燕返しの極意

女神か、天使か。白いウエディングドレスを纏った彼女は世界中の何よりも美しかった。

「……本当にお綺麗です」
「ふふ、アオキくんに言われたら照れちゃうな」
そう言ってくすぐったそうに、照れたように、けれど嬉しそうに笑ってくれる。彼女のこんなに美しい姿を見れるなんて、自分はどこまでも幸せ者だ。

「……ご結婚おめでとうございます」
「うん、今日は来てくれてありがとう」

『彼女の隣に立つのが自分では無い』という一点を除けば。

ずっと好きだった人が、自分では無い男と結婚した。
何が悪いかといえば、それは思いを伝えなかった自分だろう。しかし、正直なところ油断していた気持ちもあったのだ。彼女はあまり結婚願望が無いと言っていたし、飲みや夕飯に誘えば来てくれるくらいには付き合いが良かったから。
2人きりの飲みの場で酒に酔ったり、唇を尖らせて愚痴ったり。それが自分だけに見せてくれる気の抜けた姿なのだとアオキは本気で信じていた。彼女の意思を尊重して友人という立場のまま、ただそばでこうやって穏やかな時間を過ごせる相手であればそれでよかった。

「アオキくん。私、結婚するんだ」

……それでよかったのに。

「言ってなかったっけ?職場の人で、一年くらい前からお付き合いしててね」

「そう、結婚願望とか無かったのだけれどもね、あの人があんまりにもグイグイ来るものだから、なんだか私もその気になってきちゃって」

「アオキくん、結婚式に呼んだら来てくれるかな?忙しい?」

「ほんとう?よかった!……ふふ、ありがとうね」
その時にようやく自分の判断が如何に愚かで間違っていたのかを知った。
彼女の意思を尊重?そんなもの都合の良い言い訳だ。
本当に彼女と共にいたいのなら、あの憎たらしい男のように彼女へ本気でアプローチをして、向き合うべきだったのに。現状を継続するために都合の良いものばかりを見続けた。ぬるま湯のような安寧がいつまでも続くのだと、愚かにも信じていた。

その結果が、これだ。

世界で1番綺麗な人が自分の手の届かないところで笑っている。「お幸せに」とは嘘でも言えなかった。目の前の幸せそうな式の景色をアオキはただ地獄にいるような心地で見つめ続けた。
重い足取りで煌びやかな会場から自宅に帰り、ベッドに倒れ込んで、目を瞑る。目の裏側からじんわりと熱がやって来る感覚があって、耐えようと思ってから、耐える理由もないことに気がついて、熱が溢れるままにさせる。引出物のバウムクーヘンは結局食べれないまま、同僚に譲ってしまった。
……それが2年前のことだ。

「先月離婚したの」

そしてこれが現在。
宝食堂の2人がけの席で、向かい側の彼女がそう言ってから勢いよくビールを煽った。
少しだけ眉を寄せている彼女は、けれどこれまでと変わらずしゃんとしていて綺麗だ。その姿に見惚れていたアオキは彼女の言葉に反応するのに少し遅れた。

「……え?」
彼女の喉がゴクゴクと動いて、ビールを嚥下していく様を見つめながらアオキは思わずそう呟く。
……リコン?……離婚。

「えっ、別れたんですか」
「そう、別れたんですよ」
彼女はアオキの口調を真似て笑った。アオキは固まったまま彼女を見つめる。

「え」
「んふふ、反応面白いね」
「え、いや、だって……」
「ふふ、なんでアオキくんがそんな動揺するのよ」
「……理由を聞いてもいいですか」
「ん、あっちの浮気」
「…………は?」
アオキはポカンとした。

……え?世界一美しくて可憐で愛らしくて尊い人を妻にしておきながら、……浮気?
まるで意味がわからなかった。

「い、意味がわからんのですが……」
「別部署の若い子とよろしくやってたみたいなの」
「あなたという人がいながら……?」
「浮気ってそういうものなんでしょう?よく知らないけれど……」
彼女は溜息ひとつ、頬杖を付いて肩を落とした。
テーブルの上で彼女のパートナーであるヤミラミが硬い揚げパスタをパリパリ無心で食べている。

「浮気って、一緒に暮らしてても案外気が付かないものなのね。私のヤミラミがいつの間にか浮気の証拠集めてたの。びっくりしたけどこの子がいなかったら絶対気が付いてなかったわ」
「優秀……」
「思えば元夫には全然懐いてなかったし、そういう察しが良い子なんでしょうね」
彼女がヤミラミの頭を撫でながらまた溜息をついた。

揚げパスタに飽きたらしいヤミラミはテーブルの上を移動すると、アオキの分け皿に乗っている砂肝を指差して寄越せと要求してきた。
それを見た彼女がヤミラミへ「こら、人のものを欲しがらないの」と叱るように言ったが、アオキは快くそれを譲った。
この子がいなかったら彼女は裏切りに気がつくことなくいまだに他の男と共にいたのだから。砂肝の一皿や二皿いくらでも奢らせて欲しい。アオキは小声でヤミラミに話しかけた。

「……うまいですか」
「ヤミー」
「……ありがとうございます」
「ミミ」
「?」
ヤミラミの鳴き声になんとなく彼女の耳元へ視線が向かう。すると、これまで飾り気のなかった彼女の耳朶に小さく光るものがあることに気がつく。

「……ピアス、開けたんですか?」
そう問いかけると彼女はよく気がついてくれたとばかりに表情を明るくした。

「そうなの!生活が変わったから、心機一転しようと思って憧れてたピアスを開けてみたんだ」
「なるほど……」
「……この歳で今更ピアスなんて、はしゃぎすぎかな」
「そんなことはありません。……あなたによく似合っています」
小ぶりながら品のある細工のピアスを目に映して、素直に思ったことをそう口にすると、彼女は自身の耳に触れながら微かに照れたような表情を見せる。それから「アオキくんに褒めてもらえると自信になるなあ」と微笑んだ。

その柔らかな表情にアルコールとは関係なく体温が上がる。
それからアオキは思った。ヤミラミはこちらの味方なのではないか、と。少なくともこちらを敵とは思ってなさそうだ。
表情のわからない宝石のような瞳を見つめれば、砂肝を食い千切った牙をこちらに見せてくれた。……笑っている、のだろうか。
彼女は腕を伸ばしてヤミラミを捕まえると、自分の腕の中に抱きしめてからアオキに向けて相好を崩した。

「まあ、そんなわけでまた一人暮らしだから、よかったらいつでもご飯に誘ってね」
「はい、もちろんです」
これからどう立ち回るべきか、アオキは考える。

結婚に傷ついたばかりの彼女に対して、すぐに恋愛や結婚を想起させるようなことはすべきではないだろうか。けれど、アオキは一度長い様子見と日和見で痛い目を見ている。だからこそ、今日ここで何もしないわけにはいかなかった。してもしなくても悔いるくらいならば、躊躇わずに自分を解放しよう。

多少の痛みを負ってでも、最大の結果を出す。
トレーナーとしてのアオキの本質はそれだ。

アオキは目の前の彼女の名前を呼んだ。
堪らなく愛おしいものを優しく唇でなぞるように。
呼ばれた彼女もその声音に感じるものがあったのか、少し不思議そうにアオキを見る。彼女の目に自分が映っていることが堪らなく心地よかった。

「自分はあなたを世界で1番美しい人だと、あなたが結婚する前から知っています」
「もー!お世辞にしては言い過ぎだよ!」
「……自分が世辞を言えるほど器用な質じゃないことはあなたがよく知ってるでしょう?」
「…………ん、え、えと、アオキくん?」
「だから、あなたを裏切った男が許せませんし、……憎たらしいが、その男の見る目のなさに今は感謝さえしています」

テーブルの放られた無防備な彼女の手を取った。その甲を親指の腹で撫でる。しっとりと柔らかい肌の感触に、興奮で背筋が震える心地さえした。

「あなた以上の人なんていないのに、手放すなんて」

困惑の目でアオキを見つめながらも、こちらの言葉の意味を理解した瞬間の彼女の表情。ピアスをつけた耳が真っ赤に染まり、薄く開いた唇からは小さく吐息が零れる。

「あなたがこれからの人生を考える時、……ほんの少しで良いから俺のことを思い出してくれませんか」
ヤミラミはアオキの邪魔をしない。
彼女も握られた手を振り解かない。

この状況を都合よく受け取らない男なんて、いないでしょう?


(2023.03.17)