熟れた桃



 薄暗い部屋に、若い男女が二人きり。噎せ返るような熟れきった桃の香り。その桃は彼女の手の内にあった。彼女の薄桃色の唇から覗く真っ白い歯がずぷりと果肉に埋もれる度、傷口から蜜が溢れ指先を伝って落ちていく。とろとろと指を伝い、腕を伝い、そうして肘から垂れ落ちては彼女のスカートにぽつぽつと染みを作る。
 彼はそれを見つめていた。何をするでもなく、ただただその様子を、じいっと見つめていた。

「……舐める?」

 それはまるで抉られた果肉から果汁が零れ落ちるように。彼の視線に心の一部を奪われた彼女から零れ落ちた言葉。
 彼の花緑青の目は大きく見開かれ、彼女の栗色の目はぱちぱちと幾度か瞬きを繰り返す。時をしばらく止めてしまうのには十分な言葉だった。お互いにお互いを見つめ合ったまま。耐えかねた蜜だけが肌を伝う。
 つう、と垂れた跡のせいで、常はシャツに隠されている白く陶器のような肌が鈍く輝いていた。彼の視線が栗色の瞳からその腕へと移される。まだ固まったままの彼女に、熱に浮かされたような彼はゆるゆると近づいて。
 その色の薄い唇の隙間にちらりと見えた赤く生ぬるい舌先を、彼女の腕に這わせた。
 ふわふわと柔らかい、ぬるりと温かな肉片が肌を滑る。くすぐったさを煮詰めてあてがったような感覚。

「ひぁっ!?」

 捉えてもいない獲物が捕食者から逃げるのは当たり前のこと。彼女が頓狂な声と共にその柔い腕を引っ込める。その拍子に、彼は尻餅をついて床に倒れた。
 いっそう丸く大きく見開かれた花緑青が、彼女の腕でテラテラと光る自身の唾液を見つめている。パクパクと音を発さないまま開閉される口元はまるで、自分の行動が理解できないとでも言いたげだ。漸く聞こえた彼の言葉は、焦りの色が滲む謝罪だった。

「す……すまない!」
「こっちこそ……! 変なこと言ってごめん、ね……」

 絞り出された謝罪の言葉に、彼女も慌てて謝罪の言葉を口にした。
 二人の間に暫くの沈黙が訪れた。互いの視線が交わることはなく、彼女は虚空を見つめ、彼は居所を定めかねた花緑青を忙しなく動かしていた。
 相変わらず、滲み溢れた桃の汁は彼女のスカートにはたはたと丸い跡を作っている。その跡が一回り大きくなった時、沈黙に耐えきれなくなった彼女は再び果実に唇を寄せた。
 ぐずぐずに熟れた桃。そっと歯を立てただけで、じゅぷり、と音を立てて沈んでいく。どろどろと口内へとなだれ込んだ甘い果肉を、彼女は噛むこともなく飲み込んだ。舌の上に残る甘い余韻。まだ新しい部屋に満ちているのと同じ香りが、鼻腔に抜ける。彼女はほう、と小さく息を吐き出した。
 彼の瞳がまた、彼女の姿を捉える。ちょうど彼女の小さな口は小ぶりな桃に隠れていた。そこから溢れた蜜が相変わらずとろとろと指を伝う。彼は舌の上に残るその甘さにごくり、一つ生唾を飲み込んだ。甘ったるい香りと舌の上の甘さに眩暈がする。霞んでいた理性にさらに靄がかかる。緊張で乾いていく喉を潤すため、もう一度生唾を飲み込んだ。

「……監督生、僕にも一口くれないか」
「いい、けど……」

 今度は逃れられないように。彼の骨ばった大きな手が彼女の細い手首を掴む。熱を帯びた瞳は一度、栗色の瞳を捉えた後ゆっくりと伏せられた。きゅ、と固く結ばれていた唇がゆっくりと開く。
 まだ皮を纏っているはち切れんばかりの果肉に齧り付けば、どろどろと果汁が流れ出す。それは桃の凹凸を辿り、彼女の指に達すると今度は指を辿っていく。彼はまだ舌の奥に果肉を転がしたまま、彼女の指を落ちていくそれを舌先で掬い上げた。

「ひゃっ……」

 手首を掴まれていては、そう簡単に逃れることはできない。突如指に訪れた感覚に、彼女は腰が震えるのを感じた。少し間をおいて、脳はそれを快感だと判断する。なんで、そう訴えるように見遣った彼の表情は雄そのもの。その花緑青の向こうには蕩けた表情の自分がいる。彼の瞳に映るその自分の表情に、彼女の手の内にあった桃は床へと落ちていく。熟れた柔らかな桃が鈍い音を立てて潰れた。それを合図に彼は再び彼女の腕へと顔を寄せた。
 温かく柔らかな舌が彼女の手の甲を這う。幾筋もの跡を一つずつ、丁寧に辿る。その度に彼女は擽ったそうな甘い悲鳴を小さく漏らした。彼の脳内で何度も響くその声に、彼はもっともっとと舌を移動させていく。
 そうして指の股に辿り着いた時、彼女はいっそう甘い悲鳴をあげた。

「ひ……んっ……!」

 彼は再び指の股の窪みに溜まった蜜に吸い付いた。彼女の頭と腰は、その快感にふるふると揺れている。きゅ、と固く閉じられた目尻には涙の粒が浮かんでいた。その様子に彼の頭はぼうっと熱を持つ。夢中で指の付け根から指先を舐めれば、さらに彼女のくぐもった嬌声が頭上から聞こえる。
 彼女の指先と彼の口の間には細く透明な糸が引いていた。それを辿るように彼はその指を口に咥える。彼女の指が温かい……というよりも熱いものに包まれる。その中で指の腹から付け根を固くなった舌先がつ、と撫でた。

「ひぅ……、でゅーす……」
「んっ……」
「そんなっ、ふぅ、に……舐めちゃ……っ!」

 彼女のほっそりした中指を舌で転がしながら、その手首を掴み直す。ちゅぷ、と音を立てて離れた唇が今度は掌へと向かう。

「甘いな……」

 溢れた蜜の受け皿となっていた掌に舌を這わせながら、彼は呟いた。触れるたびに甘い刺激が舌から脳へと伝わっていく。それはまるで麻薬のように、彼をじわじわと支配していく。
 もっと欲しい。掌だけじゃ足りない。指も腕も、その先にある身体全部が欲しい。舐めるだけじゃ足りない。食べ尽くして、僕のモノにしてしまいたい。もっと、全部、彼女の奥深くまで……全てが欲しいんだ。
 掌を行ったり来たりしていた舌がいつの間にか唇に変わっていた。指一本一本に丁寧に唇を寄せ、そうしてそれは掌へと移動していく。ちゅ、ちゅ、と丁寧にリップ音を立てながら、彼の唇はその先へと少しずつ移動していく。掌から手首へ、手首から腕を伝って肘先へ。そうして唇が二の腕に到達した時、彼女の身体は一度大きく震えた。

「んぁっ……! デュ、す、もう……やめっ……!」

 その声に咄嗟に顔を離した彼の目に飛び込んできたのは、瞳に涙をいっぱい溜め、溢れた幾粒かの涙が頬に跡を残す彼女の姿。

「わ、悪い! 嫌だったか!?」
「……や、じゃない」

 監督生は涙の中で揺れる、蕩けた瞳を彼に向けた。その瞳が何を訴えているのか、彼には分からない。ただ分かるのは、彼女は嫌がっているわけではないということだけ。
 彼は躊躇いながら、涙の粒が伝う首筋に顔を寄せた。そうしてその粒を吸い寄せる。甘ったるい舌の上に、丁度いいしょっぱさが追加される。再度そこに吸い付けば、彼女は一際艶のある声をあげた。

「ひ、ゃんっ!」
「監督生……もっと、」

 彼の掠れた色っぽい声に、二人は引き合われるように唇を重ねた。触れ合ったお互いの唇はしっとりと潤い、ふわふわと柔らかい。その感触を確かめるように幾度か触れ合うだけのキスをして、そうしていつしか彼は彼女の唇を食むようにキスをするようになっていた。ちゅ、ちゅ、と響く音に頭がクラクラする。もっと、その感情はどちらのものとも分からない。
 宙を彷徨っていた彼女の手が、彼の背中に触れる。はじめは触れるだけだったのに、食むたびに彼女は彼のシャツを握ったり離したりを繰り返す。彼にはそれが愛しくてたまらなかった。もっと、もっと深く。焦りにも似た気持ちと共に、彼女の頭を強く引き寄せた。
 途端、ゴチ、と場に似つかわしくない鈍い音が響く。

「った……」
「大丈夫か!?」
「ふふ……ふふっ! 大丈夫だよ」
「そ、そうか……良かった……」

 心配そうに狼狽える彼と、口元を押さえながらクスクスと笑う彼女。彼女があまりにも笑うから、彼もつられて小さく笑った。

「ねえ、デュース、」
「どうした?」
「もし、良かったら、なんだけど……私の部屋、行かない?」

 彼女の上目遣いに、彼は小さく息を飲んだ。
 ああ、たぶんこれは。

「……いいのか?」
「うん!」

 彼女は、甘い雰囲気には似つかわしくないほど明るい声で笑った。