月の光
週に三回、モストロ・ラウンジでのアルバイトを始めた。その目的は明確だ。次のホリデー期間中に学園の外で開催されるピアノコンサートのチケット代とその会場までの旅費のため。その目的を達成するために、監督生は週に三日、オープンからラストまでモストロ・ラウンジでのアルバイトに勤しんでいた。
アルバイトを始めたばかりの頃は、仕事のたびにこき使われ、そのせいで仕事が終わればふらふらと倒れそうになりながら寮に帰り、シャワーを浴びることもなくベッドに倒れ込んでいた。あまりの過酷さにいっそもうコンサートは諦めてしまおうかと思ったこともあったが、後一日、後一日と我慢を繰り返しているうちにいつの間にか一ヶ月が経ち、その頃にはすっかり過酷な仕事にも慣れてしまっていた。
最近では仕事後に活動する余裕もできてきて、閉店後のモストロ・ラウンジで一曲弾かせてもらってから帰るのが習慣となっている。監督生の弾く曲には興味のないアズールとジェイドは早々に立ち去ってしまうが、フロイドだけはその監督生の弾くピアノの音色を大層気に入ったようで、飽きることなくその音色に耳を傾けていた。フロイドが積極的に鍵閉めを担当するようになった閉店後のモストロ・ラウンジには、二人の影とピアノの音色だけが揺らめいていた。
「お先に失礼しますね。」
「フロイド、鍵の管理は頼みましたよ。」
ジェイドとアズールがラウンジを出て行くのを確認してから、今日も二人はラウンジの水槽のそばに置かれているグランドピアノに向かう。常にきちんと手入れされ黒々とした艶を見せているそのピアノは、元々は学園の音楽の授業などで使われていたものらしい。この世界屈指の魔法士養成学校ということもあり、普通に生きていれば触れることなどまずない代物だ。
監督生は慣れた手つきでそのグランドピアノのセッティングを始めた。屋根を持ち上げ突き上げ棒で支える。蓋を開ければ真っ赤なキーカバーが姿を見せる。それを丁寧に折り畳んでいると、フロイドの手が伸びてきた。
「ありがとうございます。」
その手に、折り畳んだ赤いフェルトの布を乗せた。
ピアノに向き直れば、象牙と黒檀でできた贅沢な鍵盤が姿を現していた。随分と古く、使い込まれてきたそのピアノの鍵盤は真っ白というわけではなく少し黄色みを帯びている。
監督生は、ピアノの前に置かれている椅子を少し引き浅く腰掛けた。
一息置いてから、両手を鍵盤に乗せる。ざらりとした感触。吸い付くような鍵盤。その鍵盤に、指先から体重を伝える。少し間をおいて、細い月の光を思わせる音色がその空間に響き始めた。
水槽の中を泳ぐ光が照らす、薄暗いラウンジ。そこには最後の和音の余韻が漂っていた。
鍵盤に沈ませていた手をふわりと上げた。右足をゆっくりとペダルから離す。しばらくその余韻に浸っていた監督生がふと顔を上げると、カウンターの椅子にまたがるフロイドが静かに涙を流しているのが目に入った。
「フロイド先輩、」
監督生のその声に、フロイドは淡い光の中で輝く双眸をハッと見開いた。オリーブ色の瞳と金色の瞳、それぞれが透き通った涙の中で揺れている。言葉に詰まる監督生に対し、フロイドは「……小エビちゃんのせいなんだけど」と椅子から立ち上がり、鍵盤の前から動かない監督生に近づく。そして唇を尖らせて泣き顔を見られたことに対し不機嫌な態度をあらわにしたフロイドは、監督生が座る椅子のそばにしゃがんでその肩に顎を乗せた。そのフロイドの拗ねた様子に、監督生は小さく笑った。
「感動しちゃいました?」
そして、冗談めかしてフロイドにそう尋ねた。
「昔、ジェイドとアズールと親に内緒でこっそり月見に行ったの思い出した。」
「……この曲、『月の光』っていうんです。」
「ふーん。」
そう答えたフロイドの声は素っ気なかった。しかし、素っ気なかったのは声だけで、フロイド監督生の首元に顔を埋めてぎゅう、と監督生を抱きしめた。
加減を忘れたフロイドの締め付けに、監督生は苦しいと声を上げようとしたが、すんというフロイドの鼻をすする音に監督生は口をつぐんだ。代わりに行き場を失っていた両腕をフロイドの背中に回す。
「いつか、フロイド先輩と月を見に行きたいです。そうだなあ……海から見てみたいかも。」
フロイドは何も言わなかった。その代わりに、監督生を締める腕の力がふっと緩む。
「今日はもう、帰ります。」
「……送ってく。」
「ありがとうございます。」
監督生はフロイドに微笑みかける。
水槽の光が、ふいと背けられたフロイドの顔を照らす。その双眸は、まだ少し赤みを帯びていた。
寮への扉を出ると、空には雲ひとつ浮かんでおらず、まん丸く輝く月だけがぽっかりと浮かんでいた。
「わあ、小エビちゃん。月が綺麗だねぇ。」
ふと月を見上げたフロイドは、自分の後ろを静かに歩く監督生の方を振り返って言った。
フロイドのその言葉に、監督生の胸はきゅう、と締め付けられる。
死んでもいいわ。そんな、元の世界では何千、何万と口にされてきたであろう返答が監督生の頭に浮かぶ。しかしこの世界に夏目漱石は存在しない。
月が綺麗だというフロイドの言葉に、それ以上の意味が含まれていないことを噛みしめながら、それでも無意識に開く口を止めることはできなかった。
「……死んでもいいわ。」
一瞬キョトンとした表情を見せたフロイドだったが、「は?」とすぐに顔を顰めた。
「小エビちゃん、そんな簡単に死ぬワケ?」
月の光が、フロイドの身体により遮られる。首を思い切り上に向けないと顔が見れないほど近くに来たフロイドの表情は不満そのものだった。
「もう月とか見せてやんね。」
フロイドの手により遮られる視界に、監督生は慌てて否定の言葉を口にした。
「ち、違う! そういうわけじゃなくて、」
「あ?」
「その、元いた世界では『月が綺麗ですね』って言葉は愛の告白の代名詞というかなんというかで……」
真っ暗な世界の中で、監督生は続ける。
「それで、その『死んでもいいわ』っていうのは……」
自分は何でこんな解説をしているんだろう。これじゃあまるで、貴方のことが好きなんですと、自ら解説しているようなもんじゃないか。そう思いながらも、監督生は続ける。
「それに対する肯定の返事っていうか……『月が綺麗ですね』っていう告白に対するOKの返事で……」
だからつまりその、と続ける監督生の言葉をフロイドが遮った。
「つまり〜、小エビちゃんはオレのことが好きってこと?」
突然、月明かりに照らされた淡い色の世界が広がる。フロイドの表情は陰になっていてはっきりとは見えないが、嬉々とした声がその表情を代弁していた。
「え、あ、ええと、」
「オレはぁ、小エビちゃんのこと、好きだよ。」
言葉を詰まらせる監督生に、フロイドはその言葉を送る。自分の影の中で固まる監督生。なぜかたまらなく愛おしかった。フロイドは自分に比べて随分と小さい監督生を互いの視線が交わる高さまで抱き上げて、鼻が触れ合いそうになるほどの距離に顔を近づけた。
「小エビちゃんは?」
月の光がフロイドをキラキラと輝かせていた。淡い色の世界に、2人きり。自分たちがそこに存在しているのを知っているのは、月だけだった。
「私も……私も、好きです、フロイド先輩のこと……っ!」
「そっかあ。」
あまりにも、フロイド先輩が嬉しそうに笑うから。軽く触れた先輩の唇は、少しだけひんやりしていた。
「あはっ! 小エビちゃんってば、ダイターン。」
そう笑ったフロイドは、今度は自分から監督生に唇を落とした。