り返す演算、演算、演算、観測、観測、観測。そして見つけ出す。

『2018年、7月。
西東京、英集少年院にて。
両面宿儺は一時的に受肉を果たす』

脳味噌の一部を犠牲に私が観測した未来はすでに固定化した。笑っても泣いてもその未来は確実に来るから、私は笑うことにした。

あの地獄の日々から、兄さまと離れ離れにされた日から、いつしか長い長い時間が経っていた。いつか願った那由多の彼方、未来の果ては既にやってくるのだと確定している。
そこで私はようやく貴方とまた出会う。

兄さま。私の兄さま。私の世界、愛、半身、陽、日、天、祈り。私のすべて。
離れ屋敷の安楽椅子の上で芋虫のように転がりながら、確実にやってくる未来を想い、私は笑おうとして泣いた。
笑いながら泣いていた。
涙が止まらなくて、だから笑っていたの。


・・・


「お外へいきたいわ」
子供が大人を利用するためには、まずいい子でいなくちゃならない。日々、大人の手を煩わせない可愛げのあるいい子でいれば、たまの我儘くらい許してくれるようになる。
そんな子供のライフハックは観測した未来の通りに作用してくれた。

「お嬢様、どちらに向かわれたいのですか?」
侍女が私に外行き用の紬を着せながら問いかけてくる。芋虫のような体なのに彼女にガラス細工のように丁寧に扱われることには未だ慣れないが、己だけでは衣食住のすべてがままならないのがこの体の不便なところだ。慣れずとも仕方なしにされるがままになる。

「英集少年院へ」
「……理由をお尋ねしてもよろしいでしょうか」
そう問いかけながら私の帯を占める侍女は私の付き者。だが、同時に父の配下でもある。彼女が私の報告を苗字の当主である父にしていることはとうに知っていた。これもそのための問いかけだろう。

「そこに特級呪霊が発生するからよ」
別に隠すことではない故に正直に口にする。嘘は何もついていない。言葉は縛りになるから、嘘はあまり付かないようにしている。だからこれもそう。嘘はついていない。全てを話していないだけ。

「私を少年院の敷地内に連れて行ったら、貴方はすぐに退避なさい」
「承知いたしました、お嬢様」
術師でない人間が立ち入るにはあの場所は危険過ぎる。そう、あの場所はこの世の何処よりも危険になる。出現した特級呪霊よりもっと恐ろしいものがやって来ると、私だけが知っている。

だから私は、侍女からは見えないところで笑った。
だって、とても嬉しかったから。



苗字名前には手足と眼球が無い。
だから必然的に外での移動は車椅子になる。認識阻害の結界は張るものの、それでも彼女の姿はどうしても目立ち過ぎる。その上、彼女の術式と身体的特徴は呪術界では有名だ。下手に結界の効かない呪術師や呪詛師に会えば面倒なことにもなる。
そのため、苗字名前が遠出をするときは必ず車を使う。
英集少年院にも侍女が運転する車で向かっていた。彼女の運転する車には数えるほどしか乗ったことはないけれど、この助手席に座るのも今日が最後かと思えば感慨深い気がする。

いくらか車に揺られて、目的地周辺で私は侍女にここで止めるように伝えた。既にここで任務に当たっている高専生や補助監督に見つからないようにするため、ここからは私1人で向かうのだ。

脳天を見下ろす曇天は流れることなく空に溜まり続ける。初夏の熱を内包した湿度が身体に纏わりつく。まもなく雨が降るだろう。
侍女が降ろした車椅子に乗り、私は呪力を込めた。
この特別製の車椅子は手で車輪を回さずとも私の呪力だけで動かすことができる。
私はそばに立つ侍女を見上げた。
「貴方はもう戻りなさい」
「はい、承知いたしました。お迎えは何時頃がよろしいでしょうか」
侍女が私の前に膝をつき、目線を合わせて問いかける。

「いいえ、迎えは不要よ」
そう返せば、侍女は理由を問うこともなくうなづいた。
私の術式が未来予知だと周囲に認識されているのは酷く都合が良かった。私の発言や行動にはすべて未来のための意味がある、と皆が思い込むから。

私はこれから向かう先を見つめて、ぼんやりとこれから起こる未来のことを考える。

今日は、いつか五条悟へ告げた苗字名前の命日だ。
誰も彼もまさか苗字名前が死ぬためにここに来たなんて塵ほども思っていないのだろう。

(いいえ、違う。死ぬためではない。死ぬのは目的のための過程に過ぎない。『私』は真に生きるためにここに来た)

私を乗せてきた車が去っていく。
からからと車輪が回り、車椅子は私の望むように進む。
ゆっくりと、ゆっくりと、少年院の受刑在院者第二宿舎へ向かう。

空気に混じるあの御人の呪力が建物に近づくにつれて濃くなり私の肌を優しく、それでいて乱暴に撫でる。この少年院で羽化した特級呪霊という虫の呪力など、容易く霞むほどの強いプレッシャーに体は歓喜して震えた。

……ああ、私は識っている。
この呪力を、気配を、存在を、千年前から私は識っている。
「……嗚呼、兄さま」
ぴたり、針は止まる。観測した通りに時は至る。
虫の生得領域が、その命の幕とともに閉じた。それに気がつき、名前が顔を建物へ向けた。

その瞬間。


「つい虫で遊ぶのに窶してな。お前の元に往くのが遅れた」


顔を上げたその一瞬のうちに、ひとりの青年が名前の前に立っていた。
全身に走る刺青の如き紋様。
虹彩に幾重もの同心円のある紅い瞳。
在るだけで他者を圧倒する精神的重圧。
獰猛な獣のように嗤うその深い声。

ケヒッ、ケヒ、ヒヒッ。

「なに、そう嫉くな」
きゅうと、三日月のように弧を描く唇。
呪いの王、両面宿儺の受肉した姿が其処に在った。

並の人間ならばそれだけで恐怖に卒倒していただろう。
けれども、私はただただ歓喜に震えていた。声、を出そうとして、舌が絡まって何にもならない。兄さま、兄さま、私の兄さま、兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま兄さま!私の兄さま!私の半身!私の片割れ!私の陽!私のすべて!
「……にい、さま。兄さまなのですね」
叫び出したいほど心は震えていたのに、声はか細く溢れるだけ。

「ああ、俺だ。お前の俺だ。俺のお前よ」
「……ええ、私です。貴方の私です。私の貴方」
兄さまが私の頬を撫で、笑う。貴方が笑う。私に笑う。遠い過去の果て、いつかのように。
千年の断絶を経ていながら、私たちはかつてのように解り合っていた。
私が貴方に会いたいと強くのろうように、貴方もまた私に会いたいと強くのろっていたこと。同じ強さで求め合っていた。私たちは遠く離れながらも変わらず両儀であった、と。

腕があったのなら伸ばしていただろう。
足があったのなら駆けていただろう。
眼があったのなら見開いていただろう。
けれどそのどれもが無いから、口を開く。震えながら言葉を紡ぐ。

「不具の身なれどこの下名、貴方の元へ参上仕りました」
手足があればその足元に跪いていたけれど、それすら叶わないから頭を下げるのみ。けれど兄さまはそれさえ赦してくださる。
「人として転生を果たして尚拙く産まれるか」
私の無い手足と眼球をその目に映して、兄さまは「俺の為に」と満足げに笑う。
そう、その通りだ、私の手足も眼球も、とうの昔に兄さまに捧げられている。ならば兄さまが良しと言わぬうちに取り戻すことなどするはずもない。
それに何より、その必要さえ無い。

だって、兄さまが私を五体満足に産みなおしてくれるのだから。

「貴方が産みなおして下さると知って、愚妹は甘えているのです」
「ケヒッ、ヒヒ。良い良い。愛しき半身の我儘程度、叶えてやらず何が兄か」
兄さまは受肉体が纏っていた上半身の衣を破り捨てると、露わになった左の脇腹にその鋭い爪を突き立てる。そこから硬い凹凸のある腹部を通り、右の脇腹まで一文字に腹を割くように爪を立てて赫い線を描いた。
その線がくぱりと裂けると、そこに大きな口が現れる。獰猛な獣のような歯列とその奥に潜む深淵が私を手招いていた。

私は夢想する、兄さまの胎内を。
温かな羊水の中、穏やかで優しくて怖いものなど何もない世界。そんな安寧に身を浸すの。そうして十月十日をかけて、私は兄さまの胎の中でもう一度兄さまの私になる。
……嗚呼、それはなんて筆舌難き幸せなのだろうか。

「兄さま」
「ああ」
「お慕いしております。この世の何よりも」
「言われずとも知っている」
「……えへへ、嬉しい」
そう言って頰に笑窪を作って笑った片割れの転生体の首に両面宿儺の腹口が歯を立て、噛み千切る。まず頭部が腹口の中に収められ、岩を砕くような音と共に咀嚼される。切断面から噴き出した鮮血があたりに散らばり、胴体と頭だけの身体を連れてきた車椅子を赤く染め上げた。
まるで甘露のようだ、と男は口角を上げた。これまで食してきた全てより一等甘く、旨い、と。
それから車椅子の上に転がる胴体を手で引き寄せ、女の体が纏っていた着物を引き裂き、また喰らう。胸を、腹を、肉の一片すら残さずすべて喰らい尽くし、しかし零してしまった沢山の血を見て、勿体無いことをしたと微かに思う。

だが、まあ良い。この肉体を喰らうのは己の半身を再びこの火宅に産み落とすための過程に過ぎない。
両面宿儺ははしたなく飢える腹口を消すと、この周囲に唯一ある人間の気配の元へ向かい、……それからは記録に残る通り。

一時的に虎杖悠仁の肉体の支配権を得た両面宿儺は肉体から心臓を引き捨て、現場に待機していた伏黒恵と交戦。その後、肉体の支配権を取り戻した虎杖悠仁の自死により、本件は終結する。

西東京、英集少年院における任務では呪術師が一名死亡、一名行方不明となる。
呪術高等専門学校所属の虎杖悠仁が心臓を失い、死亡。
また、命令無く現場に到着していた苗字家息女の苗字名前が本人使用の車椅子と裂かれた着物のみを残して行方不明となった。現場に残された致死量の血痕から彼女は既に死亡しているものと思われる。







「絶対に死ぬと分かってそこに行くのってどんな気持ちなんだろうね」
高専の死体安置所へ向かう道すがら、五条悟は誰もいない空間にそう零した。

生徒である虎杖悠仁と、かつて一度だけ話したことのある苗字名前が死んだと聞いた時、悟は深く息を吐いた。その吐息にあるのは後悔でもあったし、怒りでもあったし、疑問でもあった。

虎杖の死に対しては上層部への強い怒りがある。
けれど、名前の死については疑問しかなかった。
未来を予測できるはずの彼女が何故死んだのか。

彼女の訃報を聞いた時、悟はいつか彼女と交わした約束を思い出した。

『私は5年後に死にます』
『私が死んだ後、私のこの離れ屋敷の書斎の棚、上から2番目の引き出しに入っている手紙を私の侍女に渡してください』
『この要求の記憶は貴方が私が死んだことを知った瞬間、貴方に戻ります』

かつて彼女が言っていた5年後はもうとっくに来ていた。

慌ただしくなった悟はごく小さな暇を縫って苗字家を訪ね、縛りの通り、彼女付きだった侍女に手紙を渡す。
手紙の内容は大したことはない。侍女がこの先苗字家から不当な扱いを受けぬような未来の道筋がそっけなく描かれているだけだった。
それきり、ただそれきりだった。
何故死んだのか、どのように死んだのか、その死の理由も意味も残さずに彼女は死んだ。

『この身は兄さまの為に生き、兄さまの為に死ぬもの』
彼女は兄のために死んだのだろうか。
そうであるならば、彼女の泥濘に花は咲いたのだろうか。

わからないけれど、これだけは確信を持って言える。

苗字名前は未来を見誤って死んだのではない。
死ぬと分かって死にに行ったのだ。

何故?……わからない。結局のところ自分は彼女のことなど何も知りはしないし、解りもしなかった。

現場状況と、伏黒恵の「自分と交戦する前から両面宿儺は既に返り血を浴びていた」という証言から彼女が両面宿儺に殺害されたことは想像に難くない。何故殺したのか、何故殺されたのか。殺した側も殺された側も死んだ以上、その動機さえわからないけれど。

苗字名前と両面宿儺の関係性として悟が知っている事は、彼女がかつて両面宿儺の指を求めたことだけだ。
それにも理由があったのだろうか。わからない。わからないのならば、これ以上考えたところで答えが出るはずもない。

だというのに、ふとそのことを思い出した。
風に揺れる木の枝が周囲の枝を巻き込んで揺らすように、一つの記憶から別の記憶が思い出される。

どうして今それを思い出すのか。

それはまだ五条悟が学生だった時のこと。
同級生の硝子が言っていたあの言葉。

『両面宿儺の主腕と副腕ではDNAが異なるようだ』
『主腕が男性のもので副腕が女性のものらしい』

『この調査結果から両面宿儺が2人の男女を人工的に合体させて作成された呪物だ、という可能性がある。……って聞いちゃいないな』

いいや、聞いていたよ、硝子。ちゃんと覚えていたよ。
あの時はあまりにも突拍子がなくて、人間の悍ましいほどの悪性を認めたくなくて振り切るように傑と2人、笑っていたけれど。

『私が求め願った時に両面宿儺の主腕と副腕のどちらの指が来るのか、試してみたかった』

記憶の中の少女が唇を弓形にする。
硝子の言葉と、名前の言葉。
これらは繋がるのだろうか。繋げて良いのだろうか。

苗字名前。
君は何を知っていた。どこまで知っていた。
君は一体なんだったんだ。

答えはもう永遠に失われていた。









「…………ぃ、………さい」
水底の石の下に長く隠れていた泡が何かの拍子に溢れ、水面を目指して浮き上がっていくような、そんな心地がした。

「……たい、………なさい」
ゆらゆらと形のない意識が少しずつ輪郭を取り戻していく。霧散していた感覚が、自我が、自分の肉体に還る。
深いところに落ちていた意識が覚醒していく。水面を目指す泡のように、上へ、上へ。

「受肉体、起きなさい」
声が、聞こえる。誰かの声。わからないけれど、その声に答えるように酷く重かったその瞼を開こうとして、

「起きろ!」
躊躇いのない暴力が虎杖悠仁の頬を一閃した。

声とか息とか吐くとか出すとかそんな暇もなく吹っ飛ばされて、ゴロゴロビシャビシャ転がり、仰向けにひっくり返る。
……そこで、両面宿儺によって心臓を抜かれて死んだはずの虎杖悠仁の意識は完全に覚醒した。

仰向けのまま見上げた空を疾る巨大な肋骨。それを覆うような昏黒がどこまでも広がっている、現実味のない空間。
此処がどこなのか、知るため上半身を起き上がらせようとして、自分の胴を跨ぐように誰かが立っていることに気がついた。
黒い着物を纏った、虎杖よりいくらか年下に見える少女が不遜な表情で彼を見下ろす。袖口から伸びる手を腰に当て、しなやかに伸びた両脚が虎杖を跨ぐ。その瞳の色は赫。
可憐な少女だ。少なくとも虎杖にはそう見えた。

「愚鈍で田夫野人な男ね」
先程、虎杖を起こした声と同じ声。小難しい言葉だが、罵倒されている事はわかる。
困惑の表情を浮かべる虎杖に彼女はそう吐き捨てると、彼の体を跨いでいた脚を退けて離れる。

誰?と問いかける間もなく、彼女が離れることで広がった視界の先に積み上がる牛鬼の頭蓋の山が目に飛び込んだ。
そうして、その頂点に君する呪いの王の姿が瞳に映った瞬間、虎杖は殺気立つ。頭に熱湯のような血が上り、米神の血管がビキリと浮かび上がる。

そんな虎杖の怒りに気がつきながら敢えてその神経を逆撫でするような声が降り注いだ。

「……許可なく見上げるな」
不愉快だ、と刺すような声でありながら、その口角は堪らなく愉快そうにきゅうと釣り上がっている。
事実愉快なのだろう、心臓ひとつないだけで死に絶えるような矮小な弱者を見下し、痛ぶることが堪らなく愉しくてならないのだろう。
その一挙一動が虎杖には吐き気がするほど不快だった。

「なら降りてこい。見下してやっからよ……!」
「不敬ッ!」
「あいたぁ!」
瞬間、避ける間も無く虎杖の横にいた少女にぶん殴られる。
思わず殴られた頬を手で押さえて、なにすんの!?と驚き半分で少女の顔を見ると、「あに見てんだてめーぶち殺すぞ」みたいな顔で睨まれる。

「あまりに不敬よ、受肉体。矮小なその身を恥じ、天照を拝するように平伏して兄さまを拝しなさい」
「ぜってぇ嫌だけど!?つか兄さまってあいつのこと!?」
「指を刺すな!無礼者ッ!」
「いったぁ!」
指を折られかけながら、改めて少女を見る。何度見ても知らない顔だ。思わず「つかアンタ誰!?」と叫びかけて、しかし口を開いたその瞬間どうしてか虎杖の頭の中にすとんと答えが落ちてきた。

あ、この子もまた両面宿儺なんだ、と。

どうしてその帰結に至ったのか、自分でもわからないけれどそれが真実だと思った。現在の両面宿儺は未だ数本の指を取り込んだだけで、力もまだ全盛期にはまるで至らない。

けれど、この少女の魂を取り込んだ事で両面宿儺の『魂』だけは既に完全なものになったのだ、と。


「ケヒッ、ケヒッ、ヒヒッ」
地獄の沙汰のような景色に獣の如き笑い声が響く。
言葉を失っていた虎杖がその声にハッとして頭蓋の山を見上げれば、両面宿儺が此方を見て嗤っていた。

「我が半身よ、あまりその小僧を見るな。目が腐る」
「はい、二度と見ません」
「いや、腐んねーよ!」
肩を怒らせて怒声を張る虎杖に、両面宿儺ははまるで理由に見当がつかないとばかりの声音で「随分と殺気だっているな」と呟いた。その言葉に虎杖の血管が米神に浮き出る。
「あったり前だ。さっきから散々馬鹿にされた上に、こちとらオマエに殺されてんだぞ」
「はぁ……腕を治した恩を忘れるとはな……」
「その後心臓取っちゃったでしょーが!」

呪いの王相手だろうと構わず気安く声を張る虎杖へいつでも攻撃に入れられるよう、彼を間合いに入れた彼女はちらりと屍の山に君臨する両面宿儺を見やった。「殺しますか?」と問いかけてくるその視線に、けれど両面宿儺は軽く手を振って下がらせる。
そうすれば彼女は彼の意思の通り、もうそれ以降は何もせず何も言わず、ただ兄と揃いの赫い瞳を硝子玉にして両面宿儺と虎杖の問答を眺め続けた。



殴り合いを経た問答の果てに、両面宿儺は虎杖悠仁と縛りを持って肉体を生き返らせることを明確に約束させた。
「解」で虎杖の頭部を切断した後、崩れ落ちる死体に背を向けた両面宿儺はそれきり興味を失ったように再び頭蓋の頂点に腰をかける。
浅瀬に転がっていたはずの虎杖の死体はすぐに消える。大方、肉体が蘇生し、目を覚ましたのだろう。

虎杖の体が消えるのを見届けてから、少女は骨の山の下から兄を見上げる。よかったのですか?とそう尋ねることも彼女には出来た。両面宿儺が虎杖と交わしたあの縛りは彼女から見れば酷く虎杖側に有利なものに思えたからだ。しかし他でもない兄がそれで良いと判断したのならば、自分が何か言うべきこともないだろう。
……と、片割れが判断したことが解って、両面宿儺は小さく笑みを浮かべる。以心伝心とは心地の良いことだ。

けれど傍の牛骨に頬杖をついた両面宿儺は遠くからこちらを見上げるばかりの片割れを見て、すぐにつまらなそうな顔をした。
半身が己に敬意を抱くのは問題ない。あれは兄への愛故の感情の発露だろう。しかし、それだけでは遠すぎる。

俺とお前は陰陽両儀、一心同体で表裏一体なのだろう?

「……兄さま?」
両面宿儺がじっと片割れを見つめると、彼女もまた兄を見つめる。兄が逸さねば、妹が逸らす事は無いだろう。
両面宿儺が手招くと、片割れは疑問を覚えることもなく軽やかにその場から跳び、兄の腰掛ける頭蓋の傍に音もなく着地した。
どうかなさいましたか?とばかりにこちらを見つめる妹の瞳に自分が映るのを見て、悪い気がしなかった。
けれど、まだまだ遠い。

両面宿儺は人差し指を立てると、それで自らの腿を2度、こつこつと突いた。
これは「此処に座れ」という意味だ。
つまるところ、自分の膝の上に乗れ、と両面宿儺は妹に要求しているのだ。

言葉にされずともジェスチャーだけでそれを理解した片割れは驚いた顔をして、それからうろうろと視線を彷徨わせた。その頰は常時より紅潮している。兄からのスキンシップの要求に照れていた。

なにせ、千年ぶりだ。
両面宿儺に転生体の肉体ごと魂を取り込まれることで、魂は太極に至ったけれど、虎杖悠仁が両面宿儺の生得領域に入り込んだために、兄とはまだ碌に話せてもいない。

(そんな、ま、まだ大してお喋りもしてないのに……それにスキンシップはまず小指と小指を繋ぐところからじゃないかしら……)

しかし逡巡も僅かな時間のみ。
まだか、とじっと見つめてくる兄の視線に耐えきれず、彼女は恐る恐る彼の膝の上に、彼の体に対して自分の体の向きが横になるようにそっと座る。
あまり体重をかけないよう体を緊張させる片割れに、両面宿儺は素直に(良い……)と思った。

「に、兄さま、その、重くありませんか」
俯いて頬を赤くしながらか細い声でそんなことを言う半身に、両面宿儺は喉を鳴らして笑った。そうも愛い顔を晒されては加虐心が疼く疼く。

「何、お前が百貫だろうと俺は変わらずここに座らせていただろうよ」
「〜〜っ!兄さま!そういう時はただ一言「軽い」と申せば良いのです!」
赤面しながらグッとこちらを睨む片割れの視線に「そう拗ねるな。手酷く虐めたくなる」と牙のような歯を見せて不遜に笑えば、片割れは一度彼を見つめて深く息を吐く。それからようやく観念したように小さく笑うと、体の力を抜いて両面宿儺の肩に寄り掛かるように頬を寄せた。

男は女の手を取り指を絡ませる。
女は答えるように指を絡ませる。
そうやって、互いの手を握った。
生得領域という魂が剥き出しになった場所で互いの体温をひとつに同化させるように手を繋ぎ、体を寄せる。

ただもう一度手を握りたい。
それだけのために、幾星霜、長い旅路を辿ってきたような気がした。けれどもそれさえ、長い夜を超えた今になって思えばほんの一瞬だったようにも感じられる。
柔らかな体温。薄い肉の向こう側に感じる硬い骨の感触。自分のものより細い指。かつて自分の身体の一部にに成り果てた片割れの腕。

本当のことを言えば、人だった頃のかつての互いの体温などほんの少しも覚えてはいない。覚えていられるような地獄ではなかったし、言語化できない感覚というものを記憶し続けられる程の時の長さでは無かった。

それでも尚、この体温を懐かしいと思う。
体温を、柔さを、細さを。片割れという存在が死してなお、己がバラバラの死蝋に成り果ててさえ堪らなく求めていた。
繋いだ手に力を込める。そうすれば同じだけの力で握り返される。かつて同じ地獄の中でそうやって生きていたように。

陰陽両儀、対の君。自分ではないもうひとりの自分。
……ずっと、会いたかった。

だからもう二度とこの手を離す事はない。
これはもう誰に奪われる事もない。
日月自明。一体此の世の誰に、正しく完成し切った太極を崩す事が出来ると云うのだろう。


「……いいです」
「?」
唐突に耳元で囁くような声音で片割れはそう言った。

「……兄さまになら、別に」
それが先程両面宿儺の言った「手酷く虐めたくなる」という言葉に繋がっていると気がついて、彼は思わず真顔になって黙り込んだ。