肆 獣に非

夜、ぴたりと閉じた障子の向こう、離れの庭先から物音がして名前は目を覚ました。同じように気がついたのか、足元で寝ていた猫が飛び起きて警戒のまま箪笥の影に隠れる。けれど名前は畳に爪を立てる猫へは目もくれずに布団から起き上がり、庭へ続く障子を開けた。

雲のない真夜、月だけが僅かに西に傾いて空に浮かぶ。
月光に満ちた薄明るい庭に、ぽつりと人影があった。
月影、逆光。けれどそれを理由に見間違えるはずもない。名前は縁側へ出ると静かに膝をつき、三つ指をつく。

「おかえりなさいませ、杏寿郎さん」
夫が五体満足で任務から帰ってきていた。そのことを把握して名前は無意識に深く息を吐く。

出迎える彼女に、杏寿郎は普段に比べれば余程小さい声で声をかける。
「起こしてしまっただろうか」
それはある種何かに耐えるような声音だったが、名前にはその機敏が少しもわからなかった。故に彼女はいつも通りの彼女のまま、言葉を紡ぐ。
「はい。ですが、杏寿郎さんがお気になさることではありません。それよりもお疲れでしょう。すぐに湯を沸かします。それとお食事は、」
「名前」
躊躇いなく立ち上がり草履を履いて、未だ庭に立ち尽くす夫の元へ歩みを進めようとした名前を杏寿郎はひとつ名前を呼ぶことで止めた。彼の願い通り、名前は「はい」と答えて、その場で足を止める。

「こちらへ来てはならない」
普段の溌剌とした声音は鳴りを潜め、鋭い声が名前に突き刺さる。それに彼女は何の疑問を覚えることもなく再び肯定の返事をすると、その場に足を縫われたかのように動かなくなった。
きっと杏寿郎がそれきり何も言わなければ夜明けまでずっとそのまま立ち尽くしていたかもしれない。

けれどそうはならなかった。

「……違う。違うのだ」
苦しそうに杏寿郎が呻く。それは名前の耳にも届き、彼女に一抹の不安を抱かせた。苦しそうな声だ、何処かお身体に怪我をされているのかもしれない、と。
「杏寿郎さん、お怪我をなされているのですか」
「いや、怪我も傷も無い。この度の任務では一滴たりとも俺の血は流れていない」
「それでは何故そのように苦しそうなお声をされているのですか」
お辛いのですか、私はおそばに寄ってはなりませんか。
名前がそう尋ねるのに、杏寿郎はならんと首を横に振る。
「名前、俺は今すぐにでも君のそばに行きたい。だが、出来ない。君もまた俺のそばに来てはならんのだ」
その言葉に名前は惑う。その時、冷たい夜風が庭の草木を揺らした。そうして杏寿郎の陽光の如き髪もまた風に揺らされるのを見る。けれど彼の表情は背負う月の逆光で碌に見えもしなかった。

「……何故ですか、杏寿郎さん」
かすかな沈黙を経て、名前は夫へ問いかけた。
彼の苦しみが自分の存在によるものならば、あるいはそうでなかったとしても、解決したかった。その苦しみから解放してやりたかった。しかし名前は言われた通り、その場から動くことなく、けれどしかと彼を見つめ続けた。

そんな彼女の真っ直ぐな視線に、元より隠し事など出来ない杏寿郎は、いくらか迷い、しかしやがて諦めたように肩を落とした。名前がひどく頑固な質だと知っていた。このまま杏寿郎が黙り続ければ、彼女は一歩も動かず冷たい夜風に吹きさらされ続けるだろう。愛しい妻をそのような目に合わせることは彼の本意ではなかった。

杏寿郎は息をつくように言葉を吐いた。
「……すまない、名前。任務はとうに終わったというのに未だ昂ってならないのだ」

杏寿郎からは縁側のそばに立つ名前が、何のことか理解できずに小首を傾げるのが見えた。開いた障子の隙間から、いつか名前が世話してやった猫が逃げるように外へ飛び出していくのも、また。

自分が酷く獰猛で獣のような心持ちになっていることを、杏寿郎は明確に自覚していた。こんな状態のまま離れ座敷には帰れぬと、冷たい川で水をかぶったが収まらない。夜が明けるまで、この昂りが収まるまでは何処かへ行ってしまおうと思っていたのに気がつけば妻の元へ帰っていた。

……君が、起きなければよかったのに。
君が俺のことを見て、俺の名を呼び、俺を気遣い、俺のそばに来ようとするものだから、無理やりに抑えつけていた衝動が膨れ上がりそうになる。

「……発情しているのだ。俺は今、すぐにでも君のそばに寄り、座敷に押し倒し、体を暴き立て、」
燃えたぎる腹の底が熱い。熱い、熱い、熱い、息を深く吐く。

「君の胎に幾度も種を注ぎたいと思っている」

冷たい夜風は無力だった。熱を冷ますことも言葉を遮ることもできない。さらさらと木の葉が鳴る。その音はふたりには届かなかった。
名前はいつも通りの表情のまま、その薄い唇を開く。
「杏寿郎さんと私は夫婦です。ですから貴方が私を如何なさっても、」
「違う、違うのだ。名前、君はわかっていない。酷くしてしまう。俺は君に酷くしたいと思ってしまっているのだ」
受容するかの様な名前の言葉を遮って否定する、強く、強く。よもや自分にこんな苛烈な劣情があるとは思いもよらなかった。杏寿郎は名前という女性の存在が自分の人生において得難いものだと識っている。尊いものだと、大切なものだと、唯一のものだと識っている。だというのに、荒波の様な衝動が杏寿郎を獣にしようとするのだ。その一等貴いものを今すぐにでも喰い荒らしてしまえ、と。

「俺は君に優しくしたい」
傷つけたくなどない。だから受け入れないでほしい。
そんな杏寿郎の願いを知ってか知らずか、名前は凪いだ湖面のような静けさのまま、小さく小首を傾げた。
「……わかりません、杏寿郎さん」
まるで何を言っているのか、まるでわからないという顔で、彼女は。

「だって貴方はいつだって私に優しい」

その声を聞いて、ふれたい、と思った。その時にはもう、離れていた距離を一瞬で詰めて杏寿郎は縁側のそばに立つ名前を抱きしめていた。

両腕を彼女の背中に回して、ぎゅうと力を込める。自分より小さく、脆く、柔く、温かく、愛おしい体。零になった距離は杏寿郎の普段より過敏な感覚を強く刺激する。薄い寝間着の浴衣、鼻腔をくすぐる甘い肌の香り、自分の硬い胸板にぶつかり柔らかに形を変える双丘、普段はまとめているけれど今ばかりは下されている長い髪。

苦しそうな声をあげてくれれば、或いは驚いて抵抗でもしてくれれば、そうはならなかっただろうに。

抱きしめられた名前は、ごく当然の様に夫の背中に手を回して、そっとその硬い背を撫でる。それから杏寿郎の肩に額を寄せて、目を瞑った。肩の力を抜いた無防備な体。

それを、受容だと受け取った。

杏寿郎は前触れもなく名前を抱き上げる。横抱きにした途端、彼女が中途半端に足を入れていた草履が脱げて微かな音を立てて地に落ちる。けれどそれを気にする者はいなかった。
「杏寿郎さん……?」
呼ばれる声にすら答えず、杏寿郎は黙って離れに上がり、座敷に敷かれた布団の上に彼女をそっと下ろす。彼女が開けた障子は後ろ手でぴたりと閉めてしまった。薄い和紙越しの月光だけが頼りない光源となる。けれどとっくに夜目に慣れた杏寿郎にはそれで十分だった。

羽織を脱ぎ捨て、妻に覆い被さる。伸びた髪が藤の花のように重力に従って彼女の元へ向かうのを見た。杏寿郎の癖のある髪が妻の頬へふれている。
肺が、心臓が、臓腑が、焼けるように熱かった。耐える様に深く息を吐く。けれど唸る様な声が自分の喉から生まれた。獣だ、と内心自嘲する。
当然だ。彼女の纏う衣を剥ぎ、白皙の喉に噛み付き、その体を食い荒らしたいなどと獣でなければ思わないだろう。
こんな行いを許してはいけない。許されてはいけない。杏寿郎は名前の顔に自分の顔をぐっと近づけて呻くように言った。
「獣の行いを許すな」と。

名前は自身の体に影を落とす男を見つめ、手を伸ばしてその頬にふれた。それから親指をそっと動かして目尻を撫でる。
「いいえ、貴方は人です。私の夫です」

その穏やかな声に杏寿郎は思わずぱちりと驚いた子供のように瞬きをした。瞬間に、目前を星が飛ぶような心持ちがする。

この人といると、自分は鬼殺の剣士でも煉獄家の長子でもなく、ただのひとりの人間に戻されるような気がしてならない。
血に濡れた体は冷え切ったまま真夜を彷徨い歩くのに、それでも輝く篝火が機能と成り掛けるこの身を温ませる。

杏寿郎は馬乗りになっていた状態から崩れるように、体を落とすと自身の額を彼女の肩に押し付ける。それはまるで縋り付くように、或いは赦しを乞うように。
それから名前の隣に横になると再度ぎゅうと彼女を抱きしめる。

「君はまるで真夜を照らす篝火のようだ」
惚けたようにそんなことを呟く杏寿郎に、名前は彼の焔のような髪を優しい手つきで梳くように撫ぜる。されるがまま、その心地を受け入れて杏寿郎は思う。

戦い続けるうちに失っていくものがある。痛みも感情も、鬼狩りという機能になるために削ぎ落としてしまった。研ぐことで鋭さを増していく刃のように。削ぎ落とすことこそが正しいのだと思っていた。
そうして落としてしまった人間性を拾い上げてくれる人。杏寿郎の代わりにそれを大切に預かってくれる人。

「……俺は君と共にいると心が安らぐのだ」
だから君の前だとそれを取り戻せる。
獣のような衝動はいつしか消えていた。人に戻っていた。だから今はただ好きだと思うだけ。まるでごく普通のただの男みたいに。

柔らかい体を抱きしめ、彼女の髪に鼻先を埋めて、その体の温みに安堵する。
「名前」
「はい、杏寿郎さん」
「君を、君の夫として抱きたいと思うのだが構わないだろうか」
「ええ、構いません」
互いの耳元で囁く声は衣擦れの音に混じって、もう2人にしか聞こえない。


部屋から抜け出した猫はその夜はもう帰ってはこなかった。

(2020.11.01)