「裏口開けてくっから、ちょっと待ってろ」
無言で頷きながら荒北の背中を見送って、真緒は目の前のハコガク男子寮の建物を見上げる。
荒北とおつきあいをはじめてからは何度か入り口までは来たことはあったが、当然、中に入ったことはない。勢いで行く、とは言ったものの、今さらながらやっぱりまずいかも、と怖じ気づくあたりは優等生の性だから仕方ない。

「悪ィ、遅くなっちまった」
頭をがしがし掻きながら、荒北が小走りに玄関から出てくる。ほんの少しの間だったはずなのに、なぜかとてつもなく長い時間に感じられたのは、寒さのせいだけじゃない。
「消灯してっから、足元気をつけろヨ」
当たり前のように、左手を差し出されて、迷わず真緒もその手を取った。荒北の手だってさほど温かくはないはずなのに、無性に温かく感じられる。既にしっくり馴染んだ指同士が絡む感覚を確かめるように、真緒はそっと力を込めた。
裏口から静かに入り、階段を上がってすぐのところに荒北の部屋はあった。無言で手招きされ、恐る恐る足を踏み入れる。
予想外と言っては失礼かもしれないが、乱雑ではあるが散らかってはいない部屋の様子に少し安堵する。と同時に、初めて見た荒北のプライベートな部分に胸の音が勝手に速くなる。
「椅子とかねぇから、その辺適当に座れヨ」
無造作にベッドを指差され、真緒の心臓が大きく跳ねた。
さすがにベッドに腰かけるのは気が引けて、ベッドの前にちょこんと正座する。
「床冷たくね?ほら、これ敷いとけ」
「え、大丈夫だよ……あ、可愛い!」
徐に目の前に差し出されたクッションに、真緒が思わず目を見開く。黒い猫の顔がプリントされたそれは、荒北の部屋では少し浮いてしまうほどに可愛い。
「はァ?可愛いくねぇヨ。チャリ部のやつらにもらった。オレに似てるとか言ってやがった」
「うん、そっくり。可愛い」
ちっ、と忌々しげに舌打ちする荒北を後目に、真緒がクッションを見てにっこり微笑む。
「似てねぇヨ!つか、早く敷いとけ」
「だめ、こんな可愛いの敷けないよ。膝の上に置いてていい?」
「あっそ……じゃ、オレが敷くヨ」
「え……?」
ぼすん、と音を立てて膝の上に重みを感じる。驚いて俯けば、膝の上に荒北の頭が乗っかっているのが見えて、真緒の全身が一瞬にして、かあっと熱くなる。と同時に、以前発した自分の言葉の不用意さに目眩がしそうになる。

「……荒北くんて、意外と大胆だよね」
しばしの沈黙の後で、真緒が独り言みたいに小さく呟く。
「はァ?」
真緒に背中を向けて寝転がっていた荒北が、勢いよく振り返った。
「ほら、つき合う前にいきなりキス、したじゃない?今だって……」
いきなりこれだし、と真緒が少し困ったような顔で荒北を見た。
「嫌だったァ?なら、もうしねぇヨ」
そう言って身体を起こそうとした荒北を、真緒がやんわり静止する。
「ううん。そうじゃなくて、荒北くんといるとドキドキし過ぎて、いつか心臓爆発しちゃいそうだなって」
少しはにかみながら、素直に自分の気持ちを紡ぐ真緒は苦笑しつつも、どこか嬉しそうに見えた。その顔があまりにいとおしくて、思わず口づけたい衝動を人知れず荒北が堪える。
「バァカ。つか、オレだってそうだヨ」
「ええっ、嘘ッ……!」
「嘘じゃねぇヨ。前にも言ったけど、余裕なんてねぇし、今だってすげー緊張してンだヨ。あーくそカッコ悪ィ」
目を大きく見開いて荒北を覗き込む真緒から敢えて視線を反らすように荒北が顔を背ける。真緒の膝の上で、がしがしと頭を掻く腕の隙間から、赤くなった耳が見えた。
「ふふッ……」
「はァ?なに笑ってンだヨ」
「ごめん。今、なんかすごく、キスしたくなっちゃった」
「……いいけど、キス、だけじゃすまねぇかもヨ?」
荒北の前髪を指で弄りながら、笑顔でしれっと呟く真緒に、少し意地悪く荒北が口の端を上げた。本当はさっきからそうしたくて堪らないと思ってることはおくびにも出さずに。
「……!」
「そこで黙ンな。冗談だヨ、バァカ。しねぇヨ」
顔を真っ赤にして固まる真緒の手を掴みながら、荒北が苦笑する。
「荒北くん……」
「あ?」
荒北の手を握り返しながら、何かを言いたげな瞳が荒北をじっと見る。その目に思わず吸い寄せられそうになって、荒北はぱっと視線を反らした。
「やっぱり、今キスしたいな……」
「…………はッ、蛇の生殺しかヨ、くそッ……!」
だめ?と耳元で小悪魔みたいに誘惑する真緒の無自覚さに、鬱積した煩悩をかき消さんばかりに頭をがしがし掻きながら、身体を起こした荒北が真緒の頭を引き寄せ、唇に優しく噛みついた。


「気ィつけて帰れヨ」
始発が準備を始めた人もまばらな駅の改札で、荒北が真緒の頭をぽんぽんと撫でる。
「うん。送ってくれて、ありがとう」
「じゃ、オレ行くわ」
「荒北くん!」
「あ?」
じゃーな、と真緒に背中を向けたまま手をひらひら振った荒北が徐に呼び止められて、振り返った。
「受験勉強頑張ろうね、それで受かったら……」
「受かったら、ンだヨ?」
何かを言いたげに口ごもった真緒に、荒北が続きを促す。
「今度は、ちゃんと昨日のキスの続き、したいから……」
「ばッ……いきなり何言ってやがんだ!朝から変な気になっちまうだろ!」
おそらく顔を真っ赤にして俯きながら、とんでもないことを口にした真緒に、同じくらい顔を赤くした荒北が小さな目を目一杯見開きながら喚く。
「ごめん……ッ!?」
「次は手加減しねぇかんな。覚悟しとけヨ?」
咄嗟に謝ろうとして顔を上げた真緒の顎を荒北が強引に引き寄せ、無防備な真緒の唇に自分のそれを乱暴に押し当てる。
そのまま、真緒の耳元で低く囁くと、突然のことに固まったままの真緒を置き去りにして、そのまま黙って背中を向けた。
その顔が耳まで真っ赤に染まっていたことを、真緒はもちろん知る由もなかった。



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