辞書にのらないふわふわのこと
分厚い石壁を思い切ってくり抜いたかのような大きな窓の向こうで、ジリジリと照りつける太陽に熱された空気がゆらゆらと揺らめいていた。その揺らめきの向こうにあるのは、抜けるように青い、雲ひとつ浮かんでいない空。
作り物とすら思えるような世界だった。そこから切り離されているようにも思える図書室の窓際の一席で、監督生は手元の本をペラペラと捲りながら、もう歌詞もタイトルすらも忘れてしまった故郷の流行歌を口ずさんでいる。一方で相棒のグリムは大きな閲覧テーブルの真ん中でひっくり返っていた。無防備にさらされたお腹はゆっくりと上下していて、時折すぴょぴょ、と可愛らしい寝息が聞こえてくる。あまりにも図書室にはふさわしくない態度の二人。でもそれを咎める人は、誰一人いなかった。
そう、季節は夏。八月も中旬に差し掛かったばかり。絶賛サマーホリデー期間中の学園にほとんど人影はなく、授業も課題もない今、図書室に近づく人影など全くないと言っても過言でない。
「ふんふふーん」
上機嫌に口ずさまれるその歌は、誰が手を伸ばそうとも決して一番上まで手の届くことのない高い高い本棚の森で反響し、駆け足で天井まで登っていく。そうして天辺まで上り詰めたその歌声は、巨大な空間に余韻を残して散っていく。図書室を満たす冷気に溶け込んだ波は本棚でおとなしく眠る本たちを目覚めさせ、しばらく手に取られていなかった本たちは伸びをするようにゆるゆると本棚から抜け出していく。
巨大な本棚の森は、そうやって抜け出しふわふわとあたりを漂う海月のような本で溢れていた。
「ふーんふーん、ふんふーん」
しかし上機嫌に歌を口ずさみ、今日の夕飯はどうしようかとレシピ本を眺める監督生は、周りの様子の変化に気づいていなかった。
突然の冷気の波の変化に、あたりをふわふわと自由に漂っていた本たちは、もともと収まっていた自身の居場所へ向かい始める。背表紙をピンと伸ばし恭しく所定の位置に収まる様は、まるで王様でも登場したかの様子だった。
ひんやりと柔らかく肌触りのいい冷気が、ピンと張り詰め、硬くなる。そこで初めて顔を上げた監督生は、この図書室に何か変化が訪れていることを察した。中途半端にこぼれ落ちた鼻歌が、情けなく天井へと吸い込まれていく。それはだんだんと近づいてくる、上質な絨毯を踏みしめる足音と一緒になって、この空間に溶け込んでいった。
サク、サク、と小気味の良い足音が近づいてくる。サマーホリデーの、この誰もいない時に、一体、だれ。監督生は息を潜め、相変わらず無防備に眠るグリムに手を伸ばす。もし、何かあった時に、グリムを連れて素早く動けるように。そうしてグリムの小さな肉球に監督生の手が触れた時、その足音の主が姿を現した。
「誰だい? 図書室で歌を歌っていたのは」
「リ、リドル先輩……!?」
「なんだい、そんなに驚いた顔をして……」
思ってもみない人物の登場に、監督生はぽかんと口を開けたままリドルを見つめた。
夏独特の暑さのせいか、普段では考えられないほど制服は着崩されていた。もちろんこの猛暑の中でジャケットを着ているはずもなく。いつもはちらりと見えているだけの深紅のウェストコートは全てボタンが外されている。そういえば、と監督生はリドルの首元に視線をやった。いつもきっちり結ばれているタイも、今日はその姿をどこかへ隠している。その下のボタンも幾つか外されていて、首元からその先を辿れば視界に入ったうっすらと浮かぶ鎖骨。つう、と汗が伝う様子があまりにも色っぽくて、監督生はそっと視線を外した。
「……どうしてリドル先輩がここに?」
ホリデー期間中のはずですよね。そう付け加えられた監督生の質問に、リドルは腕にかけていたジャケットを閲覧席の椅子の背にかけ、手に持っていた紙袋を閲覧テーブルに置いてから、口を開いた。
「どうしても読みたい文献があってね」
「文献……本、ですか?」
「うん、そうだね。薔薇の王国の王立図書館にあると思っていたのだけれど……どうやら非常に貴重な本らしい。この学園とロイヤルソードアカデミー、そして茨の谷にしか所蔵されてないと聞いて、少し早めに戻ってきたというわけだよ」
「へ、へえ……」
「はっきりとしない返事だね。まあ、今回は大目にみるよしよう……ところで、さっきの話だけれど、」
腕まくりするために丁寧に折られていた袖を戻しながら、リドルは続ける。
「誰もいないとはいえ、図書室で歌を歌うなんて……マナー違反もいいところなんじゃないかい?」
感心できないね。そう鋭い目つきで、でも口には柔らかな笑みを湛えてリドルは言った。
監督生がその表情から意図を読み取れないでいると、リドルはまたはだけていた胸元を整えながら続ける。
「ふふ、冗談だよ。少し意地悪をしてしまったね」
「じょ、冗談か……」
「これがホリデー期間中でなければ、話は別だけれどね」
「それは重々承知しています」
「よろしい。それでこそ監督生だ」
ウェストコートのボタンを全て留めた後、シャツの襟にタイを通しながらリドルは監督生の方に目をやった。監督生の栗色の瞳はリドルの指先をじいっと見つめている。それに気づいたリドルは少しばかり眉を顰めて呟いた。
「そんなにじっと見られていては、タイが結びにくいんだけれど」
「あ……つい、すみません」
監督生は一度リドルの指先から視線を外し、でもやっぱり気になって再びそこに目をやった。それに気づいたリドルは、閲覧テーブルの向こうにいる監督生の方へと近づいて。
「結んでごらん」
「へ……?」
「そんなに気になるのなら、タイの結び方を忘れていないかのテストをしよう。そうだね……合格すれば、そこの紙袋にトレイの焼き菓子が入っているから、それをキミたちにおすそ分けしよう」
本当は、一人と一匹で寂しがっているであろう監督生とグリムのお土産としてわざわざ買ってきたものであることを、制服がこれほどまで着崩されていたのは監督生を探して日の照りつける屋外を歩き回っていたせいであることを、ひた隠しにして。リドルは監督生に意地悪く笑いかけた。
「ムニャ……トレイの焼き、菓子……欲しいんだゾ……ムニャ……」
まだ夢の中のグリムがそう呟いたのに小さく笑いながら、監督生はその細い指をリドルの首元のタイにかける。
「忘れるはず、ないですよ」
だって、リドル先輩直々に教えていただいたんですから。
する、しゅる、とタイの擦れる音と、二人の息遣いが蕩けた空気に包まれて。するすると器用にタイを結ぶ監督生を、リドルはじいっと見つめていた。