猫が怪我をしていた。
屋敷の庭木に登ったはいいものの降りれなくなり、無理に降りて右脚を悪くしたようだった。だから片脚を引き摺って歩く猫を捕まえて手当てをしてやったのだ。
それが今もなお屋敷にいる。
「御義父様は勝手にしろと、千寿郎さんも構わないと、そう仰っていました。杏寿郎さんさえよければ、あの猫の気が済むまでここにいさせてやりたいのですが構わないでしょうか」
離れの縁側に置かれた座布団の上には、左脚に包帯を巻いた三毛猫が丸くなって眠っている。
名前がその猫を掌で示すと、鬼狩りのための長旅から帰宅したばかりの杏寿郎は素直にその大きな瞳を猫へ向けた。
「うむ!勿論だ。好きにさせてやるといい」
杏寿郎がそう言えば、妻である名前は「ご寛容に感謝いたします」といつも通りの碌に表情の変わらない顔でうなづいた。
人によっては愛想のない顔と捉えるような妻の表情にも杏寿郎は気分を害することはなく、むしろ普段通りの彼女の様子にようやく自分は日常に戻ってきたのだと痛感さえした。
そう、此処が自分の帰るべき場所だ。
父がいて、弟がいて、妻がいる。家族の待つ屋敷こそが杏寿郎の日常であり、平穏であり、祈りの原点。
脱いだ羽織を静かに受け取る妻に笑みを見せると、彼女は少し間を置いてから小首を傾げた。
何故杏寿郎が自分に笑いかけたのか、まるでわかっていない顔だ。
それを見て、ただ愛おしいと思った。
煉獄家の敷地内、母屋から幾ばくかしたところに離れ座敷を建てたのは、煉獄家の長男である杏寿郎が妻を娶った頃のことだ。
杏寿郎の妻は長く続く薬屋の娘だった。
ふたりの出会いは幼少期。自己に課した厳しい鍛錬のために掌にたくさんの豆を作り、その豆を潰して手を血に染めてしまった杏寿郎に名前が手当をしてやったのがふたりの出会いであり、始まりだった。
夫婦になるのならばあの子がいい、自分の手をまるで壊れ物のように大切に手当てをしてくれた優しいあの子がいいと杏寿郎は思い、その思いのまま行動した。その結果が煉獄家に建った離れ座敷なのだ。
離れ座敷といっても、夫妻は変わらず杏寿郎の父と弟と共に母屋で食事を取り、炊事や洗濯などは4人分をまとめて行っている。杏寿郎も名前も昼間を過ごすのは大抵が母屋であるため、結局のところ離れは寝起きや着替えする程度の場所としてしか役目を果たしていないが、それで十分だった。
「怪我をした猫を助けるとは、やはり名前は優しいな!」
鬼殺隊の制服から平服である紬に着替えた杏寿郎は座敷に座り、濡れ縁へ目を向けてから妻を見た。名前は解れや破れがないか羽織を確認するために俯いていた顔を上げる。それから夫を見つめて、幾ばくか沈黙した。杏寿郎はそれだけで、この沈黙は彼女が杏寿郎に何かを伝えるための言葉を探す為のものだと理解して、黙って彼女の言葉を待つ。
開いた縁側から柔らかな陽の光が降り注ぐ。
沈黙の座敷へ穏やかな風が吹き込む。
刹那、名前が口を開いた。
「杏寿郎さんと私では、互いの認識に相違があるようです」
「うむ!……うむ?」
杏寿郎は大きく力強くうなづいて、それからすぐに首を傾げた。どういう事なのか、妻の言葉の意味を認識しきれなかったからだ。
首を傾げるその姿を瞳に写して名前は言葉を続ける。
「怪我をした猫に手当てをする事と、手当てを行なった人間が優しい事に相関関係はありません。怪我をしていて尚且つまだ息のある猫に可能な限り手当てをすることは人間的道徳規範として正しい事だと認識した為、私はそれを実行しました。そこに感情や心が入り込む余地は存在しません。つまり、猫を手当てした事実は私が優しい事を証明する理由にはならないのです」
「そうか!」
キッパリと告げられた言葉に杏寿郎はうなづいた。うなづきながら、しかし彼も言葉を続けた。
「だが、それでも俺は君を優しい人間だと思う!例え君がそこに心は無いと言っても、君の行動は猫を助けた。その事実は変わらない。心は無くとも正しい行いを選ぶ。その在り方はもう十分に君の優しさだ!」
名前は夫からの反論に沈黙した。沈黙してから「そうでしょうか」と呟いた。
「うむ!そうだ!俺はそう思う!そして俺は君のそんな優しいところが好きだ!」
「ご意見ありがとうございます。今後の参考にさせていただきます」
「名前、俺は名前のことが大好きだ!」
「左様ですか。ありがとうございます」
「ああ!」
妻は再び沈黙した。故に杏寿郎は待った。待つ事は苦しくなかった。これは愛おしい日常だったから。
「杏寿郎さん」
「なんだ!」
「私から見た貴方は誠実で正直で、肉体精神ともに人より強い人です。それは貴方の良さだと思います」
「そうか!ありがとう!」
「つまり、」
「うむ、つまり!」
「……申し訳ありません。適切な言葉が見つけられませんでした。確認次第お伝えいたします」
「委細承知した!君が言葉を見つけられる時が来るのを待とう!」
杏寿郎にとって待つ事は楽しい事だった。
己の心がわからない彼女が自身の感情を正しく伝えようとする。そんな妻の誠実さを誰よりも愛おしく思っているから。