アーティチョーク・ハート
面白い野菜を手に入れたから、ぜひ味をみてほしい。そうジェイド先輩に誘われて訪れた定休日のモストロラウンジの厨房には、当然のようにジェイド先輩と私以外に人はいない。
ジェイド先輩は煮立った鍋をじっと見つめていて、私はそれを少し離れたところから眺めていた。鍋の中では弾ける気泡に合わせてとげとげしい塊が揺れている。先輩はそれをアーティチョークと呼んだ。緑色の巨大な松ぼっくりのようなアーティチョークは、ぐらぐらと鍋の中で揺られながら、自身が食べごろになるのを静かに待っている。鍋から立ち上る湯気は、その上にあるステンレスの換気扇カバーにぶつかると一瞬だけ白い跡を残して消えていく。その度にほんのりと甘い、独特の匂いが鼻をかすめる気がした。
「熱いので気をつけてくださいね」
真っ白な陶器の皿に乗せられたアーティチョークは、鮮やかな緑から茶色へと変化していた。調理中に鼻をかすめた甘い匂いが強くなっている。ほんのりと淡い湯気をまといながら鎮座するそれは、どこをどう食べるべきかわからないことはさておき、私の食欲を刺激した。
―まるでまあるい臓器のような形をしたそれに、一刻も早く……
「……いさん、」
アーティチョークに吸い寄せられるように顔を近づけていた私を、ジェイド先輩の優しい手が制する。
「あ、あれ……今、私何を……?」
「何度かお呼びしたのですが反応がなかったもので……お疲れのようですから、食べ方の説明は簡単に……」
そう先輩はまだ湯気の立つアーティチョークに手を伸ばす。その細長い指先が蕚状の苞片の一つに触れると、それはぷつん、と簡単に外れてしまった。ジェイド先輩はその苞片の根元の肉づいた部分を食べると言った。いつもはおとなしそうに仕舞い込まれているギザギザの歯が顔を覗かせる。白い指につままれた苞片も、その下にある塊も、おとなしくその運命を受け入れていた。鋭利な歯が露わになり、肉質部分に突き刺さる。
じゅぷり。耳元で音が聞こえた気がした。じゅる、とそれを吸い込む音が続く。
ジェイド先輩は歯を突き立てたまま、苞片を引く。肉質部分を失った残骸だけが手に残っている。それを無造作にステンレスの作業台に置いたジェイド先輩は、上品に微笑んだ。
「棘があるので、噛みつかれないよう、お気をつけて」
「噛み……?」
ジェイド先輩は微笑んでいる。
ジェイド先輩がしていたように、私も苞片に手を伸ばす。先端に潜む棘は健在で、被食に抗うように私に食らいついた。指先にちくり、と小さな刺激が訪れる。ささやかな反抗。それでも、少しばかり指に力を込めれば、ぷつん。あっけなくちぎれてしまう。
―違う。私は……
胸の奥でくすぶっていた違和感が、少しずつ、少しずつ、私を私たらしめる。
―私が食べるべきは、これじゃない。これじゃなくて……
ふと顔を上げれば、ジェイド先輩は相変わらず微笑んでいた。隠されてしまったあのギザギザの歯は、人間のものではない。そう、彼が人魚である証。
―目の前にあるのがウツボの人魚でなければ、鱗を一つ一つ摘んでちぎってあげられるのに。
鱗に指を添える度、ピシリと動きを止めるのか。それともささやかな反撃を私に喰らわせるのだろうか。元の世界にいなかった人魚を、私はまだ味わったことがない。生きたままの新鮮な人魚は、どんな反応で、私を楽しませるのだろう。
きっとそれは、生きた人間の宴よりも、ずっと素晴らしい。
じゅぷり。口内に溢れたのは、期待とは違った液体。苞片を思い切り引いても、思い描いていた食感には程遠い。
私は、その残骸を無言で作業台に戻した。
「いかがですか? ……と言いたいところですが、物足りなかったようですね」
粗熱のとれたアーティチョークを手に取ったジェイド先輩は、ぷつぷつと中心を取り囲む苞片を取り除いていく。ぷつり、ぷつり。あっけなく取り外され、作業台の上に無造作に並べられる。最後に残ったのは、白く小さな、平べったいもの。
「ここはアーティチョークハートと呼ばれる、アーティチョークの芯の部分です。ここが最も美味しいと言われているそうですが……いかがですか?」
―芯の部分……心の部分。私の、お気に入り。
苞片から溢れた汁で濡れた指につままれた白いそれが、口元へと運ばれる。いかがですか、なんて聞いておきながら、きっと私に拒否権は与えられていない。
小さく口を開けば、ちゅぷ、と小さな音を立てて口内に指が侵入する。
その無防備な指に、芯の部分ごと噛み付いた。使わないうちに鈍くなった犬歯は、その皮膚を貫けない。
「そう焦ってはいけません。せっかくの獲物もそれでは逃げてしまいます」
「……」
自身の指に付けられた噛み跡を愛おしそうに見つめながら、ジェイド先輩は続ける。
「人魚を狩る方法をお教えいたしましょうか?」
「……対価は?」
「そうですね……僕の心臓を狩る、でどうでしょうか」
剥いて、剥いて、その奥にある、心の臓を。