夏を食む



 蕩けかけの綿飴を敷き詰めたような、桃色の空の下。まだ暑さと湿り気を残した空気の中で。
 私たちは、夏を食む。


 ガコン、と大きな音を立ててクーラーボックスのロックは外された。いつからそこにあるのかわからないほど古びたクーラーボックスは、その口を開ける時、ギイ、とあまりにも鈍い音を立てる。しかしその隙間から漏れ出すのは、ひんやりとした新鮮な薔薇の香り。思い切りクーラーボックスの蓋を持ち上げれば、隣にいたリドル先輩が息を飲むのがわかった。

「これ、は、」

 とろりと溶け始めている氷塊を取り出す。どこまでも透き通る氷の中に、何枚もの薔薇の花弁が閉じ込められている。

「昨日いただいた薔薇の花で、薔薇の氷を作ってみたんです!」
「……へえ。ただ薔薇の花弁を氷に閉じ込めた、というわけではなさそうだね」

 ずい、と氷に顔を寄せた先輩は、氷を見つめたまま私に問う。

「え、ど、どうしてわかったんですか!? びっくりさせようと思ってたのに!」
「ふふ。ボクを驚かせようなんて、百年早いよ」

 くすり、と笑った先輩が、氷から私へと視線を移す。

「薔薇の花弁をただの水で凍らせただけでは、これほど薔薇が香ることはないだろうからね」

 私の抱える氷塊の表面に指を滑らせた先輩は、その指を自身の唇に寄せると。ああ、やっぱり。そう、呟いた。

「薔薇の花弁をローズウォーターで凍らせるなんて……そんな面倒なこと、やるのはキミくらいだよ」
「それって褒めてるんですか? 貶してるんですか?」
「……失礼な。褒めてるつもりだけれど」

 ムッとする先輩が、なんだか可愛くて。小さく笑いながら、手の中にある氷塊をかき氷器にセットする。
 その様子を、リドル先輩は何も言わずにじっと見つめていた。
 元の世界でも何度か作ったことのあるかき氷。それをこの世界で始めて、薔薇の氷を使って作る。リドル先輩がやって来る前、オンボロ寮のキッチンでグリムと練習した時はうまくできたけれど。今回は、うまくいくだろうか。手に少しだけ溢れた汗をタオルで拭き取り、ハンドルに手をかけた。いざ。
 力一杯ハンドルを回す。ゴリゴリと重い音の割に、そこから落ちる氷は小さくふわふわで。下にセットされたガラスの器に赤と白の雪がちらちらと舞っている。降り積もった雪はまだらな山を作り、氷塊があと少しとなったところで、私はその山を取り出した。
 ガラスの器を幾度かトントンと叩けば、いびつな形をしていた山が少しずつ綺麗に整えられていく。そこに、クーラーボックスから取り出した真紅の蜜をかける。先ほどまでよりもずっと濃い薔薇の匂いが立ち込める。この薔薇のシロップに先輩は気付くだろうか。
 ふと視線をリドル先輩に移せば、興味深そうな表情でその蜜に食われた山を見ていた。

「リドル先輩、溶けないうちに早く、どうぞ」

 金属製の小さなスプーンを添えて手渡す。
 サク、と涼しい音を立てて掬われた氷は、薔薇の香りを漂わせながら先輩の口へと運ばれていく。強い薔薇の香りのせいか、甘さのせいか、それとも氷独特の冷たさのせいか。一瞬眉を寄せたリドル先輩は、次の瞬間、パッと顔をほころばせた。

「お口に合いましたか?」
「うん、まるで薔薇を食しているかのようだね……それに、この暑い時期にぴったりだ」

 またサク、と氷の山にスプーンが差し込まれる。今度は蜜のまだ到達していない部分。

「シロップもいいけれど、何もかかっていなくてもさっぱりとしていて、これはこれで美味しい……」

 またサク、と音が聞こえる。

「お母様に、氷は体が冷えてしまうから食べてはいけないと言われていたんだけれど……ずっと憧れていたんだ。夏になるとみんなが食べていた、あのふわふわした甘い氷に……」
「……」
「ふふ、そう悲しそうな顔をしないで。キミのおかげで、また一つ、夢を叶えられたんだ」

 もう溶けてきてしまったのだろう。もうあの涼しい音は聞こえない。それでもリドル先輩は、崩れかかった山を掬っては、真っ赤な舌へとそれを運んでいる。
 その様子をぼんやりと見つめる私に気づいた先輩は、蕩けかけの氷を乗せたスプーンを私の唇に運んだ。

「キミもお食べ」
「ん……」

 冷たい薔薇の香りが口内から全身へと、じんわりと広がっていく。少し体温は下がったはずなのに、リドル先輩の香りが全身を駆け抜けるようで、全身がぼうっと熱を持つ。
 ああ、だめだ。せっかく涼やかな夏の終わりを迎えようとしていたのに。
 外の空気が暑いからいけないんだ。さっきグリムと食べた時はなんともなかったのに。そう、いけないのはこの暑さなんだから。
 かき氷器の中に残る小さな氷を口に放り込む。また、全身を駆け巡る先輩の香りで私の脳はとろとろに蕩けていく。

「先輩、」

 カチャン。草の上にガラスの器が落とされる音がした。
 触れた唇はひんやりと冷たくて。

「んっ、」

 見よう見まねで差し込んで触れた舌は、唇よりもずっと冷えていた。

「なっ……」

 ほんのり色づく糸を引いて離れた先輩は、驚いた顔で言葉を失っている。


 蕩けかけの綿飴を敷き詰めたような、桃色の空の下。まだ暑さと湿り気を残した空気の中で。
 私たちは、これから。