※卒業後。
「はぁ……やっと終わったぁ」
深い溜め息と共に、真緒がベッドに寝転ぶ。
昨日、引っ越しを終えて、大量の段ボールで埋め尽くされた部屋も、今日でだいぶ片づいた。10年以上住み慣れた自宅を離れての初めての一人暮らし。正直、楽しみよりも今は不安の方が大きい。来週から始まる大学生活のことを考えながら、真緒はもう一度大きな溜め息をついた。
「……!」
起き上がってお茶でも飲もうとした矢先、スマホの着信音が鳴る。
「あ……新開くんからだ」
メッセージアプリを開くと、ウサギのアイコンが『遅れたけど、卒業式の写真送る』と告げる。返信しようとした真緒が画面に触れた瞬間、時間差で次のメッセージが届いた。
『そういえば今日靖友誕生日だな。今、一緒にいるのか?』
「えっ!嘘……」
いきなり告げられた衝撃的なことに、思わず口に出して驚く。
荒北とは昨夜電話で話したばかりだが、そんなことは一言も言っていなかった。
いや、荒北の性格からして、わざわざ自分の誕生日を言うなんてことはあり得ない、と真緒は思い直す。そんなところがとても荒北らしいと思う反面、少しだけ寂しさも感じる。それでも真緒にとって初めて恋した相手の誕生日を祝いたいと思うのは我が侭ではないと思う。
ふと、スマホの時計を確認する。液晶の数字は16時を示していた。今からなら間に合う。真緒はそう思って、急いで身支度を整えて家を出た。
荒北の住むアパートの最寄り駅に着いたのは、19時過ぎだった。
『急に会いたくなっちゃったから今から行きます』
『着くの何時?駅で待ってる』
途中でメッセージをやり取りしたので、おそらくもう荒北は改札口に来ているはずだ。
数日前に会ったばかりの恋人の顔を思い出して、はやる気持ちを抑えながら、真緒は改札へと向かった。
「荒北くん!」
改札の向こうに佇む荒北の姿を見るやいなや、真緒は駆け出していた。自動改札をすり抜け、ゴール地点である荒北の胸に飛び込む。おそらく予想外の真緒の行動に荒北が一瞬、目を見開く。しかし、すぐに少し照れ臭そうにしながらも、腕の中の愛しい恋人の髪を優しく撫でた。
「とりあえず、オレんち行くゥ?」
改札から溢れ出てくる人の波がなくなった頃、腕の中に閉じ込めた真緒の耳元で荒北が呟く。
「ええっと……違うの。今日来たのはね、遊びに来たんじゃなくて……」
「なんだヨ?」
「荒北くん……誕生日おめでとう」
「あ、あんがと……って何で知ってンだヨ!」
まるで自分の誕生日など忘れていたかのように、荒北が切れ長の目を思い切り見開いた。
「新開くんが教えてくれたの」
「新開の野郎……余計なことしやがって」
「そうじゃなくて!ちゃんと荒北くんに教えて欲しかったな」
「あー……悪ィ……」
真緒の口から出た新開の名前にちっ、と忌々しそうに舌打ちする荒北を、真緒が諭す。可愛い彼女に少し寂しそうに言われてしまっては、もはや謝るしかなかった。
「プレゼント買いに行きたかったのにな」
「真緒チャン、ごめんネ」
「だから、えっと……目つぶって?」
何となくそわそわした様子で、真緒が回りに人がいないことを確認する。
「はァ?なんでェ?」
「いいから、早くつぶって下さい」
「……ッ!?」
いぶかしがる荒北が、渋々目を瞑ったのを確認して、真緒は小さく深呼吸すると、精一杯の背伸びと共に荒北の唇に自分のそれをそっと重ねた。
少しかさついた柔らかさは、もう何度も知っているはずなのに、まるで初めてキスしたときみたいに、ドキドキと心臓がうるさい。恥ずかしくて逃げ出したくなる自分を叱咤して、いつも荒北がしているように、優しく何度も唇を啄む。幾分いやだいぶ不慣れな口づけだったが、まるで石になってしまったかのように、目を閉じたまま荒北は微動だにしなかった。
「……」
静かに、ゆっくりと真緒が唇を離す。
実際はほんの一瞬だが、ずいぶんと長い時間そうしていたような気がして、真緒は急に恥ずかしくなって俯いた。
「あのね、さっきも言ったけどプレゼント用意する暇なくて、それで……」
「……来い」
「えっ?」
俯いたまま口ごもる真緒の言葉を遮って、低い声で一言だけ呟いた荒北が、真緒の手を引いて歩き出す。
「……ッ!」
そのまま、駅舎の裏側に連れて行かれ、戸惑う間もなく壁に背中を押し付けられ、噛みつくように口づけられる。当たり前のように舌を絡め合う大人のキスが始まり、文化祭の記憶がフラッシュバックして真緒の身体がかあっと熱くなる。正直、この深い口づけはまだまだ慣れないし、少し怖い。けれど、文化祭のときよりは幾分優しく荒北が求めてくれているのがわかって、ほんの少しだけ安堵する。息つく間もなく角度を変え何度も口づけられ、上手く呼吸ができない。それでも、荒北の舌が口内を蠢く度に、今まで感じたことのない感覚がじわじわと身体の奥から沸き上がってきて、甘い疼きが真緒を支配する。求める荒北に少しだけ応えようと、おずおずと舌を出せば、忽ち激しく絡め取られる。やっぱり、まだまだ慣れそうもない、と心の中で唱えながら、真緒は荒北のキスに身を委ねた。
「真緒チャンさァ……」
「……っ!」
真緒の唇をたっぷり味わった荒北がゆっくりと唇を離す。深いキスの証の透明な糸が二人の間に伝う。そのまま、耳たぶを甘噛みしながら荒北が囁く。いつになく妖しい響きに背筋がぞくりと粟立つ。
「前にも言ったけどさ、オレも男だからァ?」
「ひぁッ……!」
耳たぶをぺろり、と舐められ、真緒が思わず肩を竦める。くすぐったいのと同時に、さっきの疼きが身体を瞬時に駆け巡り、思わず声が漏れた。
「あんまり可愛いコトすっと、襲っちまうヨ。マジで」
「荒北く……ッ!」
低い声と共に、今度は首筋に舌を這わされ、真緒がぎゅっと荒北のシャツの裾を掴む。
「だから、悪ィけど今日は家に呼べねぇわ。意味わかんだろ?」
首筋に顔を埋めたままで荒北が低く呟いた。
首筋から直に言葉の振動が伝わってきて、慣れない刺激に真緒の肩が小さく震える。
まるで狼に捕まった憐れな小動物みたいに、身を固くしながら真緒が黙って何度も首を縦に振った。
「でも、真緒チャンのプレゼント、マジですげぇ嬉しかったヨ」
あんがとネ、と固まったままの真緒に苦笑しながら、荒北が優しく囁いた。そこにさっきまでの妖しい響きはない。
「来年はちゃんとお祝いしようね?」
その声色に少しだけ緊張が解けた真緒が小さく笑いながら、そっと荒北の背中に手を回した。
azulverde