「甚爾、明日暇でしょう?私が遊んであげますよ」
唐突にそんなことを言った名前に、甚爾は眉間に皺を寄せて訳がわからないという顔をした。
「は?」
「どうせ暇ですよね」
「暇じゃねーよ」
「競馬がか?それともボート?いいじゃねぇか、どうせ暇だろ。遊んでやれよ」
「時雨、テメェはなんなんだよ」
こいつの保護者みてぇなもんだよ、と言いながら運転の片手間に煙草へ火をつける時雨に「保護者がガキの前で吸ってんじゃねぇ」と後ろの席から運転席を蹴り付ける。
「女の人を口説く時みたいに私とデートしてくださいね」
「じゃあホテルだな。ゴム買ってこいよ」
「おい、伏黒」
「ゴム?ゴムってなんですか?輪ゴム?ゴム鉄砲でもするんですか?」
本気でわかっていない顔できょとんとしてから、その意味を問いかけるような顔で大人2人の顔を交互に見る名前に、男共の間で神妙な間が生まれた。簡単に言うと「やっちまった……」と言った具合である。自分で話を振っておきながら、無知な子供にまだ不要の知識を与えてしまったような絶妙で間の抜けた罪悪感に甚爾は複雑な顔をする。例えるのならばまだサンタクロースを信じている子供にネタバラシをしてしまったような。
「……時雨テメェ、性教育くらいはしとけよ」
「逆にオマエはなにも教えるなよ。教育に悪ぃ」
駅に着いたワゴンはゆっくりと減速し、ロータリーに停車する。「マジで親ヅラしてんじゃねーよ」と吐き捨てながら甚爾は車から降り、続いて名前も「送迎ありがとーございまーす」とびょんと跳ねるように助手席から降りた。
勝手に帰らないように甚爾の服の裾を掴みながら去っていく白のワゴンに手を振る。彼は戯れ程度に逃げる姿勢を見せていたが、名前が離さないと知ってそれも諦めたらしい。
「じゃあ明日ここで待ち合わせましょうね」
「チッ、めんどくせぇな……」
「楽しみにしてます。来ないと時雨に言いつけますからね」
「なんでだよ、言いつけてどうすんだ」
「怒ってもらいます」
「親かよ」
親という表現に名前は満更でもない顔をして、それから待ち合わせの時間をもう一度念押しするように甚爾へ伝えると「また明日」と笑みを見せた。時雨の乗ったワゴンへそうしたように大きく弧を描くみたいに手を振って、それから背中を見せると人混みの中へ消えていった。
一方的に結ばれた約束を守ってやる理由も義理も甚爾にはない。当然こんなくだらない約束なんか破ってしまうつもりだ。
明日なんて、他人なんて、いや、自分さえもどうでもいい。そういうふうに生きていくと、そう決めたのだから。
……なのに、
「なんで時間指定した奴が遅刻してんだよ」
「いや、まさか貴方が時間通りに来るとは思ってなくて……」
翌日、待ち合わせの時間からさらに時計の長針がぐるりと一周回した、つまるところ約束の1時間後のこと。
ノースリーブのシャツに黒のショートパンツ、ショートカットの金髪を肩口の長さで揺らしながらのんびりとした足取りで駅にやってきた名前の頭を、甚爾は跨っていたオートバイから降りて容赦なく叩いた。「あいたっ」という声があまり痛そうではなかったのでもう一度引っ叩いた。
「なんで2回も……あ、いや、すみません。もう一度言いますけどまさか貴方が約束を守ってくれるとは思わず……。えっ、1時間近くも待っててくれたんですか?」
遅刻どころかどうせ来ないと思って、一人で東京観光でもしようかと駅で観光パンフレットを貰ってきていたくらい期待していなかったのだ。本気で驚いた顔をしている名前に不快な顔をしつつ甚爾は苛立ちを隠さずに吐き捨てる。
「な訳ねーだろ、俺も今来た」
「ごめんなさ、……えっ?……うわっ、それでよく人の頭叩いて文句言えるなこの人」
ドン引きした顔の名前に甚爾の不快指数が鰻登りだが、その度にいちいち叩いていては面倒なので後でまとめて強めに殴ることに決めた。
「テメェが遅れたのは事実だろうが」
「まあ、事実ですけども」
「謝れ」
「えっ」
「謝れ」
「えっ、ごめんなさい」
舌打ちひとつ。それで許されたらしい。甚爾は無言でオートバイに跨るとハンドルに引っ掛けていたヘルメットを名前に投げ渡す。名前は(私が謝る必要ってあったのかな……?)と若干のモヤつきを感じながらもそれを危なげなく受け取って、慣れない手つきで被る。モタモタと首紐を嵌める名前のヘルメットが前後逆になっていることに甚爾は気がついていたが、どうせ走行中に頭から転がり落ちても術師なら死にやしねぇだろと思ってそれを指摘はしなかった。
「後ろに乗ればいいんですか?」
「並走でもいいけどな」
「走れと?」
おっかなびっくり後ろに跨る子供が自分の背中にぴったりとくっつくのを感じてから甚爾は慣れた手つきでエンジンをかけた。その音と振動に一瞬名前の体が緊張したのを感じて、前を向いたまま少しだけ笑う。
それにしても、
「おい、名前」
「なんですか?」
「お前今歳いくつだっけか」
「じゅーろくです」
「……あっそ」
はて、前に女を後ろに乗せた時はもっと柔らかい感触を背中に感じた記憶があるのだが。そう思っても口に出さない程度の常識は甚爾にもあった。
駅のロータリーを出て、他の車両速度に合わせるようにゆっくりとスピードを上げていく。今更になって「どこにいくんですか?」なんて、のほほんと聞いてくる子供に「これから山に行ってお前を埋める」と嘯いて揶揄った。
首都高を走って1時間弱。
辿り着いたのは山ではなく海だった。高速を降りてから微かに鼻腔を擽る潮の香り。天与呪縛のために鋭敏な五感を持った甚爾はそのことを名前が口にするずっと前から感じ取っていた。
やってきたのは横浜。
観光地にもなっている海沿いの大きな公園にオートバイを停めて、エンジンを切る。一足先にオートバイから降りた名前はまるで子供のような --事実子供なのだが-- 歓声をあげて海の方へ駆けて行った。それを甚爾はゆったりと気怠げな足取りで追いかける。
公園の柵の向こうは海だった。海鳥が鳴き声をあげながら空を飛び、遠く水平線の向こうではいくつもの船が行き来をしている。名前は柵の外へ身を乗り出すようにそれを見ていた。彼女のそのあまりにも物珍しげな様子に、海に来たのは初めてだったのかもしれないと甚爾は思ったし、それは事実そうだった。
「甚爾!見てください!海ですよ!」
「見りゃわかるだろ」
そんなに騒ぐほどのことかと言うが、彼女は気にせず笑って海沿いを歩き出す。好き勝手に向かうのなら着いていけばいい。甚爾が彼女に着いていけば、少し待って名前が彼の横に並ぶ。
物珍しげにあたりを見渡す彼女は、海を飛ぶ鳥を見かけては「かもめ!」と指差し、地を歩く鳥を見ては「鳩!」と、散歩されている畜生を見ては「犬!」と喚いた。その度に甚爾は「うるせぇ」と小突いて、それから少し笑った。そんなふうに少し歩いて、やがて名前は公園沿いの海に停泊した大型船に気がついて指を差した。
「甚爾!船!船ですよ!」
「いちいち見たもんそのまま口にしてんじゃねぇよ」
見たところそれは過去使用されていた船舶をそのままユースホテル兼博物館として保存しているものらしい。中に入れると知って名前がぐいぐいと甚爾の腕を引っ張る。抵抗するのも手間で、甚爾はされるがまま連れて行かれることにした。
元は昭和期に外国と日本を繋いでいた客船だったというそれは当時の面影を残しながら管理されていた。名前はひと気の少ない船の中を歩いたり、立ち止まったり、あちらこちらを眺めては時折キラキラとした目で後ろを歩く甚爾を振り返る。甚爾からしてみれば、絢爛なロビーも社交場もサルーンも過去の遺物でしかない。ここで飾られるだけでもう二度と動かない船など死体だ。そんなものに一体何の意味があるというのだろう。
けれど名前がそんなものさえ楽しそうにするから。
甚爾は口を閉じて、彼女のその背中だけを眺めた。
「甚爾、これは何で読むんですか?」
ふと先を行く名前に声をかけられる。展示場所に置かれていたキャプションの漢字が読めないらしい。馬鹿にしてやろうと思ってニヤニヤ笑いながら彼女へ近づいて、それを見て甚爾は思わず黙り込んだ。
「どうしました?あっ、もしかして甚爾も読めないんですか?」
「な訳ねーだろ。……おい、テメェ本気でこれ読めねぇのか」
甚爾の目線の先には『機関室』と書かれたプレートがあった。彼女がまだ10歳前後の子供であったのならまだしも16歳、つまり高校一年生相当の子供がいくら日常に馴染みがない言葉とはいえこの程度の漢字も読めないものなのだろうか。こくんと特に恥じる様子もなくうなづいた名前に「……きかんしつ」と呟くように教えてやれば、漢字こそわからないもののその意味合いは理解できるのだろう、「へー、じゃあエンジンとかがこの辺にあったって事なんですねぇ」と何でもないように言った。
船を降りる頃には昼食時をすっかり過ぎた時間になっていた。
中華街で適当な店に入り、2人はあれやこれやと注文する。元より肉弾戦を主する甚爾の肉体はそのしなやかな筋肉の維持のために大量のカロリーを必要としていたし、育ち盛りの名前もまた会計が甚爾持ちということもあって遠慮しなかった。そのために大きな回転テーブルがいっぱいになるほどの料理が並ぶ。フードファイターさながらの食べっぷりに料理を運んでくる店員達の視線がチラチラと向けられる中、2人は気にせず話をする。
「お前、いつからこっち側に来た」
「……主語が足んないんですけど」
「いつから呪詛師になったんだって聞いてんだよ」
上海蟹の殻をハサミを使わず素手で割りながら、甚爾はじろりと名前を見た。名前もまた小籠包の熱さに身悶えながら視線を返す。唐突な話題にきょとんとした顔だ。
「あー、えーっと、10歳くらい、でしたかね?」
「…………」
甚爾は相変わらず名前を見つめながら蟹を食べる。名前も回転テーブルを回して甚爾の前に置かれていた蟹を自分の元へ引き寄せた。
「……だから馬鹿なのか」
「急に失礼」
10歳で呪詛師になったのなら学校なんて通っていられないだろう。中卒どころか小卒でさえない名前に納得する。そりゃあ漢字なんざ読めない訳だ。
「馬鹿、勉強しろ。そのうち馬鹿が原因で死ぬぞ」
「ちょっと漢字読めなかっただけでそんな……」
「ちょっとじゃねぇだろうがよ」
吐き捨てる。当人に危機感がないあたりに薄寒いものを感じた。そんな何故かムッとした顔の甚爾に、流石に名前も思うところがあったのか、「はあ……では帰りに漢字ドリル買って帰りますね」と本気なのかよくわからないような返事を返した。
それからは2人、黙々と目の前の料理を腹に収めていった。
昼食後からはまた歩いた。海沿いの公園をのんびりと歩くだけで名前はずっと楽しそうだった。異国情緒のある街を進み、花々の咲き乱れる公園を抜け、赤煉瓦の建物の間を渡り、港を去る船を見送った。甚爾はずっと名前の後を歩いた。時折、名前は振り返り、甚爾が来るのを待ったり、待たずに笑ってそのまま進んだりした。
ただそれだけの穏やかと呼べるような日。
時間は流れ、いつしか夕暮れが街を覆おうとしていた。
海風に名前の金髪が乱される。
「あれに乗りたいです」
と名前が観覧車を指差して、甚爾は露骨に嫌そうな顔をした。何が楽しくてあんなものに。
「デートの最後は観覧車なんでしょう?」
「知るかよ」
「私乗ったことないんですよ。甚爾はありますか?」
なかった。当然興味も無かったけれど、名前が腕を引っ張るから仕方なく乗ることになった。本当にまったく、振り回されてばかりだ。
「思ってたよりゆっくりなんですねぇ」
と観覧車に乗り込んだ名前は外を眺めてそう言った。甚爾は名前と向かい合うように座ったまま額をガラスに押し付けて、地上をつまらなそうに見下ろした。
小さな観覧車の中に満ちる沈黙を、名前は何ともなしに砕いた。前から気になっていたんですけど、と前置きをして彼女は甚爾の顔を指す。
「その口の端の傷って何があったんですか?」
こちらを指す、その指を折ってやってもよかった。むしろ普段の甚爾ならば問答無用で折っていた。
なのに、どうして。
会話も言葉も過去も他人も何もかも、下らないと知っていたのに。ならばそもそもどうしてあの待ち合わせ場所に来てしまったのか。どうしてこちらを引っ張る手を振り払わなかったのか。どうしてこんなものにまで乗り込んでしまったのか。
「……ガキん時に身内を口で言い負かしたら、生意気だっつって手元にあった鋏でぶっ刺された」
甚爾が至極つまらなそうにそう言えば名前は「DVだ。ドメスティックバイオレンスだ」とけらけら笑った。
「どうせやり返したんでしょ」
「たりめぇだろうが」
半殺しにしたと返せば、名前は手を叩いて笑った。
「そもそも何でそんな喧嘩したんですか」
「忘れた。けどどうせ俺に呪力がねぇのを馬鹿にしたとかそんなんだろ」
その言葉に名前が小首を傾げる。
「……あれ、甚爾って呪術師の家系なんですか?」
「禪院」
「へー」
特に反応のない名前に思わず半目になる。さてはこいつ、呪詛師のくせに禪院さえ知らないな。時雨は何してんだよ、と甚爾は完全に時雨を名前の保護者だと思ってそんな文句を頭の中で吐き捨てる。
「……加茂、五条、禪院。これが呪術界隈の御三家だ。呪詛師ならそんくらい知っとけ」
「ごじょう……あー、五条悟ってそういう」
合点が入ったようにうなづく子供に溜息をつく。
本当に碌でもない。学歴がなくては真っ当な社会では生きていけない。けれど呪術師としての知識がなければこの世界で生きていくのもやっとだろう。まったく、こんなのがよく生きてこれたものだ。
「じゃあ甚爾もいいところのお家の出なんですねぇ」
いいところなものか、と思ったが口にはしなかった。
実家での日々を思い出しムスッとした顔をする甚爾に、名前は小さく笑って「不良息子だ」と肩を揺らした。
観覧車はもう天辺に辿り着いていた。
「甚爾の秘密を聞いちゃったから、私もあなたが聞きたいことをなんでも答えてあげます」
何か私に聞きたいことはありますか、と目の前の子供が、そう笑うから、やっと気がつく。拙い等価交換。何かを与える代わりに、何かを差し出す。そんな当たり前のこと。
言葉が唇から溢れそうになる。他人に踏み込んでどうするのかと己に問う頭と、まだ幼い子供である彼女の望みを理解する頭とがあって、だから、けれど、ああ、今ここには俺しかいないから、俺が応えてやらなくてはと思ってしまった。そんな小さくて、致命的なバグ。
「名前」
名前を呼ぶ。この子供の名前を覚えてしまった自分に気がつく。
「お前は、どうして呪詛師になった」
溢れた言葉はもう戻らなかった。名前は笑っていた。甚爾は誘われるがまま決定的に踏み込んでしまった自分を理解しながら、しかしそれを受け入れる。
「……私、呪いにかかってるんです」
名前は『話したかった』。
だから甚爾は『話させた』。
先に貰うことで、与える機会を得た。
そうであることをお互いに理解しながら、見ないふりをする。
「へぇ、そりゃ下手打ったな」
甚爾もまたごく軽く返した。彼女が己の過去を開示したとて結局他人事でしかないと識っている。
「ええ、私の父が下手を打ったんです。彼は18歳の時に呪霊に呪いをかけられました。『二十歳の誕生日までに術師を99人殺さないと死ぬ』という呪いです。死にたくなかった彼はそれをまだ母親の胎にいた私に移した」
そう言って、名前がふと外を眺めるから、つられて外を見た。淡い橙は西の海に飲まれていき、降りてくる闇が世界の明度を下げていく。もうすぐ夜が来る。
「術師を殺さずに成人を迎える方法は私には無い。だから、私は10歳の時に屋敷にいた身内を全員殺して呪詛師になりました」
これからも変わりません、と彼女は微笑む。
「生きるために私はこれからも術師を殺します」
罪を重ねてその罪さえ踏み台に新たに罪を重ねる。越えられない日々を越えようと走る。ただそれだけのことがどれだけ苦しいことか。どれだけ無様なことか。
生きるということは重荷を背負っていくことだ。自分以外の重荷を増やしていくことだ。けれど、彼女はまだ生きるというスタートラインにさえ立てないから、何も持たずに身軽に走っていく。
何も得ていないから何も失わない。失い続けてきた甚爾にはそれさえ、流星の輝きのように見えたけれど。
「ありがとう」
名前は泣きそうな顔で笑った。
「あなたが勉強をしろと言った時、私は嬉しかった」
「学びとは生者が生きるためにすることでしょう」
「あなたにそんなつもりがなかったとしても私は、生きていてもいいんだって言ってもらえた気がしたの」
思い出す。いつか、もう遠い過去のこと。禪院甚爾という男のどん詰まりの世界をあっさり壊して「あなたも生きていていいんだよ」と笑ってそこから連れ出してくれた彼女のことを。
帰れない過去。失われ切って、2度と戻らないものになんて意味がないのに、それでも価値がないとはもう口が裂けても言えなくなっていた。
帰る頃にはすっかり夜になっていた。
行きと同じように、帰りもオートバイの2人乗りで東京へ帰る。相変わらず前後逆にヘルメットを被った名前が甚爾の腹に腕を回して、高速をハイスピードで流れる景色に負けないように声を張る。
「思ったんですけど!オートバイ!かっこいいですね!私も免許取ろうかなー!」
「免許なんかなくても運転はできるだろ」
「……えっ?甚爾、免許は?」
「ねぇよ」
「えっ、このオートバイは?」
「パチった」
「最ッ低じゃないですか!」
だめ大人!クズ!時雨に言ってやる!と喚く背中からの声に喉を鳴らすように笑って、甚爾はグッとオートバイのスピードを上げて、夜を駆け抜けた。
・・・
星漿体暗殺 3日目。
作戦は前々から決まっていた。
星漿体およびその護衛が高専内結界に入ったことを確認後、呪力の一切ない甚爾が彼らを尾行。高専内の結界は未登録の呪力が発生することでアラートが鳴る。つまり、甚爾が能動的に戦闘を始めなければアラートは鳴らない。
甚爾が結界内で星漿体およびその護衛を殺害。名前はアラートの発動によって増援に来た術師を甚爾の元へ向かわせないようすべて殺害する。
そして甚爾が星漿体を回収後、合流して帰還という流れ。
それらはすべて想定通りに終わった。
「あれ、甚爾、耳のとこ切れてますよ?」
こっちの耳、と左耳を指さす名前に甚爾は確認もせずに「あー、こんくらいすぐ治る」と返す。天与呪縛のフィジカルギフテッドは大体の傷なら痕もなく治すことをこれまでの経験で知っていた。
「お前さっきので何人殺した」
「8人です。たくさん殺せてよかったです」
そりゃよかったなと軽く返せば、名前はハイ!と元気よくうなづいた。
「これでお仕事終わりですよね。じゃあ今晩3人でご飯行きましょうよ!報酬のお金で!」
「ハッ、なんで仕事終わってまでテメェらと飯行かなきゃなんねーんだ」
合流した名前と、時雨との待ち合わせ地点に向かいながら、人を複数人殺してきたとは思えないような呑気さで話をする。誰かと戦うのも、誰かを殺すのもごく当然の事象になった人間などこんなものだ。
「よお、終わったか」
「ああ、首尾良くな」
「時雨ー、今日ご飯行きましょー」
ワゴンに乗り込んだ甚爾と名前を見て、時雨はすぐに車を出した。これから盤星教本部へ向かい、星漿体である天内理子の遺体を引き渡しに行く、のだが。
「あ、私途中の駅で降ろしてください」
「なんだよ、テメェは来ねぇのか」
「もう術師殺せないんですよね?じゃあ興味ないです」
「オマエもほんっと自由だな」
わかったわかった、と時雨が助手席に座る名前の頭を軽く撫でる。
「時雨も今晩一緒にご飯行きましょうね。前に接待で使ってるって言ってた銀座のお寿司さんに行きたいです」
「……一緒にって、まさかこの3人で飯食いに行くつもりか?」
「そうですよ?」
子供はすげぇな、と時雨は素直に思った。まぐろーサーモンほたてーと歌う名前に気が抜ける。この3人で仲良く寿司を食う……。まるで想像がつかなかった。
駅に名前を降ろして、今度こそ盤星教本部へ向かう。去り際、甚爾がチラリと窓の外を見やれば、名前は相変わらずのヘラヘラとした笑顔のままこちらへ手を振っていた。見えなくなるまで、ずっと。その姿に少し、笑った。
盤星教本部で星漿体を引き渡し、時雨とも別れる。
これまで長い付き合いの割に一度として甚爾と食事などしなかった時雨が、名前が強請ったからというただそれだけの理由で嫌そうな顔をしながらもうなづいたのには、流石に笑ってしまった。
笑って、噛み殺し切れない笑いをそのまま、盤星教本部を離れようとして。
甚爾はその瞳に亡霊を映した。
「よお、久しぶり」
「……マジか」
五条悟。
高専内で殺したはずの男が、一見満身創痍の姿のまま、けれど五体満足でそこに立っていた。驚愕をあらわにして目を見開く。殺したはずだ。だが、今目の前にいる。ならば、殺せていなかったのだろう。殺し切れなかった理由、その可能性があるとしたらそれは、
「反転術式……!」
反転術式による肉体の再生。それしかあり得ない。
「正っ解っ!」
五条悟は瞳孔を開いたまま、甚爾が至った帰結を肯定する。ハイになっているのか、ペラペラと饒舌に語りだす五条悟に眉間を寄せるが、結局のところ殺し合い、殺し損ねた2人がまたここで出会ったのだ。ならばすることはただ一つ。
もう一度、殺し合うだけだ。
瞬間、駆け出す。
倉庫呪霊から出した天逆鉾を逆手に握り、奴の背後を取って振り抜く。それは僅か一拍の出来事、瞬き程度の瞬間。だが容易く避けられ、振り切った刃は空を切る。
空に体を逃した五条悟が体勢を天地逆さにしたまま、その指でこちらを指した。
それは原初の呪い。
北欧のガンド。フィンの一撃。
ただ他人を
真っ直ぐに狙い撃つ。
術式反転『赫』。
瞬間。それが天与呪縛、フィジカルギフテッドで強化された規格外の肉体を吹き飛ばし、その身体に傷を付ける。己の肉体を容易く数百メートル先へ飛ばしたその術式に、甚爾は思わず笑ってしまった。
「ハッ、化け物が」
受けたのが甚爾でなければその肉体は砕けていただろう。彼だから額から血を流す程度で済んだ。それは甚爾自身わかっていた。
彼は骨に異常がないことを確認、そうして思考を巡らせながら万里ノ鎖に天逆鉾を接続し、その腕で鎖を振り回す。回していけば後は遠心力で勝手に加速していくだけ。術式の対応ならばもう解っている。引き寄せる力も弾く力も天逆鉾と己の肉体で対応が可能だ。何も問題はない。
夢想天生。重力、引力、あらゆる束縛から解放されて宙に浮かぶ五条悟と目が合った。
その瞬間、感じる違和感。
……それは或いは、この時線の彼でなかったのならばそんなことは思いもしなかったのかもしれない。ただただあの最強に成り果てた化け物の前に立ち塞がり、殺し、その存在を否定すると思ったのかもしれない。
けれど、その時の伏黒甚爾はふと思った。
何故、自分はあの男と戦っているのだろうか、と。
その瞬間、やけに呑気な声が脳裏によぎって水を差す。
(「人生って別に全員が全員ラスボスを倒すのが目的じゃないじゃないですか」)
思い出して、少しばかり気が抜ける。
アレが俺の人生のラスボスか?あの化け物が?アレを倒してどうする?それが俺にとって一体何になる?
そう、思考が至ってしまえばもうそれ以上の理由にはならなかった。ただ、それだけの話。
「……やめだ」
タダ働きなんてごめんだね。甚爾の思考はスライドする。戦いのためではなく、この場からの離脱に全ての力を使うために。
虚式『茈』。五条悟が柔く折っていた人差し指と中指を弾くように撃ち出した。
その瞬間。
甚爾は全力でその場から離脱をする。見えずともその軌道が直線であることはわかっているから、ならばと弾けるように横へ跳び、そのまま振り返ることなく駆け抜けた。
呪霊が呪具を飲み込み切ったのを確認して、呪霊のサイズを落として嚥下、体内に格納。そうした以上もう呪力で甚爾を追うことは不可能だ。後はただ生きるという目的の為の躊躇いのない逃走だけが残る。
不思議なことに五条悟がこちらを追ってくる様子はなかった。
残像のように背後に残る気配を振り切り、人混みでごった返す繁華街の路地裏まで辿り着いて、壁に背を預けて深く息を吐く。それから甚爾は喉を鳴らして笑った。
「くっくっくっくっく」
人の多いところなら戦闘もできまいと自尊心もなく敵前逃亡。こんな姿、名前が見たら何と言うか、なんて考えてそんな思考にさえ笑う。きっとあのガキは笑って「生きててよかったですねぇ」と言いそうだ。
自尊心ならばもう捨てた。
愛した唯一は既に亡く、ならばこの身は、この魂はもう誰も何も尊ばない。他人も、自分さえも己の心の中にある聖域には至れないから。そうであるまま、無闇に生を消費していく。
それを良しとした。
それだけを良しとしたから。
「腹減ったな……」
黒いシャツの裾を捲って額の血を拭う。あいつらが言ってたのは何処だったか、あー、銀座か。
肩を落として、甚爾は裏道からするりと大通りに出て、人混みの中に紛れて消えていった。
・
・
・
星漿体暗殺から3年後。2009年某日深夜23時。
甚爾は唐突に時雨から連絡を受けた。
「何だよ急に。仕事か?」
「いや違ぇけどすぐ来れるか?」
割と緊急事態だ、と真面目腐った声音で時雨が言うから金にはならなくても飯くらい奢らせる口実にはなるだろうと甚爾はそこへ向かった。
なのに。
「て、て、て、手を繋いでてください、私の。右手は時雨で左手は甚爾。絶対、日を跨ぐまで私の手を絶対に離さないでくださいね、言いましたからね、破ったら呪いますから」
時雨に言われた通り出向いた新宿の大衆居酒屋で変な女、もといそこそこの付き合いになる同業者に絡まれた。来て早々伸ばされた手を弾くとぎゃんぎゃん喚かれた。
「時雨ー!甚爾が手ぇ握ってくれませんー!」
「おい、伏黒。名前の手くらい握っててやれよ」
「いや、なんでだよ。なんなんだよこれ。おいこら、さわんなクソガキ」
右手を時雨に握ってもらっている名前が半分泣きそうな顔で左手を甚爾に伸ばしてくるという謎の状況に思わず女の頭の側面を引っ叩いた。手を握らずとも勝手に腕に絡みついてくる女を振り払うのも面倒でされるがまま、時雨に説明を求めると、彼は煙草を咥えたまま「誕生日なんだとよ」と言った。
「……誰の」
「はい!私のです!」
「帰るわ」
「なんでぇ!」
染めて傷んだ金髪を振り乱して縋り付いてくるのがウザい。もう飲んでんのか?そうは思ったがそれにしては酒の匂いはしないし、彼女の様子がいつも以上におかしいのは事実だった。
「チッ。おい、クソガキ。100%奢ると言え」
「100%奢ります!」
「よし、時雨、メニューよこせ。全部注文してやる」
なりふり構わない名前の様子にまあ話くらいは聞こうと甚爾は腰を落ち着かせることにした。
「で?」
「だから誕生日なんです。私の、二十歳の」
ほらよ、と時雨が見せてきた腕時計は23時55分を指していた。
「あと5分だな」
その言葉に思い出す。あー、そういやこいつ、二十歳までに術師を99人殺さないと死ぬって呪いにかかっていたんだったか。
「なんだよ、99人殺ってねぇのか?」
「ちゃんと殺りましたよぉ。解呪の専門家にも見てもらって解けてるのは確認しました。でもなんか不安なるじゃないですか」
運命のエックスデーなんですよ、死ぬにしても死なないにしても誰かにいてほしいじゃないですか、と彼女はらしくもなく不安げに眉間に皺を寄せた。それを見て甚爾は鼻で笑う。
「死ぬとしたらどう死ぬんだろうな。爆散すんのか?ウケるな」
「その死に方だけはやめろよ、今日のスーツ結構いいやつなんだよ」
「まずアンタらは私の生死の心配をしてもらっていいです?」
不満げな顔の名前は落ち着きなくもう一度時雨に時間を尋ねる。それに時雨は「57分」と答えて、それから唐突に「……あっ」と何か決定的なことに気がついたような声を上げた。途端に名前が背後のキュウリに驚いた猫のようにビビり出す。
「えっ、なに、時雨、なにが「あっ」なんですか?えっ、こわいこわいこわいなになに」
「いや、大したことじゃねーんだけどな」
「なに、なんですか、言ってください」
「俺の時計時間ずれてるの忘れてたわ」
「えっ」
「5分遅いんだわ」
「えっ」
「すまん、名前。今はもう0時2分。お前もう二十歳だ」
そのやりとりを聞いていた甚爾が開いた携帯の画面を名前に見せる。そこには時雨の言う通り、0時2分という文字があり、瞬きした瞬間3分に切り替わる。
「……えっ?」
おー爆散しなくてよかったなァだの、丁度いいしこれから酒飲んでみるか?だの好き勝手言う大人2人に気が抜けて、名前はテーブルに突っ伏した。
「あーー、わたしいきてる……?」
「そうだな、よかったな」
「……って油断した瞬間死んだりしないですかこれ」
「知らねーよ」
「これで21歳になる直前に死んだらウケるな」
「人の死に方でウケないでくれます?」
甚爾が隙を見て適当に注文していた料理と酒が運ばれてきて、テーブルの上に雪崩れ込んでくる。騒がしい店内で3人のことを気にする奴らなんか何処にもいない。
だから3人はどこまでも自由だ。
「うるせぇな、どうせいつか死ぬんだから文句言ってんじゃねぇ」
「もー、他人事だからってすーぐそう言う……」
「名前、とりあえず最初はビールからいってみるか?」
「あ、じゃあそれで」
「酒も来たし乾杯でもするか」
「何に乾杯するってんだよ」
「私たちのクソッタレな生存に」
「乾杯」
「ファック」
「ほんと最悪」