伍 不在の証明

兄の妻であり、自身にとっての義姉は少し変わった人だ。
……何がどのように、と問われると少し難しいのだけれど。

まだ昼間の茹だるような熱の残滓を感じる夏の夜。
縁側に腰を下ろして夜空を見上げる義姉の背中を見つめてふと千寿郎は思う。

その背はぴんと張った弓糸のようだ。或いは歪みのない美しい直刃のようにも思う。そういう為人。
キビキビとしていて真っ直ぐで躊躇いのない人。もしも彼女が剣士だったのならばどのような太刀筋なのだろうと考えてしまうのはこの家に生まれた男故の思考だろうか。

「月を見ていらっしゃるのですか、姉上」
声をかけると彼女はゆっくりと振り返ってこちらを見た。彼女のその、表情の乏しい顔に怯えていたのは彼女が屋敷には来たばかりの頃だけで、今となってはもうそれが日常の景色になっていた。兄が快活な様に、自分が内気な質である様に、彼女もまたそういう性質なのだと分かれば何と言うこともない。

「はい。月を見ていました」
答える義姉のそばに寄り、隣に腰掛けて良いかを問えば彼女は「私に拒絶する理由はありません。貴方の思うままになさってください」と答えた。その言葉に甘えて、彼女の隣に座る。吹き込んでくる外の風には湿度があったが、昼間の熱を思えば涼しいものだった。

「綺麗ですね」
満月を見上げて千寿郎は名前へそう語りかけた。
「…………」
「…………」
……けれどもいくらか待っても答える声は隣からしなかった。……確かに会話に繋がる様な発言でもなかったかもしれない。けれど言葉や反応が返ってこなかったことに少しの気恥ずかしさと落胆を抱えて、千寿郎はおずおずと名前のほうを見やった。
そうして彼女の顔を見た途端、それまで抱いていた感情は容易く消失する。

隣に座る義姉は何処か思い詰めた様な、或いは困惑した様に見える表情をしていた。
あまり表情を変えない彼女にしては大きな感情の発露。
千寿郎は少し驚いて、それからふとあることを思って声を少しだけ潜めて問いかけた。

「……姉上は兄上のことが心配なのですか?」
千寿郎の兄である杏寿郎は鬼殺の任務のため、もう一月も家を空けていた。千寿郎は兄が強い人でいると知っている。知っているけれども強いことは死なないことと同意義ではないこともまた、知っていた。
鎹烏から定期的な文があるとはいえ、長く帰らない夫を待つ彼女の身はどれほど不安なことだろう。どれだけ寂しいことだろう。

そう思い、気遣う様に問い掛ければ、彼女は迷子になった子供の様な顔で千寿郎を見た。どちらも言葉を発しはしない、静寂。庭の草陰からはちりちりと虫の鳴く声だけが聞こえる。
沈黙を破ったのは名前だった。

「……わからないのです」
俯き加減にそうぽつりと呟かれた声は静かな夜の中、千寿郎にだけ届いた。
「わからない、ですか?」
言葉を繰り返せば彼女はうなづく。彼女はいくらか惑う様に口を小さく開けたり、ゆっくりと閉じたりを繰り返して、それからようやくまた言葉を形作る。
「正確に説明することが可能か不明瞭なのですが、」
そう前置きをして、彼女は言葉を紡ぐ。

「不安を感じる、或いは他者を心配するというような感情が、私には存在していない様なのです」
義姉が何を言っているのか、千寿郎にはわからなかった。薄く開いた彼の唇からは「えっ」と一度困惑した音が生まれたきり、何の音も生まれない。
そんな義弟の様子に、けれど名前はただ淡々と言葉を続ける。
「先程、千寿郎さんは月を見て綺麗だとおっしゃいましたね。あれが最たるものです。私は今夜の様に丸い月が有ることを認識しても、ただそこに月が有るとしか認識できない。そこから美しいだとか綺麗だという様な心からのものを感じることができないのです」

欠失です、と彼女は言った。
「人としての欠失、欠陥、欠損です。共感性や感受性といった人間がごく当たり前に持つ心というものが私には無いのでしょう」
そう語る彼女の顔には何の感情もなかった。彼女には何の感情も、抱けなかったのだろう。
それでもただ事実として認識する。
自分がままならない存在であることを。
それが人でなしだということを。

不意に義姉は横に座る千寿郎を真っ直ぐに見る。それから縁側に足を上げて、その場に正座をすると深く頭を下げた。

「申し訳ありません」
額が床につくほど深く頭を下げて謝罪した、その理由が分からず、千寿郎は慌てて彼女の肩に触れた。
「あ、姉上……!顔を上げてください、一体どうなさったというのですか……」
貴女が謝ることなんて何もありません、と言った千寿郎の言葉を、彼女は頭を下げたまま否定した。

「いいえ、いいえ、千寿郎さん。私は不出来な人間です。先ほど申し上げた様に人として出来損ないなのです。私はここに来るべきではありませんでした。貴方の大切な兄君に私は不釣り合いです。そも、私などがあの御方と夫婦になどなるべきでは、」
「ちっ、違います!」
大声を上げ、頭を下げるその人の肩を掴んで力づくで顔を上げさせるなど、普段の千寿郎ならば決してできない所業だった。けれどそれをしたのは、彼女にそれ以上言わせたくなかったからだ。
「そんなこと、どうか、仰らないでください……」
今にも泣き出しそうな声で、千寿郎は彼女の肩を強く掴んでいた手から力を抜いた。


生きていると、ままならないことがある。

幼い頃に亡くなった母の記憶が自分には無いこと。
どれだけ鍛錬をしても日輪刀が色付かなかったこと。

自分ではどうしようもないものに、苦しめられる。自分の無力さに打ちひしがれる。自分の抱える欠失に、深く絶望する。
他人は他人で固有の苦しみを抱えていると、わかっていても羨ましくなる。理想通りでない自分に失望する。いつかきっと、とまだ見ぬ日を夢見る。いつか、なんて来ないとわかっているのに。
ままならない。なにもかもがままならない。

「……ままならないですね」
千寿郎はもう今にも泣き出しそうだった。
義姉は綺麗な人だ。放たれる直前の弓矢の様に、歪みのない直刃のように。そんな人でさえ、己のままならなさに苦しめられる。自分を認められない。ここにいる自分を認めてやれない。

「千寿郎さん、泣いておられるのですか」
「……すみません」
「どうして謝られるのですか。やはり私の発言のせいで貴方を傷つけてしまったのでしょうか」
「それは違います。姉上は何も悪くありません」
「……ではどうして」
「自分のままならなさに、涙腺が弱くなったのです」
歪む視界を袖で拭って、千寿郎は義姉に、この世界で似て非なるままならないさを共有する仲間に語りかける。

「姉上、例え誰が何を言おうと、姉上が心に機敏に疎いことは決して貴方のせいではありません。生まれつき体が弱いことがその人自身のせいではない様に」
千寿郎は真っ直ぐに向き合う。

「どうしたって人は皆、ままならないまま生きていくのです。そういうものなのです」
生きていくと決めた以上、良いも悪いも抱えて生きていくほかないのだ。

「ここに来るべきではなかった、なんて言わないでください」
貴方がいてくれてよかった。千寿郎は心からそう思う。
任務で兄がいない、父も部屋に篭ったきりの夜、この屋敷は千寿郎が一人で過ごすにはあまりにも広過ぎて、寂し過ぎた。だから彼女と茶を淹れ、たわいのない話をするだけで楽しかった。厨で並んで朝餉の下拵えをしているだけで安らいだ。

だって姉上は、例え僕が何者であっても気にしないから。
剣士として適性が無いことも、本当は諦めてしまっていることも、戦えないほど弱いことも、何もかもを何一つとして気にしないから。

千寿郎を、千寿郎としてしか認識しない。それ以上でも、それ以下でもなく。
そういうところに救われていたのだ、今になってようやく理解する。

この人の前では、自分は自分のままでしかいられない。だから、自分のままでいられる。
兄がこの方を愛することも理解できた。それがきっと、彼女の性質が千寿郎にはわからない兄の「ままならなさ」を救ったのだろう。

「兄のもとに来てくれたのが貴方でよかった」
千寿郎はふにゃりと眉を下げて相好を崩した。

「僕たちはもう、貴方が貴方であることに十分に救われているのです」

名前は唇をきゅっと引き締めたまま、千寿郎を見つめていた。千寿郎の吐き出した言葉に、彼女は何も感じていないのかもしれない。
……事実、千寿郎の認識通り、その時名前はやはり何も思わなかった。何も感じなかった。己の欠失を、尚、受け入れてくれる人がいると知っただけで、そこから喜びや嬉しさを得ることはなかった。

義姉の変わらない表情に、けれど千寿郎はそれでもいいと思えた。心に意味はなくとも、彼女は言葉を、その言葉のまま受け取ってくれるだろうから。

ほのかに霞んだ月だけがそれを見ていた。

(2020.11.01)