漆 貴方という人

その少年がやってきたのは葬式から数日経った頃のことだった。

「……警邏を呼びます」
気を失っている御義父様の上に見知らぬ少年が乗り上げ、そのすぐそばに力なく座り込む千寿郎さんの左頬が腫れていることを認識した瞬間、私は即座にそう判断した。
まだ未成年と思わしき少年だが、かつて杏寿郎さんと同じように柱であった御義父様を昏倒させるくらいだ。私や千寿郎さんでは対応しきれない可能性が高い、人を呼んだ方がいいだろう、と思考を巡らせていたその時、慌てたように立ち上がった千寿郎さんに腕を取られる。

「ちっ、違います!姉上、誤解です」
「……私は現場の状況からこの少年が貴方に拳を振るい、御義父様を昏睡させたのだと認識していますが、それらは全て誤解である、と?」
「あっ!この人、じゃなくて、あの、お父様に頭突きしたのは確かに俺です!すみませんでした!」
「……千寿郎さん、本当に警邏を呼ぶ必要は無いのですか?」
「だ、大丈夫です!この方は兄上のお知り合いの方だそうで、その、ちょっと父上と揉めてしまっただけなんです……」
玄関先に倒れる御義父様は、少しばかり昏睡する程度に当たり所が悪かっただけなのだろう。しかしおそらくあと数刻もしないうちに目を覚まされるに違いない。この少年と何があったのかはわからないが、再び2人を会わせるのは、主に千寿郎さんにとって良い結果をもたらすとは思えなかった。

石畳に横たわる御義父様が眉間に深い皺を寄せながら、小さく唸った。もうすぐに目を覚まされるのだろう。
私はすぐに千寿郎さんへ目を向けて、伝える。
「千寿郎さんはお客様を中へお通しください。御義父様は私が看ておりますので」
「はっ、はい!」
千寿郎さんも再び御義父様と少年が鉢合わせるのは問題だと判断したのだろう。すぐに少年を屋敷の中へ招き入れる。
そうして玄関扉の向こうに2人が入っていくのを確認してから、私は御義父様のそばに膝をついた。
流石に地べたに転がっていてはお体を痛めるだろう。私は正座した自らの腿の上に彼の頭を置いて簡易的な枕とした。
普段は険しい顔をしている方だが、意識のない間はその表情が薄れる。客観的に見てもこの方と杏寿郎さんはよく似ていると思った。と、そのとき、不意に、わたしは、通夜の夜を、ねむる、もう、うごかな、い、杏寿郎さん、を、おもいだし、かけ、
「…………瑠火……?」
夢現の御義父様がそう呟かれたその瞬間、遠くへいきかけていた意識が戻る。いつのまにかズレていた焦点を現実に合わせると、私の腿の上に頭を乗せたままバツの悪そうな顔をした御義父様と目が合う。けれどその表情も一瞬のもので、彼はすぐに眉間に皺を寄せて体を起こした。
「御義父様、お体の具合は、」
「……うるさい」
彼は唸るように言葉を吐き捨て、そのまま門を出て行ってしまわれた。

それを見送った私も立ち上がり、屋敷へ戻ることにした。
茶の準備はすでに千寿郎さんがされているだろう。玄関に入り、履き物を脱いで屋敷へ上がると、廊下の先にいた千寿郎さんに呼ばれる。
「姉上、大丈夫でしたか……?」
「はい、御義父様はすぐに目を覚まされ、外出されました。いつも通りであれば酒類を買いに行かれたのだと思います」
「そう、ですか……。あ、あの、姉上は大丈夫でしたか?」
「大丈夫、とは、どのような意味でしょうか」
「その、父上から酷いことを言われたりしませんでしたか?」
酷いこと、とはどのようなことなのかわからなかったが、少なくとも私は先程のやり取りの中で一般的に不快と言われるような発言をされなかったため「いいえ」と答えた。そう答えると千寿郎さんは安堵したように息をついて、それから「それならばよかったです。父上は普段より機嫌が良くないようでしたので」と言った。

「先程のお客人は」
「中にいらっしゃいます。その、姉上も共に聞いてくださいますか」

あのお方は兄上から遺言を預かっておられるそうです。
そう伝える千寿郎さんの瞳に薄く膜が張るのを見た。



客人は座敷に座っていた。その顔色は悪い。遺言を、ということは彼もまた杏寿郎さんと同じ任務についていたのだろう。つまりかなりの重傷を負っているはずだ。顔色の悪さはそれによる体調が悪さが一番の原因だろうが、先程の騒ぎもまた彼の顔色を悪くする一因であるうことは想像できた。他人の家で騒ぎを起こした申し訳なさのためか、酷く居た堪れない顔をする彼に先んじて、私は頭を下げる。

「遠方からお尋ねいただいたにも関わらず、先程は大変失礼致しました」
「いえ!むしろ、あの、こちらこそ本当にすみませんでした……お父様を頭付いてしまって……お父様は大丈夫でしたか……?」
「はい、すぐにお目覚めになり、外出されましたので竈門様がご心配なさることはありません」
私が彼、竈門炭治郎と名乗った少年と話している間に、千寿郎さんが茶を点て、それを彼へ差し出す。
そのことへ感謝を伝えながら、千寿郎さんにも改めて謝罪をする竈門様に、彼は穏やかに微笑んで首を振った。それから千寿郎さんは竈門様へ感謝を伝えた。
自分は兄を悪く言われても口答えができなかった、だから代わりに怒ってくれてうれしかったのだ、と。

私は騒ぎに気がついて玄関に来るまでの間に何があったのかのかを知らない。けれど、年近い2人はそれだけのやり取りで少しばかり互いに気を許しあったのだろう。

「……兄はどのような最期だったでしょうか」
場は穏やかに、けれど想定より早く話が本題に進んでいく。覚悟を決めたような表情をする少年らを見て、私はひとり、気配を隠すように口を噤んだ。きっと、心の話を前に私は無力になるから。

曰く、列車での戦いでは彼が多くの人を守ってくれたのだと。
曰く、満身創痍の果てに強い鬼がやってきたのだと。
曰く、彼は勇猛に果敢に臆することなく戦ったのだと。
曰く、鬼の甘言に一度たりとも惑わされることはなかったと。
曰く、自分は、仲間は、銃後の民は皆、彼に守られたのだと。
曰く、彼は誰一人として死なせはしなかったと。
曰く、けれど鬼の腕が彼の体を貫いたのだと。
曰く、曰く、曰く、曰く、曰く………………。

「杏寿郎さんからお言葉を預かっています」
耐えるように前を向いて、竈門様の伝える言葉とそこから見える兄君の最期の姿を受け止めていた千寿郎さんが膝の上で握った拳にさらに力を込める。

竈門様もまた似たような表情を浮かべたまま、一度深く目を閉じて、それからその目を再び開く。

「千寿郎さんには『自分の心のまま、正しいと思う道を進むように』と」

「お父様には『体を大切にしてほしい』と」

「そして、名前さんには、」
竈門さんの瞳が真っ直ぐに私を貫く。
その眼によく似た眼差しを私は識っていた。ずっと前から、すぐそばにそれはあった。

「『寂しくさせてすまない。君と生きられて嬉しかった』」
そう、仰っていました、と竈門さんが言って唇を閉じる。

竈門様の伝えて下さった遺言が、彼ではない違う声に重なるように聞こえた。……きっと幻聴だろう、重なって聞こえた声があの人のもののようだった、なんて、そんなこと、ありはしないのだから。

けれど、嗚呼、しかし、どうしてか、言葉を失う。

戦いに傷ついた体を押して来て彼は言葉を伝えてくれたのだ。私はいつものように、心が作用しないのならばせめて、言葉だけでも、正しく感謝を伝えなくては。頭を下げて、「ありがとうございました」と、そう、この方に伝えなさい。

唇をひらく。
喉を震わせて、声を、声を、声を、
ありがとう、と、声を、出そうとして、

「……どうして、」

脳の命令に反いた声は震えていた。
嬉しいも悲しいも苦しいもつらいも楽しいも何も、何ひとつ無かった。どうして、何故と、ただ疑問ばかりが頭の中を巡る。

どうして救済を必要としている人ほど他者を救おうとするのだろう。
どうして謝罪されて然るべき人ほど他者に謝ろうとするのだろう。

どうして、優しさを向けられるべき人ほど他者に優しくするのだろう。

そしてどうしてあの人はそれを私などに与えようとしたのだろう。
救済も謝罪も優しさも、それは私に向けられるべきものじゃない。すべてすべて、貴方にこそ必要だったはずなのに。貴方は救われるべきだった。貴方は謝罪されるべきだった。貴方は優しくされるべきだった。貴方は、幸せになるべきだった。そうでしょう?私にさえそんなこと理解できるのに。

『寂しくさせてすまない』?
『君と生きられて嬉しかった』?
一体なにが寂しいの。なにが嬉しいというの。

だって貴方を失っても私に寂しさなんてありはしない。貴方と生きていても私が嬉しいなんて思うはずもない。
知っていたのでしょう、私の欠落を。
わかっていたでしょう、無意味だと。
なのに、どうして。

私は貴方の愛に値する命ではなかったのに。
どうして。


(「では考えていてくれ。どうして俺が君を愛しているのかを、わかる時が来るまで、ずっと」)


そのとき、思い出す、彼の言葉を。
そうしてようやくあの夜の言葉の意味を識る。

御義父様へ言ったように「体を大切にしろ」と言ったのなら、私はそのように生きたのに。
千寿郎さんへ言ったように「正しいと思う道を選べ」と言ったのなら、私はそのように生きたのに。

……私に迷いながら、生きろ、と。
永遠にわからない問いに向き合いながら生きろ、とそう言うのか。

どうして、嗚呼、どうして真に生きるべき人ほど、他者を生かそうとするのだろう。

あの人と約束をしてしまったから。同意なく反故にすることなどもう出来ないから。
私が死ねない理由だけを置いて、あの人は逝ってしまった。

もう記憶の中にしかいないあの人が私に向かって微笑む。誰よりも与えられるべき人が与えられないまま、それなのにひどく満たされた顔で笑う。
私は両手で顔を覆い、崩れ落ちるように呻く。

「嗚呼、なんて やさしい人……」