弐 かつての話

これは杏寿郎がまだ小さな子供だった時の話だ。

「傷の状態を適切に教えてください」
少女は杏寿郎の腕を取ったまま、彼の半歩先を歩いていく。
薬屋の子だ、と杏寿郎は先を行く彼女の横顔を見て思った。屋敷の置き薬の補充のため、定期的に薬屋の男が煉獄邸を尋ねるのだ。その娘である少女が助手代わりに共をするのを杏寿郎は知っていた。

その少女に連れられるがままの杏寿郎のまだ柔い掌は真っ赤な血潮に染まっていた。

その日、杏寿郎がいつもの様に屋敷の庭で鍛錬のために刀を振っていた。その折り、既にできていた豆が擦れ、皮膚が破け、出血してしまった。そんな状態でさらに刀を振っていたものだから、柄も掌も鮮血で真っ赤に汚れていたのだ。
けれど杏寿郎は自身の掌がそうなっていたことを、偶然通りかがった彼女に指摘されるまでちっとも気が付かなかった。傷にも痛みにも、これっぽっちも。傷に気がついてからは鈍い痛みが掌を痺れさせる。だったらこの傷になど、気が付かなくてもよかったのに、と彼は思った。

杏寿郎は井戸まで連れてこられて、そばの石縁に座らせられた。
しかし少女が井戸の綱を持って鶴瓶を落とそうとしているのを見て、杏寿郎は咄嗟に立ち上がりその役目を代わろうとした。少女の身に重い水汲みは重労働だろうと思ったのだ。
けれどそんな杏寿郎に少女は、困惑の目を向けた。

「……意味がわかりません。不合理です。水を汲むのは貴方の掌の手当のためです。掌を怪我している貴方に鶴瓶を引かせる合理的理由がありません。貴方はその場で座って待機してください」
「しかし女性にそれは大変だろう。俺の方が力もあるし、水汲みは俺がしよう」
「不要です。私の疲労よりも貴方の怪我の悪化の方が問題です」
それだけ言って彼女はさっさと鶴瓶を落としてしまったから、結局杏寿郎は彼女が水のたっぷり入った桶を歯を食いしばりながら上げるのをただ見るしかなかった。なにせその場から一歩でも彼女に近づこうものならば、射殺さんばかりの目で睨まれるから。
綺麗な人の険しい顔は酷く恐ろしいのだと、その日少年は初めて知った。

汲み上げた水は桶の中で澄み切っていた。彼女はその水で杏寿郎の掌に張り付く凝固した血液を洗い流していく。
水は冷たくて心地よかった。
彼女に触れられた手の甲は暖かった。
真剣に手当てをしてくれる彼女の顔を、杏寿郎はじっと眺める。険しい顔つきに反して、その手当ては壊物に触るかのように優しかった。
少女は乾いた手拭で杏寿郎の掌の水気を取ると、傷に薬を塗る。それから顔を上げて杏寿郎に問いかけた。

「痛みはありますか」
唐突に、そう、問われて、杏寿郎は少しばかり驚いた。ひるんだ、と言い換えてもいい。どうしてか、その言葉は彼にとって不意打ちのようなものだったのだ。
無意識に薄く開いた唇をぴたりと閉じ、口内に溜まった唾液を嚥下してから彼は答えた。

「いや、この程度の痛みなどたいした事はない」
父のように立派な鬼殺の剣士になるのだ。たかがこの程度の痛みがなんだというのだろう。こんなものに一々構ってはいられない。
彼女に優しく取られた手を杏寿郎はそっと自身の方へ引き戻そうとして、……出来なかった。
彼女が杏寿郎の手を離さなかったのだ。

「痛みが貴方の主観的に見て大した事か否かは尋ねていません」
「君!手当てをありがとう!心から感謝する!」
「事実として貴方に痛みがあるかどうかを確認しているのです」
「しかし女性にそんなに長く触れられていると非常に照れるので手を離してくれないだろうか!」

「聞いてください」
「聞いてくれ!」
沈黙がふたりの間に生まれた。

「順番に話そう。まずは君からだ」
「先手譲っていただきありがとうございます」
少女は杏寿郎の手をしかと握ったまま、深々と頭を下げた。それから顔を上げて、目の前のそう歳の変わらない少年をまっすぐに見た。

「私は貴方の怪我を適切に処置したいと考えています。その為には貴方自身の協力が不可欠です。それはどれだけ努力しても私には貴方の体感している痛みが理解できないからです。怪我している箇所は総じて痛みがあります。処置の足りていない箇所ないか確認する為にも貴方の痛みを教えてください」

早次に繰り出される言葉に杏寿郎は一瞬驚いて、それから彼女の言葉を理解して思った。なるほど彼女の言葉は正しい。つまるところ彼女は治療に対して誠実なだけなのだ。だから、杏寿郎もまた誠実に答えた。
「君に手当してもらった掌にはまだ鈍い痛みが残っているが、耐えられないほどの痛みではない。そして掌のほかに痛みを感じる部位もない」
そう返事をすれば、少女はかすかに息を吐いて肩を落とす。それが杏寿郎には安堵に見えて、嬉しかった。

「やはり、痛かったのですね」
少女は痛みを慰める様に、杏寿郎の手の甲をそっと撫でた。
剣士ならば、傷も痛みも耐えて当たり前なのだから。……だから、思えばそんなふうに傷を慈しまれたのは初めてだったのかもしれない。
自分の手に視線を落とす彼女を見て、杏寿郎はなにやらわからないが、胸の内が騒ぐ様な思いがした。

「はい、掌には今日一日痛みが残ると思います。薬を渡しますので眠る前に塗ってください。それから、」
そんな彼に気がつかない彼女は顔を上げ、ごく当たり前にそう言った。そして不意に言葉を区切り、言葉を続ける。

「それから、あまり怪我をなさらないように」
そう、言ってから、彼女は一度目を揺らがせて、すぐに否定するように首を横に振った。
「申し訳ありません。出過ぎた真似をしました。今の発言は忘れてください」
そう言うと彼女は先程までの凛とした表情に戻して「私からは以上です」と言った。
それきり黙って杏寿郎の言葉を待つから、彼も口を開いた。

「君の名前を教えてほしい」
手は変わらず握られたままだった。けれども離してほしいとはもう思わなかった。その理由は彼にはわからない。わからないけれど心の思うままの感情を肯定した。
彼女はそんな問いかけに少し目を丸くしてから「苗字名前です」と名乗る。

「名前、か」
「ええ、そうです」
「ところで名前、君は、」
「はい」
「許嫁はいるのか?婚姻の予定は?」
「その問いかけの意味はわかりませんが、現在私に許嫁や婚姻の予定はありません」
「そうか!では俺と夫婦になってくれ!」
「貴方の発言の意味はわかりませんが、その問いに答えるためには私の父に確認を取る必要があります」
「ならば行こう!」

早足で歩き出す少年の手を、少女は離さなかったから。
だからふたりは一緒に歩き出した。半歩だけ少年が前を行く。少女は手を離さずについていく。

そんなことがあった。

今となってはもう遠い昔の話だ。

(2020.10.31)