参 微睡の夜

帰る頃にはすっかり夜半になっていた。
夕餉は外で済ますと千寿郎に伝えておいてよかったと、杏寿郎は隣を歩く妻に歩調を合わせながら思う。

枯れ木に花咲くと例えたくなるほど稀な終日非番の日、杏寿郎は妻の名前を連れて街を出た。本当ならば彼女の欲しいものを買って、行きたいところへ連れていってやる心算だったのだが、彼女は杏寿郎の衣服を繕う針や糸、手紙のための紙や墨ばかり買い求める。
それが悪いということはないのだが、少しばかり思っていたものとは違う気もした。はて、夫婦の逢引とはこのようなものなのだろうか?
これならば妻帯者である宇随に助言でも貰うべきだったか。せめてゆっくり茶屋にでもと街を見渡していたところ、目に入ったは演舞場。ひらひら旗めく幟に数秒ばかり眼を奪われたのがいけなかった。

隣に佇む名前が小首を傾げた。
「杏寿郎さん、歌舞伎が気になられるのですか」
「違うぞ、今日の演目など見てはいない。今日は君が行きたいところに行く日だからな」
元より杏寿郎は嘘の付けない質の男である。それは心の機敏に乏しい名前でさえ見ればわかるほどだった。滝の如き汗をかき、常より合わぬ瞳は起き上がり小法師のようにぐらぐら揺れる。
言葉を紡げば紡ぐほど挙動不審になる夫の袖をひき、名前は自分より背の高い彼をそっと見上げてこう言った。
「……行きとうございます」
「む」
「見てみたいのです、歌舞伎を」
教えてくださいませんかと尋ねられれば、それが彼女に気を遣われたものだとわかっていても「君の行きたいところへ」と言った手前、首を横には振れまい。

「……君が良いのならば」
そう言いつつ、向かう足取りは軽くなる。なにせ、近頃は忙しく好きな歌舞伎さえ碌に見れていなかったから。
「勿論です」
名前は杏寿郎が愉しいのならばそれでよかった。それがよかった。だから躊躇うことなく歩みを進めていく。

そんなわけで2人は穏やかに時間を過ごした。
夫婦で観劇。それはまったく意図せずによくある逢引らしい休日となっていた。


幕が降りる頃にはもうすっかり夜になっていた。
冬は過ぎ、初春と呼ぶべき季節。桜は早いが梅は見頃。霞がかった空、朧月がぼおっと柔らかに地上を照らし上げる、そんな明るい夜。
帰路に着くふたりは肩を並べて歩いていく。俥を呼ぶ提案をしてもよかったのだけれど、すぐに家に着いてしまうのがどうしてかとても惜しかったのだ。そんな杏寿郎のささやかな我儘故に2人は歩いて帰路に着く。

「寒くはないだろうか」
杏寿郎がそう問えば、名前は「いいえ」と首を振る。
「杏寿郎さんこそ、寒くはありませんか」
「ああ、俺は元より体温が高く寒さには強いのだ」
事実であることを伝えるように彼女の手を取って握ってみせれば、妻は少し驚いたように杏寿郎を見て、それからうなづいた。
「はい、温かいです」
「だろう」
明るいといえ夜。気がつけばすっかり人並みも落ち着いていた。それに何より夫婦だ。離す理由が見つからなくて、だから手は離さなかった。
杏寿郎は自分よりずっと柔く細く小さい手を壊さないように握る。きっと本気で力を入れたら容易く砕いてしまう。冗談にならない冗談を頭の中で呟きながら、杏寿郎は隣を歩く妻を見た。

彼より低い背丈、細い体。月明かりに浮かぶ顔や頸は白く、いつまでも見つめていられそうだった。
その時ふと彼女の結った髪に差された櫛がいつか杏寿郎が贈ったものだと気がつく。その時は妻の好みも流行りも知らぬまま、自分の好みだけで選んでしまったがそれも悪くはなかったのかもしれない。朱漆の櫛は妻の黒髪によく似合うように思えた。
「杏寿郎さん?」
見つめられていたことに気がついて、名前が名を呼んだ。どこか問いかけるような瞳に笑って答える。
「なに、良い夜だと思ってな」
好きな歌舞伎を見て、贈った櫛を髪に差す愛しき妻が隣を歩いてくれる月の明るい夜。それが悪い夜な訳もない。故にそう答えれば彼女は小首を傾げて、しかし少し何かに思い付いたような顔で杏寿郎を見た。
「月も朧に白魚の篝もかすむ春の空、というものでしょうか」
「おお!三人吉三巴白波だな!」
ここから江戸湾は見えないが、しかし夜の漁船は篝火と共に深い闇のような海を往くのだろう。彼女の言うように、春先の霞がかった今夜はまるでそれのようだった。
愉しくなって笑ってやれば、彼女は少しそれを見つめて、それからそれまでは杏寿郎にされるがまま握られていた手を彼女の方からきゅうと小さく握り返す。
それを認識した瞬間、杏寿郎は思わず大声を出した。
「わっしょい!」
手を握り返してくれたこと。その驚きと嬉しさの為たまらず飛び出た声に、通りすがった男の肩が驚きに跳ね、すれ違いざまにギョッとした目で杏寿郎を見たが気にしない。名前もまた、杏寿郎の奇行もすれ違った男のことも気にしなかった。

良い夜だ。金を得たわけでもなしにそれこそ「こいつは春から縁起がいいわえ」と言いたくなるような。

通りかがった屋敷の庭に梅が咲いているのを見る。どうやら見頃のようだ。
「桜にはまだ早うございますね」
「ああ、そうだな」
ひとつかふたつ、月が変わるのを待たねばなるまい。桜という話題にふと杏寿郎の記憶に蘇るものがあった。
「……以前、任務で吉野へ行ったことがある」
「それは随分と遠くまで行かれたのですね」
「ああ、確かに遠かったな。しかしちょうど春で、ああ「千年経てながめにあかじ」とはよく言ったものだ。吉野の桜は美しかった」
鬼との戦いこそ苛烈であったが、それでも花篝に照らされる夜桜は今もなお鮮明に思い出せるほど目に焼き付いている。降り頻る花弁、篝の音、闇夜に浮かぶ薄紅色。

「名前にも見せたかった」
あの夜、鬼を倒し、けれど杏寿郎のことも鬼のこともまるで些事のようにただただ舞い散る桜を見て、そう思い、今もなおそう思う。あの桜にとって人の営みなどすべては些事なのだろう。その超然的な在り方が、杏寿郎には尊く見えた。それが少し妻のように思えたのも事実で。

そんな懐かしむような、それでいて未来を望むような声音に名前は口を噤んだまま答えなかった。否、答えられなかった。
自分や他人の心の機敏に疎い名前には彼の感じていることがわからない。
彼女は桜を見ても「ああ、桜が咲いている」としか思わない。桜が咲いたと聞いても「見たい」と思う事もない。名前には桜を美しいと思う心も、それ故に見てみたいと思う情緒も存在しなかったのだ。産まれてから一度たりとも。初めから無く、生きていく中で得ることもない。
心がわからない故に嘘をつけない名前は、穏やかに微笑む杏寿郎に何も言わなかった。私も貴方とその桜を見たい、とそんな心にもないことは、嘘だから言えなかった。

黙り込む名前を見て、困らせたなと杏寿郎は思わず眉を下げた。彼女がそういう性質であることを、言われずとも杏寿郎はとうに知っていた。
「気にしないでくれ、名前。俺の我儘だ」
「……申し訳ありません。私、私は、よくわからないのです」
「いい、どうか謝らないでくれ。俺は君のその誠実さが一等好きだ」
名前が嘘の付けない人のように、杏寿郎もまた嘘がつけない。だから名前にはそこになんの嘘もないとわかっていた。故に疑問が浮かぶ。

……どうしてこの人は私を妻にしたのだろう。
共に人生を歩むのならば、私のような欠陥者ではなく真っ当な共感性のある人の方が良いはずだろうに。

「杏寿郎さん」
「どうした?」
「杏寿郎さんは、何故私を娶ったのですか」
杏寿郎は不意をつかれたような顔をして、それからじわじわと込み上げる感情を抑えようとして抑えきれなかったような顔で笑った。

「わからないか?」
「……はい、わかりません」

不思議な話だと杏寿郎は思った。
しかしそういうものかもしれない。救った人間ほど、自分が誰かを救ったことに気がつかない。
君だけが俺の、俺さえ気が付かなかった痛みに気がついてくれたのに。

だから、笑った。
「では考えていてくれ。どうして俺が君を愛しているのかを、わかる時が来るまで、ずっと」

名前は少しばかり理解の至らないような顔をしながら、それでも小さくうなづいた。それでよかった。それだけで、杏寿郎はそれだけでよかったのだ。

(2020.11.14)