止まり木は此処


自分の妻は「72時間働けますか」を地でいくような、ゴリゴリのバリキャリで世界中をあちこち飛び回っているような人だ。
スケジュールは分単位。ラインと書き込みでいっぱいのスケジュール帳。24時間365日、コンビニエンスストアの擬人化みたいな生活。
それがアオキの妻たる名前の生活なのだ。

そしてアオキには信じられないことに、彼女は働くことに苦痛を感じないタイプの人間だった。
「仕事?楽しくて好きだよ!」と彼女が言った時、アオキは彼女を宇宙人か何かだと思った。その認識は今も変わっていないし、その思考を理解はできない。

とはいえ、彼女がそんな生活に満足しているのならアオキは構わなかった。

2人の家はほぼアオキだけの家になっていて、彼女が帰って来ることは滅多に無い。月に一度、アオキが3足の草鞋を履いて得た給料を1.5倍にしたくらいの金額が共有口座に振り込まれるばかり──彼女の給料なのだが、アオキがそれに手をつけたことはない──。
その上、現在彼女は仕事でホウエンにいるらしいし、最後に会ったのは三ヶ月前だし、結婚して約一年経っているがまともに夫婦らしい生活ができたことは一度もない。

けれど、彼女は忙しい身なのに毎日パルデアの時間に合わせて電話をしてくれるし、たまに帰ってきた時にはバカみたいな量のお土産を買ってきてくれる。
それが彼女なりの最大限の愛情と気遣いだということもよくわかっている。

だから少しも寂しくない。
……と言ったら嘘になるけれども。




「おはよう、アオキくん」

朝起きたら、今ホウエンにいるはずの妻がキッチンにいた。アオキは彼女を見つめたまま呆然と立ち尽くして、それから思った。

「…………ああ、夢か」
「あれえ?」

アオキは真っ直ぐ彼女の元へ向かうとそのまま両腕を広げて抱きしめた。柔らかくて小さくて暖かい体。
温みのある甘い香りは確かに彼女のもので、何ヶ月も会っていないのに夢の中でさえ覚えている自分に少し驚く。

「名前さん」
「うん」
「……夢だとしてもあなたに会えて嬉しいです」
「んええ、やっぱり夢だと思われてるよ……」

「おおよしよし、本物だよ」と笑って彼女はアオキの背中に手を回して、宥めるようにその背をポンポンと掌で軽く叩く。けれどアオキはうまく信じられなかった。

「……嫌です。もし本物だと思って夢だったらつらいので、夢だと思っていたいです」
「ううん……これはこう思わせるまでアオキくんを追い詰めた私が悪いね」

彼女は笑いながらも困った顔をして見せて、それから「お土産買ってきたんだよ!」とアオキに笑いかける。

「ほら!アオキくんに全面パッチール柄のボクサーパンツ買ってきたよ!こんなアホな柄のパンツのお土産買ってくるなんて本物の私に決まってるよ!」
「いえ、名前さんはいつも変なパンツを買ってくるので割と想定内です。まだ夢の可能性が拭えません」
「くっ、私が毎回変なパンツをお土産にするばっかりに……!」

名前は難問を前にしたように眉間に皺を寄せると、「あ!」と閃いたような顔をしてアオキの腕の隙間からキッチンの作業台を指差した。

「ごらん!君のために朝食を作ったんだよ!前にアオキくんが褒めてくれたおにぎりだよ!これできっと信じてくれるはずだよ!」
「ああ……名前さんの味はうまいのに形がどう見てもモトトカゲに3回轢かれたようにしか見えない平たいおにぎり……インパクトが強すぎていまだに夢に見ます……」
「経験済み!?」

名前はアオキの腕の中でぴょんぴょん跳ねながら「本当だよ!今までに抱えていた仕事を全部終わらせて、何ならもう今の会社を退職してきたんだよ!アオキくんとパルデアでゆっくり暮らすためにね!」と言ったが、それさえアオキに「自分の願望通り……絶対に夢だ……」と嘆かれた。万事休す。ポットデス。

「そもそも本当にそうなら事前に名前さんが連絡をくれるはず……それが無かったということはやはり夢ですね……」
「うう、アオキくんをびっくりさせようとしてサプライズしたことが全部裏目に出るとは思わなかったよ……」
「すーーはーーすーーはーー」
「夢だと思って開き直った夫にものすごく匂いを嗅がれているよ!ちょっと怖いよ!」

彼女はワタワタしながら、騒ぎに起きてきたアオキの手持ちたちへ「君たちのご主人がおかしいよ!助けて!」と言ったが、ほぼ全員に「この人誰だっけ……」の顔をされた。ショック。電気ショック。

「ア、アオキくん、私が君のポケモンたちに忘れられるくらい長いこと寂しい思いをさせてごめんね。でも本当だよ。なんなら退職した書類とか全部見せるよ」
「…………」

夢にしては、夢だと自覚してからが長いな、と思ってアオキももしかしたら夢ではないのかもしれないと思い始めてきた。

「……名前さん」
「うん、本物の名前さんだよ!」
「本物の名前さんだったらキスしてくれるはずなんですが……」
「オワー!アオキくんもしかして夢じゃないとわかってて言ってないかい!?」
「してくれない……夢だ……名前さんは帰ってきてないし退職もしてないしおにぎりもパンツもないんですね……」
「オワー!惚れた弱みにつけこまれてる気がするけどこの件についてはほぼ私が悪いし甘んじて受け入れるよ!」

名前はアオキの頬を包むように掌で引き寄せると、背伸びをして……届かなかったので「アオキくんちょっと屈んでくれる?」と上目遣いに彼を見た。

アオキが素直に屈むと、ふにと唇を唇に押し付けられる。
本当に唇をくっつけるだけの色気もクソもないキス。

もし自分の都合のいい夢ならば彼女は嬉しそうに笑いながら舌を入れてきただろうから、初心でそんなことができないというかそんな発想がそもそも浮かばない彼女はどう考えても本物だ。絶対本物だ。本物の彼女がいる。

「……名前さん」
「ど、どうかな、アオキくん!」
「これは……本物ですね……」
「わーい!信じてもらえたよ!これにて一件落着だよ!」
「……本物だしもう一回キスしておくか」
「なんでかな!?」

舌を入れた。




「久しぶりー!名前さんだよー?……アレ?この顔絶対覚えてないね?」
「ンゴ?」
「匂いで思い出すかなー?」
「ンゴ?」
「うん、覚えてなさそうだね……」
「ンゴ」

カラミンゴが興味なさそうな顔をしながらも名前の腕に首を絡ませる。そのくせ彼女が撫でようとするとスッと逃げるので妻が追いかける。逃げる。追いかける。突かれる。

「エーン!アオキくんカラミンゴが突いてくるよー!」と、妻がカラミンゴに揶揄われているのを、マヂラブなんだが……という気持ちでアオキは眺めていた。
彼女の作った、何故か味は絶品なのだが見た目が控えめに言っても残飯みたいなおにぎりを食べる。
その見た目と味のギャップにアオキは慣れているが、手持ちには(え?残飯食べてる……?)と二度見された。

「名前さん、こちらに来てくれますか」
「うん!」

素直に寄ってきた彼女がソファの隣に座った。おにぎりを食べ終えた手を拭いてから、彼女の目の下に薄く見える隈を指で撫でる。彼女がこの日に至るまでにたくさんの努力をしてくれたことくらい、察することは容易い。

「……お疲れですね」
「ううん、少しだけだよ」
「……自分は、どんなに遠くに居てもあなたが元気でいてくれたならそれでよかったんです」
「アオキくん……!」
「というのは正直全部嘘で、どうにかあなたが今の仕事を辞めてパルデアに留まってくれないかと本気で思っていました」
「アオキくん……」
「あなたの名義で退職届を出そうと何度思ったことか……」
「ア、アオキくん……」
「……本当に退職されたんですよね」
「うん、したよ!」
「これからは一緒にいられるということですか?」
「そうだよ!」

彼女はソファの上で膝立ちになってからアオキを抱き締めた。体勢のために自然とアオキの顔が彼女の胸元に埋まる。服越しでも感じられる柔らかい感触に(ご褒美……)と思いつつ、彼女の心音に耳を傾けながらアオキは大人しく彼女の腕の中に収まる。

「あのねえ、アオキくん」
「はい」
「一年前に君がプロポーズしてくれた時にはいっぱいお仕事を抱えててね、もう私の予約が一年待ちってくらいだったんだ」
「はい、知っています」
「だから全部終わらせてきたんだよ」
「……自分のために、と思っていいですか」
「もちろんだよ!」

ぐしゃぐしゃと髪を撫でられる。それから少し体を離した彼女が真っ直ぐに笑顔を向けてくる。

「アオキくんには寂しい思いをさせちゃったね。お待たせしちゃったけど、これからいっぱい夫婦らしいことをしていこうよ」
「……はい、ぜひお願いします」
「アオキくんは何かしたいことある?」

……あなたと一緒に食事がしたい。
一緒に料理もしたいし、スーパーに買い物に行きたいし、家でソファに並んでテレビを見たいし、そのへんを特に意味もなく散歩したいし、風呂に入って濡れた髪を乾かしているあなたも見たいし、同じベッドで寝たいし、セックスだってしたいし、朝にあなたを起こしたいし、起こされたいし、おはようと言い合いたいし、眠たそうに着替えているあなたが見たいし、歯を磨いているあなたも見たい。

この一年間、見ることができなかったあなたの日常と普通を目にして、安心したい。
そして自分がいる生活があなたにとっての日常と普通になっていく様をこの目で見つめ続けていたい。

「……自分はあなたがいてくれたら、それで十分です」
「もー、アオキくんは欲が無いなあ」

あなたの生活と人生の全てが欲しいと言う欲深い男を前に、彼女は何も知らない無垢な顔で笑った。





「それはそれとして、今夜は寝られると思わんでください……」
「いいよ!お土産話ならいっぱいあるから目一杯お喋りしようね!私も君を寝かさないよ!」
「…………え、あ、はい」

アオキくんといっぱいお喋り嬉しいな!という顔に、アオキは普通に負けた。惚れた弱み。効果抜群。



(2023.03.15)