陸 落日

あまりにも、あまりにも長かった夜が明けた。
東から現れた朝日は空の色を変え、大地を照らしていく黎明。
横転した蒸気機関車も、自分の体から零れ落ちていく鮮血も、もはや杏寿郎にとっては過ぎ去ったことだった。だからそれらには目を向けず、ただ目の前で泣き噦る少年を見つめた。

「俺はもうすぐに死ぬ。喋れるうちに喋ってしまうから聞いてくれ」
彼はもう自分の命の灯火が消えかけていることを識っていた。誰よりも正しく、明確に認識していた。
己の人生の最果ては此処なのだ。恐れは無い。不安も、恐怖も、悔恨も。あらゆる感情から解放され、今はただ残していくことだけが残る。

「弟の千寿郎には自分の心のまま、正しいと思う道を進むよう伝えてほしい」
杏寿郎は穏やかな表情で少年へ言葉を託していく。

「父には体を大切にしてほしい、と」
記憶の中、愛した日常は遠く、もう戻れないけれど。

「そして、妻の名前にはこう伝えてほしい。───」

その価値は決して失われることはないのだと、どうか君にも知ってほしい。







喪主を務めたのは私だった。

御義父様は変わらず部屋から出ては来なかった。部屋に籠る彼の抱える感情が悲しみか、怒りか、あるいはそれ以外か。彼の心情が私などにわかるはずもなく、故に彼をそこから出す言葉を見つけることもできなかった。

たくさんの人が訪ねてきた。
かつて助けられたのだと鬼殺隊の隊士が来た。
長く世話になったのだと柱の方々が来た。
明るくて優しいひとだったと街の人が来た。
いろんな弔問客が来て、涙を流した。流さなかった人もいた。私の手を取り、気をしっかり持つようにと言った人もいた。よくわからなかったが、気を遣われているのだと気がついてうなづいた。柱の方が私を見て辛かろうと言った。辛いという感情がわからなかったから曖昧にうなづいた。ひっきりなしにいろんな人が来て、何かを言ったり、言わなかったりした。人がたくさんいて、感情がたくさんあって、人が、言葉が、行動が、人が、感情が、言動、心、たくさんの、人々の、言葉、感情、感情、感情、感情が群のように、覆い尽くす、感情が、心が、そこに、数多の、感情が、心、

「姉上」

不意に肩を叩かれて、自分が酷くぼんやりとしていたことに気がつく。
肩越しに振り返ると、千寿郎さんが眉を下げてこちらを見ていた。すぐにどうしたのかを問いかけると、彼は目を潤ませて「お休みください、姉上」と声を震わせた。
「ずっと対応されていてお疲れでしょう、奥で休んでください」
気遣いだと気がつくが、別段疲労は感じなかった。そのことを伝えるが、頑なに首を横に振られる。いい、よくない、といくらか問答を続けてから「来客も落ち着きましたから」と言われ、ようやく彼の言葉に従うことにした。

人の来ない、奥の座敷で1人座る。普段人の少ない屋敷に、知らない人たちの気配がするのが不思議だった。けれど、感じたのはその程度。
空腹も喉の渇きも眠気も疲労も無かった。
悲しいだとか辛いだとか苦しいとか憎いだとか、そういうものもなかった。

杏寿郎さんが死んでも、私は何も変わらなかった。





通夜の夜は、雲も月のない夜だった。
彼の亡骸を守る寝ずの番は千寿郎さんと交代で行う。
私は彼と交代するまで、線香の火を絶やさぬようにしながら、仏壇のある奥座敷で眠る杏寿郎さんのそばにいた。

遺体の損傷は激しかったと聞いていたが鬼殺隊の方々が丁寧に化粧をしてくれたのだろう。潰れた左目が隠されている以外に傷はほとんど見えなくて、布団の中に横たわる彼は本当にただ眠っているだけのように見えた。いつもと違うのは彼の胸元に守り刀として折れた日輪刀が置かれていることくらいで、しかしそれも元から彼の所持品であったから違和感は少しも感じなかった。

ぼんやりと彼を眺めているうちにふと、生きているのかもしれない、と思った。思って、彼の頬にふれる。

ふれてからすぐに、ああ、この人はもう生きてないのだ、とわかった。

それは彼の頬が冷たかったからではなく、彼が目を覚まさなかったから。
生前の彼ならばこんなふうに私が頬にふれたのならば、すぐにゆるりと瞼を開いて、それから笑って、どうしたのかと私に問いかけただろう。けれども、どれだけふれても、頬を撫でても、目尻にふれても、彼は起きない。笑いかけることも、話しかけてくれることもない。だから、諦めるように彼から手を離した。手の中に冷たさだけが残る。それさえも己の体温によってじわりじわりと消えていく。引き止めるものなどなかった。
なにも、なかった。

「……もう、会えないのよ」
私は、私に言い聞かせるようにそう言った。

「わかるでしょう。この人はもういないの。二度と私に笑ってくれることもない。もう一緒に生きていくことはできない」
理解している。この人はもう死んでしまった。この先、杏寿郎さんが話すことも、笑うことも、私のご飯を食べてくれることも、この屋敷から出かけていくこともない。

ねぇ、普通ならばそれは悲しいことなの。普通の人間なら悲しんで、苦しんで、悔やんで、泣いたり、怒ったりするの。
わかっているでしょう、杏寿郎さん以上に私という人間を大切にしてくれた人なんていない。あの人以上に、私を受け入れてくれた人なんていない。そんな、私を誰よりも大切にしてくれた人が死んでしまったのに。

「……それでも、私は何も思わないのね」
自分の頬にふれる。頬は乾いていた。心臓は痛まなかった。
そんな自分を欠陥だと思いこそすれ、失望する感情さえも無かった。

ふと外を見る。
新月、暗い夜、深い闇。
何も無い。なにも、ない。

思えば、世界は夜だった。最初から、ずっと夜だった。


(2021.07.04)